毒薬試飲会 006

013

 普通の客なら入る事はおろか、目にする事も無いであろう翹揺亭の最奥に御狐さまの部屋はある。ノワールがここまで足を踏み入れることは初めてのはずだ。ノワールの父親のブルートだってあるかどうかわからない。
 入矢は雪乃と咲哉に口止めをお願いした。御狐さまの怖さを思い知るがいい。御狐さまの部屋に行くまでににいさん、ねえさん方や裏方の仲間に会い、驚かれた。目配せして状況に騒がないように伝える。うなづいて裏方の子が消えたりする。
 裏方には裏方の通路が会ってそこから先に御狐さまに伝えに言ったに違いない。長い迷路のような廊下を通ってようやく御狐さまの部屋の前に到着する。
 そこで入矢は正座になり深く頭を下げた。それに習うかのようにノワールも慣れない正座をしていた。部屋に入る前からその厳粛な空気を理解したのだろう。
「御狐さま、入矢参りました。ノワールさまをお連れしております」
「お入り」
 優しい声がした。それと同時に御狐さま付の稚児が襖を同時に開けてくれる。襖が開き終わったら頭を上げた。立ち上がり、中に入る。ノワールに御狐さまと対面する座を示した。
 ノワールは始めに御狐さまの美貌に驚いているようだった。御狐さまは名前の通り、細い目をしている。しかし白い肌に朱の唇。うっすら赤い目元と旨い具合に乱された着物の着こなしとその色香に堕ちない人間はいない。御狐さまの傍に控えるかのように弥黒さまと弥白(やしろ)さまがいらっしゃった。そして入口には佐久にいさんと晩夏ねえさんがいた。
「お聞きしましたよ。ブルートさまがお亡くなりになったそうですね」
 出鼻を挫かれたのか、ノワールが驚いた顔をし、それから御狐さまに言った。
「ええ。暗殺者に」
「さぞや、悲しいでしょう。心中お察しします。しかし、うちの稚児に手を出すのはいけませんよ」
 ちゃんと着なおしたのにさすが御狐さまだ。すっかりばれている。
「入矢の性別を話す気はないですよ」
「うちに出入りするからにはうちが決めた約束は守っていただきます、おわかりか?」
「はい」
 ノワールは背筋を伸ばした。御狐さまはさすがだ。
「で、今日はどういったご用件でしょう? 引継ぎですか、お仕事の」
「ええ。これからもよい関係でありたいとこちらも願っているのです。ですが……」
 そこで一回言葉を切られたが、御狐さまはしれっとしている。
「なんでしょう?」
「おわかりになりませんか?」
「さて?」
 笑顔の応酬が続いて、ノワールが御狐さま相手に今までノワールが違う相手に使っていたであろう手が通用しない事がわかったらしい。
「はっきり申し上げます。これまでよい関係を気付いてきた我々にどうしてあのような仕打ちを?」
「あのような、とは?」
 ゆっくり諭すように優しく御狐さまが答えた。
「そこの、入矢がわたしの父を殺しましたね。先ほど乱暴したのは確かめたかったからです。入矢の胸には私がした攻撃の痣があります」
「そうとは限りませんが? 傷がどうなさいました?」
 そんなことはどうでもいい、と言いたげに御狐さまが言った。
「洸の姿が今晩は見えないようですね。いつもだいたい入矢と一緒にいるようですが?」
「稚児は時計係が一緒に行動する組を決めております。ですから入矢がいるから洸がいる理由にはなりませんよ」
「では、こちらに呼んでいただけないでしょうか?」
「なぜ?」
「そう仰っても無意味です。洸は翹揺亭のどこにもいない。そうでしょう?」
 そう、どこにもいない。でも御狐さまは焦った様子も無い。
「ならばどこにいるのでしょう? 洸は翹揺亭の稚児、翹揺亭以外にいる場所はございません」
 ノワールは洸の所在を問うたが御狐さまは洸の所属を言った。
「嘘はお止めになることです。洸は私の屋敷にいます」
「そうなのですか?」
「昨日、私を暗殺しようと襲ってきたのは洸でした。恐らく父を殺したのは入矢ですね? ひどいじゃ有りませんか、長年よい関係を気付いてきた私たちを暗殺するとは。もちろん、私はあなた方がウラの仕事をしていることを知っています。だからこそ我々の商売は成り立ったのですから」
 にっこりと笑って御狐さまが言った。
「ビジネスに情は不要ですから。で? 何をお望みですか? 若き御当主」
 表すればあっさり。それほどあっさり今までねちねちとノワールに言わせていたとは思えないほど手のひらを返して御狐さまが問う。
「認めましたね?」
「ええ」
「では、私としては今後とも翹揺亭と今までと同じような関係を築きたいのが一つ」
「そうですね」
 御狐さまはその点、同意する。
「二つ目は私を暗殺対象から外してください」
「考えておきます」
「三つ目はあなた方の一方的な攻撃の理由がどうであれ、こちらがこの件を白紙に戻す条件を飲んでいただく事。この三つです」
 御狐さまの笑っているような目にすーっと冷たさと鋭さが出てきた。
「聞きましょうか、その条件」
「ええ。洸は稚児人気が一番だそうですね。今までかけられた金額は、この店の一番人気の羽住さまの稼ぐ金額の3倍と聞いております。その稚児を一方的に失ったなら、翹揺亭としても大損害でしょう。それに将来有望な娼婦になることを考えると、洸を返して欲しくないですか?」
「洸は家族です。洸が例え裏方の者でも返答は同じです」
 御狐さまがぴしゃりと言い放つ。
「洸の傷は治しています。無事です。洸を無傷で返す代わりに」
 ノワールはそこで言葉を切る。そうして御狐さまの目を見て話していた目線をすっと入矢に向けた。
「入矢を下さい」
 その言葉に驚いたのは入矢だ。驚いたのは入矢だけではないようだ。周りのねえさん、にいさん方も驚いている。が、彼らは感情を隠すのが上手いのでそうは見えなかった。当然、御狐さまの表情は一瞬でも変わることなく微笑んでいる。
「洸の代わりに入矢をくれと? 家族を天秤に掛けるような真似はできかねますよ」
「そうでしょうか? 入矢はまだ13ですね。稚児としてまだ金をかけられていない。今なら金額の損得だけで考えれば無理な話ではないと思います。稚児の身分で金をかけられていないなら稚児から裏方に回ったとして男娼にならなくても不思議じゃない」
 翹揺亭では洸が返ってこない場合、洸に賭けてくれた客に洸の掛け金を全て返さなければいけなくなる。そこで大幅な損害。そして洸が取るべき客の数から洸を育ててきた養育費が損害である。
 それに稚児であった洸が急に姿を消したら翹揺亭の名に傷が付きかねない。その点、入矢なら金をかけられていないし、まだ稚児だからいなくなっても言い訳が付く、そう言っているのだ。
「それが条件ですか。それには一つ、こちらからも条件がありますね」
「なんでしょう?」
「翹揺亭から色を売る者が店を出る時は身請けと決まっています。身請けされる条件に満たさなければその条件、聞き入れることはできません」
 身請けの条件を翹揺亭では事細かに定めている。
「洸がどうなってもいいのですか?」
 あなた方に選択の余地はない、と言いたげにノワールが言った。
「翹揺亭は全員が家族です。身請けした身でも家族に変わりありません。家族の身が安全であるか、家族が幸せであるかが身請けする時の最低条件なのです。あなたが今、入矢を欲しがって一年後に入矢が欲しいという理由にはなりませんよ。入矢をただ欲しがるならば身請けなどと申されますな」
 御狐さまが言った。そうしてその言葉に棘が含まれる。
「幼き独占欲で翹揺亭を支配できるとお思いか? 翹揺亭は家族一人のために全員が戦うお店。お忘れなきよう」
 その言葉が意味するのは、お前が望むならお前のところのスレイヴァントと戦うと言っているのだ。さすがにノワールもここまで強気に出られるとは思ったいなかったらしい。
「な!」
「さあ、今宵はもうお引取りを。いくら自らが望まれた父上の死といえど、供養して差し上げなさい」
 そう御狐さまに言われた瞬間、ノワールの目が見開かれる。しかしそれ以上何も言う事は無く、礼だけして立ち上がった。それを晩夏が送る。御狐さまの部屋には呆然とした入矢が残された。
「俺を……? そんな、馬鹿な……」
「御狐さま、御狐さまが先ほど仰った事が本当ならば、最初から入矢だけが狙いだった、というわけですか。自分の父親を殺してでも、いや、利用してでも入矢を欲したと、そういうことですね?」
 佐久がそう告げた。目を見開いたまま佐久の方を入矢が見る。その顔は突然の事態に対処できていない。ショックから立ち直っていなかった。
「弥白に調べてもらったのよ。どうもおかしいと思ってね」
「案の定です。私たちにノワールたちを殺すよう依頼したのは、ノワールが依頼した者であったことがわかったのです。彼は自分たちを狙う暗殺者が誰であろうと、翹揺亭のものであればよかった。自分が殺される事など心配していなかったようです。一人捕まえて入矢を手に入れる事さえ叶えば」
 弥白が淡々と告げる。
「自分が殺される心配はしていなかった? 翹揺亭に狙われて生き延びる自信があった、と?」
 佐久の問いには入矢が答えた。
「ノワールは禁術の気配を絶つ道具を開発していたんです。洸もそれによって捕まりました。俺も危なかった。それにノワールは恐らくランク5、もしくは4位ならば簡易術式を使えるはず。だから、禁術を用いれば勝てるとふんでいたんだと、思います」
「もしくは、そこで死んでも悔いは無かったのでしょうね」
 御狐さまが言った。そこで眉を片方だけ上げ、皮肉げに笑う。
「あの手のものは手ごわいぞ。自らの命を失う事を恐れてはいないから。洸が生きているのはうれしい知らせ。入矢、よかったこと」
「は、はい」
 しかしよかったのだろうか。洸が生きていてくれたことはもちろんうれしい。だが、きっと稚児として性別はばれてしまっただろう。
「入矢、翹揺亭がウラの仕事をしていることを秘密にしているのはね、オキャクサマに安心して楽しいひと時を過ごしていただくため。だから裏の仕事をする時は秘密を徹底してきたの。だから素顔が知れるようなときには自決なさい、と教えてきたのよ。でも今回の相手は別。最初から私たちのウラの顔を知っているのですもの。洸とわかってしまい、稚児として性別がばれてしまっても、それはいくらでも言い逃れで切るわ。それに彼の目的はあなただけですもの」
 洸については大丈夫だと思っているようだ。
「御狐さま、俺をいかせてください。洸を取り戻してきます」
 佐久が言う。その漆黒の瞳には静かな怒りの炎が燃えている。佐久の裏の実力は現在2番目。十分可能な実力を持っていると言えた。
「さて、どうしましょうかね。……先に仕掛けたのはこちらであるし、ね」
 晩夏が帰ってきて御狐さまに文句を言うように言い切った。
「理由はどうであれ、やり方は卑劣です。あたしと佐久なら洸を取り戻せます!」
「あれだけ、自信満々なんですもの。絶対に私たちが手に届かないところに洸はいるのでしょうね」
「そんなこと無いです!」
 それに御狐さまは答えない。まるで敵ながらノワールの心が全て見通せているかのような様子だ。
「入矢、もし、私が許すなら貴方は洸の代わりにノワールのもとへ行く気はある?」
「御狐さま!!」
 佐久と晩夏が同時に抗議の声を上げた。それを目で制して御狐さまが問う。
「洸がそれで無事に戻ってくるならば!」
「違うわ。あなたがノワールと共に居たいか、と訊いているのよ」
 入矢は驚いた。ノワールはこんなことが起こる前は確かに一番の友人だった。好意もそれなりにあった。お客として来てくれるのなら喜んで相手をするつもりだってあった。でも身請けとなれば話は別だ。生涯を共にしたい相手ではない。
「それは……」
 その続きがいえない。ノワールと共に生きるなんて考えた事は無かった。きっとこの先ずっと翹揺亭にいるのだとばかり思っていた。
 今まで得てきた知識と技術はすべてノワールのために使うことになるのか? 御狐さまに恩を返すこともなく? だけど、洸のためなら。構わないと言い切れない自分が悔しかった。洸を選べない自分が。
「緋藍(ひあい)、蒼赤(そうせき)ここにチェシャ猫を呼んで頂戴」
 御狐さまはそう言うと御狐さまの背後からはっと短い掛け声がした。御狐さまの周りには御狐さまの右腕として弥黒が、左腕として弥白が絶えずその傍に居る。御狐さまの背後を守るかのように後ろでひっそり控えるのは緋藍、蒼赤と二人である。この二人の掛け声がしてしばらく経った後、紫色の幅があるようなリボンがひらり、とどことも無く現れた。
 くるくる円を描いてそのリボンは空中で動いていく。最初は円を一回描くしかできなかったリボンの長さは2回、3回と円を描くごとに長くなってゆく。そのリボンがある一定の形を作った時、すぅっと浮かび上がってくるのは黒い色。何も無かった空間にいつの間にか少年が出現している。
 しばらく空中を浮いていた少年は、一同の顔を見下ろした後、音も無く床に降り立つ。
「どォも。この前お会いしたのはいつでしたっけねェ、御狐さま」
 真っ青の髪には紫色のネコ耳が生え、瞳は片方が黒、もう片方が白色だった。薄いつりあがった唇は薄い紫色で頬にも、紫色のフェイスペインティングがある。ジャケットはエメラルドグリーン。その下に覗くショートパンツは白い色。そこから吊られたタイツはまるでアイスクリームのチョコミントのようにエメラルドグリーンと黒の縞模様。足の間から覗く細く長い尻尾は紫と黒の縞模様だった。
「お久しぶりですね、チェシャ猫」
 とんでもなく美形なのに間違いはないがその奇抜な格好が彼の異常さを物語っている。
「でェ? 今日は何の御用です? 突然のお呼びはァ、嬉しい反面ちょっと困るんですケド」
 入矢はこのチェシャ猫と呼ばれる少年を見たのは初めてだったが、御狐さまと同格に話している事に驚いた。御狐さまの態度で相手の格がわかるのだ。少年が御狐さまに敬語っぽい話し方をしているのは一応敬意を払っている、ということなのだろうか。
「弥黒、お前たちも出ていて。彼と話す時は二人きりと決めているの」
「しかし……」
「俺が御狐さまに手ェ出すってェ? ないない」
 手を横に振って少年が笑った。笑い方が気に触るヤツだと思いながら弥白さまに言われて退出する。弥白さまと弥黒さまは部屋の外で控えていたが佐久にいさんと晩夏ねえさんに連れ添われて入矢は御狐さまの部屋を離れた。
「あの人、偉い人なんですか?」
「偉くなんか無いわよ」
 晩夏が言う。佐久も隣で頷いている。
「あいつは案内人(ナビゲーター)。でもただの案内人じゃないの。第一階層を案内する事が出来ると言われているのよ。それだけ」
「それだけで、御狐さまと同格なんですか? 確証もないのに?」
 確かに第一階層を案内できるならそれなりにすごいんだろうけれど……。
「まぁ、同格って言うか……あいつ得体が知れないんだよな。俺が会ったときからアイツ、姿が全く変わらないんだ。それに会うたびに服と髪の色と瞳の色が違うから気味悪いんだよ」
「でもそれって、珍しい事じゃないですよね? 御狐さまだってそうじゃないですか」
 それにこの地では身体年齢を弄ることは可能だ。寿命を延ばす事だって。御狐さまと彼が行っている事は違うとでも言うのだろうか。
「あいつはなんとなく俺達とは違うんだよ。うまく表現できないけれど」

 二人きりになった部屋で御狐さまは居住まいを正した。正座し、まず深々と頭を下げる。
「そゆコトは止めて欲しいっていつも言ってるんだけどなァ」
「礼儀ですからね」
 頭を上げて御狐さまが少女のように可憐に笑う。普通ならそこで男といわず女でもノックアウトしてしまうような悩殺スマイルだ。
「毎度、どォも。で、御狐さまが俺に何の御用で? 御狐さまが自らお相手くださるとは珍しい」
 御狐さまの手酌で酒を酌み交わすと、味わうかのように少年は飲んだ。御狐さまもそれに習う。
「御狐さまから頂くお酒はなんでいつもこんなに美味いかなァ?」
「うふふ。あなた相手の時は特別なんですよ。私の愛もこもってますから」
「そりゃァ、身に余る光栄だなァ」
 二人してくすくす笑う。
「お忙しい身の上でしょう、相変わらず」
「そうでもないですよォ? 愉しんでますってェ」
「そうですか? ……今日お呼びしたのはね、お願いがあるんです」
「御狐さまの頼みとあっちゃ断れねェや。聴いてみましょォか?」
「ええ、ぜひ」
 二人は二杯目の酒を空けた。
「ノワールから頼まれてうちの洸を隠していますでしょ?」
 三杯目を注ぎながら御狐さまが微笑んだ。それを飲み、チェシャ猫が笑う。
「可愛い子だァ。将来きっと美人になりますよォ」
 しばしの無言。御狐さまはチェシャ猫に敵意は持っていない。
「いくら積んだら秘密裏に返してくださいます?」
「無理ですよー。御狐さま。先客はあちらサンですからねェ」
 表情を特に変えずしれっとチェシャ猫が言い放つので御狐さまも普通に言い返した。
「困りましたね。あなたから奪うのは不可能に近いし」
「あきらめてくださいよォ」
 今度はチェシャ猫がニッコリと笑った。それを見て御狐さまが溜息をつく。
「こういうのを運命って言うのかしら。あなたは先に頼んだ願いを優先させるんですものね」
「まァね。でも、今回はちょっと違うかも。俺好みの話になってきたんでネ」
「それはわたしの家族を使ってまで楽しむ事なのかしら?」
 殺気を放って御狐さまが言った。もしここに翹揺亭の者がいたらあまりのおそろしさに自殺するかもしれない。それだけ恐ろしい雰囲気だった。それでもチェシャ猫は表情一つ変えない。
「俺の言うとおりにならなかった人は今のところあんただけだしねェ?」
 チェシャ猫がニヤりと笑った。お互いに無言。その耐えられない間がこの部屋を支配する。先にその沈黙を破ったのはチェシャ猫だった。
「まァ、見てなって、御狐さま。俺が愉しめない話なら俺はノワールに手を貸さない。逆に面白いままなら、御狐さまにとって困る事にはならないハズ。そうだろォ?」
 ニヤっと笑ってチェシャ猫が酒を飲み干し、浮かび上がる。
「そうかしら?」
「そうだともォ。人間には誰にも何時だって自分ともう一人の自分がいるもんさァ。もう一人の自分は本当の自分と言われてる。本当の自分の声を聴いてみたら、案外違った意見だったって言うのはよくある話だぜェ?」
 その声を残してまた体がリボンのように解けてチェシャ猫の身体は消えていった。
「人間の本質、それくらいわかっていてよ。……いや、彼が言ったのは私のことじゃ、ないのね……」
 御狐さまはどっと疲れたようにその場に寝転がった。

 入矢は稚児としては異例に成人して一人前の男娼になる前に身請けされることが決まった。入矢が望み、御狐さまが許した。そのことが決定を覆さぬものになった。
 皆が今回の顛末を知っている。入矢と仲がよかったノワールが入矢を独占したいがために父親をわざと翹揺亭に殺させ、洸を人質に取り、代わりに入矢を要求した。
 誰もがノワールのやり方が卑劣と罵った。行く必要はないと、ノワールなら殺すからと誰もが入矢に言った。しかし入矢は聞き入れなかった。
 入矢は御狐さまにこう言っていた。その会話を知っているのは御狐さまと彼女の側近だけ。
「御狐さま、決めました。ノワールの元に嫁ぎます」
「後悔はないか?」
「ありません」
 入矢の目に決意が宿っていることは誰にも分かった。
「行くことはないんだぞ、お前、ノワールを愛していないだろう?」
「はい。大嫌いです」
 弥黒の問いに力強く答える。なら、と言った弥黒に入矢は続けた。
「身請けは受けます。それで洸を返してもらってください。俺は、身請けされたらノワールから逃げます! 絶対に逃げ切って見せます。だから、俺もここに帰ってきます」
 翹揺亭は身請けするときに細かい制約がある。金銭的にも精神的にもさまざまな面から男娼、娼婦を満足させることを誓うこと。もし、男娼、娼婦が気に入らず、逃げ帰ってきた時はその男娼、娼婦を諦めること。
 つまり出戻りを翹揺亭は許している。それが叶わず、男娼、娼婦が帰りたい意思を妨げるような現状である場合は翹揺亭が連れ戻しても構わない。それをノワールが今回呑む、というなら入矢は逃げればいいのだ。ノワールから。
 そうすれば初物はノワールに捧げても、入矢は翹揺亭で男娼になることができる。身請けから逃げたという汚名を着ても、入矢は構わないと言ったのだ。
「お前は、本当にそれでいいの?入矢」
「はい」
「ならば決まりだ。吉日に入矢を嫁がせる」
「御狐さま!!」
 弥白が叫んだ。弥黒は入矢の名を呼ぶ。
「決まりよ。皆にそう、申し伝えなさい」
「身請けは本来、恋愛関係になったもののためのものじゃないですか! それをこんなことに使ってはなりません! 御狐さま、お考え直しください!!」
「弥白さま、俺が未熟だったから洸を救えなかったんです! 洸を助けたいんです! 俺のわがままをどうか、許してください!!」
 入矢が頭を下げる。
「入矢……」
 もう、誰にも何もいえなかった。

 赤い髪は何日も前から手入れがなされ、入矢専用の紅の着物が仕立てられた。入矢が身請けすることは翹揺亭の客も知ることとなり、皆が驚いていた。入矢の決意は入矢が知らない内に翹揺亭の皆が知ることとなり、身請けの日には誰も何も言わなかった。
 赤い艶を持つ美しい髪は見事に結い上げられ、白い肌が化粧によってさらに白くなる。目元にはうっすら青い色が入れられて、口紅は髪と同じくらい赤く塗られた。髪飾りは金色のものが多く、頭の上で涼しげな音を奏でる。
 入矢のためだけに仕立てられた紅の着物は色鮮やかで、金糸で蝶の刺繍が施されていた。黒い帯は光の加減で色を買える語句上品。入矢は誰が見ても美しかった。入矢は全ての支度が整った後、御狐さまに挨拶をしに立ち上がった。
「綺麗なもんだなァ」
 入矢はばっと振り返る。誰もいなかったはずの部屋にいつの間にか少年が入り込んでいた。
「誰だ?」
「この前、会ったじゃねーか? 忘れちまったァ?」
「……チャシャ、猫?」
「正解ィ」
「何か用か?それと、どうやってここに……?」
 ニヤニヤ笑う顔が憎たらしい。
「俺はどこにでも現れることができるんだなァ、これが。お前が身請けするからそりゃァ、綺麗だろうとおもってなァ、わざわざ寄ったんだ。見る価値アリだねェ。綺麗なモンだァ」
「ど、どうも」
「俺がオマエの初物、奪ってやろうかァ?」
 気づいた時には入矢の目の前にチェシャ猫は居た。唇が触れ合うか、という距離に。
「ノワールのやり方は確かにこの店には合わないさァ。でも、この土地じゃ、そこらに散らばっているやり方でもある。いままでこの店がそんな目に合わずに済んだのはァ一重に御狐さまのお陰さァ。あの人、怒らすとロクな目に合わないかんなー。でもノワールはそれを犯した。なんでかわかるかァ?」
「知るか」
「それだけオマエが欲しいからだよ、入矢」
 入矢の目が見開かれる。
「オマエ、わかってねェよ。ノワールから逃げられるとでも思ってんのかァ? 本気になった男から、よォ。オマエは確かに強いさァ。でもな、人間、本気になるとコエーの、覚えときな」
 チェシャ猫はニヤついた笑みを浮かべながら唐突に消えていった。
「逃げてみせるさ! 俺はアイツが大嫌いなんだから!!」

 入矢、13歳。その身をただ一人の男に捧げること、形式上だけでも受け入れた日。