毒薬試飲会 011

7.アニリン 黒

024

 ねぇ、はじめよっか。
 くすくすくす。
 あいつらがー、大きい顔してられんのも、いまのうちー。

 「毒薬試飲会」

 7.アニリン【BLACK-side】

「はぁ、はぁ」
 濡れた吐息が暗い室内で色付いている。艶があるその息を吐き出すのは、濡れた唇。赤く、赫く、紅く染まる口元。舌で舐めて、しゃぶりついて、喉もなにもかも使って喉が焼けるような感覚に耐えて、欲しているモノがある。
「おいしい? 入矢」
 犯された右目がズクズクと疼く。痛みか、それともその果ての快感か。
「本当に吸血鬼みたいだ」
 くすくす笑う声はなんか楽しげ。ちょっとそれが気に食わない。歯を立てて仕返ししてやると天地がひっくり返る。
 圧し掛かっていたはずなのに見下ろされて入矢は腕から抜け出せない。ちょっとした檻だ。先程まで血を与えていた首筋から血が垂れる。その血は頬にかかり、首筋を赤く染めていく。
「やーらし」
「う、るさ……」
 文句を封じ込めるように唇が重なり、すぐに舌が這い回る。
「んんっ!」
 舌に口腔を蹂躙されて、身体は熱い楔で繋がれて、両腕で責められて……。
「ンうぅっ!! ム……んん、んっっ!」
 大きく仰け反った入矢はそのまま白濁の液体を吐き出す。痙攣していた体の震えが収まった時にはそのまま続けて律動が開始され、抗議する間もなく、ガクガク身体を揺さぶられて中心が再び発火する。
「入矢……いくよ?」
 確認なのか、入矢に判断できないまま、前立腺を深く抉られて再度の悲鳴。
 部屋に独特な熱気が籠っている。人間ってどうしてこんな行為に快楽を感じるんだろう? や、人間だけじゃなくて、ドーブツはみんなそうなのかな? 種の保存。動物という生体の仕組みに組み込まれたシステム。性交という名の行為。
 でもそれってフツーは男と女のものだよ。俺、男だけど。相手も、男だけど。いいんじゃないの? それがこの土地でしょ。
「セックス一つでそんなこと考えるなんて余裕だね、入矢」
「はぁんっ!」
 悩ましげな吐息が漏れた。実は入矢とノワールは一連の事件のお陰で禁じられた遊びだけじゃなく、直接肌を触れ合わせるほど近くに互いの存在があるとき、互いの思考と感情が手に取るようにわかってしまうのだ。
 現在、入矢とノワールは繋がっている。文字通り、繋がっているので、肌が触れ合う所ではない。
「なんでそんなに、機嫌、いい、の?」
 途切れ途切れに尋ねるのはノワールが下から突き上げるのだから仕方ない。
「わかるだろ? 繋がってるんだから」
「そ、うなんだ、けどさっ!」
 ノワールは嬉しいらしい。再び入矢を抱けることが。互いの気持ちを理解でき、その気持ちが安心できることが。入矢もちょっと幸せかな、と考えたその瞬間に叩きけられる熱い感触。
 ふっと息を吐き出すと笑みを漏らして己の中から熱さが抜かれていく。だが、そんなゆったりした時間を止めるモノが現れる。
「……見られてるな」
 ノワールは入矢の額にかかる前髪を掬い上げ、事後の独特な笑みを浮かべつつ視線だけを鋭く走らせて言った。直後の入矢には何もできない。ただベッドに沈むのみだが、気配だけは感じられる。静かに穏やかにノワールが禁術を発動しているのが入矢にだけはわかる。
 血約によって感覚の一部さえ共有する事後は、ノワールの感情が行動が手に取るようにわかる。離れていた時間がお互いの憎しみを煽って、よりつながりを深くして、血約は重いものに変わってしまったからこうなったのだ。
 今まではここまでじゃなかった。もしかしたら今なら入矢が本気で望めばノワールを血約の呪いで殺せてしまうかもしれない。
「物騒だな、入矢は」
 ほら、読まれてる。不公平だな。
「いや、私はうれしいよ。秘めた君の気持ちが知れたから、こうして……!」
 ドン、と爆発音が響いた後にばらばらと虫のように黒装束の人間がノワールの禁術にかかっていく。
「いやはや、偉大な弟を持つのは少し苦労することだったか」
 苦笑してノワールは入矢に口付ける。
「でも、君は弟ではなく、私を選んでくれた」
「俺はお前を選んだ。お前だから選んだ」
 入矢が立ち上がる。白い全裸の身体が喰らわれた痕を無数に残してノワールの目の前に晒される。純粋な人間のカタチとしての美しさ。整った体、その器は神が創り上げた最高傑作。
「でも……結果として俺がアランを、変えたんだろ?」
「そうだね。でも、私は弟にも負けるつもりはないよ? 私は君のことが絡むと少々変わるから」
「少々?」
 くすっとノワールが笑った。
「私もチェシャ猫に認められるほど、君が絡んだ時は人間らしいとのことだ」
「そりゃ、最低の褒め言葉だ」
 入矢はそう言って浴室に消えてく。入矢の姿が見えなくなった瞬間、ノワールの周囲から禁力が溢れ出す。ノワールは入矢に向けるものとは異なる冷たい微笑を浮かべた。

 部屋の中は独特の酸の臭いが充満していた。
「なかなかつかめないか」
「はい。ご主人様」
 ノワールより相当歳は上のはずなのに、かしこまった様子で初老の男性はノワールに頷いて見せた。
「これだけ送り込まれているのに、頭の尻尾さえつかませないとは……」
「ノワール」
 光が差し込んで、少しだけ外の空気が入ってくる。
「入矢さま」
「入矢」
 同時に呟いた二人は惜しげもなく白い手足を晒した少年を見つめる。
「休んでなくていいのかい? 明日はゲームだよ」
「大丈夫」
 裸足の脚が赤く濡れた床を踏む。少し眉間に皺を寄せ、嫌悪感を示す。
「入矢さま、わたくしめがやりますから……! お汚れになります」
「気にしないで、トピカさん」
 老人に微笑んで入矢は床に転がっている人間の顎をつかんだ。
「舌、切り落としたの?」
「わめかれるとうるさいからな」
 口から血泡を噴いている男は普通なら死んでいる。だがノワールの禁術のおかげで死ねないのだ。永遠の責め苦を味わう事となった哀れな男は身体が半分は無く、赤い血肉を晒している。顎からは血を盛大に吐き、腕は片方既に繋がっていない。その切り取られた腕でさえ、生爪は剥がれるわ、針が何本も刺さっており、想像を絶する。
 失神するのが当然の痛みを与えられている。それでも男は死ねないどころか意識さえ失う事が許されない。残りの身体も腹から直腸がはみ出し、汚泥のような血の塊を貼り付けている。脚は折られ、人間ではありえない方向に曲がっていた。
「やることがグロいね、トピカさんは」
「私と君の時間を邪魔したんだ。遠慮は要らないと言った」
「お褒めいただき、光栄でございます」
 紳士的に腰を折り、トピカは微笑んだ。ノワールが心から信頼する拷問師だ。ノワールはやる事が徹底している。やると決めた時は躊躇わない。トピカの拷問に顔色一つ変えず、共に質問攻めにあわせることができるその精神にトピカは心酔しているらしい。ノワールSだからな、と密かに入矢は溜息をついた。
「褒めてるんじゃないけど」
 入矢は苦笑いを浮かべて老人を見た。
「ノワール」
 冷静に入矢がノワールの声を掛けた。
「何だ?」
「これで何人目?」
「……何人だったかな?」
「42人目でございます、ご主人様」
 トピカの冷静な教えにノワールはそんなにか、と逆に驚いた。
「……翹揺亭を頼れ、ノワール」
 ノワールが一瞬息を呑む。入矢はまっすぐにノワールを見つめた。
「それは……」
「だって、問題は少しも進んでいない。俺達が踊らされているだけだ。こうなったらプロを頼るしかないだろ? ノワール、御狐さまは怒ってはいらっしゃらない」
「それは、わかってる……が」
 ノワールは入矢から目をそらした。自分たちの知らない情報を一番知っているのは恐らく第二階層では翹揺亭だろう。ノワールは入矢の件もあって翹揺亭は入りにくい場所の一つでもある。自分がまいた種なのだが。
「ノワール」
 入矢の声に再び耳を傾ける。
「ノワール、俺を使え」
「な、んだって?」
「俺を使え。俺ならお前の、いや、俺達の未来の為に使える駒になれる」
 ぴちゃり、と赤いしずくを垂らした脚を動かして入矢はノワールに触れる。そのままノワールの胸に手を当てて、以前なぞった印を再びなぞる。
「繋がってる。お前が信じてくれるなら、俺も信じられる」
「入矢……」
「血約は決して負の約定じゃない。互いを離さない証でもあるんだぞ」
「だからって、君だけがそんなことをする必要は……」
「向いてるんだよ、俺の方が。それに、一度破ったんだ。今更人数が増えても俺が汚れている事には変わりない。俺なら、力になれる。この俺の身体が虫を誘う花となり、虫を喰らうモノとなる」
「そんなこと、ないんだ!」
 入矢の言葉を聞かずにノワールは入矢を抱き締めた。
「ノワール、お前が唯一失敗するとしたら、それは俺が絡んだ時だな。お前、視野狭すぎだぞ。そんなんじゃ、いつか大局を見失う」
 苦笑する入矢はノワールを覗き込んだ。
「ノワール」
「……私は力になれないか? 私では君に無理をさせるだけなのか?」
「違う」
 入矢は首を横に振った。そしてノワールの手を取り、自分の胸の上に置いた。
「お前なら、今のお前なら……俺の思考が読めるだろ?」
 そっと重なってくる唇。それを静かに受け止めて、ノワールは堪えきれないといったように深く口うを交じらわせた。
「ンんぅ!」
 入矢の短い悲鳴を無視してノワールは入矢をがっちり抱き締めたまま、行為を続ける。
「……わかった」
 口が離れていく瞬間、吐息に混じってノワールが囁いた。
「支度をしろ! 翹揺亭に行く」
 踵を返すノワールは暗い部屋を開け放ち、外に出て行った。入矢もそれについていく。
 家来達が慌ててノワールの言葉どおりに翹揺亭に行くための準備を済ませていく。その速度は予め翹揺亭に行くことがわかっていたかのような速さだった。ノワールの教育の賜物だろう。すでにエンジンがかけられた車に乗り込む。
 運転手が目でノワールに合図した。家来が最後の確認をノワールに取るべく、耳打ちする。ノワールはそれに頷いて、細かに指示を出していた。
 了承した家来達は車から離れ、見送る体勢になる。それを確認した運転手が車のエンジンを踏み込み、車がゆっくりと浮かび上がった。
「決断力があるな」
「君がそうしろっていったんじゃないか」
 苦笑しつつ、ノワールがそう言った。ノワールは優しい目つきで入矢を見る。自分を犠牲にしてでもといってくれた入矢。その決意を無駄にはしない。だが、御狐さまとよく話し合って決めるつもりだ。
 入矢本人の意思は尊重したいが、みすみす入矢を男娼に戻すわけにはいかない。ただ、情報なら御狐さまが自分たちより持っていることだけは確かだった。
「入矢」
 入矢を呼んだ瞬間に額に熱い感覚が通り抜けた。驚き、叫ぶ入矢の顔がはっきり見え、後に暗転。
 ――入矢、どうしたんだ?
 声が出ない。

「ノワール!!」
 入矢は額から血を流すノワールの体がゆっくり傾いでいくのを慌てて抱きとめた。額には一発の銃弾が入り込んでいる。血がノワールの顔を伝い始めた。
 だめだ! 瞳孔が、開いてる。すぐさま即死とわかった。ノワールが死ぬ??! こんなところで、しかもこんなにあっけなく!?
 入矢はその瞬間に激しく地面に叩きつけられた。一瞬呼吸が止まる。運転手が殺されたことによって操作不能になった車が落下したのだった。慌てて駆け寄るノワールの家来たちがつぎつぎとどこからかわからない銃弾の的になっていく。
「くそ!」
 反撃? そんな暇も余裕もない。入矢は一秒にも満たない時間、一瞬の時間で自分が行うべきことを理解した。車は落下して衝撃を受けた。引火して爆発する危険性もある。それよりもどこからか狙っているヤツが自分を殺す可能性も大きい。でも、そんなことよりも。ノワールを!
 入矢は自分の額と血を流すノワールの額をくっつけた。今はまだ温かい血潮が入矢の額にベットリと張り付く。大丈夫だ。まだ心臓は生きている!! ノワールの身体を抱き締めて、入矢が一気に禁力を開放する。入矢は御狐さまに教わった禁術と医療の混合術を習っていたときの過程を思い出していた。
 死んだものさえ生き返らせる可能性があるたった一つの方法。血約を結んだ相手を殺すことができるなら、すなわちそれは生かすことでさえ、自由に扱える――と。
 やり方なんて知らなかった。ただひたすらにノワールに生き返るよう、呪い、をかける。入矢は自分の魂を奴隷の身分に落す代わりに、ノワールの身体は入矢が自由に扱える。その呪いは絶対的で一番効力を発揮する。入矢が望めばノワールは盲目にもなれるし、手足を動かなくさせることだって可能だ。
 身体的自由を奪い、相手の精神を殺す、それが入矢の魂を自由にする権利を得たノワールが入矢に与えたサクリファイス。入矢の周囲が濃厚な禁力に支配された。そしてその濃密な純粋である力は定めに従って呪いを徐々に発動させる。
 ドクン。
 入矢は共鳴したように自分の心臓が鼓動を打ったのを感じた。はっと目を開け、ノワールを視界に入れ、もっともっと強く念じる。もっと強く、呪う。
「生き返れ! 死ぬな!!」
 強く、徐々に早く打つ鼓動がノワールの身体に生命力を与える。ポロリと、額から弾丸が生み出されるかのように音も無く出てきて、転がった。開いたはずの穴は自動的に塞がっていく。血ですらもう流れない。入矢は歓喜に震えた。黒いまつげが静かに震える。
「ノワール!!」
 微かに開いた瞼の間から黒い瞳が見えた。しかしそれは力なく閉じられる。聞こえてきた規則的な鼓動と呼吸に安堵した入矢は急激に力を失い、ノワールの身体に覆いかぶさるようにして崩れ落ちた。
「……あ、あれ?」
 もう、指の一本さえ動かすことはできない。だが、ほっと一安心だ。ノワールは息を吹き返した。
 だが――。
「あー、こんなに力持ってるなんて、予想外なんですケド?」
 現れたのは少女だ。金髪を高い位置でツインテールに結び、ケバいメイクをして格好はゴスロリ。
「赤いアリスはあのお方の人形にする予定だったんだ、だから殺せなかったのに」
 人差し指を唇にあて、そのまま尖らせる。真っ赤でありながらグロスのせいで濡れた唇が光る。
「黒いのは要らないの。ホンモノがいるから」
 そう言った瞬間に、ノワールの下から黒い闇が口を開けた。黒いどろっとした塊が、液体のごとく自由自在に形を変え、尚且つ意思を持っているかのようにノワールを飲み込んでいく。
「ノワール!!」
 入矢は動かない体を動かそうと、懸命に力を込める。だが、身体は全く反応しない。その間に飲み込まれて黒いものと同化していくノワールはついに、黒いものに全てを飲み込まれ、最後にはその黒いものさえも地面に消えていった。
「お前、ノワールをどこにやったっ!?」
 入矢はそのまま視線だけ強気なまま問う。
「はーん。すき、なのぉ? そんなにアイツが。あんな価値ない人間が。アタシ、でも赤いの気に入ったな? 食べちゃっていいかな?」
 女はにっこり笑って、ノワールのことには一言も触れずに入矢を眺めまわした。ペロリと舌なめずりした女がニヤっと笑う。その食べるが犯すことを指しているのか、本当に喰うことを意味しているのか、入矢はどちらにしろいやだと思った。
 次の瞬間、気配も感じさせず紫色の髪をしたこれまたパンクでゴスロリな少年が現れる。気配が無かったことを驚きつつも、それは表情に出さない。
「うん。想像以上にキレー。翹揺亭出身だけある」
 少年が顎を持ち上げた。抵抗しようと顎を引くと入矢の口に指を突っ込んだ。
「うぐっ!」
 無遠慮に口腔内を荒らされて、唾液が少年の指を伝う。それには嫌悪感を露にせず、少年は満足そうに唇を吊り上げた。親指と人差し指、それに中指で入矢の舌をつまむ。
「おいしそぉ」
 入矢の目が恐怖に見開かれた。次の瞬間、少年は入矢の口を貪るように口づけ、本当に貪っているように口腔内を蹂躙した後、入矢の舌に噛み付いた。鈍い痛み。
「んぅっ!!」
 入矢の悲鳴をよそに今度は少女がその細身からは考えられないような力で入矢の上着を引きちぎった。
「わぉ! 白くてきれーな肌! ね、コレ、移植したらどう思う?」
 真っ赤な舌が穢すかのように入矢の肌を伝い降りる。
「パッチワークみたいにね、アタシの腕とかに、チェックでいいかな? で移植するの。かわいいだろぉなぁ~~。うふふ。でもぉ、この赤い所有印はいらないかもぉっ!」
 おそらく襲撃者と思われる二人の子供にイイようにされ、入矢はなんとか反撃しようと身体を捻る。相変わらず、手も足も何もかも自由に動かない。まるで神経が繋がっていないみたいだ。
 少年は歯をもっと深く食い込ませている。本当に喰らう気だ! 入矢の口から大量に血が溢れ、流れ出した。入矢が舌を食われる、と覚悟した瞬間、唐突にそれは起きた。
「いああぁあん! トロン!!」
 それは悲鳴よりも歓喜の声だった。突然、撃ち殺された少年から解放された入矢は少女が少年が殺されたことに対して喜びを感じていることを理解した。仲間じゃないのか?
「お遊びは、そこまでだよッ!」
 そんな明るい声と共に少女もまた、血に沈んでいく。何が起こったのかと理解する前に見知った顔が血霧の向こうから現れた。ほっと肩の力を抜く。
「助かったよ、三月ウサギ(マーチ ヘイヤ)」
 満面の笑顔を見せるのは子供と言っていい少年だ。明るい栗色の短髪はその少年らしい体つきにあった短さで、目は大きく、子供の夢を全て映しているかのようにキラキラ輝いている。しかし頭の頂点から生えているのはれきっきとした髪の毛と同色の、ウサギの耳だ。
「久しぶり、入矢!」
「まったく、ノワールのセキュリティをものともしないとは、さすが不思議の国の住人だな」
 呆れ半分、関心半分で入矢は溜息をつく。
「でも、ホント、入矢は赫が似合う! 口から血を吐く入矢、サイコーにいい」
 純粋に美しいと褒めているらしくその笑顔は無垢で無邪気そのものだ。
「それより、止血だろう? 死んでしまう」
 音も無く、気配も無く、黒一色の身長からしてたぶん男が、跪いて入矢の口元を拭った。入矢はされるがままに任せた。禁力を感じることができないほどに疲労しているらしい。
「ありがと、いかれ帽子屋(マッド ハッター)」
 帽子屋と言う割には真っ黒な高いシルクハットを被っているが、かぶり方が悪く、顔の半分も隠れている。帽子の下から覗く赤い唇は女性的なのだが、彼、もしくは彼女の性別はわからない。
「礼にはおよばない」
 中性的な声で返され、そのまま身体を抱え上げられた。
「タイミングよかった、本当、助かったよ。だけど、ノワールが……!」
 入矢は抱えられたまま、焦った声を上げる。
「まだ、他に仲間いるっぽい。僕らがいるからお前には手出しできないんだよぉ? ちょっとは感謝してヨ! ね?」
 マーチ・ヘイヤはそう言ってウインクした。
「おそらく、漆黒のは無事かは保証できないが、死にはしないだろう。それより今はお前だ」
「どういう意味だ?」
「カタチがうつくしぃってコトはねー、それだけで価値があるってコト」
「お前はこれから性処理の道具にされるところだろうって話だ」
 入矢が目を見開いた。
「まさか、俺のために? ノワールが……?」
「うーん、そうかもしんないしー、違うかもしんないしー。ま、僕らソッチ系はお仕事じゃないしー」
 これまたとびきりの笑顔でマーチ・ヘイヤが言い切った。
「まぁ、案ずるな。お前たちはチェシャ猫が目をかけていたのだろう? なら、漆黒のが死ぬって最悪な事態は避けられるだろうさ」
 入矢は不審に思い、二人を眺める。
「まさか、チェシャ猫が、そんなことを?」
「するヨ。だってそれがアイツの仕事だもん。それにお前、実はスゲー力、持ってたみたいじゃーん」
 マーチ・ヘイヤがとことん愉快と言いたげな笑顔を絶えず浮かべる。
「力? 何の話だ?」
 またまたーとマーチヘイヤが笑う。
「まさか、反魂を行うとはねッ」
「まったくだ」
 呆れた声がシルクハットから聞こえた。
「つらいだろう。反魂は全ての禁力と同等の生命力を使う。しばらく身体は使い物にはならない」
「あ、やっぱその反動なのか。動けないの」
 入矢は納得したようにそのままマッドハッターに抱き上げられるに任せた。
「で? おれをどこに連れて行くのさ」
 入矢はこの二人に敵わないことを知っているから抵抗こそしないが、声は低く問う。
「やぁだなー、そんな怒んないでよ。アイツら、いま僕タチが追ってたんだよ」
「お前らのターゲットだったのか?」
 あり得ないことではない。彼らはこの快楽の土地最強、最高の殺し屋だ。しかも殺し方が、いやターゲットの決め方が尋常じゃない。狂っている。目に止まったもの誰でも気に入らなかったら殺す。
 入矢がこうやって気軽に話せるのも、助けられたのも、一重に過去にマーチヘイヤに気に入られたからだ。気に居られたらそれこそ依頼でもない限り殺されることはない。
 というか、この二人に殺しを依頼するからには自分も殺される覚悟が必要だ。何せ、認めたものしか殺さない対象外にならないのだから。
「ちがうの。あいつら、何かわからないんだけど、チリってくんだよね」
 そう言って三月ウサギは項を手で撫でた。
「あいつら、僕ら不思議の国の住人を敵視してる気がする」
 不思議の国の住人と呼ばれる人間は物語に沿ってその登場キャラクターに合うだけの人数しか居ない。つまり極わずかな人間だ。だがそれとは逆に半端ない神のような強さ、特技を持っている。
 例えばこの二人。殺し屋の彼らに敵う人間というのは存在しないだろう。本気の彼らの相手として務まるのはやはり不思議の国の住人だ。もう一人例に出そう。イモムシ。彼女の情報網とその情報処理能力は半端じゃない。求めればどんな情報も出てくるということは全てを視て、いるのだ。そしてそれを記憶しているということ。どのような方法かはわからないが。
「そりゃ、生命がいくつあっても足りないじゃないか」
「ところがそうじゃないみたいなんだよねー。いくらでもなくなってもいい、命の数をそろえてるんだよ。アイツら。だからキリがないし、本質をつかめない」
 三月ウサギが言った。
「不気味だよ。僕らいちおー不死身じゃないしー、警戒(気に)し始めた不思議の国の住人は多いんだー。僕らもそのうちの二人ってわけー。あ、三人かぁー」
「え……? そんなに、か?」
 入矢は不安になった。神の如く強い不思議の国の住人が警戒?
「イモムシとかチェシャ猫とかわかってそーなヤツは?」
「チェシャ猫が動き出したらそれこそ怖いジャン? 階層移動だって考えなきゃじゃん」
「は?」
 不思議の国の住人の基準はわからない。チェシャ猫はそれだけ同じ格があってもすごいのか??
「これは秘密だが特別に教えてやろう。私たち、不思議の国の住人はもともとは入矢みたいな人間と変わらない徒人だったんだよ?」
 いかれ帽子屋がくすくす笑いながら言う。
「君たちとはちょっとちがくなったから、線引きがされただけ。怖いものだって残っているさ。だから怖くなったらわたしたちも逃げるってことだよ」
「ま、ホントのことは、第一階層に行けばわかるから!」
 三月ウサギは笑った。耳がぴくぴく動いている。警戒しているというのは本当らしい。
「そうそう。でも、今回のことはちょっと異常さ。クィーン・オブ・ハーツ(ハートの女王)も動きだしたってハナシ。あ~ぁ、動きにくいったら無いよぉ」
 クィーン・オブ・ハーツ通称ハートの女王は入矢も数えるほどしか遭ったことはない。彼女は第二階層と第三階層を行き来する。見ないということは現在は第三階層に居るのだろうか。三月ウサギのハナシからすると第二階層に帰ってくるということかもしれない。確かにそうなれば少し面倒だ。
「でも、そんなに不思議の国の住人が警戒するなんて俺は聞いた事が無いぞ」
「あー、そうかもね。でも時々あるよ」
 あくまで軽いノリで三月ウサギは言い切った。
「ホラ、ここって自由な分タチ悪いからさー、正義に燃えるヤツとかいんのー」
「そいつらが原因を私たちだと思いこむ。でも、大抵は敵わなくて何事もないんだが……」
「だから、今回は異常。なんかねー聞いた話によるとぉ、結構狙われてる」
「そう。君たちのように出る杭が」
「だからー、頼まれたのさぁ。いちおー、認めたしね」
「私たちと互角に戦える美しい女傑に」
「そ。宅配便。赤いアリスのお届けモノ~」
「さぁ、着いた。後の答えは狐の御仁が応えてくれよう」
 歌うようにテンポよく重ねていく言葉の羅列は何時しか力を持ち、空間を捻じ曲げる。そんな芸当ができるもの彼らが不思議の国の住人だからだ。
「まぁた、タノシーお茶会しよーね! 入矢」
「今度は漆黒の坊やも一緒に」
「眠りネズミのお星様の朗読聴いてー」
「永遠を彷徨うお茶会を」
「じゃーねー」
「またな」
 二人の姿は蜃気楼のように消えていく。楽しい歌声だけがエンドレスで頭の中に鳴り響く。二人の蜃気楼が晴れてきた時、見知ったなつかしい建物が目に入った。正面玄関から咲哉が出迎えてくれる。
「咲哉!」
 入矢でも見惚れるくらいいい男に成長した咲哉はにやっと入矢に向けて笑い、その身体を抱き上げ、店の中に入っていった。
「御狐さまがお話があるそうでな」
「え。そうなのか。でも、俺今、体が……」
「知ってる」
 咲哉はりりしい顔を引き締めて、耳元で囁いた。
「晩夏ねえさんが、やられた。御狐さまはチェシャ猫と連絡が取れないから、いろいろ注意してたんだ。お前らのことも知ってたしな。翹揺亭は今、結構警戒態勢だぜ?」
「晩夏ねえさんが!?」
「あぁ。翹揺亭の順位が高い娼婦と男娼はほとんど身請けする。洸も身請け先に今は行ってる」
「洸が?」
 驚くことばかりだ。まさか、自分たちだけの問題と思っていたのに、実は翹揺亭に加え、不思議の国の住人も動かざるを得ない状況になっていたとは。
「覚悟しとけ。きっとお前も男娼に戻って身請けすることになる」
 そのために連れ戻しにきたんだろう、と咲哉はいった。これは友人として彼なりの気遣いだ。
 入矢はノワールに身請けしている。どんな理由かはわからないが御狐さまが身請けさせようとしているなら、ほぼ入矢も身請けしなくてはならないだろう。だから、事前に知らせる事で入矢の気持ちを落ち着けようとしてくれているのだ。
「佐久にいさんも身請けした。俺もそろそろかもな」
 入矢が愕然とする。佐久まで身請けしているとは! 翹揺亭の身請けは二種類ある。本人らが望んで身請けするものと情報を長期にわたって得るためにわざとターゲットの元へ身請けされるものと二つ。現在は後者だ、確実に。