025
「御狐さま、咲哉参りました」
なつかしく、お入り、という優しい声が響く。入矢を抱えていると知っているかのように襖が自動的に内側から開いた。中から爽やかな香が漂う。
「久しいの、入矢」
ふわりと微笑まれて、入矢は深く頭を下げようとして、できないことに気づき、目線を下げた。
「構わない、咲哉、入矢をこちらに」
抱えられたまま、傍に行く。ふっと息を吹かれ、その瞬間に強張ったからだがすんなりと動き始めた。
「体がままならぬのは不自由でしょうから」
「お久しゅうございます、御狐さま」
体が動くようになったと理解した瞬間、入矢はその場で深々と頭を下げた。
「顔を上げて、よく見せて頂戴」
白く、細い手が入矢の顎を上向かせる。先ほどの誰とも知れぬヤツらとは違って、入矢は思わず、頬を染めた。くすっと御狐さまが笑う。
「ずいぶん、綺麗になったこと。やはり恋を知り、身体を重ねて初めて艶と色が滲むからね」
髪を梳くその手つきは本当に優しい。
「御狐さま、よければお教えください。俺達を襲ったのは、誰です? ノワールは?」
「お待ち。入矢」
御狐さまは入矢を制して、鏡を手にした。
「ようやくお話できますね」
鏡に向かって御狐さまが言う。鏡から聞こえた声は入矢もよく知る声だった。
「まぁねー。今、ちょい、忙しくってね。で、何の御用でしょうかァ?」
「そうでしょう、階層を移動しないなんて真似、わたしも初めて見ました」
鏡の中には誰も映っていない。入矢は確かに聞こえてくるチェシャ猫の声はどこからと不思議に思う。
「まぁた、上手な嫌味ィ。御狐さまのことないがしろにしたわけじゃァないんですよォ?」
「……お忙しいのでしたね、では本題に入っても?」
「いいですよォ? なんでしょォか」
相変わらず人を不愉快にさせる話し方だった。
「ここ一連の流れ、どこまでつかんでいらっしゃいます?」
それは確信をつく一言だった。その答えで入矢は全てを知る事ができる。
「……ずるいなァ。俺にだけ喋らせるんだァ? じゃ、逆に。御狐さまは誰の仕業か、言えますねェ?」
ニヤついている顔が見えるようだ。
「……黒白(こくびゃく)の両面(ふたおもて)、違いますか?」
「じゃァ、大丈夫っすよー。ほぼ、考えていることはァ、一緒ですねェ」
鏡に初めてチェシャ猫の顔が映る。やはり笑っていた。ただいつもと違う笑みに思えたのは何故だろう。
「ただしィ、フタオモテだけの仕業じゃァない。逆にここ一連の流れはフタオモテじゃないんだナァ、コレが。アイツにしちゃァやることが直接的すぎんですよォ。そう思いません? 御狐さまァ。ここまでかなァ、俺が言えるのはァ。あとはイモムシにでもォ?」
「余裕ですね。あなた方も狙われていますのに」
「自分の命よりオモシロイコトが起こりそうなんでェ。そうそう、そこに入矢いるかァ?」
「なんだよ、お前」
入矢は鏡を覗き込んでちょっと黙った。また姿が変わっている。
「お前が捨てた世界をちょっとご紹介ィ~。今なァ、タクトが死にかけてなァ、それを助けたおかげで、莫大な金を手にして、お前に捨てられたカワイソーなアラン君はその金を何に使うでしょうォか?」
入矢が顔をしかめる。本当にアランにはすまないことをした。約束までしたのに、結局あのまま別れてしまった。しかもノワールによって大怪我したとも……。
「アイツら、コツをつかんだらすぐに第二階層に上がってくるぜェ。その金があるんだもんよォ。お前、オチオチまた家族ゴッコでもすんのかァ? 今度はノワールも一緒に、さァ」
ニヤっと唇を吊り上げたチェシャ猫の言わんとしていることに入矢は引きつった。そんな馬鹿な。
「お前は、俺に第一階層に登れ、って言いたいのか?」
「ご名答ォ~。早くしろよ、でねぇと追いつかれるゼェ?」
入矢が押し黙る。チェシャ猫は反論がないことに少し残念そうに眉を下げた。
「ノワールは今、どこにいるかわからない。ゲーム続行は不可能なんだ」
入矢が唇を噛み締めて呟くと、チェシャ猫が初めてその顔から笑みを消した。
「何だと?」
そこで入矢は簡単に先ほど起こったことを伝えてやった。チェシャ猫は一瞬、笑みを浮かべることを忘れ、すぐさま思い出して笑い、入矢に言った。
「じゃ、安心しなァ。ノワールは俺が連れ戻してやるヨォ」
「本当か? なぜそこまでお前がしてくれる?」
入矢は先ほどのマッドハッターとマーチヘイヤの言葉を思い出して尋ねる。彼の役目とはなんなのか?
「お前らを気に入ってるからさァ」
「そんな理由だけで?」
「そうさァ。俺達は不思議の国の住人。やる事成す事おまえらの基準ではかっちゃいけねェなァ」
「……本当に? お前の仕事は案内人じゃないのか?」
「だからお前のところにノワールを案内してやるって言ってんだろォ? 珍しく迷子なノワールを、さァ」
「物は言いようだな」
「あァ。だからお前は御狐さまの言う事を素直に聞いてるんだなァ」
クスクス笑いながらフェードアウトしていく声に入矢は溜息をついた。だが、本当にマッドーハッターたちの言うとおりになった。ノワールはチェシャ猫がどうにかしてくれるらしい。ならば、自分はノワールと再び歩む時のために、できることを……!
「御狐さま、俺ができることはなんです?」
御狐さまはいつも微笑んで閉じられているその細い目を開けて、艶がかった唇に言葉を乗せた。
「翹揺亭に手を出したからには、それ相応の覚悟が必要、ということを教えてやらねばね。ヤツらは私の愛しい娘を一人奪った。それも華の娘を。お前も、よくその眼にお刻み。晩夏の最後を。最後まで美しく気高かった我が自慢の娘を」
手を翳された瞬間になつかしく、優しく大好きだった晩夏の姿が映った。
「これだから女は信用できん」
目の前にいるのはまだ若いといえる男だった。おそらく30代の中ごろだろう。ただその身にまとう雰囲気がその男をもっと年上に見せている。真っ赤な晩夏の髪をつかみ上げ、顔を覗き込む。
「何か申すことがあるなら聞いてやってもよいぞ?」
晩夏は男を見上げ、口を開かなかった。その目は、真っ直ぐ男を射抜き、決してなびかない。強い強い女の目だった。その目を見た男は嫌悪感を顕にし、晩夏の頬を殴り飛ばした。殴られた衝撃で吹っ飛ぶ晩夏の腹の上に、男の脚がどすっと落とされる。ぐふっと短い吐息と共に赤黒い血が大量に吐き出された。入矢は目を見開く。舌を切り取られた??
話さないのではなく、話せないのに、この仕打ちはなんだろう!? だが、おそらく晩夏は話さないつもりなのだ。
「翹揺亭はこんな醜い雌ブタの飼育場なのか?」
晩夏の目に怒りが宿る。だが、何もせずただ男を睨むだけだ。挑発に乗らない様子に男は肩を大げさに落とした。
「まぁ、いい。そのうち素直にもなろう。私はな、そういう目を歪ませ、私しか映さなくするのがすきなのだ。お前を苦しめる方法などいくらでもある、なぁ?」
いやらしく笑う男はそのまま晩夏の腕を捻り上げ、鈍い音を立てて骨を折る。晩夏の額から脂汗が浮かぶが、晩夏は一言も苦悶の声を上げはしない。男はそのまま晩夏への身体的な拷問を続けたが効果が無いと分かると、方法を今度は性的暴行に切り替えた。
最初は何十人もの男に抱かせ、輪姦する。白濁に塗れ、体力的にも限界が訪れても、晩夏に休息は許されない。胸を揉みしだかれ、下半身に二人の男を受け入れて、それでも晩夏は一言も口を利かない。男はそれをにやにやして見つめ、男を下がらせた後に、自ら傍により、晩夏の脚を最大に開脚させて固定する。
白濁に塗れた晩夏の秘所に指を突っ込み、具合を確かめると、身近にあった道具を代わる代わる突っ込んでいく。女性の性器はなんでも物を入れる場所でも思っているのか、入れては物を変えて入れる。晩夏の苦痛はどれほどのものか。これほどの辱めという言葉では言い表せない行為を男は永遠に続ける。
最初は細く、短かったものはどんどん長く太いものに変わっていく。男は酒を入れるビンを晩夏の秘所に当て、押し込んだ。そのまま無理矢理晩夏の身体を上向きにさせたので固定された脚の関節が完全に破壊される音が響いた。そのままビンを出し入れし、男は嬉しげに笑う。晩夏に口づけを落すと、そのまま口腔内を貪り、自らの口から晩夏の血を流し、恍惚する。出し入れされ続けたビンには、複数の男の精液がたまっていた。
「こんなに飲んだのか。欲張りめ!」
飲んだのではない。飲ませたのだ。だのに男はそう言って怒りを顔に張り付け、ビンを晩夏の頭に打ちつけた。ビンが割れ、晩夏の頭に白濁の液体と晩夏の新たな血が流れる。晩夏はそれでも凛としていた。入矢はもう、いいと叫んでいた。
「さすがに、ここまですれば口を割るものだがな……」
困ったように言う男に晩夏の声が初めて響いた。それは、舌がない晩夏の声帯から発せられたのではない。禁力を用いた意思の現われだった。
『その程度?』
だがその一言で男が激怒したらしい。パーンと軽い音がした。ぐちゅっとそのままめり込ませていく。男はこともあろうか、晩夏の秘所に拳銃をつきつけ、撃ったのだ。銃口が晩夏の中に埋め込まれて間もなく胎から鮮血が溢れてくる。
「血が赤黒いなんてのは、嘘だな。なんて綺麗な真紅なんだ。わたしの、愛する赤」
ほうっと恍惚に入った男は涎を垂らして、晩夏の白い胸にナイフをつきたてた。ぐさっと深く突き立ったナイフはそこで晩夏の命を消した。晩夏は一度、まるで翹揺亭のだれかが居るかのように虚空にむかって微笑むと静かに目を自ら閉じた。
男は狂気のまま、晩夏の死体を辱める。白い乳房を噛み、乳首を噛みとって喰い、その乳房をナイフで切り取る。真っ赤な胸に大きな赤い穴を開けた晩夏はそれでもなお、美しかった。長い晩夏の髪を切り、陰毛を剃って、そこに舌を這わせ、男は舌で晩夏の体を舐めまわす。晩夏が生きていたうちに最後に流した真紅の血を丁寧に舐め取っていく。
それが終わるともう、いらないというように晩夏の元から男は去った。
「これのまま晩夏は帰ってきたの。翹揺亭に」
入矢は涙を流していた。あまりにも言い表せないほど、ひどい。
「誰なんです?アイツ」
「レッド・ジャンキー」
襖の奥から声が響いた。顔を出したのは、佐久だった。
「佐久にいさん」
「ヤツが好み、愛するのは赤、という色だけだ。だから、アイツのあわせて赤い髪の晩夏を、いや、晩夏しか居なかったから、行かせて、このザマだ」
「わかったね? 入矢。お前の仕事は……」
入矢はこくん、と素直に頷いた。本当なら、こんな変態で気持ち悪いやつのトコなんかごめんだ。しかも晩夏が失敗しているとなれば自分だって無理な任務ではないのか。だが、そうも言っていられない。ただ殺されたなら、ただ失敗してしまった結果なら。だが、これはひどすぎた。
――ヤツは翹揺亭を侮辱した。いや、そんな言葉では言い表せない!!
「俺があのレッド・ジャンキーを殺せばいいんですね?」
自分の赤い髪。より真紅を好むなら、入矢以上の真紅はない。
「ええ。行かせたくはない。でも、晩夏のために」
「わかっています。この命を使うこととなっても!!」
御狐さまはそこで少し困った顔をして、微笑んだ。
「だめよ。そんな気持ちでは、あの男には勝てやしない。だからこそ、佐久を呼んだ。あなたはすでにノワールさまのものなのだから、命を自分のもののように扱ってはだめ」
御狐さまはそう言って、佐久に頷いた。
「入矢、もう男に抱かれても大丈夫か?」
「それは……いえ、大丈夫です」
佐久はそれでももう一度尋ねた。
「言い方を変える。ノワール以外に抱かれても平気か?」
入矢は少し絶句した。でも、ノワールの顔を、そして自分の決意と何のために翹揺亭に行こうとしていたかを思い出した。入矢は御狐さまの方を見る。
「御狐さま、あの男を殺せたら、この一連の状況お教えくださいますか? 報酬として」
「報酬として貴方が情報を望むなら、望むだけ与えましょう」
ぱちりと御狐さまの扇が閉じられた。入矢は頷いて、佐久にも向き直って頷いた。
「では、こちらに来い。今からお前に翹揺亭の一の頭になったものに与えられる秘伝の技を伝えよう」
佐久は表でも裏でも1番の実力の地位に輝いたことはないはずだが……一の頭とは、と入矢は思った。それに自分に教えてくれるならば、自分も一の頭というものだなだろうか?
「俺も藍さまに教えていただいた」
すでに現役を退き、愛した者の妻となっているはずの先輩娼婦の名を挙げた。そういえば彼女も一番ではなかった。佐久は考えをめぐらす入矢を横目で見つつ、翹揺亭でも御狐さまの居住スペースである場所の奥へと導いていく。入矢に至っては足を踏み入れるのでさえ初めてだった。その一室に佐久は迷わず入っていく。
「佐久にいさん、ここは?」
「御狐さまのお部屋の一つ。ここなら絶対結界。誰も聴けないし、視れない。だから知られないんだ」
佐久はそう言い、後手で戸を閉めるとすでに布団が敷かれている床の上で着物の帯を解いた。
「脱げ」
「は、はい」
入矢もシャツのボタンを一つ、また一つと外した。ノワールの時とは別の緊張感がある。佐久の裸体を見て、ぼぉっとしてしまう。あまりにも綺麗で。見惚れてしまって入矢は脱ぐスペースが格段に遅いが佐久は何も言わずただ、入矢が脱ぐのを待ってくれた。
「一回やれば覚える。案ずることはない。だがもっていかれるな。これは禁術とを組み合わせた本当に秘伝の技だから。誰も知らない翹揺亭でも一握りのものしか」
「……一の頭って、何です?」
くすっと佐久は笑った。入矢の頭を撫でる。
「そのうち、わかるさ」
佐久はそう言って入矢に口づける。入矢もそれに応えた。ノワール以外で初めて近しく、親しい者と交わった入矢は、翹揺亭の期待の星として、敵中に乗り込む。そうして、毒を撒き散らしていく。じわり、じわりと痺れさせて感覚を失わせて、落す。
「そう、この技は禁世を揺らす。覚えておけ。危険な技だから、おまえ自身も」
佐久はそう言って、自身から入矢を引き抜かせた。入矢が命じられたことはただ、佐久を抱けというもの。でも行為が終わったあと、入矢は自分自身の肩を抱いて震えていた。恐怖からではない。興奮が抜けないからだ。性的興奮を覚えているのではない。高揚感みたいなものが抜けないのだ。
「佐久にい、さん……これ、俺もできるんです、か?」
「もう、躯が覚えただろう。なんなら俺で試すか? 今からどうせ感覚が抜けないだろうから、飽きるまで抱いてやる」
「いや、いいです。試す気なんて……起きません」
「そう言ってくれなきゃ、お前を殺さなきゃいけなかった。これはそう多用していい技じゃないからな。使う時を誤るなよ。わかってるな?」
「はい」
入矢は深刻に頷いてから、くすっと笑った。
「どうした?」
「そういえば、俺、男を抱くのは佐久にいさんが初めてでした」
「そういえば、そうだったな! そっか、俺が初めてか」
佐久も笑い、それから入矢を落ち着かせるために優しい口づけを落としていく。その口づけはノワールのときと違ってもう一度セックスをする気にはならなかった。くすぐったいような。安心するような。そう感じているうちに、いつしか入矢は眠りについていた。
佐久はそんな入矢の髪を優しく梳く。
「お前は死ぬなよ、入矢」
佐久はそのまま入矢を抱きかかえて部屋を出る。途中で待っていたかのように控えていた咲哉に入矢を渡すと佐久もまた、再び敵中に帰るべく、着物を着なおしていた。背後から見知った気配を感じてもそのまま支度を続ける。ふわりと抱き締められて、佐久はようやく手を止めた。
「俺を一人にするなよ、佐久」
「子供じゃねぇんだから、甘えるなよ。黒鶴」
軽くいなすようにして頭を撫でてやる。
「お前が死んだら、誰が俺との仲を取り持つんだ」
「自分でそれくらいやれ」
「お前が死んだら誰が俺を最後まで満足させるんだ?」
「新しい相手を見つけろ」
「お前が死んだら、俺は愛を紡ぐ相手がいなくなるんだぞ?」
「だからどうした」
最後は優しく、佐久は言った。抱き締めている腕に自分の腕を絡ませて佐久は微笑んだ。
「死ぬって決まってないだろ?」
「でも、お前は入矢に技を授けた。死ぬ許可が下りたんだろ?」
「御狐さまがいればそんな制限は存在しない。御狐さまが新たに授ければいいんだから」
「……そう言ってお前は簡単に捨てるのか。俺も、お前の命さえ」
「いけないか?」
佐久がきちっと身につけた着物を無理矢理胸を開かせて黒鶴は心臓の上に手を置いた。
「死んでいいのは、お前じゃない。お前にはまだ死ぬ許可なんて下りてないぞ」
「どうせ許可を下ろすのはおまえだから、一生おりないな、それ」
佐久は笑って体の向きを変え、黒鶴に向き直る。
「死なない努力はするさ。でも、もし、死んだなら一番にお前に会いに行くから……」
「死なないでくれ」
切実な願い。黒鶴の。だがそれに情熱を燃やすほど佐久も黒鶴も若くは無かった。入矢のようにただ一人を想い続けて、行動することはもう、出来ないことだった。
「入矢は生き残る。晩夏とは違う。あの子は決意が俺達とは違う。外を向いているから」
佐久はそう言って黒鶴と最後かもしれない口づけをした。