毒薬試飲会 007

016

「みーつけた」
 入矢の耳になつかしい声が聞こえた。恐る恐る振り返る。金色の長い髪に蒼い瞳。
「ほ、のか……?」
 入矢は幻覚を見ているんじゃないかと手を伸ばした。頬に触れる。暖さがあった。
「洸!」
 今度ははっきりと、入矢は洸を呼んだ。入矢は目から涙が溢れているのに気付いた。
「あれ、俺なんで泣いて……?」
「行こう」
 抱き締めた身体は温かい。入矢は頷いて手を握り返した。入矢は帰ってきたっていう実感を得られた。洸と手をつなげる。また、元の生活に戻れるんだ!
 ――だから、安心して、気を抜いてしまったのだ。
 洸は入矢の姿をまじまじと見た。髪は伸びっぱなしのようだ。その長さは異様に長い。膝の裏ほど伸びた髪は手入れはされているようだが、髪の生え揃い方を見ても、定期的に散髪していない証拠だ。それに白くなった。入矢は男だから洸に比べると色が黒かったのに、今は洸よりも色白だ。しかもその白さはなんとなく病的な白さといえる。
 それを裏付けるかのように入矢の身体は細い。筋肉が落ちている。これは自由に動けなかった証拠だ。普通に日常生活でも動けるならここまで筋肉は落ちないだろう。足の筋肉をみればよくここまで来れたな、と感心する。
 一番許せなかったのが首輪だ。金属の首輪には鎖までついている。途中で切れているのは入矢が逃げるために切ったのだ。恐らく、入矢は犬の様に鎖につながれた生活を強いられていたんだろう。逃げるのも一苦労だったはず。
「髪、どうしたの?」
「禁術で、変えた。目立つと思って」
「そっか」
 ここは禁じられた遊びの会場じゃない、通常空間での禁術は体力を激しく消耗する。入矢の呼吸が荒い原因の一つはコレだろう。それでも体力が足りず、禁術は解けかかっている。毛先が彼本来の赤色に変わってきていた。禁術が解けてしまうのも時間の問題。
「アイツ、正面玄関の前にいるから、裏口から入ろう?」
 入矢は頷いた。今、握っている手は冷たい。入矢の生活の過酷さを物語っている。こんな扱い、翹揺亭は絶対に許さない。普通ならとっくに取り返しているところだ。それができなかったのも、チェシャ猫のせいだ。あいつのせいで誰一人、入矢の下には行けなかった。
「ここから地上だ。気をつけなきゃ」
 入矢はそう呟いた。
「大丈夫だよ。翹揺亭の皆が入矢を待ってる。咲哉も地上で待ってるよ」
「そう、か。咲哉も……」
 地下出口から入矢は上空を見上げる。確かにノワールの車が止まっていた。出口から翹揺亭の裏口までは距離がある。正面玄関の方が距離的に近いが、あれではばれてしまう。距離があっても裏口に回った方がいい。入矢は頷いた。
 その時、入矢の髪にかけていた禁術が限界を迎えて一気に解ける。黒髪が鮮やかな赤髪に変わった。入矢が目を見開く。それと同時にノワールが禁術の解けるかすかな気配を感知して、入矢のその姿を見つけた!
「見つけた!!」
「走って!!」
 洸が入矢の手を引いて走り出す。ノワールが叫んだ。
『拘束と言う名は汝にこそふさわしい。汝は縛り名、汝は拘束具、汝は束縛する者!いかなる手段をもってしても、汝の望みに逆らうことは叶わない。汝の名は、縄!!』
 車の上から禁術で編まれた縄が入矢目掛けて落ちてくる。
「やらせるもんか!」
 咲哉が叫んだ。咲哉の口から禁術解体の言葉が編まれた。
「入矢!」
『そなたは寒風から守る堅固なる壁。振動に震えてもその存在が揺らぐ事はない、そなたの名は檻!』
 咲哉の言葉か、禁術か、気配を感じ取ってノワールが禁術を放つ。大地が揺れて、道路の一部が隆起し、入矢を取り囲む。洸はそれを見て、入矢を抱えて跳躍する。
 ノワールは舌打ちして、次の禁術を編み出す。そのスペルが唱え終わるのを待たずに洸が放ったものは刃。入矢に気をとられていたノワールは肩に短刀が深く突き刺さる。ノワールは洸を睨みつける。
「入矢を取り戻すためのゲーム、あんたに攻撃しちゃいけないとは言われてないわ」
「貴様!」
 ノワールの目が感情を映さなくなった。本能で入矢は危険を察知する。
「洸! 危ない!!」
「シ、ネ!!」
 ノワールも口から紡ぎ出されたのはたったの二文字。呪いの言葉。しかし次の瞬間に何もないところから禍々しい赤い光があふれ出し、一気に洸に向かった。
「ダメだなァ」
 赤い光を受けた瞬間、入矢と洸は自分の死を感じた。が、特に何もない。そう思った瞬間に激痛を感じる。視界が開けたので辺りを見渡すと、赤い光はどこにもない。辺りは何も変わっていなかった。しかし、身体は全く動かない。
 激痛は一瞬だったが今はフルマラソンを終えたときのように全身が疲労に襲われて指一本動かせないのだった。赤い光はどうなったのか、自分たちが受けた攻撃はなんだったのか、あの時聞こえた声は誰の声だったのか、入矢はわからなかった。すぐ傍に洸も、咲哉も倒れている。
 動けない入矢のもとに、黒い靴が映った。
「帰ろう、君が今回も負けたね」
 ノワールがそう言って、入矢を抱きかかえた。
「ま、ちな……さいよ」
 洸が唸る。身を起こせないようだが、目だけはノワールを睨んでいた。
「あんた、に、入矢を任せ、られないわ!」
「ゲームは今回も私の勝ちだ。文句は言わせない」
 ノワールが洸を見下す。しかし、洸はひるまない。
「何よ、その首輪。入矢の様子見ればどんな、扱いうけていたかわかるのよ。身体は痩せて、筋肉は落ちてる。手には拘束具の痕があって、禁術をまともに一回も発動できない位の体力のなさ。あんた、入矢を身請けしたくせに、その扱いはなんなのよ!! 契約違反だわ!!」
 ノワールの目が怒りに染まる。事実を言われてカッとなったのだ。
「それに、髪だってそう。そんなに長くて長さが揃っていないなんて、散髪さえしてあげなかったんでしょう? 体を見たら、どんな痕が残っていることやら! ねぇ!!?」
「ああ、散髪か。……入矢が望まないから忘れていたよ」
 ノワールはそう言って、腰からナイフを抜くと入矢の髪をつかんで、その場でブツリと切った。赤い髪を洸の頭の上に撒き散らす。
「あ、ああ……!! 俺の、髪、が……!」
 入矢が目を見開いた。その表情は洸も一緒だ。長い入矢の赤い髪は首の付け根で切られ、切られた髪がまるで刈り取った雑草のように洸の身体の上に捨てられた。
「やっぱり素人は下手でダメだ。いつか、美容師を呼んであげるよ、入矢」
 入矢をそのまま抱きかかえて車の乗り込むと、ノワールは翹揺亭の下を去って行った。
「ちくしょう! アイツ、入矢になんてことを!!」
 洸が叫んだ。
「さすがに、ひどいな。もう、傍観はしてらんないな」
 洸の上にも散っている入矢の髪の毛を拾って佐久が呟いた。動けない洸を黒鶴が抱きかかえる。
「佐久にいさん、黒鶴にいさん」
 佐久はノワールの屋敷の方角を睨んだ。
「そうでしょう、御狐さま」
「ええ。さっきチェシャ猫はうれしい情報をくれたしね」
「御狐さま!!」
 弥黒に抱えられた咲哉が驚きの声を上げた。
「少々、お戯れが過ぎるご様子。翹揺亭の約束事、守っていただくと仰ったのですから、こちらもそれ相応の対応をしてもよろしかろう、とのご判断。そうですね? 御狐さま」
「ええ」
 弥白の問い掛けに御狐さまが頷いた。洸と咲哉の目にも希望が灯る。
 御狐さまの部屋に戻って咲哉と洸、それに雪乃も交えて、御狐さまのお話を伺う。御狐さまの部屋にはもう一人、珍客がいた。
「よォ」
「チェシャ猫!!」
「もう、契約は解消して、我ら翹揺亭の者をノワールの屋敷から遠ざけることは本当に止めていただけますね?」
「そう、さっきも言っただろォ? アイツは俺に舐めたクチきいたんだ。それプラス、本当は一年契約だったのに、アイツが出てこねェからこんなに長く引き受けなきゃいけなくなったんだぜェ」
「じゃ、じゃあもっと早く止めてくれればよかったのに」
 洸は呟く。チェシャ猫は笑った。
「悪かったと思ったからさっき守ってやったんだろうが、感謝してほしィなァ」
「え?」
「そうだよ。礼を述べた方がいい。ノワールの最後の攻撃から身を守ってくれたのはチェシャ猫だよ」
 佐久がそう言った。目をまん丸にして洸は驚く。
「そゆコト」
「あ、ありがと」
「一度、ノワールさまに入矢をこちらに連れていただけるよう、お招きしましょうか。身請けした者と会う位なら他のお客様もなさいます。文句は言えないはず」
 つまり、ノワールに入矢を連れてきてもらい、入矢の状態を見て、証拠をつかんで宣告しようと言うのだ。入矢はノワールに大事にされようがされなかろうがそれを理由に逃げてくるつもりだっただろう。それならばノワールに非はない。だからこそ、提案したゲームだ。
 でも、本当に入矢をそんな目に遭わせているなら、話は別だ。入矢を守るために翹揺亭が入矢を取り返す必要がある。
「証拠なんかいりません! 私、見ましたもの」
「相手にも理由を与えてやらねば。彼は今、とても精神的に追い詰められている状態のようですから、入矢にもしものことがあれば大変です。少し時間を置いてから提案しては如何でしょう?」
 弥白がそう言った。佐久も頷いている。
「そうですね、それがいいでしょう」
「御狐さま、そんな! 入矢はその間、ずっと耐えなくちゃいけないんですか!!」
「入矢を完壁に取り戻すにはタイミングが重要。場を読むこと学びなさい」
 弥白がそう諌めた。洸はしぶしぶ頷く。
「あ、そうそう。ノワール、殺さないでくれよォ。アイツ、今面白いからさァ」
 チェシャ猫はそう呟いてその場から消えて行った。
「いつも、いつも自分勝手なヤツ!!」
 洸一人が消えた空間に向かって怒鳴った。

 ノワールはまた別の部屋を用意していた。一体、いくつ部屋があるのだろうか。自分が逃げ出す度に部屋を変えていたら、そのうち、ノワールしか出入りできない部屋しかなくなるんじゃないだろうか。入矢はそんなことを考えていた。きっといつもの問答が始まるのだ。
「何故、逃げた?」
「……」
「君が悪いんだよ。私を愛してくれないから。私から逃げるから……もう、逃げないと、誓うかい?」
「いやだね」
「……そう」
 思えばあの時、気付けばよかったんだ。ノワールの目が据わっていたってことを。
「本当は、飾るってのは趣味じゃないんだ。だって生きているのを見るから美しいって思うんだ。死体を飾ったところで、美しくもなんともない、そうだろ?」
 入矢は目を見開いて叫んだ。
「俺を殺すつもりか!??」
「違うよ。君が逃げることをいつまで経っても諦めないことは認めよう。今回は危うかった。だから、そんな危機感はもう、持ちたくないんだよ。君に自由を与えたから、君はその分逃げるんだ。なら、仕方ないじゃないか。もう、君は自由になれないんだよ。入矢」
「何だってい……」
 入矢の言葉は途中で途切れた。ノワールは入矢の項を軽く打ち、入矢は気を失ったからだ。ノワールは感情を全く映していない瞳で入矢を見下すと、そのやせ細った身体を難なく持ち上げた。
 入矢が再び、目を覚ました時、部屋が明るいことに気付いた。視界は明るい。何処かの部屋にまた、監禁されたか。そう、思ったとき、視界が何か、濁っているような気がした。
 それを確かめようとすると手が全く動かない。ああ、また手枷を付けられているんだろう。足も動かない。足かせもか。
 溜息が出そうだった。ノワールの監禁の仕方は回を増すごとに激しくなっている。最初は首輪だけだった。次に手枷、足枷と増えていった。
 身を起こそうとして、何かがそれを阻む。首にも違和感。いつもの首輪か? そう思った。身体がいつも以上に動かない。どういう風に囚われているのか。首が自由に動かないから視界に移る範囲で見てみる。
 すると、見えた視界のなかで、どうやら、今回は半透明の箱のようなものに入っているのではないかということがわかった。よくよく感覚がはっきりしてくると、座らされている格好のようだ。今まで寝転がっていたと勘違いしたのは、いつもそうだったからだろう。
 目もはっきり見えてきた。首も実は少しなら自由に動かせるみたいだ。そうして、感覚が全て覚醒して、初めて自分の状況を理解できる。いや、理解できないほうが幸せだった。
「何だ、コレは!!」
 入矢が叫んだ。しかし、いつもならすぐに返って来る答えがない。いつまで経っても無音のまま。部屋の主はいないようだ。ノワールはよほどコレに自信があるのだろう。逆に入矢もこの装置からはどうやって逃げればいいのか、現時点で全く思い浮かばない。
 入矢は今、透明な硝子箱のようなものの中に入れられている。その中に箱とくっついた状態で椅子があるようだ。その中に入矢は座らされている。でも、手も足も、動かせない。それはいつの間にそうしたのか、この透明な何かわからない物質の中に飲み込まれたかのように首まで埋まっているからだ。
 そう、本当に正確に述べるならば、入矢は首から下の部分が透明な何かによって埋まってる。氷の中に生き埋めになった人はこんな感覚なんだろうか。
 指の一本一本、すべて透明な何かによって動きを封じられており、自由に動くのは首より上だけだ。磔? そんなもんじゃない。全く動けない。力をどこに込めればいいのか。指を動かそうにも、型を取られているかのように周りが透明なもので埋まっているのだ。上手く動かない。
 透明な何かは硝子でもなかればプラスチックの類でもないらしい。よく、こんな自分にあうサイズを見つけたものだ。いや、自分が気を失っている間に、自分をこの透明な何かに埋め込んだとしか思えない。
「こんな扱いはないだろ……?」
 確かに、逃げた。今回は無事に翹揺亭の目の前まで逃げれた。でも、最終的にお前に捕まったじゃないか。助けを求めれば、洸も、咲哉も、翹揺亭にいる皆が助けてくれた。でも、ゲームのルールだから、俺はお前の下に帰っただろう? どうして? こんな目に……? どうするんだろう。これから俺は、人間としての生活は送れないんだろうか? ずっとこのままってワケじゃないよな? いつか出してくれるんだろう?? 不安が入矢を埋め尽くす。その時はっと思い浮かんだ。
 自由。それは、入矢がノワールを受け入れた時。入矢がノワールを愛した時に、初めて自由が手に入れられるんだろうか?
「でも、ノワール。それはお前が望んだことじゃないだろう?」
 入矢はノワールが帰って来るまでひたすら待った。動けないから、何もわからない。この白一色しか見えない視界の中で、違うものが映るのを。
 ノワールがようやく現れた時、妙な安心感があったのはどうしてなんだろう。ノワールを待ち続ける間、それがたった5分だったのか、1日だったのか入矢にはわからない。でもたいそう長い時間に感じられた。
「やあ。気分はどうだい?」
「最悪。ここから、出して」
「そういうわけにはいかないな。出したら、君は逃げるだろう?」
「だからって、こんな扱いはないだろ」
「これはね、第一階層にあるっていう特殊な材質なんだ。コレに入れている限り、時間が流れないっていう噂だだから、腹も空かないんじゃないかって思う。だから、君が逃げる隙はない、そう思うんだ。どちらにせよ、君は逃げるのに準備を入念に行っていたようだね。だから1ヶ月くらいはここに閉じ込めていても大丈夫だろう。私は溜まっていた仕事を片付けられる」
 入矢と一緒に監禁生活を送っていたことはノワールにとってストレスだったらしい。今のノワールは晴れやかに笑っている。入矢を気にすることなく、仕事ができると喜んでいる。
「俺は見世物か?」
「そんなつもりはない。この部屋はいつものように私以外は入れないしね」
「お前、俺がお前を愛してるって言えば、逃げないって言えばこんな生活、終わるのか?」
「終わるだろうね」
 今更、信じられないけれど、とノワールは続けた。
「馬鹿じゃないのか。こんなことして、俺がお前を好きになるかよ。やってること、逆なんだよ」
「うん。わかってる」
 じゃぁね、そう言って手を振って、ノワールは部屋から出ていった。また、一人で白い世界と向き合う、時間が始まった。
 ノワールは今までと違う。ノワールは笑っている。自分と一緒にいて、怖い表情しか浮かべなかったくせに、何故笑うんだ。何故、俺を愛しているとか抜かしているくせに、俺をこんなところに閉じ込めて、自由を奪うんだ。
 ノワール。怖いよ。お前は一体何を望んでいるんだよ。俺の何が好きなんだ。俺の何を望むんだよ。ノワール、怖いんだ。ここは白いんだ。俺以外何もないんだ。時間が、それだけが流れてるんだ。それ以外、何も変わらないんだよ。俺が生きていても、俺は自由に動けない。
 ここはどこなんだ? この前みたいに地下なのか? だから白い光の強さが変わらないのか? ノワール。時間が流れないって言ったけれど、ノワール、俺は腹が減ったよ。ノワール、俺は眠くないんだ。ノワール、やめてくれ。ノワール、出してよ。ノワール
 ノワール
 ノワール
 ノワール
 ノワール、ノワール

 やめて。一人にしないで。ノワール。

 こわい、んだ。

 ノワールが次に入矢の様子を見に来た時に、入矢はだいぶやられているようだった。
 ノワールは入矢と一緒に監禁生活をしたからわかる。時間感覚がなくなれば人間はそれだけ睡眠時間を欲しなくなり、なかなか眠れなくなる。それは身体が寝る時間を認識しないからだ。
 時間認識が薄くなればそれだけ食欲もなくなる。つまり伝説で昔唱えられていた仙人のような体つきになると言う事だ。ノワールが入矢を放っておいた時間は1週間。でも入矢には三ヶ月位に感じていたことだろう。一応、1ヶ月と言っておいたんだから、それくらいって認識はされたはずだ。
 実は今回は部屋に監視カメラもつけていた。だから入矢はつらくてもノワールにとっては不安は何もなかった。
「ノワール、腹、減ったよ」
「うん」
「ノワール、出してよ」
「……」
 焦点の合っていない瞳で、入矢が呟く。入矢の緑色の瞳にはノワール以外映っていない。
「ノワール」
「何?」
「どこへも、行かないで」
「!」
「俺をおいていくな」
 ノワールは自分がそうさせる状況を作っただけに、この効果に驚きを隠せない。いや、驚いているのではなかった。嬉しいのだ。自分が言わせているのに。入矢はこの状態から抜け出したくて、そう、言っているだけだとしても、ノワールにとって入矢がはじめて自分を求めてくれたのだから。
「俺の自由を奪うのは、俺が逃げるからだろ? だから、この状況は……受けて立ってやるさ。でも、一人にするな。俺を一人にしないで。ノワール、お前が俺を視界の中に入れておきたいなら、俺の視界にもお前が映っていなきゃ、認めない」
「な、何を認めないの?」
 震える声でノワールは尋ねる。もしかしたら。そう、期待が膨らんで。
「ノワール。知ってるか?」
「何を?」
「蝶の飼い方」
 ノワールは首を捻った。何故、今更蝶なのだろう? しかもこの快楽の土地に虫などいない。コレクターの家くらいしかお目にかかれないだろう。害虫と呼ばれる類のものはいたとしても、蝶などはいないはずだ。その、蝶がどうかしたのか。
「蝶を捕まえて飼う時、蝶が自由にひらひら飛ぶんだ。それを眺めたくて蝶を捕まえるんだよ。でも、狭い空間の中で、わけもわからない場所で、蝶は捕まっている狭い場所の中で何度もぶつかって死んでしまうんだ。皮肉だろ?優雅に舞う蝶が見たいのに、捕まえていたらぶつかっていずれ死んでしまうんだって。昔、誰だったかな? ねえさんに聞いたんだ」
「自分がその蝶だと言いたいのか?」
「だから傷つけずに長生きさせたい時は、白い紙を三つに折って、蝶の形に合うように三角形に折ってさ、その中で自由に動けないように飼うんだそうだ。エサは三日に一度。そうすれば自然に生きている蝶より長生きするんだって」
 確かに、今の入矢の状況はその蝶と一緒だ。部屋は一面白色。入矢には白以外映らない。入矢は自由に動けない。ノワールは今、入矢という蝶を飼っているのと同じだ。
「蝶はどう思うんだろうな? 飛ぶこともできない蝶は紙の中で何を思っていたと思う? ただ、寿命が来るまで永遠に白い紙の中。人は思い出が在れば生きていけるっていう人がいる。でも、俺はそう、思えない。蝶は自由に飛べたときを思い出して、死ぬのを待っただろうか」
 入矢が語るその話はノワールを改心させようとしているのだろうか。
「なぁ、ノワール。俺は生きていけないよ。俺は弱いから、翹揺亭の楽しい思い出を抱えてこの箱の中で生きてはいけない。でも、お前に愛を囁くことはできないんだ。何故かわかるか?」
 入矢の瞳がはじめてノワールを見る。死ぬ前の煌めき、そう、ノワールには見えた。
「お前が望んだ俺は人形の俺だったか? なら、人形師を雇え。そして俺に愛を吐けと命令するがいい。でもな、お前、それに耐えられないんだろ? 無理矢理言わせた愛はお前の心に響かないんだろ。お前に愛を囁いてくれた人が一人もいないから、お前にはわからないだろう? 俺が言う言葉が嘘か本当か」
 入矢はそう言って笑った。
「考えろよ。よく考えてくれ。お前、俺のどこが好きなんだ? それが俺の心に響かないから、俺達のゲームは終わらなかったんだ。でもな、俺、もう疲れた。お前に付き合うのは、もう、疲れたんだ」
「入矢!!」
 赤が、赤が流れ落ちる。入矢の口から赤い液体が流れ落ちていった。
「蝶はどうして死ななかったんだろうな。自分で。……でも、ノワール。俺は蝶じゃないから、自分で死ぬことが、できるんだ、ぜ」
 ノワールが叫ぶのが聞こえた。入矢はそこで意識を手放す。透明な物質はみるみるうちに入矢の赤い血で真っ赤に染まっていく。このままでは入矢が死んでしまう。
 ノワールが禁術を発動した。流れていく血の多さが、入矢の決意と自分の行いをわからせる。
 最低だ。
 禁術によって固まっていた透明の物質が溶けていく。入矢の身体が自由になると、それを抱きかかえて、今度は治療の禁術を発動させる。口を無理矢理こじ開けて、舌を見る。
 口の中は真っ赤だった。当たり前だ。舌を咬んだんだから。禁術によって咬まれた舌は痕が残らないほど、綺麗にくっついていた。出血した血で窒息しないよう、入矢の身体の向きを変える。
 1週間食事をさせなかったから血糖値も足りていない。すぐに気を失ったのもそのせいか。なら、血が足りないだろう。入矢を抱えて部屋を出ると、すぐに増血剤の準備を行う。
「死なせない」
 快楽の土地のいいところは求めればだれでもその知識を得ることができる。父親は自分に全ての知識を与えたから、ノワールは入矢にしてやらねばならない治療がわかっていた。そして自分が禁術が使える。入矢の身体をすぐに治すことができる。

 次に入矢が目覚めた時は景色は白一色ではなかった。黒一色の部屋になっていた。
「目が覚めたか。気分は?」
 ノワールの声がする。その姿を求めて、目が勝手に動いた。
「ここは?」
「私の自室だ」
 ノワールがベッドの隣に腰掛ける。記憶はしっかりしていた。
「死に損ねた」
「もう、自殺なんて真似するんじゃない」
 ノワールが真剣な瞳で言ってくる。そういえば、入矢は身体に気だるさも何もないことに気付いた。それどころか、全て自由に動かせる。
「いいか。体が完全に治るまでゲームは休戦だ。逃げるなよ!」
「う、うん」
 頷かされてしまった、というのが正しい。本気で心配してくれているようだ。
「白がいやだからと言って全部黒にしなくても……」
 見渡す限り、黒一色の部屋だ。窓はあるけれど、黒いカーテンが引かれている。
「黒が落ち着くんだ。君のために用意したんじゃない。ここは私の部屋だ」
 そういえば、家具もあるし、奥の机には書類が山積みだ。他にも部屋はいくつかあるらしい。扉が見えた。ここはノワールの寝室だろうか。寝室まで仕事を持ち込むタイプのようで、ベッドの隣にはすぐ仕事ができるような机が置かれている。案の上、ノワールはそこにいたようだ。
「残念ながら私のプライベートルームだから寝室は一つしかないし、ベッドも一つしかない。君が治るまでの間、私は居間のソファで寝るから、私のベッドでも我慢してくれ。あ、あと、仕事関係のものが散乱してるから、むやみに触ったりするな」
 ノワールは一気にそう言い切ると入矢に体温を測らせ、こう言った。
「食事はどうする? 用意するか?」
「うん」
 それから一週間、ノワールは入矢が知っている中で一番優しくて、一番紳士的だった。逃げる隙はいくらでもあったのに、全く逃げる気にはならなかった。
 それはたぶん、二人の間で何かが変わったからだ。それはノワールを変えたのかもしれないし、入矢を変えたのかもしれなかった。

「なんだと??」
 ノワールがいきなり、通信機に向かって叫んだので、入矢は驚いてノワールの方を見た。
「わかった。すぐ行く」
 ノワールはそう言い切ると、入矢に言った。
「ちょっとしたトラブルだ。すぐ帰って来るから」
 入矢は頷いた。ノワールはあの時に言ったことを覚えているらしく、自分が部屋を出る時は入矢に必ず断ってから行くようになっていた。入矢はそのことを嬉しく思っている自分がいることを自覚している。
 思えば、コレが正しいやり方だったのかもしれない。自分たちには時間が必要だったのだ。この答えにたどり着くまで、入矢もノワールも回り道をしていただけなのだと。なら、あとは自分がノワールの思いを受け止めるだけだ。
 普通の友達から親友へ。親友から憎む相手に。憎む相手から……好きな相手に。入矢のノワールに対する思いは変わった。今もやり方が正しいとは思えないし、憎たらしいと思う。でも、ノワールが閉じ込めて、束縛してまで自分を欲したことも、また事実だった。
「俺、マゾなのかな……」
 閉じ込められて、いいことなんて一つもなかったけれど、監禁されてそれで自分の気持ちが変わったのなら、そういうことなんだろうか。いや、違う、断じて!!
「まぁ、ノワールはドSだよな」
 そこだけは納得できる。ノワールが部屋を出てから30分経とうとしている。ノワールの部屋には当然時計もある。カーテンだって閉めてることが多くても開けることを怒ったりはしない。時間感覚が正しく戻ってきたことが嬉しい。そういえば時間感覚が戻ってきた生活は久しぶりだ。一年くらい経っていたのか。長いような短いような。
「あ、おかえり」
 入矢はそう言ってノワールを迎えた。ノワールは青い顔をしていた。
「どうかしたのか?」
「いや、ちょっとうまくいかなかっただけだよ」
 ノワールは無理矢理笑う。
「ねぇ、入矢。今でも翹揺亭に帰りたい?」
「え?」
 入矢が驚いた。そして視線を彷徨わせる。
「いや、あの、そりゃ帰りたい……けど」
「そう、だよね」
 ノワールはそう言って机についた。そうして仕事の続きをはじめる。入矢が自分の気持ちに気付いても、その気持ちを伝えなければ、通じることはないのだと言うことが、入矢には分かっていなかった。