毒薬試飲会 007

5.鈴蘭 中

014

 迎えに来たノワールが入矢の美しさを見て絶句した時、心底コイツが憎いと入矢は感じた。

 「毒薬試飲会」

 5.鈴蘭 中

 入矢は迎えに来たノワールに向かって一言も口を利かなかった。ノワールはそれでも満足したようで、着飾った入矢を抱きかかえて車に運ぶと満足そうな笑顔を御狐さまに向けた。
 辺りには前代未聞の稚児の身請けを見ようと見物人が生じている。中にはめったにお目にかかれない御狐さまを見ようという魂胆の野次馬も居ただろう。
 しかし、祝うべく雰囲気のはずが、身請けされる入矢も、それを見送る翹揺亭の者も殺意に近いオーラを隠そうともしない。今までにありえない身請けの見送りに野次馬も一人、また一人と去っていった。
 車に乗り込み、今、出発しようかという時、咲哉と雪乃が駆け寄った。車の窓から入矢を見つめ、ノワールに聞こえないように、口の動きだけで入矢に伝える。
「絶対、帰ってこいよ」
「ああ」
 二人が車から離れた瞬間に、車が発進する。後部座席から翹揺亭を見続け、入矢は身請けされる立場の人間とは全く違う行動をしていた。屋敷に着いた時、ノワールに手を差し伸べられるがそれを叩き、自分で降り立つ。
「嫌われたものだ」
 ノワールが苦笑交じりに呟いた。
「洸はどこに居る」
 もう、稚児でもなんでもないのだ。お客様でもない。入矢は完壁に素の自分をさらけ出してノワールに言った。ノワールは肩をすくめる。
「私の生涯の伴侶になろうとも人が随分剣呑な態度だね。翹揺亭に居た頃とは別人だ」
 半分感心したかのようにノワールが言う。
「お前は俺の客じゃないからな。もう、サービスはしない。……不満か? こんなの想像と違うか? なら、俺を追い返せよ。要らないって言え。喜んで帰ってやる」
「帰さないよ」
 入矢の手首を掴み、真剣な目をして低い声でノワールは言い聞かせた。
「放せ!」
「嫌だね」
 そのまま入矢の腕を引いて身体を引くと、そのままノワールは入矢に口付ける。入矢の目が驚きによって見開かれるが、すぐさま抵抗するためにじたばたと暴れ出す。それを腕でがっちり締めて無効化すると、ノワールはさらに深く口を交差させた。
「うっ、んむ!」
 苦しげな入矢の吐息がノワールの口の中で弾ける。それをお構いなしにノワールは口づけを続けた。このまま酸素が足りなくて窒息してもいいと言わんばかりだ。そこで黙っている入矢ではない。
「っ!!」
 ノワールは顔をしかめると入矢から顔を遠ざけた。驚きの目には少し怒りも混じっている。
「好きにさせるかよ。翹揺亭は無理矢理は好みません」
 ノワールの唇の端から赤い血が垂れる。入矢は口腔に入ってきたノワールの舌を咬んだのだ。してやった、とでも言いたげに入矢の口元には笑みが浮かんでいる。
「ガードが固い事だ」
 すぐに怒りをその瞳から消し、ノワールは入矢の手を離した。
「ついておいで、案内しよう」
 ノワールはそう言って歩き出す。入矢は舌打ちしつつもノワールについて行った。改めて見るとノワールの屋敷は広い。内部の構造は情報収集で何となく知っているものの、自分がどこに部屋を与えられるかで逃げる算段を考えなくてはいけないな、と冷静に考えた。
「洸は本当に無事なんだろうな?」
「それはどういう意味で?」
「は?」
「洸の貞操なら無事だよ。私は君しか眼中にないからね」
「な、何言ってんだよ! 身体の傷に決まってるだろ! 洸は一番人気なんだ、傷が残ったりでもしたら」
 入矢の言葉を遮ってノワールは何もない空間に足を踏み入れた。その瞬間に景色が変わる。別の場所に移動したようだ。これも禁術の一つだろうか。
「自分で確かめるといい」
 ノワールはそう言って、入矢に扉を開けて部屋の中を示した。
「洸?」
「入矢!!?」
 奥の方で壁を睨んでいた背が声を掛けたことによって振り返る。二人とも目を見開いた。互いを認めた瞬間、どちらが先と言えない間で二人が駆け寄る。部屋の中央で抱きあった二人をノワールが入口から眺めていた。
「大丈夫か? 無事か??」
 抱き締めた手を解いて入矢が洸の頭を撫でて触れ、確認する。洸は目に涙を浮かべた。
「どうして……入矢」
 入矢の格好を見て、洸は悟ったらしい。
「まさか、入矢!」
「嫁いだ」
「嘘!!」
 短く洸が叫んだ。そこから震え始める。
「そんな、まさか! ……入矢、どうして……?」
 そうして、はっと洸は入口に立つ、ノワールに向かって叫んだ。
「お前だなっ!!」
「そうだよ」
 激昂して洸が怒鳴る。
「私は殺せと言ったはず! 何故、入矢を!!」
「殺す、生かすは私の自由だ」
「なんだと!!」
「それに、これは御狐さまも入矢も了承した事だ」
 洸が入矢を振り返る。その目は嘘だと言って、と訴えていた。
「洸」
 首を振る入矢に絶望した洸がその場で崩れ落ちる。
「どうして、どうしてぇええ!!」
 入矢に抱きついて泣き始めた洸を入矢は抱き締めた。そして、耳元でそっと囁く。
「必ず、帰るから。待っていて?」
 泣き声が小さくなり、嗚咽をあげる少女は入矢の瞳を覗き込んだ。
「ほんと?」
「ああ。必ず、逃げ帰る。ここから」
「そろそろ、いいかい? 無事は確認できただろう? 入矢」
 入矢は振り返ってノワールを睨みつけると、立ち上がった。
「申し訳ないね。だけど、こっちも今日中に洸を返さないといけないんでね」
 ノワールはそう言った。二人の目線が剣呑なものとなるが、取り合えず従う。
「見送りなら付き合ってもいいよ。でも入矢は翹揺亭までは付き添えない、わかるね?」
「ああ」
 洸は入矢に手を引かれて暗い部屋から出てきた。明るいところで見ても洸の体に傷は残っていないし、不衛生な生活を強いられたわけでもない、ということがわかった。洸の金髪は艶を保っていたし、肌も荒れていない。食事もちゃんと取っていたようだ。
 入矢が手榴弾を投げつけたはずなのに火傷の跡はおろか、ノワールと戦闘したときの傷さえ残っていない。
「パテトン」
 ノワールが呼ぶと音もなく小柄な女がノワールの傍に現れた。その頃には屋敷の外にもう出ていて、入矢はこの前、といってもまだノワールも入矢も本性を隠していた頃に訪れた時の屋敷とは随分違うことを理解した。この屋敷はいたるところに禁術の気配があって、先ほどのような空間移動の禁術などが多数存在していることがわかった。ノワールがスペルを唱えていないことからしても、常時術が発動している状態といっていい。すると気をつけなければ入矢はこの屋敷から逃れることが出来なくなってしまう。まるで迷宮だ。
「さ、お別れの時間だ」
 ノワールがそう言う。もう一度入矢は洸と抱き合って、互いに見つめ合った。
「絶対よ」
「約束だ」
 二人でそう吐息の中で交し合う。その後、互いに求め合って情熱的なキスをした。何度も何度も顔の角度を変えて、濃厚な口づけを続ける。見詰め合った後に、お互いに頷いて二人は離れた。車に乗り込んだ洸を入矢は見えなくなるまでずっと見ていた。
「入矢さま、お屋敷にお入りください」
「嫌だと言ったら?」
「困ります。私どもはノワールさまの下僕に過ぎませんので、命令を聞けなかったとあらば、私どもが、罰せられてしまいます」
 パテトンのそばに控える男が丁寧な口調でそう告げた。
「でも、俺には関係のない事だ」
 ノワールの留守を見逃す手なんてない。入矢はそう言って跳躍した。三回跳んだだけでその身はすでに屋敷の屋根の上にある。ここまで身が軽い人間はそういない。翹揺亭の教育の賜物だった。
「逃がすな!」
 パテトンが叫んだ。そのとたんに、今までどこに隠れていたのか、ノワールが教育しているスレイヴァントが出てくる。数は30。倒せない数ではないが、各スレイヴァントの能力が未知なために、少し無謀ともいえた。この入矢の行動は当然、ノワールに読まれていたのだろう。分も悪い。入矢は大人しくパテトンの隣に降り立った。
「冗談だ」
 移動速度で最速なのは四人の稚児の中で咲哉だった。跳躍力は入矢、力は雪乃、禁術は洸が優れていた。最速の咲哉には及ばないが、入矢も足は速い方だ。だからといって自分を力を過信すれば、ノワールの屋敷からは逃げられないだろう。
 パテトンに案内された入矢の自室は入矢の感覚からすれば、屋敷の中央に位置する場所と言えた。きっと端にすればすぐに逃げられるかもしれない、という不安がノワールにあったのかもしれないし、違うのかもしれなかった。
 部屋は明るくて薄いサーモンピンクの壁紙で統一されていた。家具も白いものが多い。ノワールは安心するような、清潔感ある部屋を入矢に与えたいらしかった。しかし、部屋には窓がなかった。禁術を用いた通路は通ってこなかった。その中で階段は使わなかった。よってこの部屋の位置は一階にあり、しかも窓がないことから、外壁に繋がっていない、本当に中央に位置する部屋なのだろう。
 隣には部屋はなかった。一本道の廊下を通ってきたら、扉があって、すぐに部屋だったと記憶している。
「ノワールさまがお越しになるまでこちらでお待ちください」
 パテトンはそう言って部屋を後にした。入矢はまず、監視カメラの類から調べていく。
 まぁ、仮にも身請けした男を住まわせる部屋にそんなもの仕掛けていたらノワールの器の小ささに呆れて、早くも逃げる気になったことだろう。各壁や、扉などを叩いてその材質や、隣室の状況などを軽く確認すると、足音が聞こえてきた。
「部屋は気に入ってもらえた?」
「いや、悪趣味」
「どこら辺?」
「色」
 ぶっきらぼうにそういうと、ノワールは気にした風もなく、微笑んだ。
「好きな色に変えさせようか?」
「部屋を変えろよ」
「だめだね」
「何で?」
「君、逃げる気満々だろう? だから逃げにくい部屋にしたんだ」
 入矢は無言でノワールを睨みつけた。
「隣、私の部屋だから。物音ですぐにわかる」
「ふーん」
「そこの扉は、私の部屋と繋がっている。用があるときは呼べばいい」
「叩かれることはないさ」
 ノワールがそこで無言になる。入矢は満足そうに逆に笑った。
「着替えは? 俺、この服脱いでいいだろ?」
「もう脱ぐのか? 綺麗なのに」
「馬鹿。着物を長い間着てれば、それだけ皺が寄るだろ! どうせ、お前のところには、着物の世話まで焼いてくれる人間はいないんだろう? ……あ、言うな。雇うとか言うなよ。俺、自分でそれくらいはできる。逆に他人に任せてひどいことになったら困る」
 ノワールは笑った。その笑いは自然で、ノワールが今日見せていたような笑みではなかった。
「そうだね。着替えはそこに入ってる。好きにしてくれ」
 入矢は頷いて引き出しを覗いた。一通り覗いた後で、クローゼットも覗く。
「お前、なんで女物も入ってるんだ!」
 入矢はそう怒鳴った。
「だって、入矢が女かもしれないだろ? 知らなかったんだから、一応用意したんだよ、両方」
「お前! 俺が男でも女でも攫ってくるつもりだったんだな……いい度胸じゃねぇか」
「当たり前だろう。私は君に惹かれたんだ。性別は二の次だったんだ」
「お前、馬鹿だな。本当に馬鹿。そこまでする理由がわかんない。俺のどこが好きなんだよ?」
 呆れて着替えて、化粧も完全に落とした入矢をはじめてノワールは見た。確かに、翹揺亭に買われただけあって顔の造形は美しい。女顔に近いものだ。しかし、演技を止めたせいか、どこをどう見ても目の前の人間は少年に見える。女には見えず、今まで自分は何を見ていたのかとノワールは思った。
「入矢って男でも綺麗だな」
「当たり前だろ。男でも綺麗じゃなかったら男娼なんて務まらないじゃないか」
「いや、そうだろうが……」
 入矢は結い上げた髪を解いて、梳きなおすと自分で後に一つに纏めた。翹揺亭では色を売る者は支度をやってもらえるが、自分である程度できるというのも本当だったようだ。
「なんか、纏っている雰囲気に惹かれたんだ」
「雰囲気?」
「そう。翹揺亭に居た時と、今の入矢。姿は変わっても雰囲気は一緒だ」
 理解出来ない、といった表情をして、入矢は鼻を鳴らす。
「まさか、母親を感じたとか言うんじゃないだろうな?」
「さぁ? 私の母親は知らないからな。父親だって本当の父親じゃない」
「へー! 初耳だ」
 演技をしなくなった分、入矢の反応は感情がこもっている。稚児の時そうじゃなかったわけじゃない。でも、客の一人としてではなく、本当の友達のように話を聴いてくれているような気がした。稚児の時の入矢は美人で、聡明な印象だった。手は届くが決して触れてはいけない高嶺の花、そんなイメージがあった。話しかけることも、触れることもできるけれど、深く交わることは許されない。そんなイメージが。
 それは翹揺亭の誰にもあった。洸にも、咲哉にも、雪乃にも、一人前の娼婦、男娼にも。きっと御狐さまの教育なんだろう。それで満足できたか。答えは否。誰もが観賞できて、美しいと褒め称える。そんな花より、自分の部屋に咲く花であった欲しかった。
 例え、その結果枯れてしまうと分かってても。一瞬の儚さが欲しかった。
「私も入矢と同じように買われたんだ、幼い頃にね。それで自分の後を継ぐように育てられた」
「完璧な跡継ぎってわけ。ブルートさまに子供は居なかったのか?」
「妻が居ないんだ。それどころか、愛人も、恋人も。あの人は人を愛することができない寂しい人だった。子供なんているはずもない」
「じゃ、お前、その寂しい人の愛を唯一受け取ったやつなんだな」
 ノワールは驚いて入矢を見る。そんな風に考えたことはなかった。
「愛っても、親の愛だな」
「そう、ならば……」
 うれしいんだろうか。見方が変わっただろうか? もう、わからない。殺してしまったから。
「それを自分の欲のために殺すなんて、おまえサイテーだな」
「いいのさ。彼は自殺願望を持っていた。だからこそ、この仕事を継がせるために私を育てたんだから。自分の生命より仕事に愛着をもっていたんだろうな」
「自殺願望、ねぇ? 本当にソレ、ブルートさまから聞いたわけ? お前の勘違いじゃねーの? 寂しくて、誰かに一緒に居て欲しくて、信頼する人間が傍に居て欲しかったんじゃねーの? そう考えれば、ブルートさまは見る目がなかったんだな……俺と一緒だ」
 苦笑して入矢はノワールを見上げた。
「騙された? 私はいい人だと」
「まぁな。客として来るならサービス以上のことをしてやるつもりはあった、程度にな」
「構わないさ。これからそういう関係以上になる、はずだからね」
「誰がするか!」
 ベーっと舌を出して入矢が顔を背けた。かわいいなぁって自然に思えてしまったその自分の状態が、ノワールをとても安心させる。
 ノワールはやり方は強引で、色んな人を傷つけたけれど、入矢と一緒に居れる日常を手に入れたことに安堵と満足感を覚えていた。

 だけど。