毒薬試飲会 008

019

 入矢は御狐さまの部屋に居た。頭を深く下げて、御狐さまに言う。
「今日はどうしたの? 入矢」
「ご挨拶に参りました」
「何の?」
 御狐さまの前で緊張して心臓がバクバクいう。許してくれるだろうか?
「入矢は本日まで御狐さまに育てて頂いて、誠に感謝しております。入矢は……このご恩を忘れずに、妹背と望んだ君の下へ嫁ぎたく思います!」
 入矢は土下座をしたまま、形式通りの言葉を口にした。弥白さまが息を呑んだ気配がする。入矢は御狐さまの言葉を待った。それまで頭を決して上げない。弥黒さまが入矢、と短く叫んだ。
「顔を上げなさい」
 恐る恐る見上げた御狐さまの顔に怒りはない。穏やかな顔をしていた。
「お相手は?」
「……ノワール、です」
「お前はノワールさまの元を逃げてきたね? この前訊いた時は愛はないといったね? 今度はあるのかしら?」
「……愛は、ありません。でも、やられっぱなしなのは気に食わなくて、今度は俺がやり返してやろうと思うんです!」
 御狐さまの目が愛しいものを愛でるように細められる。口元には美しい笑みが浮かんでいた。
「後悔しないかって言われたら、するかもしれません。でも、俺、ノワールのことまだ何も知らないんですけれど、ノワールが俺に向けてくれた気持ちだけは信じられるから、メロメロにしてやって、言いなりにさせてやろうって思うんです」
「しかし、入矢!」
 弥白がそう言った。入矢は続ける。
「そうしないと、俺の気がすまないんです!!」
「ふふふ」
 御狐さまの朗らかな笑い声がした。入矢はビックリして御狐さまを見返す。
「では入矢、学べる事はすべて学んでいきなさいな。ノワールさまを骨抜きにしておやり」
「はい!」
「御狐さま!!」
 弥白、弥黒双方が批判の声を上げた。
「少なくとも今度は自分の為なんだし、良しとします。一応、入矢はここに帰ってきてから一度もノワール様の暮らしから逃げたいとは言わなかったし。身請けはノワール様がお金を受け取っていないから続行中、でいいでしょう」
「ありがとうございます!」
 入矢もう一度頭を下げた。
「またノワールさまの暮らしが嫌になったら帰っておいで。ここはお前の家なのだから」
「はい!」

 ノワールは入矢を失った後、仕事に没頭した。夢中で仕事をすれば入矢のことを忘れられた。それでもふとした時に入矢を思い出す。それはつらいことだった。身を引裂かれるような想いだった。でもそれはすべて自分が招いた事。
 入矢を翹揺亭に返して半年が経った。もうそろそろ立派な男娼として夜を過ごすんだろうな。入矢なら10番以内の人気の男娼になれるだろう。
「ご主人様、侵入者です!」
 通信機から部下の声がした。ノワールは部下を配置につかせて、侵入者の目的と相手を考える。暗殺って線は薄い。顧客リストでも奪いに来たかな? 重要なデータはノワールが管理している。ということはノワールの自室を目指しているか。
 そう思ってノワールは自室の扉を開けた。今には誰もいない。ほっとして扉にトラップを仕掛けると部屋を一つ、一つ確認していく。最後に寝室の扉を開けた。誰もいない。
 じゃあ、データが目的じゃないのか? その時、窓のカーテンが揺れた。ノワールが窓に近づくと窓が開いている。おかしい。窓は開けないのに。誰か既に侵入したのか? 次の時には首筋に冷たい感触。
「何者だ?」
 首筋にナイフを当てている誰か分からない相手に向かって禁術を発動させようとしたその時、ノワールは言葉を失った。
「こんな警備じゃ、お前すぐ死んじゃうよ?」
 ノワールがゆっくり首をまわす。ナイフを当てている人間はそれを阻止せずナイフを離した。
「……入矢!」
ノワールは目を見開いた。嘘だ、夢だ! 何で入矢が目の前に居るんだ!!?
「俺はやられっぱってのは、ムカツクんだよ。お前は俺の一年半を自分勝手に蹂躙した。その罪を贖え」
 ノワールは次の瞬間、入矢の口づけを受けていた。驚いたノワールの口腔内に入矢の舌が入ってくる。ノワールは驚きを隠せずにいると入矢の挑発的でそれでいて誘惑するかのような緑色の瞳に出会った。
 ノワールは緊張が解けたかのように入矢のキスに応える。舌が絡まりあう。入矢はその間にノワールのシャツの釦を外した。何をするつもりなのかと言いたげなノワールを目とキスのテクで黙らせ、入矢は自分の胸元も広げる。
 入矢は口をゆっくり離した、二人の間に月明かりを反射した銀色の唾液が糸のように垂れ下がり、切れた。ノワールが口を開く前に入矢はノワールの口に自分の右手を突っ込んだ。
「舐めて」
 大人しく従う。音を立てて入矢の舌を舐める。それに満足したらしい入矢はノワールの右手を取って自分の口元に導く。味わうかのように入矢はうっとりした様子でノワールの指を舐め続ける。その顔がいやらしくてノワールは顔が火照るのを感じた。
「ッ!!」
 ノワールは眉をひそめた。入矢は舐めていた指を噛んだのだ。けっこう強い力で噛まれてノワールの指はおそらく切れているだろう。血が流れていく。入矢はその血を飲み込んだ。
「噛めよ、俺の指も噛んで、俺の血を飲め」
 入矢の命令に戸惑う。入矢は何をさせたいのだろう。ノワールが戸惑っていると入矢が噛め、と怒った。仕方なく、ノワールは咥えている入矢の人差し指に歯を立てた。
「ん!」
 入矢の痛みを堪える顔が見えた瞬間、口の中に鉄の味を感じた。入矢の血だ。ノワールはそれを飲む。そんな対した量じゃないし、唾液と一緒に味は薄まった。入矢は喉が上下した事を見て、ノワールの口から自分の指を引き抜いた。
 そのまま顎をなで、首筋を辿った入矢の濡れた指は鎖骨を滑り降りて胸の上で止まる。
 そこで入矢は何か模様を書くかのように指を動かした。それを見ようとしたが入矢が再び口づけてきたのでそれは叶わなかった。
 口づけの間にノワールの指は入矢に掴まれて、入矢の肌をなぞっている。入矢はノワールの手を取り、指を重ねた。
 ノワールにはノワールの指から流れる血と入矢の指から流れる血、双方の暖かい血潮を感じた。二人とも深く切っているようなので手当てを早くしないといけないとノワールは思った。ノワールは入矢のキスが終えたとき、入矢の胸に自分の血で描かれた模様を見て愕然とした。
『我は、汝。汝は我』
 入矢が唱え始める。ノワールは目を剥いた。
「入矢、お前自分が何をやってるのかわかっているのか?!」
『我は誓おう、そなたに我の全てを懸けて。我は結ぼう、血の交わりを持って』
 入矢は、目でお前はどうする? と訊いてくる。これは禁断の禁術。二人の人間が禁世を通して誓約するもの。血の交わりを持って行う、最大の繋がり。血約!! そのスペルを入矢は唱えた。術式は発動された。
 ここで相手がいなければ入矢の身体は禁世に取られる。誓約する者がいなければその身を禁世に捧げたことになるからだ。
「いいんだな!?」
 ノワールはぎゅっと目を閉じた後で、入矢の視線を正面から受け止めた。
『我は、汝。汝は我』
 血約のスペルは普通の禁術より簡単だ。互いの血を摂取して、交換し、互いの心臓の上に血で縛りのまじないをかける、昔の魔術の儀式のようなやり方。入矢の胸に描かれた模様は入矢がノワールの奴隷になる印。おそらくノワールの胸には入矢の血の贄になる模様がかかれているはず。
 そう、血約を結んだ者は一方が一方の存在を手に入れる代わりにその者にすべてを捧げる。つまり奴隷の身に堕ちた者は支配者に従わなくてはならないが奴隷はその代わりに支配者の命を握る事ができる!
 ――入矢がそう望むなら、応えてやるさ!
『我は誓おう、そなたに我の全てを与えて。我は結ぼう、血の交わりを持って』
 ノワールが唱え終わった後に入矢の首に黒い後が輪になって残る。それはノワールも同様のようで首の周りが熱かった。暑さが冷めたとき、入矢の首の模様も消えていた。
「入矢、何考えているんだ?」
「信じられないんだろ? 俺の言う事が。だから態度で示したんだよ」
 血約は禁じられた遊びで用いられる事が多いが、それは禁じられた遊びだけではない。永遠を誓った者らが結ぶ生命のやり取りを交えた約束だ。
 これで入矢はノワールの命令が望もうと望まないと理解できるし、言うとおりにしないといけない場面も出てくる。入矢はその命令を叶えるごとにノワールの血を欲するようになるだろう。互いの存在なしでは生きていけない。
「これで俺がどこにいても分かるだろう? お前は俺が逃げても探せるだろう?」
「だからって、私達は禁じられた遊びのペアでもないのに!」
「そうさ。俺はお前に俺をやる。だからお前を俺に寄越せ。禁じられた遊びだって出てやってもいい。いい運動にはなるだろうしな。お前が望んだようにお前だけの入矢になってやる。だから……」
 入矢はそう言って俯いた。ノワールが覗き込んだとき、入矢は真っ赤になっていた。
「もう、一人で泣くな! 俺が一緒にいてやるから」
「え……!?」
 ノワールの顔が驚きからだんだん歓喜に包まれていく。
「男らしいな、入矢は」
「な! お前に気に入らない所あったら、俺はまた逃げるからな!!」
「探せばいいんだろう? 私が」
「……そうだよ! 仕方ねーから愛してやるよ、お前をな!! ノワール」
 ノワールは入矢を抱き締めた。そうして自然に口付ける。入矢は目を閉じてキスに応えた。
「愛してるよ、入矢」
「当然だ、ボケ」

 その後、入矢とノワールは禁じられた遊びにエントリーした。いつものノワールなら第三階層からはじめてスレイヴァントを育てるが、入矢と組んだ時は仕事でも遊びでもなかった。入矢となら第一階層を目指してもいいとさえ思っていた。第五階層から始めて、一気に第三階層まで負けなしで上り詰める。
 入矢はそのままノワールと過ごした。共に戦い、時には身体を重ねて、入矢は全ての時間をノワールに捧げ、ノワールはそれだけ入矢に応えた。そうして共に過ごして、禁じられた遊びは元いた第二階層まで登りつめた。
 ランク2のゲーム。快調に勝ち進んだノワールと入矢はランク2のトップ10に入ると言われるほど強くなっていた。禁じられた遊びはランク3から上に登る速度が一気に遅くなる。それは規定されたライフポイントに達するまでに時間がかかるのと、参加人数が多いのでゲーム数も多くなり、長く止まる事になるからだ。
 入矢たちはそれなりにランク3のゲームを行って第三階層に止まり、なかなか上れないランク2のゲームに挑戦した。ここまで急な速度で成長するのは珍しい事で誰もが入矢たちを注目した。彼らならめったに行く事ができないランク1のゲームに挑戦できるのではないか、第一階層にいけるのではないか。
 そう期待された中で突然、ノワールと入矢のペアは禁じられた遊びから姿を消した。

 入矢がまた、逃げたからだ。