毒薬試飲会 007

015

 その日、入矢は早速、ノワールの屋敷から逃げ出した。実際、入矢に与えた部屋はノワールの自室の隣の部屋ではなかった。入矢が逃げ出すとはわかっていたが、初夜から逃げ出すとは思っていなかった。しかも昼間、いい雰囲気だっただけに、予想外だった。
 入矢を初日から抱こうとは考えていなかったが、そう思われていたんだろうか。入矢は勘違いしているようだがノワールは入矢を大事に思っている。本当に大切に愛しんで過ごそうと思っていたのだ。
 逃げた、とわかったときからそんなに時間は経っていないはずだ。防犯用に仕掛けている廊下の監視カメラではそんなに逃げ出した時間に差はない。でも焦った。もし逃げ切られて、翹揺亭に帰ってしまったら……!
「これだけは、守ってくださいまし。身請けした者が、帰りたいと思って翹揺亭に逃げ帰るようなことがあれば、すっぱり諦めてくださいませ。これは貴方にだけでなく、身請けされる方、全員に申し上げていることです。離れても、家族は大事。その身の上を案じ、幸せに願う権利くらいはございましょう? ですから、入矢がもし、貴方の扱いや生活に耐えられずに翹揺亭に逃げ帰るようなことがあれば、入矢を諦めてくださいな。それでも入矢を諦めないなら、こちらも戦う覚悟があることをお忘れなきよう。お分かりいただけますね?」
 御狐さまはそう言った。入矢はソレを逆手に取ろうとしている。逃げ帰り、ノワールとの生活が耐えられないと御狐さまに泣きつけばいいのだ。通常と違うやり方で手に入れただけに、愛が芽生えていないこの関係なら言い逃れはできない。逃げられたら、そこで終わる!
 ノワールは車を急発進させた。入矢は所詮、生身で移動している。いくら速いといっても、距離があるんだから車でいけば追いつくはずだ。しかし、どうだろう。翹揺亭の娼婦を引き取るといつも驚かされるのはその身体能力の高さだった。跳躍力、パワー、速さ、禁術対応力、どれをとっても鍛える必要がない位に完壁なのだ。
 ノワールが見てきた中で、走っている速度なのに車と同じスピードで走れる男娼がいたのだ。入矢がもし、そうなら。空を駆けるノワールの車のスピードが一気に上った。その速さはちょっと障害物があったら避けられない、という速度だったがノワールにとっては関係のない話であった。その努力の甲斐あって、赤い髪が見えたときは安心した。
「入矢!!」
「ち!」
 入矢が舌打ちして疾走していたビルの屋上から飛び降りる。空中の車を撒くためと思われた。
「逃がすか!」
 ノワールはアクセルとギアを急に変えて、入矢を追った。入矢は追ってくると思っていたのか、なれた様子でビルに跳躍し、疾走を続ける。その動きは見事としか言えなくて、逃げられているのに感心してしまった。
 だが、ノワールだって負けてはいない。ここで逃げられたら父を殺した意味さえなくなってしまうのだから!! ノワールはギアを変えると運転を自動切換えにして、スピードを落とし入矢の視界から消えていく。入矢が上、下を見てどこに行った? と探している間に捕縛の禁術を放った。
「くそ!」
 暴れる入矢を車に押し込んでノワールの屋敷の帰り道を安全運転で帰る。入矢は捕まった途端に無理だと諦めたのか、大人しくなった。
「何で、逃げる?」
「教えてやんないよ」
 その言葉にむっとしたノワールは屋敷に着くまで入矢と話すことはなかった。
「ちょっ、やめろ! 放せ、下ろせよ!!」
 屋敷についてもノワールは捕縛術式を解く事はなく、入矢の身体を肩に抱え上げた。
「お帰りなさいませ、ご主人様、並びに入矢さま」
「ああ」
「無事のご帰還、おめでとうございます」
 パテトンがそう言ったのも無視して、ノワールは屋敷の中に入っていく。入矢は肩に抱かれたまま屋敷の中に入り、与えられた部屋には戻らず、空間移動の禁術が用いられている廊下をいくつも通り抜ける。回廊のような、迷路のようなコースに入矢はちょっと場所の把握が難しくなった。しばらく小脇に抱えられて入矢はノワールが足を進める場所を見た。随分広い。もしかしたら屋敷の別の棟に移ったのかもしれない。そう思っていたらノワールが足を止めた。
 手を翳し、赤い光がノワールの手のひらを撫でていく。ピピっと電子音が鳴って、何もない壁に扉が現れ、自動的に開いた。ノワールはそのまま、部屋の中に入る。入って数秒後に自動的に扉が閉まると真っ暗な空間に入った。この部屋のことをもちろん知っているノワールは電灯に明かりをともす。
 入矢はやっとノワールから下ろされた。部屋は今度はブルーグレーに統一された、少し寒々しい感じのする部屋だった。
「君が悪いんだよ。逃げたりするから」
 無言で禁術が解体され、入矢は自由に手を動かした。
「この部屋は、私の指紋でしか開閉できない仕組みになっている。だから、もう、君はこの屋敷に居る限り、私以外を目にすることはないと思ってくれ」
「監禁するのか? ずいぶんな扱いじゃないか!」
「君が逃げるからだよ。まだ一日なのに、ひどい扱いもしなかった。なのに、逃げたということは私に落ち度があった訳ではない。ホームシックには速すぎる。……最初から逃げるつもりで身請けを受けたね。そうだろう?」
 苦虫を噛み潰したような表情をして、入矢は吐き捨てる。
「そうさ! そっちが無理矢理俺を身請けしたんだ。洸のことがなきゃ、誰が受けるかよ。俺が納得していないのに、わざわざ受けたんだ。最初からこんなところ、逃げ出してやるよ!」
「そうか! じゃ、なおさら逃がす訳にはいかないな!」
 睨み上げる挑戦的な入矢の目を逸らさずに、ノワールは入矢をベッドに突き飛ばした。
「な! ヤるつもりか!?」
「残念、期待した?」
「するかっ!」
 押し倒して、そのまま、抵抗する入矢を押さえつける。
「私はロマンチストで紳士的だから、無理矢理は一応、好まないんだ。セックスは同意の上でって決めてるんでね。君はすでに私のものなんだしね」
「へー。ありがたいことだな。でも、それじゃ一生セックスは無理。俺、同意しないもん」
 無理矢理強気に笑う入矢を見下すノワールはちっとも目が笑っていない。そう入矢が思った瞬間、すぐ近くでカシャン、という金属音が響いた。次の瞬間に冷たい感触が得られる。
「な! お前、何を??」
 入矢は目を見開いた。金属製の首輪が恐らく嵌められているのだろう。見えないが感触でわかる。そうして首から伸びている銀色の鎖の先はノワールの手に握られていた。
「逃げる気満々なんだろう? 私がこれからどんなに優しくしても、愛しても……違うかい?」
「……だからって、この扱いは!」
「逃げたことを私が怒っていないとでも?」
 ノワールが真顔でそう、呟いた。
「確かに、私は卑怯で最悪な手を使った。そうして君を手に入れた。だから、逃げようとしていることはわかっていたよ。でも、まさか初日から、しかも君を求めてもいないのに逃げられるとは思っていなかったんだ」
「元は友達だったからって、友達ごっこを続けて欲しかったとでも? お前が俺に対する態度を変えた。なら、俺だって変わるのは当然だ。俺はもう、お前を好きじゃない。……大嫌いだ」
「そう……か。本当はね、そう言われるってわかってたんだよ。だからこそ、君を監禁して、私なしでは生きていけないように調教してもよかった。なんでしなかったかわかるかい?」
 ノワールは鎖を伸ばして、部屋の止め具に鎖の先を固定する。
「ロマンチストで紳士的だから、だろ?」
「違うね。御狐さまと約束したこともあるけれど、一番は君に笑って欲しかったからだ。そんな生活を強いてみろ。私が望む笑顔なんて見られなくなるじゃないか」
 入矢はノワールを睨み返して、言い放つ。
「結局、自分の為じゃねぇか。自分を庇護した言い方はよせよ」
「そうだね。でも、これが本音だ。もう逃げないと誓えるなら、この扱いも止めるし元の部屋に戻す。この部屋には最低限のものしか用意してない。あの部屋と違って、ね」
 売り言葉に買い言葉、入矢はまだ十三歳。状況を把握し、それに一番適切な態度を取るには精神的に未熟で、経験を積んでいないといえた。だから、こう言ってしまったのだ。
「せいぜい、俺を手に入れた気になってればいい。俺はこんな鎖、断ち切ってまたすぐに逃げ出すぜ」
「逃げる気満々だね。じゃ、逃げる気が失せるようなことを教えてあげようか?」
「……な、なんだよ」
 何を言われるのかと身構える入矢にノワールは笑った。
「チェシャ猫って知ってるかい?」
「ああ。会ったよ。あの変なヤツだろう?」
「君たち稚児は許された時しか翹揺亭を出れないんだから知らないだろうね。彼は不思議の国の住人なんだ」
「不思議の国? ……もしかして、古典の童話のアリスのワンダーランドのこと?」
 記憶を引っ張り出して尋ねた入矢にノワールは頷いた。
「この土地の第三階層から第一階層までの間には不思議の国の登場人物の名前を名乗っている人間がいる。そいつらを不思議の国の住人と呼んでる、勝手にね」
 その童話なら入矢も習ったことがあるはず。結局夢オチの話だが、その世界観は興味をそそられるものだった。そういえば、チェシャ猫も出てくる。
「君も何人か会っているだろう? 第二階層にいるのはマッドハッターと三月ウサギが有名だね。他にもハートのキングとクィーンもいる。そうだろう?」
「マッドハッターたちになら会ったことある。でも、そのほかは知らない。兄さん、姉さん方は知ってるって仰ってた」
「私もまだ全員と会ったこことはない。まぁ、チェシャ猫ももちろん、不思議の国の住人の一人なんだが、不思議の国の住人は自分からアリスに出てくるキャラクターを名乗ったのかどうか知らないが、共通して言えるのは、どいつも飛びぬけてすごい能力を持っているってことが言える」
 一回、ウラの仕事がかち合った時に遭ったマッドハッターは恐ろしく強かった。兄さん方にもあいつらに遭ったら手を引けと言いくるめられていた。
「チェシャ猫はマッドハッターたちと違って本業は案内人(ナビゲーター)。彼は金を積み、彼の気が合えば、第一階層にさえ案内してくれるという。知っているかい? 第一階層に案内なんて真似、できるのは彼だけだよ」
「嘘だ。第一階層は選ばれた人間しかいけない。だから、禁じられた遊びがあり、金があるんじゃないか! 騙されてるだけじゃないのか?」
 快楽の土地は快楽にまみれて自由を愛する土地だ。でもどうにもならない問題もある。ソレが、金と実力だ。金と実力がなければ、第一階層に行くことはできない。
 第一階層に行きたがるやつは大勢居る。未知の世界への興奮ってヤツだ。階層間は自力で越えることが不可能ではない。でも、第一階層と第二階層の間の階層越えは不可能で、今まで成功した者はいない。選ばれた人間の前に階層エレベーターの場所が教えられるとも、第一階層の人間がスカウトしに来るとも言われていて、行き方も謎だ。
 でも行けないかというとそうでもない。禁じられた遊びの頂点に立った者は第一階層へとその姿を消していくことが多い。だから行きたい人間は禁じられた遊びに手を出す。
「証拠なんて関係ないじゃないか。信じられているからこそ、真実味を帯びて語られているんだし、それが事実なんだそうだ。チェシャ猫のすごさはわかってもらえたな?」
 あんなすごいヤツだったのか!
「つまり、不可能を可能にできる男なんだな?」
「そう。そのチェシャ猫に私は依頼をした。決して翹揺亭の人間を私の屋敷に案内しないようにと」
 入矢は一瞬で理解した。どこでも案内できる案内人。それに案内しないように頼むということは、翹揺亭の人間は誰一人、ノワールの屋敷に行き付くことができない、そういうことだ。
「じゃ、俺が逃げるしかないってことか」
「そう。そしてもうひとつ、教えてあげよう」
 ノワールはそう言って話し出した。
「御狐さまと身請けするときの約束事として、身請けされた者が望めば翹揺亭に戻ることを許すと誓った。でもね、今回のことで逃げたいに決まっているんだから、それはどうかって言ったんだ。そうしたら、御狐さまはこう、仰ったよ。『なら、こうしましょう。入矢が逃げたがっているのは認めましょう。ですから、貴方が入矢にひどいことをしない限り、翹揺亭は入矢に手を貸しません。もし、入矢が貴方の屋敷から逃げ出して、翹揺亭の入口をくぐり、私に助けを求めない限り貴方のところから逃げることを認めません。つまり、入矢が独力で翹揺亭の敷地に入れば、入矢の身柄は返していただきます。しかし、敷地を一歩でも跨がなければ、例え、翹揺亭の目の前であっても、貴方は入矢を連れ帰ることができる。これで如何でしょう?』とね」
 入矢もさすがに絶句する。
「これは私と君とのゲームだ。君が翹揺亭に駆け込めれば君は自由。ソレを阻止できれば私のもの。そういうゲームさ。だから、君が逃げるなら私は追うよ。必ず君を連れ戻す」
「なら、逃げるだけさ」
 入矢は苦笑いの中に挑戦的な目を含ませてノワールに言った。
 その言葉どおり、鎖をどうやったのか知らないが断ち切って入矢は逃げ出した。ノワールが仕事中なのを見計らって決行されたために、ノワールは焦った。
 入矢は逃げてやる、と言った言葉通りに本当に逃げた。鎖を替えても、禁術を用いても、手枷と足枷をつけても部屋を変えても、何度も何度も逃げ出した。その度にノワールは言いようのない怒りと恐怖に苛まれる。入矢は自分と話している時はとても穏やかだ。逃げる気なんてさらさらない様子で話してくれる。その態度はまた親友に戻れたようでうれしいし、確実に距離は近づいたと思うのに、逃げてしまうから、一方通行なんだと認識しなおさなければいけない。それが入矢お得意の演技なのか、それとも素なのかノワールにはわからなかった。
 そんなゲームを気付けば一年以上もしていて、入矢はとっくに初物を捧げる15歳になっていた。入矢だって焦っていたのかもしれない。もし、帰るなら若いうちでないと男娼として売れなくなると思っていたのかもしれない。
 時は流れ、ノワールの愛は入矢に伝わらないまま、気付けば本当はしたくなかった監禁状態になっていることにノワールは気付けなかった。入矢がいつまでも反抗的な目をしてくるから。また、逃げてやるとその声で囁くから。入矢の首には禁術と金属を融合させた首輪がついていて、鎖も禁術を幾重にも使ったもの。手枷は指の一本でさえ自由に動かせないものになっていて、足枷は足首だけでなく、太腿にもつけた。入矢は自分では動けない。だから、入矢の口元に毎回食事を運び、入矢の入浴も監視して、排泄でさえ、自由に行わせなかった。
 入矢とノワールの間には会話はどんどん少なくなり、ノワールが望んだ笑顔は消えて、憎しみの目だけがノワールを見つめる。それでもノワールは入矢を抱かなかった。
「お前、本当に俺が好きなのか?」
「ああ。愛していると言っただろう」
「そうか」
 入矢は池の淵に群がる鯉のようにスプーンを口元に持っていけば大人しく口を開けた。
「水は?」
 入矢が物を咀嚼して飲み込み、目で強請る。ノワールは頷いて水をまず、自分の口に含んだ後、唇を重ねて、入矢の中に流し込む。水を嚥下して動く喉はここに来た時より、太陽に当たっていないから白くなった。身体の線は細くなっている、確実に。
「なぁ、いつまで続けんの? こんなこと。俺は生きているおままごと人形じゃないんだぜ」
「君が逃げないって誓うまでだよ」
 一口サイズに切った肉片を入矢が大人しく食べるさまをノワールはずっと見ている。
「お前、仕事は? 最近ずっと俺に構ってばっかで一日中、ここにいるじゃないか」
「君が逃げ出すからだよ。私の仕事中に。仕事は休みだ、ずっと」
 皿が空になったのを見計らってノワールは洗面台に入矢を連れ出す。歯ブラシを用意すると、もう、行動パターンを教え込んだせいか、抵抗することなく入矢は口を大きく開けた。白い歯が並ぶ。喉を突かないように、舌を刺激しないように歯磨きをする。入矢の口腔内を白い歯磨き粉の泡が蹂躙していく。あらかた磨き終わったところでコップの水を口元に持っていく。大人しくうがいをさせると、ノワールは入矢をベッドに連れて行った。
 ここに入ってから入矢には時間感覚が失せてきた。人間は体内時計を持っているが、それは25時間計算だという。日々太陽の位置や時計を確認することで体内時計を24時間に修正するのだ。だがそれができない入矢は体内時計がずれていくのを感じていた。人は時間を気にしなくていい空間、時間がわからない空間に居続けると、体内時計の進み方はゆっくりになるという。
 ノワールは食事を与える時間を決めているわけではないようだから、この時間が分からないところに行き着いてから何日間立ったのか覚えていない。最初はどうにかわかろうとしてものだが、所詮無理。ノワールもほとんどの時間をここで過ごしているんだから、ノワールの体内時計だって正確だとは言い切れない。この前逃げ出した時から一体どれくらいの時間が経っているのか。
「なぁ、お前って今がいつかわかるのか?」
「この部屋を出ればわかる。でも、今の私には関係のない事だ」
 ノワールは飽きることなく入矢を見つめ続ける。その様子はおかしいと思う。ノワールは病的な瞳で入矢を観察し続ける。ずっと、ずっと見られている。その恐怖が入矢を発狂させようとする。
 でも、思いとどまった。会話すればまともだから。まだ、入矢が知っているノワールだから。騙された。陥れられて、この身を買われた。だから逃げた。そうして監禁された。
 それでも何故か入矢は心の底からノワールが嫌いになれない。口ではキライって言える。憎いと心底感じることもある。でも、最終的にまだ、ノワールのことキライになりきれない。憎みきれない。
 おかしいじゃないか。自分はこんな扱いを受けているのに。心のどこかでもう一人の入矢が囁く。
 ――もう、諦めてノワールの物になってしまえと。
 その言葉に頷いて、この苦しい扱いから開放されたい。そう思う度に、洸の姿が見えるんだ。洸に絶対帰るって約束したことを思い出す。そうして、翹揺亭が見えてくるんだ。だから、逃げなくちゃって、思い直すんだ。
 入矢はノワールがじっと見つめる中で無理矢理寝ようとする。ノワールの目が開いている時は、入矢は自由に視線を動かすこともできない。逃げようとしているってばれたら、隙がなくなる。あくまでも、ノワールの寝ている時間に起きて、活動しなくては。
「ノワール、俺、腹減った」
 最近は時間感覚がおかしいから、ノワールも入矢も空腹を感じないと食事をとろうとしない。本来一日三食の生活だったのに、入矢は知らないが三日に1食のペースになっていた。
「わかった。用意する」
 ノワールはそう言って部屋を出て行く。ノワールが食事を用意するための時間は入矢なりに理解した。人間には脈拍という時間を計る不正確なものがある。ノワールが食事を用意してくるまでの間はどれくらいの時間か正確にわからないが短いものであることは確かだ。入矢はノワールが食事を用意する間を何度も重ね、ばれないように逃げる算段を整える。
 禁術解体はうまくなった。禁術を完全に解体しないで、気配を残し、最後の一撃で完全に解体する方法を覚えた。だから、ノワールはまだ、入矢の身体を拘束するものが有効と信じている。そして、自由になったら、この部屋から出る用意も必要だ。だから何日もかけて入矢は出口を作ってきた。そういう理由でノワールは毎回部屋を変えなくてはならない。
 入矢は逃げるための準備を怠らない。今、ノワールは入矢に逃げられないように、ノワールの虹彩と指紋でしか開閉しない扉を持つ部屋に入矢を監禁している。だからこそ、この部屋にはノワールしか入って来れないし出れない。しかも、彼は入矢がどうやって、いつ逃げる様子を見せるか一日中見張りたくなり、入矢と同じ部屋に籠る様になった。
 ノワールは仕事もあれば、入矢のような生活を送れる人間でもない。当然、部下が呼びにくる。ノワールの行動を諌めたりする。それをわずらわしいと思ったのか、ノワールは部下をこの部屋に近寄らせなくなった。それが逆に好都合。逃げたことがノワールがこの部屋に帰ってくるまでわからないのだ。入矢が逃げた事が。
 準備は整った。入矢はノワールが出て行ってすぐに体の拘束具の禁術を完全に破壊する。金属は禁術と併用されたため、普通のものより脆いことにノワールは気付いていないだろう。手足を自由にした入矢は用意していた出口を空ける。禁術なんか用いたら、ノワールに気配でばれてしまう。だから、部屋の材質を知り、構造を知って、入矢は出口を作る。
 電気が通るってことは天井かどこかしらの壁は配線工事のために絶対に厚い壁にはならない。そしてそのための空間があるはず。音でそれを知ることができるのだ。それを知っているから、入矢が出口を作ることができる。
 入矢は屈伸を二、三回行い、身体を思いっきり伸ばすと天井に向かって飛び上がった。跳躍力は自慢だった入矢だ。満足に運動もできないこの状況では体力は下がってるだろうが、逃げられればいい。
 入矢は逃げ出した。音も気にせず、天井裏を疾走する。ウラの仕事で鍛えただけあって狭い場所の迅速な移動は可能だった。ずぐに部屋を離れたとわかった瞬間、天井を蹴破って何かしらの部屋に降り立つ。今回はラッキーなことに廊下だった。だからそのまま感覚に任せて進む。
 あまりに多く逃げる回数を重ねたことで、この屋敷中にある移動禁術は気配でわかるようになった。階段が突き当たりにあり、勘に任せて上に上る。すると、扉があったので取り合えず開けた。
「うわ!」
 眩しさに目が眩んだがそれは一瞬のことだった。一応、蛍光灯の元で暮らしてはいたから。でも、これが太陽の光だと、いや快楽の土地だから、人工太陽の光とわかった瞬間に喜びが満ちた。力がわいてくる気がした。
 そろそろ、ノワールが部屋に戻るはず。入矢は状況を把握する。太陽の光が突然見えたということは、今までどの場所でも窓がなかったのは地下だからだろう。
 快楽の土地は階層ごとに地面が違うが、どの階層も階層地盤は厚くて数千メートルあるといわれている。金持ちが自分の屋敷に地下を持つことも可能だし、地下街もあれば地下鉄だってある。地下を持ってることは不思議ではない。
 ノワールは今まで入矢を地下のどこかに閉じ込めたいたのだ。ノワールは追跡に車を使うだろう。空から行けば見つかる。でも、地上からいけば見つかりにくいかと言えばそうでもない。
 入矢は屋敷の外にでると、広大なノワールの屋敷の地基地内を一直線に抜ける。屋敷の庭は広いから、すぐに見つかってしまう。取り合えず、敷地外に出なくては。
 入矢は敷地の外に全力疾走すると、物陰に隠れ、身体のどこかに発信機の類はないか、禁術の気配はないかを確認した跡で、禁術を用いる。入矢だって禁術はランク3位使いこなせたのだ。
『ニクス、ネクス。イザ、ヴァラライクァ、アーデン。キリシキリシ、ヴァラライカ、ラーデン!』
 そう叫ぶと入矢の髪は黒髪に変化する。入矢はそれを確認すると走り出した。できるだけ、人ごみの多い道の裏道を全力疾走する。屋敷からはもう、何回も逃げ出した。どの道を通れば近いかわかる。
 ノワールはもう、探しに来ているだろう。見つからないようにするためには、入矢とばれないようにするだけだ。最初の頃は屋根の上を疾走して、最短道を疾走していた。でも、最近はノワールの監視のおかげで体力も下がって、限界がある。
 ここからは追いかけっこ+かくれんぼだ。ノワールは入矢が通る道を先回りしているに違いない。ここから翹揺亭が立つジャッポーネアベニューまで、今回は逃げ切れるか。そうだ、今まで思いつかなかったけれど、地下鉄を使ってみよう。
 お金がないから無賃乗車になるができるかもしれない。入矢は地下鉄入口を下りていった。

 派手な音を立てて、食器が砕け散り、中の食事が散らばった。汚れた床を気にすることもなく、ノワールは身を翻す。
 どうやって逃げ出した?? 今どこまで? 食事を用意するのにかかった時間は15分程度しかないはず。ならそんなに遠くには行っていないか? どうなんだろう。
 ノワールは階段を駆け上る。地下には誰も入るな、と言ってあった。時々掃除婦が訪れるだけ。
「パテトン!! パテトン!!」
「お呼びでしょうか?」
 耳元につけた通信機からすぐさま返事が聞こえる。
「入矢が逃げ出した。見つけたものはいないか??」
「すぐに調べさせます」
 ノワールの足は自然と駆け足になっている。そのまま屋敷の外に出て車に飛び乗った。浮上する車を感情に任せて発進させる。
「見かけたものはいないとのことですが……如何……」
 パテトンの通信機から聞こえていた声がブツっとノイズ音にかき消される。
「よォ。ノワール」
「チェシャ猫!!」
 いつの間にか少年が助手席にゆうゆうと腰掛けている。
「なァ。俺、飽きたんだけど、いつまでここのお守りしてりゃァいいんだよォ?」
「今忙しい! 後にしてくれ!」
「だってェ、お前最近ヒッキーだからさァ、契約の解消のお話さえも伺えないワケ、わかるゥ?」
 ニヤニヤ笑う少年を睨んでノワールはアクセルを踏んだ。
「うるさい! 今!!」
「知ってる。入矢が逃げ出したんだろォ?」
 ノワールが目を見開いた。そして、口元をゆがめて笑う。
「チェシャ猫ならわかるな。入矢の元に案内してくれ」
「イヤだね」
「っ!!」
 意地悪く言ったチェシャ猫を殺さんばかりの目で睨みつけ、ノワールは怒鳴った。
「案内しろよ! それがお前の仕事だろうが!!」
「違うね。俺のオキャクサマは俺が選んだヤツ。今回の件はお前は俺の客じゃない。っていうかー、お前、わかってんだろうなァ? 俺にそんな態度を取ると痛いことになるぞォ?」
 チェシャ猫はそう言ってニタニタ嗤うとすぅっと消えていった。ノワールはハンドルを叩きつける。
 ここで冷静な判断力があったなら、ノワールは入矢が使った禁術の気配が読めたに違いない。でもノワールにはそんなことを考えている余裕はなかった。

 入矢は無事に地下鉄から抜け出すとジャッポーネアベニューの地下街を歩き出した。どの出口を出れば翹揺亭に一番近いか知っている。なら、地上なんて危険なのに出ないに越したことはない。
 入矢はそれでも顔を隠し、足早に翹揺亭を目指した。
 見つからない、見つからない!! ノワールは焦りの頂点に達していた。どこを探しても入矢の赤い髪が見つからない。入矢は赤く長い髪をしている。赤い髪は珍しくて目立つはずなのに、全然いないのだ。
 裏道か? 裏道は出店が多くて屋根が邪魔をして上から入矢を探せない。体力があったとは思えない。すでに翹揺亭に着いているってことはないだろう。翹揺亭の目の前で待ち伏せさせてもらおう。危険な賭けだが、店に一歩でも入らなければ、こちらの勝ちなのだから!

「アイツ、来てる」
 洸は翹揺亭の窓から空に浮かぶ車を睨んだ。咲哉も頷く。忘れるもんか。あの日、入矢を乗せて走り去った車。アイツの車だ。降りてくる気配はない。入矢を一緒に乗せているわけではないのだとしたら、洸と咲哉は頷きあった。
「入矢が逃げ出したんだ」
「なら、迎える準備をしなくては」
 洸も咲哉も色を売る仕事をこなしつつ、待っていた。入矢が帰ってくるのを。入矢はいつまでたっても帰ってこないどころか、音信普通だった。怖かった。入矢がアイツを好きになってしまって、洸のことなんか、約束なんか忘れてしまったんじゃないかと。でも待った。
 御狐さまはノワールとした約束を教えてくれた。入矢がこの店に一歩でも足を踏み入れ、逃げてきたと、そう言ってくれさえすれば翹揺亭は入矢を迎えに行くと。入矢を取り戻してくれると。今度は戦うと。
「見えたぞ。あいつ、ひどい顔だ。絶対入矢に逃げられたんだね」
 咲哉がそう言う。入矢は忘れてなんか、なかったんだ。
「入矢は今どこに?」
「探そう。あいつは見つけられなかったんだ。ってことは、ここで待ち伏せしているんだろう。入矢を裏口から入れてしまえばいい。何も正面玄関から帰るなんて約束は、なかったんだから」
 洸が着物を脱いだ。咲哉も同じくそうする。そして、裏方の者に告げた。入矢が帰ってきていると。裏方の子供が目を輝かせて駆けて行く。
「そこで見ているがいい。今度はこっちの番だ」
「ジャッポーネアベニューで育った私たちにお前なんかが敵うものか」
 洸はそのまま翹揺亭の自室を抜けて、裏口に出る。そこから洸は思いを馳せた。昔、まだ色気の欠片もない子供のころに、皆で隠れ鬼をした。何度も。入矢は派手な髪の色を自覚しているらしくて、いつも上手い隠れ場所を見つけていた。いつも途中まで一緒に逃げて、洸とそう、変わらない場所に隠れていたんだっけ。
 洸が見つけられたら入矢も見つかってた。入矢が見つかる時は洸も見つかって。でもどっちかが鬼になったらまず初めに見つけていたな。
 洸は入矢と特に仲がよかった。いつでも一緒だったんだ。だから、今度も見つけて見せるよ。貴方の隠れる場所なんて私には丸見えなんだから。洸はそう心の中で呟いて地下街に下りていった。
 佐久は騒ぎを聞きつけて、自室の窓から様子を眺めていた。入矢が帰ってきたという。店の正面にはノワールの車が浮かんでいる。営業妨害この上ないな、と佐久は呆れた。
「馬鹿だね。あれじゃ、入矢に居場所を教えるようなものじゃないか」
「お前は入矢に帰ってきて欲しくない、そう聞こえる発言だな」
 佐久を背後から抱き寄せて漆黒、その言葉が似合うような男は低く囁いた。
「違うよ。入矢には帰ってきて欲しい。でもね、幸せにもなって欲しいんだ」
「だから、取り戻そうと躍起なんだろう? 洸たちは」
「黒鶴」
「なんだ?」
「なんでもない」
 佐久はそう言うと、黒鶴の上に圧し掛かる。黒鶴はその白い身体を抱き締めた。
「俺達は、手助けに行かなくてもいいのか?」
「俺ら寝間作法真っ最中だよ? だから稚児も呼びに来なかったんだろ」
「そうだな」
 黒鶴はそう言って微笑むと佐久を優しく押し倒した。佐久は窓の外を眺めている。今日はもう、訓練どころじゃないな、と内心で笑って佐久を無言で抱え込んで座る。外の様子を眺めながら。