TINCTORA 012

12.思惑の始動

039

「……私を、抱いて下さい」
 そうしてティフェレトの唇に己の唇を近づけた。
 ティフェレトは驚いた。
「な、何言って……?」
 ティフェレトは事態を飲み込む前に口付けられる。目の前には全裸のキラ。後には自分が今まで寝ていたベッドが。
 いつもは空いている扉も閉ざされている。キスを続ける傍らでキラの右手がティフェレトの右腕を取る。
 ぎょっと目を見開いたティフェレトの気などお構いなしにキラはティフェレトの手を自分の胸に添えた。温かく柔らかい少女の胸のふくらみに触れている。
「……女は初めてですか?」
 くすっと笑って、後のベッドにキラはティフェレトを押し倒した。ティフェレトに覆いかぶさるようにキラが再び口付ける。
 口を話した瞬間にティフェレトとキラの間で唾液が糸を引く。
「やめ! なんで!!」
 ティフェレトが抵抗しようとすると、キラはティフェレトの肩を押し留めた。ティフェレトが愕然とする。力がまったく入らないのだ。キラが影だからか?
「ねぇ、抱いてください。私、貴方と離れたくないんです、二度と」
 キラがそう言って笑った。その顔はこれから訪れるであろう快感を予想して紅潮している。
「……私に、キスしてください」
 キラが願う。するとティフェレトが望まなかったのに、体が勝手に動くようにキラを反対にベッドに押し倒している自分がいた。そうして、見る見るうちに顔と顔とが近づく。
「んっ!」
 触れるような口づけはとっくに終わり、舌を激しく絡ませあう。唾液の交わる音がして、ティフェレトが目を見開いた。
 ――何で、こんなことを!?
 口を離して、自分はそのまま舌でキラの首筋をなぞる。あ、あ、と快感と興奮の声が頭の上から響いている。
 どうしてこんなことをしているんだ? 求めてもいない女の体を何故、求めている!!?
「うれしい。……次は、胸、触ってください」
 声に反応して自分の意志とは関係なしに右手が白い乳房を鷲掴みした。
「あん!」
 痛みも快感なのか、キラはうれしそうにティフェレトを潤んだ目で見つめる。淡く色づいた乳房の突起を指でなじって、舌を這わせる。その度にキラの体が小刻みに跳ねた。

 ――ア、れ……前にも、あった……?
 ティフェレトの視界に今、キラはいなかった。
 白いシーツの上に散らばる黒く長い髪。幸せそうに微笑んだ口元。愛を持って接したその相手……。

 過去の映像をなぞるように、同じコトを違う相手に重ねていって……。
 そうして現実に引き戻される。
 何やっているんだ、ぼくは? 相手は、キラだ。自分の影。何でこんなことをぼくが!
 やめろ、やめろ、やめろ、やめてくれ!!
 幸せそうに興奮に身を包むキラ。自分は全然興奮してなどいない。ただ、たんに彼女が望む行為を繰り返すだけ。
 望んでもいない行為を何者かに強いられている気がして眩暈がする。部屋が、視界が回っているように感じる。
「ど……して……?」
 掠れた声が自分のものではない気がして、それでもキラが答えてくれた。
「魔法使い様が言ってくださったんです。私が、貴方のものになるには、この行為が必要なのだと」
「え……」
 その瞬間に、ティフェレトの周りに紫煙が漂った気がした。それを確かめる前にティフェレトはぎょっとする。
 キラが自分の下にうずくまってケテルがいつもティフェレトにするように舌を這わせようとしていた。ティフェレトが静止する間もなくキラの口腔にティフェレトのものが包まれる。
「やめ……!」
 キラは静止も聞かずに頭を一定のリズムで動かす。与えられた刺激に耐えられない。
「わぁ、すごい。……おっきくなりました、ね」
 うれしそうにキラが笑う。口を離したのをいいことに、ティフェレトはキラを突き飛ばした。
 終らせなくては、早く、一刻も早く! こんな行為を望んではいないのだから。
 求めてもいないのに、刺激に反応している自分に、吐き気がする。抱きたくもない少女を抱かなくてはいけないこの状況にティフェレトは嫌悪感を抱かずにいられない。
 でもこんな状況でも刺激に反応してしまう己が憎たらしい。あまりにも吐き気がひどくて唾液が飲み込めない。
 口の端からぽたぽたと唾液がキラの腹の上に垂れた。意識が朦朧とする。はやく、終らせなくては……。
「あ、ん……もう、きて、下さい……挿れて」
 ティフェレトにはこれが過去のことなのか、今現在の事なのか分からなくなっていた。同じように黒髪を乱す女。どちらかわからない。
 苦しい。もう、止めてしまいたいのに……止まらない!
「ああああ!!」
 キラの悦びに満ちた声に現実に引き戻される。愕然として、目を見開いた。
 破瓜の痛みでさえ快感に感じる清らかさを失った少女。少女はもう、女になった。
 満足感に酔いしれる目の前の女を見て、ティフェレトの喉元まで、胃液がせり上がってくる。
 激しい頭痛がティフェレトを襲った。額が熱かった。痛くて痛くてどうにかなってしまいそうだ。気が狂ってしまう。
 そんな状態のティフェレトにキラは甘く囁いた。
「動いて……?」
「……」
 ティフェレトの額から脂汗が浮かび始める。絶対にこの行為を良しとしていない。体も心も。それでもこの行為をさせる何かが自分を支配していた。その原因が何かはわからない。
 もう、早く終ってくれ。ティフェレトは強引に腰を引いた。
 ――早く、早く! 出せば、出せば終るんだ!!
 激しく動かして、快感が下半身だけでも支配してくれれば、それで終わる。
「あ、あんっ!」
 早くしないと、気が狂ってしまう! キラの腹の上に飲み込めない唾液を零しながら、ティフェレトは懸命に動いた。
 いつ終るかわからない行為にキラの絶頂によって終止符が打たれる。
 ティフェレトもようやく待ち望んだ開放感を味わった。でもその時に、キラの中に出してはいけない、と感じた。今まで以上の嫌悪感が、ティフェレトを襲う。
 ――だめだ、抜かなきゃ。彼女に何も残したくはない!
 そう思ったティフェレトにキラが声を掛ける。
「いや、まだ……抜かないで、中に、私の、中に……」
 またしても、体が勝手に動いてしまう。ティフェレトは己をキラの中に入れたまま、射精した。
「ああああああ!!!」
 かん高いキラの絶頂とあまりの快感にキラが気を失う。
 ティフェレトは中に出してしまったことに体が耐えられない。心が壊れてしまいそうだ。
 ぼくは、何をしてしまったんだ!
「うぐっ!!」
 ティフェレトは急いで口元を覆ったが指の隙間から、気を失って眠っているキラの身体の上にティフェレトの胃液がぱたぱたと零れ落ちる。
 転がり落ちるように、苦痛に呻いてティフェレトはキラから己を抜き、ベッドから降りて洗面台に向かう暇もなく、ベッドから辛うじて顔だけを出して、吐き始めた。
 胃液がなくなるまで嘔吐感は止まなかった。吐くものがなくなってもティフェレトの体調と精神は悪くなる一方だ。ティフェレトは頭を冷やそうと思い、ふらふらしながら洗面台にようやくたどり着く。
 洗面台の淵を握りしめてようやく立っていられるほど、ティフェレトの体調は急に悪くなった。
 キラを抱いてしまった。自分は欲に逆らえなかったのだ。
 頭から水を被る。汗が流れ落ちた時点で、ティフェレトは己の顔を鏡に映した。……情けない。
「!」
 鏡を見て気付いた。額の中心に何かが描かれている。灰色の小さな円は文字が細かく描かれているようだ。知っている、これは魔方陣! 恐る恐る額に手を伸ばす。ティフェレトがキラの望む行為をするとき、額が痛まなかったか? まだ、熱い。そうして理解した!
 ティフェレトは痛みも苦痛も吐き気も何もかも怒りの感情に押しつぶされていくのを自覚していなかった。自分の状況を理解する前に、怒りがティフェレトを埋め尽くす。ティフェレトは部屋を駆け出していた。

 ケテルのいないサロンにはいつものように何もない。ゲヴラーはここでケテルを待っていた。ティフェレトの様子はおかしかった。あの男の事も気にかかる。
 しかしケテルは一向に現れない。もうすぐ夜になってしまうというのにどこに行ったのだろう? ケテルを探しにいこうとしたらコクマーがいつものように紫煙を燻らせて現れた。マルクトとイェソドの姿はない。
「おっさん、あのティフェの影は? 取り戻したんだろうな?」
「もちろんだとも。今は部屋に寝かせているよ」
「そうか。……ケテル知らないか?」
 コクマーは頷いて、視線を彷徨わせるとゲヴラーに言った。
「どうも、ビナーが影を手に入れたようだ。ケテルはそちらのことをしているのだろう、邪魔するものではないと思うが、ゲヴラー」
「うっせぇ。ティフェがなー」
 独り言のようでゲヴラーは悩んでいる。
「ティフェレトがどうかしたのかね?」
 ゲヴラーは面倒そうに、しかしコクマーが賢者と思い出したのか、話し出した。
「コクマーはティフェってなんだと思う?」
「はて、それはどういう意味かね?」
 こういう風にはぐらかしているような感じがコクマーの嫌なところだ。同じ賢者でもビナーとどうしてこうも違うのか、ゲヴラーは不思議に思う。
「何でティフェは俺たち、いや、ケテルと会うまでの記憶がないんだと思う?」
「それはティフェレトに何か衝撃的な出来事があった、と考えられるだろうとも」
「それが何かって聞いてんだよ!」
 ゲヴラーは怒ったようにコクマーに言う。
「さて、ビナーならわかるかもしれないがあいにく私は万能ではないのでね」
 そう言って紫煙を吐き出すコクマーの様子をゲヴラーは呆れて、こう言い放った。
「使えねぇの」
「……」
 コクマーは傷ついたようだが、ゲヴラーはそれに気付いた様子はなかった。そうしてしばらくの時をサロンでコクマーとゲヴラーは二人きり、会話をするでもなく過ごした。
 もう夜も深くなってきたころ、ようやく書斎で仕事を終えたらしいホドとケセドがサロンに顔を出した。
「あれー? ケテルは? 珍しいね、いないなんて」
 ホドがゲヴラーに笑いかけながら自分で湯を沸かす。ケセドはいつもと同じように黙って席について、特にすることなく無言で座り続ける。
「今日はネツァーは? 軍の仕事?」
「んー、なんかいろいろ探られてるっぽいからね、その相手かな?」
 ホドはそう言うと、紅茶の葉をポットに入れた。
「あ、聞いたけどケテル、二人を外に出しちゃったんだって? コクマー」
 問われてコクマーが頷く。
「困るんだよね、マルクトにはここにいてもらわないと……。どうやって呼び戻そうか」
 独り言につながって、ホドはため息をついた。
「ティフェは? ケテルと一緒?」
「いや、ケテルはビナーといるんだと。ビナーの影が来たらしい」
 その言葉に驚いて、ホドは眼を丸くした。
「さすが、理解のビナーは行動が早いねぇ。……同じ賢者とは思えないよ」
 コクマーは困った顔をして、自分の弟子を見た。
「コクマーもそんなだから僕がビナーに道化なんて呼ばれちゃうんだよ」
「私のせいなのかね?」
「だって、師弟共々って言ってたし」
 笑って言うホドにゲヴラーがニヤついてからかう。
「道化かぁ、ビナーも良い事言うじゃん?」
「えぇ!? 僕道化に見えないでしょう?」
「いや、やってることがさー」
「そ、それはケテルが僕に頼むことがいつも無茶苦茶なだけで、僕は!」
 必死に言うホドを見てゲヴラーが声を上げて笑う。そんな朗らかな雰囲気を壊すかのように足音が響いてきた。
 足音は走っているようですぐさま近づいてきて、サロンの扉を荒々しく開ける。
 大きな音が響いて、顔を出したのはティフェレトだった。ティフェレトは部屋を見渡して目的の人物がいたのを見つけるとそちらにツカツカと歩いていく。
「ティフェ? どうしたんだよ、その格好……」
 ゲヴラーの声が耳に入っていないらしい。今のティフェレトは頭から水が垂れていて、上半身は何も身につけておらず、裸足であった。
 しかしその格好よりもティフェレトが怒っているということがおかしなことだった。そのおかしな様子のティフェレトがコクマーの襟を掴んで、怒鳴ったのだ。
 声を荒げたことなど今まで一度もなかったティフェレトが、怒鳴ったのだった。
「お前っ!」
 コクマーは表情を変えずにティフェレトのされるままになっていた。
「お前、よくも! よくもぼくを操ったな!!」
 サロンにいる全員が耳を疑った。ティフェレトは今、なんと言った?
「……おや、一体何のことかね?」
「とぼけるなっ! お前が、ぼくを操っていたんだろう? だからっ!」
 声を荒げるティフェレトに向かってコクマーは薄く嗤った。
「彼女は、よかった……かね?」
 そう言われた瞬間に、ティフェレトがコクマーを殴った。その衝撃で椅子からコクマーは転がり落ちる。一瞬の出来事に誰も反応できなかった。
 しかし殴られた当の本人は気にしていない様子でティフェレトに文句を言っている。
「殴ることはないと思うがね。そもそも……どんなに私を責めたところで君がケテルを裏切った事実は変わらないと思うのだが……」
 ティフェレトが怒りで頬を赤く染めた。
「お前! ……お前がそうさせたんだろう! 俺に!!」
 激昂するティフェレトにゲヴラーはおろおろしていて気づかなかったようだが、ホドはこの状況に恐怖を覚えながら、疑問に思った。
 ……俺? ティフェレトが自分のことを俺と言った?
「殺してやる! お前、殺す!!」
 ティフェレトはそう叫ぶと、コクマーに飛び掛った。ティフェレトの加速にだれもついていけない。次の瞬間にはコクマーの肩がざっくり斬られていた。ティフェレトは武器を持っていなかった。なのにこの切れ味……ティフェレトが本気だということが全員にわかった。
「ほぅ……私を殺すのかね? 面白い」
 コクマーもそれを悟ったのだろう。立ち上がって、虚空を見つめるとコクマーの足元から魔方陣が浮かび上がる。
 さすが賢者ともなれば魔法の展開が恐ろしく速い。円形の灰色の魔方陣はもうコクマーの足下に広がり、効力を発揮し始めている。
「フッ!」
 ティフェレトが短く息を詰めて、間合いを計っているのがわかる。魔術を始めた魔法使いに無謀に攻撃するのは危険と知っているからだ。コクマーの魔法が完成すればここにいては誰もが危険だ。ゲヴラーは叫ぶ。
「ちょ! やめろよ! コクマー、ティフェもだぞ!!」
 主がいない部屋で仲間同士の殺し合いが始まる。
「これだけの怒りの感情だ、相手をしなければ止まらないとも」
 コクマーは楽しげに笑って魔法を構成していく。ゲヴラーもそれを見て戦闘体勢に入った。二人を止めるために。そうしてゲヴラーがホドに目線でコクマーを示した。頷くホド。
「ケセド! 黒鍵(こっけん)を!」
「了解しました」
 ゲヴラーが叫ぶとケセドが頷いてどこからともなくおしゃれな飾り箱の鍵のような黒い鍵を取り出した。ゲヴラーはそれを見て頷く。その間にも間合いを計ったティフェレトの攻撃が容赦なくコクマーを襲う。
 目の前に突如現れた白い手がティフェレトのものと理解するのにコクマーは少し時間がかかった。容赦なく首を狙って鋭角に斬り込んで来るティフェレトの手刀を危機一髪のところで弾いたのは硬化した腕を出したゲヴラーだった。
「邪魔しないで! ゲヴラー」
 一瞬、ティフェレトの姿が映る。その時、ケセドの声が響いた。
『オープン!』
 その動作と共に空中に鍵穴があるかのように突き出された鍵が右に回される。瞬間にすべての時間がゆっくりになった。ゲヴラーははっきりティフェレトを補足し、コクマーへの攻撃を阻止する。ホドもようやく動き出した。
 時間が遅く流れたのでコクマーが行おうとしている魔法の種類を理解したのだ。それを止めるための魔法をホドが描き出す。しかし賢者ともなれば魔法を阻止するのは難しい。しかもコクマーの魔法は完成に近かった。
「間に合わない! コクマー、止めろ!!」
 ホドが叫んだ。その声に笑みを持って返す男。コクマーの魔術が発動すると思われたその時。

『止まれ』
 静かなケテルの声がこの空間全てに響き渡った。