毒薬試飲会 006

012

 二人の関係が壊れてしまったかのように変わったのは、あの夜から。
 そう、全てはあの夜から始まって、すべてが変わった。

 入矢の誕生月まで残り三ヶ月。もうすぐ14になる。そんなときに入矢と洸にウラの仕事が入った。その頃にはもっと二人とも腕を上げて、先輩の腕に優るとも劣らない腕前になっていた。しかし仕事の内容を聞いたとき、入矢は断る事を考えた。
 仕事はノワールの父親とノワールを暗殺して欲しいというものだったからだ。どうしてこの仕事が入矢に回ってきたのか。御狐さまはきっとノワールが死んでしまうということを入矢に教えたかったに違いない。
 ノワールとノワールの父親は禁術が使える。禁術慣れしている先輩が暗殺を行うところだが、友を殺さなくてはいけない時に、それを後から知った入矢の気持ちを考えてくれたのだ。その証拠に話を持ってきたのは御狐さまだった。
「断ってもいいからね?」
 優しくそう言って下さった。だからこそ、やる気になった。
「いえ、やらせて下さい」
「入矢、お前にノワールが殺せるのか?」
 御狐さまの側近でもあり男娼でもある弥黒(やくろ)さまが聞いた。それに迷わず入矢は頷く。
「殺せます。……いや、殺します!」
「そうか、なら何も言うことはない」
 そのまま何日か暇を頂いて、気持ちの整理もつけた。迷うことはない。入矢は約束の日の晩に洸と共にノワールの住む屋敷に侵入した。
 入矢と共に暗殺に出るのは洸だった。洸は自分もノワールと仲良くさせてもらったし、入矢と共にいきたいと言ったのだという。何度か遊びにいったことがあった。この手で友を殺すことが、一番の詫びになるだろう。
「入矢、ノワールは私が」
 洸が言った。入矢は首を横に振る。
「いざという時はわからないでしょう? 私達は正体を知られるわけにはいかないの」
「うん」
 二人は稚児。性別を明かせない。お稚児の時と違ってウラの仕事では二人とも性別を隠すような事はしていない。ノワールの家は翹揺亭が暗殺を行っていると知っているから正体がばれても構わないだろうが、暗殺はノワールと父親のみ。屋敷にいるスレイヴァントは殺害命令が出ていない。彼らにばれないようにしなくてはいけないのだ。
「それに父親の方が経験もあって手ごわいのよ。入矢の方が強いんだから強敵を相手にするべきよ」
「そうだね」
 ウラ稼業では入矢の方が洸より強かった。ならば強い相手と戦うのが当然である。自分のわがままで洸に、翹揺亭に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。そう考え直して、洸の考えに頷いた。どちらにしろ、翹揺亭がノワール一家を裏切ることには変わらない。
 ここからは別行動になる。入矢は彼の父親を、洸はノワールを殺しに闇夜を駆けた。二人の居場所はだいたい見当が付いていた。現在の時刻から考えれば、父親もノワールも自室にいるだろう。
 移動する間に様々な起こりうることを想定しておく。ノワールは違うと思うが、父親は女を連れ込んでいるかもしれない。その場合は女はどうするか。殺しても問題ない。運が悪かったのだ。しかし、複数女を連れ込んでいた場合は、運が悪かったでは少し可哀相だな、と思った。自分の姿を見られてしまう可能性があった場合には殺すが、ことが終わって眠りについていたならば、無理に殺す必要も無いだろう。
 屋敷の外側を回って、父親の自室に回りこむ。意外なことに彼はいなかった。なら書斎か、それとも訓練場か。書斎に向かって壁を伝った時、光が漏れているのが遠くからでもわかった。入矢は細心の注意を払って窓に近づく。そして発見した。窓に向かって背を向けている。現在一人。暗殺には絶好のタイミングだった。
 しかし彼はそれなりに富も持っているし、恨まれるようなこともしてきたはず。暗殺に気を遣っていないわけが無い。感覚を研ぎ澄ませる。入矢はウラの仕事のために禁術に対する訓練を一通り終えた。窓や彼の回りに禁術の気配があるかどうか探る事ができる。
 案の定、窓には禁術が施されている。窓はダメだ。目と身体の感覚を使って禁術が施されていない場所を探す。彼自身にも防御の禁術が三重に張り巡らされている。部屋の入口であるドアの外側には屈強なスレイヴァントがいる。どこからいくか。部屋の外のスレイヴァントを刺激しないほうがいい。
 殺せないわけではないが、騒ぎを起こせば洸に迷惑をかける。仲間を呼ばれるともっと迷惑だ。さて……。
 結局入矢は騒ぎを大きくしない事を前提に、入口のスレイヴァントを殺すことを選択した。廊下に降り立つと父親が仕事をしているせいか、入口前のスレイヴァント以外はいないようだ。好都合。
 注意しなくてはいけない事は、部屋の中の父親にスレイヴァントが見張り以外の行動を行っていることをばれてはいけない。スレイヴァントに声を上げられたり、音を立てられたら終わりだ。しかも彼らに禁術を使われても困る。禁力を感じ取られて異変に気付かれてしまう。スレイヴァントなだけに急所は克服しているだろうし、どこを攻撃して一発で殺すべきか。二人いっぺんに相手するのは難しいだろう。だから、入矢はわざと音を立てて彼らの目の前に姿を現した。
 警戒するスレイヴァントに声を上げさせ、そこから離れさせるために素早く逃げる。そうすれば見張りの彼らは一人が追いかけてもう一人が警戒を促す合図を主人に送るはずだ。その読みは当たり、一人が入矢を追いかけてくる。もう一人の死角に入った瞬間に、顎にキックを食らわせ、のけぞった首目掛けて手刀を叩きこんだ!
 そのまま腕をのめり込ませて首と身体を引き離す。派手に血飛沫が上ったがそれに構わず、なおかつあまり血がかからないようにして、急いでもとのもう一人の見張りを狙うべく移動する。
「はい、侵入者のようです、お気をつけ下さい」
 そう言って静かに閉じられる扉を見た瞬間に背後から飛び掛る。はっと見開いた目に映ったのは何だったんだろうか。バチっと小さな音と共に青白い光が消えた。感電によるショック死。一瞬で見張り二人を殺してしまった事で自分の腕が上ったことを実感しながら、ここからが本番と気を入れなおす。
 禁術に対する訓練は受けてきた。覚悟を決めて、ドアノブに手を掛ける。ドアから入るのだ。侵入すると共にご対面だ。一瞬で決まらないだろう。逆にこのことに気付かれて自分が入ってきた瞬間に殺されるかもしれない事を頭に入れつつ、ガチャリ、と重たい音を立てた。
「ノックはするべきだ、暗殺者君」
 ユーモアのつもりか、堂々とした様子で父親が笑っている。よく見た顔だ。嫌いな人ではなかった。どちらかといえばずっと翹揺亭といい付き合いをしていけたらとさえ、願っていたのに……。
 駆け出した瞬間にこの世のどこの言葉でもない音律が流れ出す。その言葉から大体使うであろう禁術のタイプを予測し、彼の回り取り巻いている禁術の破壊に移る。
 跳躍の後、全体重をかけての攻撃、ナイフにかけた殺意に反応して第一の禁術が発動する。ナイフを持つ入矢目掛けて電撃の矢が奔る。それを飛び上がってかわすと、入矢の着地地点に父親の禁術が発動。床は炎に飲まれる。炎の色からかなりの高温の炎。一瞬触れただけでひどい傷になるだろう。しかし落下体制に入っている入矢にはかわせない。どうするか、入矢はワイヤーを天井のフックにかけて落下を止める。その反動がいっきに手にかかりワイヤーを操っていた左手に激痛。それをむりやりやり過ごして再び二重目の禁術解体に向かう。父親も別の禁術を形成している。急がなければ!
 床に炎が消えたのを確認して床に着地、ナイフを続けて放つと、ナイフが接触した瞬間に禁術が発動する。床から木のように何かが生え来て入矢を拘束しようと伸びてくる。急いでそれをかわした瞬間にいつの間にか発動したのか、目の前に迫り来る木の枝。空中ではかわせない。入矢は背中の剣を抜き放ち、振り回して、木を切り刻む。その間にも父親のスペルが聞こえてくる。彼の身体を守る防御禁術は後一つ! 腰から拳銃を抜いて撃った。撃った瞬間に鏡のように自分のいる方向に向かって銃弾が同じ速度で帰ってくるので、入矢は打った瞬間から避けるという、きついことをしていた。
 やっと彼の周りの禁術の気配がなくなった瞬間、光の檻が振ってきた。光速に対応できる人間なんていないだろう。
 まんまと捕まった入矢に向かって溜息をついて父親は言った。
「久しぶりだよ、私の禁術を全て破ってしまったのは」
 ひやひやした、と笑う。捕まった! 暗殺どころではない。翹揺亭の皆に迷惑が! 奥の手だが仕方ない。自分も死んでしまうが、と手榴弾を持ち出す。
「やめなさい。禁術で無効化できてしまうのだから」
 禁術! そうか、と思い入矢は習いたての禁術を試みる。さぁ! ひっかかれ!!
「ウテウテ、イア、ガサル……」
「禁術まで使うのか? ますます欲しい……。だが残念だな、私と禁術勝負とは」
 こちらを見下して唱え始めたスペルは関係ない。入矢はめをつぶり、打つ手が無くて考えているように見せかけるよう、手を目にしっかりと当てた。そして背後から、小さなビン状のものを投げつける!
「な! しかし!」
 驚いて爆発無効化の禁術を形成しかけた時、カっと当りを昼間のような光が走り抜ける。
「なに! 閃光弾!?」
 一瞬視力を失い、驚いた時にもう、勝負は決していた。入矢の剣が父親の首を貫いていたのだった。しかし禁術使いは回復も自在に行える。攻撃の手は緩めない。額に向けて銃弾を連続で叩き込む! ナイフも身体のいたるところに投げた。
 相手が絶命したと禁術の檻が解けたことでわかったため、入矢は立ち上がり、自分の武器を回収する。
 それに加えて頭と身体を切り離した。これで暗殺任務は完了。手ごわい相手だった。内側からの窓の開閉には禁術は作動しないらしい。もしくはかけた本人が死んだからだろう。普通に窓を開けて逃走する。
 洸はどうなっただろうか。待ち合わせの場所に姿は見えない。時間を見て、掛かりすぎた事を知った。洸は先に帰ったりはしていない。とすれば洸は苦戦しているのだろう。
 それならば、と入矢は自分の装備を確認してノワールの自室に向かった。

 ノワールの父親の屋敷は豪邸といえる分類で、ノワールの自室とノワールの父親の書斎は別の建物にあった。建物5つが連なって一つの屋敷となっているのだ。その隅々までは何があるかは知らない。だが書斎とノワールの自室がある建物は隣同士なので、簡単に屋根に上り、音を立てないで隣の屋敷の屋根に飛び移る。
 そこで入矢は足を止めざるを得なかった。あまりの驚きに息を殺すことを一瞬忘れてしまう。
 今は夜。暗闇の他に何も見えないが、夜目を鍛えているため、入矢にはその光景がはっきり見えたのだ。
(洸!)
 心の中で叫んだ瞬間にピーっと甲高い音が響き渡った。そして一瞬で理解する。赤外線サーチ! 油断した。急いでその場所から離れる。
「誰か来たようだね、君のお仲間かな?」
 声を聞いて入矢は確信した。洸は失敗したのだ。逆にノワールに捕まっている。ノワールは洸をエサに入矢まで捕らえようというのだろう。少しだけ迷った。洸を見捨てるべきか、否か。
 洸ももう稚児として一人前。いざとなったら自決するだろう。しかし遺体を上手く処理できるだろうか。禁術の厄介なところは修繕の禁術もあるから、身元がばれてしまうと翹揺亭に迷惑がかかる。
 入矢はここで決めなければならない。洸を殺すかどうかを。一番いい方法はノワールを殺せばいい。ノワールを殺せば、洸の心配もしなくて済む。装備が不安ではあったが、確率は五分といったところ。
 心の中で決まった。入矢は急いで洸を捕らえているノワールの装備を観察する。赤外線サーチと暗視ゴーグルは付けているようだ。銃器の存在はここからじゃわからない。禁術戦になるだろう。禁術の気配は感じられないから今現在わなは仕掛けられてない。禁術に対応するなら銃器は消費できないな。そう考えて背後に回り、いっきに攻撃を開始した。
 赤外線サーチの警報音が鳴る頃には入矢のナイフが炸裂している。ノワールの対応は早く、それが空振りになった瞬間に、入矢は距離をとった。
「わお! いきなりだね」
 ノワールの軽口を聞いている暇はない。禁術を発動される前に、できるだけ攻撃しなくては!
 投げる事専用に作られた日本の昔の武器。投げるための刃、すなわち手裏剣といわれるもの。これの扱い方は入矢は得意じゃないがそんなことは言ってられない。人差し指と中指の間に挟み、腕を振り下ろすようにして投げつける。それはブーメランのように曲線を描き、ノワールとは全然違う方向に飛んでいったかのように見えたが、ある一定の距離まで飛翔すると急激に曲がってノワールを背後から襲う。全部命中と思われたその時、闇のなかで激しい黄色い光が生じて消えた。
(いつの間に、禁術で防壁を!?)
 入矢は驚いて、距離をとろうとしたとき、足が動かないのに気が付いた。
「ひっかかったね、暗殺者さん」
 ノワールが笑いながら近づいてくる。なんとか、なんとか逃げないと。洸だけでなく自分まで翹揺亭に迷惑を。しかし洸が全く反応しない事から、彼女は意識が無いのだろうか? もう殺されているのか?
「今開発している禁力の気配を遮断する機械なんだ。禁術のラストスペル簡略化だけできればみんなひっかかる。そこの暗殺者さんも同じだったよ」
 ラストスペルの簡略化! 入矢は内心驚いた。ラストスペルが無ければ術は発動しないなずなのに、それを行うのというのか!? 理論上可能でも実際行っているのは初めて見た。
 ノワールが近づいてきて暗視ゴーグルを外し、入矢を観察するかのように覗き込む。入矢は必死に考えて、簡略化の理論を思い出した。簡略化するのは相当の力量が必要、でなければ禁世に引き込まれてしまう。
 ただでさえここは禁じられた遊びの会場ではなく、現実の場所だから禁世に巻き込まれる可能性が大きい。そんな場所で簡略化を行うならいくらノワールが才能ある人間でも年齢から考えてランク5の禁術しか簡略化できないはず。ならば、無効化の禁術を使えば、ここから逃げられる。
 声を聞かせることになってしまうが、声だけならなんとでも言い訳できる!
『力無きもの、それは汝。我を縛る不動の縛り名は、疾く失せよ、疾く消えよ!』
 早口で叫んで叫び終わった瞬間に飛び上がる。そうして彼の暗視ゴーグルを踏みつけて破壊すると、ノワールよりも洸に向かって入矢は走り出した。後日、ノワールはにんさん、ねえさん方にやってもらおう。
 洸の生死を問わず、自分たちは稚児ゆえに正体だけは伏せなければ!
『デゥラヴォラス、アキュバクエス、イル、イル、アスワイム!』
 ノワールが叫ぶ。禁術の気配が今度は感じられた。さすがに禁術形成が速く、入矢よりも洸に禁術の網が降りかかる。その禁術を解体しようと、入矢は焦った。その時、洸の目が開いた。
「今、助ける!」
 口の動きで声を出さず、そう伝えると、洸は頷いて内側からも禁術を破壊しようとした。今度の禁術はランク2のようで、さすがに入矢や洸のレベルでは禁術解体は不可能だった。だから入矢が父親にしたような禁術破壊しか洸を救う道はない。
 その時、入矢は殺気を感じて振り返った。振り返った瞬間に衝撃を感じる。ノワールの攻撃だった。胸にノワールの攻撃が炸裂し、一瞬息が止まる。それにより洸の傍から吹っ飛ばされた入矢は痛みを堪えてすぐに立ち上がる。
「逃がすものか!」
 腕輪のどこかを軽く押すと、屋敷中の警報が鳴って、ノワールたちの商品であるスレイヴァントが現れる。その数は100を超えている。洸まで逃がすと知ったノワールが呼び寄せたのだ。
「私を殺して!」
 洸が口の動きだけでそう告げる。入矢は頷いた。この数では相手をする方が無理だ。入矢は手榴弾を洸目掛けて投げつけ、爆発を起こした後、立て続けに洸向かって残りの手榴弾をすべて投げつけて一目散に逃げ出した。
 スレイヴァントの悲鳴と叫びを聞きながら、それを遠く背後に感じても振り返らずに闇の中に入矢は消えた。

 帰ってすぐに御狐さまの元へ向かう。
「御狐さま!」
 今晩は来客の予定は無かったことを記憶していたのですぐ向かっても、通された。
「入矢!」
 弥黒さまが驚いた顔をする。
「失敗しました。申し訳ありません、洸が!」
「洸はどうした?」
「はい。洸がノワール暗殺を担当したんですが、俺が行ったときにはすでに捕まっていまして、俺がノワールと交戦を。しかしスレイヴァントを呼ばれて対応不可能と思い、洸の要望もありましたので、洸に手榴弾を全弾浴びせて逃げてきました」
「ブルートは?」
 御狐さまがノワールの父親の名前を挙げる。
「俺が殺しました。死亡は確認しました」
「よろしい。洸の死亡は?」
 唇を噛んで入矢は答える。
「確認できませんでした」
「そう」
 御狐さまはそう言って入矢に下がるように言った。
「俺、洸をこの手で! 俺の未熟さで助けられなかったのに! 俺のせいで! 御狐さま、俺を罰してください! 洸を助けられなかったんです、俺あのとき焦ってて洸に向かって手榴弾を! 洸を殺してしまった! 俺が! 洸を!!」
 御狐さまは血に汚れた入矢の身体を抱き締めて優しく言った。
「お前のせいではないよ、入矢。私のミスだとも。今回の標的はお前たち稚児に任せるべきではなかったんだ。お前たち稚児はまだ、半人前なんだからね。自分を責めるのはお止め。誰もお前のせいとは思っていないよ。それより潔く死を望んだ洸のことを思っておやり」
「うっ、うう」
 入矢の目から涙が流れ出す。泣き止むまで御狐さまは入矢をあやしてくれていた。その間にアイコンタクトで弥黒が部屋を退出する。
「佐久と黒鶴の予定はどうなっている?」
 すぐさま時計係のところに行き、弥黒が問うた。
「佐久にいさんは裏の予定が入っているために、しばらく空いています。黒鶴にいさんはいつものペースでお客様を取る予定ですが……どうかなさったんですか?」
 渉が弥黒にそう答えた。綾が先に問う。
「何かあったんですね?」
「ああ。実はさっき入矢がウラから帰ってきたんだが……洸がだめだったようだ」
 二人とも驚いた顔をした。それはそうだ。だって同い年の稚児で入矢はウラの実力は1番。洸は2番だったのだから。その二人の稚児のペアが失敗するなんて誰も予想しなかった事だった。
「洸が? ……死んだんですか?」
 綾が愕然として訊く。綾は洸を特別可愛がっていたのだ。
「わからない。入矢もいまは動転している」
「佐久にいさんと黒鶴にいさんを使いたいということは……洸の標的は死んでいないのですね」
 渉が冷静に言った。頷く弥黒。
「誰なんです? 洸と入矢をそこまで追い詰めたのは? 仕事は暗殺でしたよね。確か入矢が仲良かった、ノワールの家でしたよね?」
 時計係は全ての稚児と男娼、娼婦のスケジュール管理をしている。当然仕事内容だって熟知していた。
「ノワールだそうだ」
「え! あの坊ちゃんが? どちらかといえばブルート様の方が手ごわそうなのに……」
綾が意外そうに言い切った。
「してやられたんだろうな。詳しい事は入矢から聞かないとわからないが……。そう思って洸がノワールにあたったんだろう」
「あたしに行かせてください。弥黒さま」
 新たに柱の影から美しい女が言った。その後には別の意味で人目をひきつける女と可愛らしい外見の男がいた。
「晩夏、羽住、流星」
 晩夏は翹揺亭で8番人気の娼婦。入矢と同じように深い色の赤い髪と同じ赤い瞳が美しい。その色を表したかのように気性も激しいが優しい女性だった。
 羽住は亜麻色の髪に淡い緑色の目をした儚い美少女であるが蜜時になると豹変するそのギャプが愛されて1番人気を誇っている。
 流星は稀有な才能といわれている童顔を持った美少年に見えるれっきとした成人男性である。彼の人気は14番。これから才能も人気順位も上っていくだろう若手の男娼である。
「あの餓鬼気に入らなかったんです。入矢のこと好きなのはわかりますけど独占したいのバレバレで」
 流星が唾でも吐きそうな勢いで言った。彼の人気の原因の一つに童顔に似合わない毒舌がある。
「だが、流星……」
「違います。佐久にいさんの予定にあるウラの仕事、俺が肩代わりしますから、佐久にいさんを行かせてあげてください。佐久にいさんならあんな餓鬼!」
「私はもし黒鶴をいかせるなら、彼の受け持ちの客さえ満足してくださったら私が、受け持ちます。それに、洸がまだ生きているなら、金かなにか要求してくるでしょう。金なら私の稼ぎを使ってください。洸を救うためなら、全額でも出します!」
 弥黒と渉が驚く顔をした。1番人気の羽住の稼ぐ分は0がいくつ付くのかというくらいの巨額だ。
「羽住ねえさんがそうする必要はありません! あたしが黒鶴の代わりに行きます!」
「晩夏……。渉、晩夏の予定は?」
 期待を込めた目で晩夏が渉を見る。翹揺亭の娼婦と男娼は未来の後輩になる稚児を特に可愛がっている。本当の兄弟のように。加えて洸は稚児人気で1番。期待が高まる後輩になる予定だったのだ。
「聞きましたよ、弥黒さま」
 黒い着物を引きずって佐久が顔を出した。傍らに稚児がいるところから、彼女が教えたのだろう。着物も乱れ具合から客が事後寝てしまったのを見計らって抜け出してきたのだ。
「お前、お客様は……」
「大丈夫です。香も焚いてますし、俺のテクに落ちたんですから絶対一時間は目を覚ましませんって。……それより、入矢、失敗したんですか?」
 全員の目を見て返事がなくとも察したのだろう。佐久は額に手を当てた。
「そんな……。じゃ、やっぱり洸も。この前寝間作法のこと話したばっかりだったのに。俺が入矢と洸の寝間作法担当しようって思っていたのに……。洸っ!」
「佐久、嘆いていても仕方ないわよ」
 晩夏が佐久に言う。佐久はしばらく下を向いていたが顔を上げたときには目に力強さが戻っていた。
「俺は何をすればいいんですか、御狐さまは?」
「入矢をあやしているよ」
「入矢、そんなにひどいんですか?」
 流星が言う。その目には励ましに行きたいと物語っている。
「洸を救えなかったことを責めている。ウラで失敗したの初めてだしな」
「入矢……」
 晩夏がそれを想って目線を逸らした。
「お前たちはもう、自分の仕事に戻れ。御狐さまとも話し合って後日頼むと思うから」
 弥黒がそう言った。はい、と全員が返事を返し、それぞれの持ち場へ戻っていく。
「やれやれ、うちのものは皆、耳が早いな。さっき入矢が帰ってきたばかりだというのに」
「雪乃ちゃんが入矢の様子を見ていたんです。そこから広がったんでしょう。洸がいなかったから彼女も動転したに違いありません」
 佐久の稚児がそう伝えた。それでも口止めするようなことはしない。翹揺亭は全ての者が家族のようなものだ。一人の悲しみは全員の悲しみだ。

 洸と入矢のことが一晩のうちに全ての翹揺亭の人間に伝わり、翹揺亭は少し妙な雰囲気だった。御狐さまからお話があり、入矢と洸が失敗し、洸の生死が不明であることと、洸の標的が未だ健在であること、洸のことを含め標的の完全殺害を目的に、今度はウラの仕事の実力が高い順位と予定を考えて再び暗殺任務を近日中に行うと告げた。
 それからこのことはできるだけ触れないように。とも言われた。ブルート殺害は近隣には広がっているだろうから、それを知った客に対する対応も注意するようにといわれた。
 だが、その晩に誰もが予想していなかった事が起こったのだ。ノワールが単身、翹揺亭にやってきたのだ。当然のように入矢はいるか? とさえ尋ねてくる。受付係がいち早くその情報を伝えた。入矢の耳にその話が伝わった時に入矢は覚悟を決めた。
「俺を稚児にしてくれ。御狐さまは今晩暇をくれたが、ノワールに疑われるかもしれない」
 入矢の覚悟を理解した皆は入矢を少女に仕立てていく。完璧な結い髪。どこからどうみても女にしか見えない化粧。ノワールを待たせることなくすぐさま完成する稚児の入矢。ノワールの待つ部屋に入矢は向かった。
「ごめんね、遅れて」
「やぁ、入矢。綺麗だね」
 少し沈んだ様子でノワールが答える。そうれはそうだ。父親が殺されたんだから。
「どうかした? 元気ないね」
「うん……父さんが昨日、殺されたんだ」
 無言で入矢は驚いた。不自然な動作などない完璧な表情。
「本当?」
「うん。暗殺者みたいで、父さんあれだけ禁術で対策とってたのに……殺されたんだ」
 そう呟いて、入矢と叫んだ後、入矢に抱きついてくる。入矢は焦った。稚児である自分に触れることは翹揺亭では禁止だ。しかし父親を亡くしたとショックを受けている人を突き放したりしたら翹揺亭の稚児としておかしいんじゃないか。その一瞬が入矢にとってあってはいけない間だった。
「え!?」
 入矢は抱きつかれたとお持った瞬間に、押し倒され、着物の襟を思いっきり引っ張られた。
「何を! ノワール!! やめ!」
 帯を緩められ、いっきに入矢の胸がはだけられた。
「やっぱりね、昨日来たのは君だったか」
 入矢の胸にはノワールから受けた攻撃の痣がはっきりと残っていたのだった。御狐さまは禁術やここの技術を使って傷を無理矢理治すのを好まない。
「そこまでよ」
 気付くと雪乃と咲哉がノワールの首に刃をめり込ませていた。
「ここで死んでおきなさい。翹揺亭の約束事、知らないわけじゃないでしょう」
「いいのか? 洸、死んでしまうぞ?」
 二人に動揺が走る。ノワールがニヤリと笑った。その笑みを見て、稚児である入矢の姿を捨て、入矢がノワールを睨んだ。その顔をみて喜んだかのようにノワールが笑顔になる。
「御狐さまに会わせてくれ。洸の事で話がある」
 二人はどうしようか悩んでいるようだが入矢が言った。
「いいだろう。会わせてやる」
 二人に目配せし、ノワールを上から退かせる。立ち上がって入矢は着物を直すと立ち上がった。
「ついて来い」