毒薬試飲会 015

033

 岩場だけの場所、というのもここ、快楽の土地では珍しい。それもそのはず、この場所は昔、核実験に似たことが行われ、土地はすべて爆風に消され、荒れた土地と、封じ込められた汚染された空気のみが存在している。
 そして人が現れぬ場所にこそ、不思議の国の住人が住んでいたりするのだ。
「ったく、こんな場所に来させるなんて」
 その空間に足を踏み入れた非常識者はハートの女王と王の二人。ハートの女王の手にはいまだ、剣が握られている。彼女が臨戦態勢である証拠だ。
「仕方ないよ、姉さん。アイツのウザさは、公害だから」
「んーそうね。だからこそ、アイツに会う前に彼女に会っておきたいんだけど」
「紙兵に探させようか?」
「いいわよ。適当に歩けば見つかるわ。ここ、広くないもの」
 ため息をついて歩き出す彼女に小さな子供は後を追う。しかし、次の瞬間、その歩みを止めた。
「あっちゃー、どうも、久日ぶりですね、女王陛下」
 奥のほうから声がする。姿こそ見えないが、おそらく入ってきた者を監視していたのだろう。
「よかったわ、あんたに先に会えて。……グリフォン」
 岩の陰からすらりとした長身の女が現れる。その背中には小さめのサイズの黄金に近い褐色の翼がついていた。胸を下半分露出しているにもかかわらず、その首周りにはまるで鬣のように翼と同色の羽が襟というには多すぎる量がついている。そして左半身だけ露出されているため、すらりとした美脚がさらされていた。
「陛下もいらしていたんですか」
 あんまり会いたくなかったという表情を隠しもせず、女は釣りあがった形の眉を気持ち下げて笑う。
「あんたたちに頼みたいことがあんのよ。あのウザ亀の元に連れてきなさい」
「頼みって……命令じゃないすか、結局」
 半諦めといった様子で女は二人に背を向けた。彼女が歩く先に二人の目的の人物がいる。

 入矢が赤狂いを受け入れた瞬間、入矢から噴出したように禁力が出現した。
 ハーンは目を見開く。それはタクトが歌を歌うよりたちの悪い圧倒的な量だった。禁世を目視できる二人には、この部屋一帯が真っ赤に染まったように見える。
 しかし、それだけではすまなかった。入矢の禁力に引きずられて、アランからも禁力があふれ出している。入矢が禁力を向けた相手は赤狂いだけだが、アランはそうではない。
「あ、ああ」
 アランのうめき声にハーンは危機感を感じ、必死に入矢の禁力をシャットダウンさせる。
 アランはそれで荒い呼吸を繰り返しながら、必死に禁力を押さえている。いや、瞳の十字架が光っていることから、ハートの女王が何かをしているに違いない。
 もしかしたら禁術を使うこともできなくなっているのかもしれない。とりあえず、入矢の禁力に引きずられただけのようだから、これでアランは大丈夫だろう。
 ハーンは続いて入矢に視線を向ける。あいつは何をしようとしている??

 入矢は受け入れた瞬間に佐久にやられた技を用いた。これは禁術とはかけ離れている。入矢はこの技に恐怖した。あまりにも多用してはいけない、恐ろしいと感じる技だった。
 それはすなわち、自身が禁世を揺らし、相手を禁世に引きずりこむ。受け入れる側しかできないのは、自らの禁力から禁世を揺らす必要があるからだ。もし、攻める側が行えば、自身の禁力を注ぐことはできても大量の禁力、すなわち禁世を開いても相手を巻き込むことができない。
 相手を反撃も対応する間も与えないためには相手と繋がっているときしかないのだ。だからわざわざ佐久は入矢に自身を抱かせたのだ。
「わかったか? 意識は飛んでいなかったようだね」
「は、はい」
「俺の望むままに入矢は動く。今はな」
 そう、相手の意思とは関係なしに相手を禁世に飲ませるのだ。そして、相手を廃人にさせる。廃人化させてから、脳を分析し、相手の過去を知る。
 それは死体から脳を摘出することと同じようなもので、人間の脳を禁術で探るのだ。しかし、禁世の揺れ幅によっては相手を操り人形のように自在に従わせることも可能だ。
 一瞬でなすすべもなく禁世に飲まれた赤狂いは恍惚とした表情を浮かべ、意識を飛ばした。
 入矢は禁力コントロールを緻密に行い、自分の技がうまくいったことを確認した。そしてハーンとアランの方を見る。二人がもし同じ空間にいて入矢の技に巻き込まれたらと案じていたが、さすがハーン。アランをも守ってくれている。
 ほっと一息入れ、入矢は赤狂いを抜いた。
「やっと終わったか。賭けを無意味にしようとしていたのはお前だけじゃないんだよ」
 一瞬で溢れ出ていた禁力が入矢を中心にして消えていく。入矢はそのまま赤狂いを捨て置くと、倒れていた男が着ていた服を嫌そうに着込み、アランとハーンに近づいた。
 そのあまりに平気な様子にハーンは驚き、アランはわけがわからないと言いたげに混乱している。
「アラン」
 初めて、久々の再開の中、その視線がまっすぐアランに向き、声をかけられた瞬間だった。

 すん、すんと鼻をすする音がして、泣き声が響いている。
「あー、ウザ」
 ハートの女王が唾を吐き出さんばかりに言った。
「ほら、泣き止みなさいって。恐ろしい……おっと、珍しいお客さんよ」
 泣いていた少年が膝に埋めていた顔をゆっくり上げた。その目は光を捉えない、淡い緑色をしている。
「それにしても、チェシャ猫から注意があったというのに、あなた方はまだ上っていなかったのですね? それにしてもいつものことですが、彼はなぜ泣いているのです?」
 ハートの王はそう言って、呆れた調子でグリフォンに尋ねた。
「いや、上がろうとはしたのよ? で、こっから出たわけ。そしたらねー、男にコイツ、輪姦されちゃって、で、泣いてるのよ。またヤラれても困るから待ってんだけど」
 確かに少年はこの土地で格好の獲物と言わんばかりの美しさを持ち合わせている。緑色に束ねた長髪だけでも女に見えると言うのに、ビキニの延長のような格好はどう考えても男を誘惑しているようにしか感じない。
「ぼくを……抱こう、なんて、……なんて、かわい、そうな、ひと……なんだ。ひっく、ぐずっ」
「ちょっと、ウザいから泣き止みなさいよ、ニセ海がめ」
 ハートの女王が怒鳴ると肩を大げさなほど動かして、泣き声を止め、涙を流しつつ聞く体制になった。
「気にしないほうがいいわ。きっと泣き止まないから」
 手の先さえ見えない、まるでスカートのような幅が広く、そして丈が異常に長い両袖は涙に濡れて、重さを持っている。その腕で顔を半分隠しつつ、彼は挨拶する。
「お久しぶりです、ハートの両陛下」
「で? 何のようです? あたしたしももうすぐ上がるんですけどね」
 ニセ海がめと呼ばれている不思議の国の住人は同様の疑問を視線に乗せて伺う。
「チェシャ猫が禁世に入ったの」
「えぇっ!? あたしたちには階層上れとか言ってですかぁ?」
「チェシャ猫、もうダメですね。大丈夫なんですか?」
 二人同時に尋ねる。ハートの女王は呆れたように言った。
「さぁね? 強がってたけどね。だから、あんたたちに一応知らせに来たのよ」
「わかりました。でも、陛下は? 助けてやらないんで?」
「あたしたちは、アイツに頼まれていることがあるからね」
 ハートの女王がそう言った瞬間、王が心配そうに見上げる。
「では? やはり行くの? 姉さん」
「そうよ。アランの所有印は不完全。完全にするために、アランを追うわ。カタがついたら、あの女、クリケットに招待してあげるわ」
 それを聞いた瞬間にグリフォンとニセ海がめは驚く。
「クリケット開催ですか? そこまでした相手は誰です? ってか、この流れ誰の仕業です?」
「あんたらも知ってるでしょ? チェシャ猫の誘いを断った女の一人よ。黒白の両面」
 思い出して怒っているのか、女王陛下はチと舌打ちした。
「あ、あの人形師ですか!? 大丈夫ですか、あの女、タチ悪いじゃないですか?」
 驚きと好奇心でグリフォンは口笛を吹く。
「あんな危険因子を放っておくから、こんなことになるんですよね。チェシャ猫の怠慢ですね」
「アイツは駒となって働いてくれたなら、他はどうでもいいんだよ」
 ぼそっとニセ海がめが呟く。
「まぁ、わかりましたと言っておきましょう」
 グリフォンの言葉にニセ海がめは頷いた。
「わかったならいいわ。じゃ、頼んだわよ」
 踵を返したハートの女王と王に向かって、ニセ海がめがぼそりと言った。
「もし、の場合はボクらで殺していいですか?」
「あんた、あたしの言うこと聞いてた?」
 殺気を放つ女王が、振り返った瞬間にその剣を振り払う。刹那、すさまじい衝撃が襲い掛かる。
 だが、その攻撃も立ち上がったニセ海がめの前では消えてなくなってしまう。感情を映さない虚ろな目がぼそっと主張する。
「聞いてました」
「なら、いいわ。好きになさいな」
 ハートの女王はそれだけ言うと今後こそ振り返らずに二人から離れていった。
「あんた、命知らずね。女王の獲物掻っ攫うなんて」
「ボクら、不思議の国の住人はチェシャ猫の哀しい願いを知っている。だから、彼のためならボクは努力を惜しまない。陛下だってそう思ってるからこそ、彼に協力してるんでしょ」
「さー、どうかしらね?」
 すかした笑いを浮かべ、グリフォンも外に出るべく歩みだす。そしてそれにニセ海がめも続いた。
「さ、行きましょうか」
「うん」

「アラン、すまない。大丈夫か?」
 入矢はそう言って、二人の拘束を解こうと禁術を発動させる。金属音が響いて簀巻き状態からやっと開放された。続いて足枷と手枷もはずされる。
「あなたも、巻き込んで申し訳ない」
 入矢がハーンに向かって頭を下げた。ハーンは無言で返した。目の前に会うことを焦がれた入矢がいるというのに、アランの思考は冷静さを保っていた。その前までの状況が異常だったからかもしれない。
「フェイさん、一体、今回のことは?」
「ああ。それも俺がわかっている範囲で説明する。そのために、この男に身請けされたんだ」
 入矢は振り返ると意識を飛ばしている赤狂いに向かって命令した。
「“起きろ”」
 赤狂いは今までの奇行が何処へ、と疑いたくなるほど、従順に入矢に従い、行動を忠実に守る。
「“話してもらう。お前の全てを。まず、誰と俺を血約に結ばせようとした?”」
 殺意さえ篭るその緑色の目に赤狂いは従うことでしか生存を許されない。これからは入矢のいうことだけを忠実に守り、こなす人形だ。
「お前、禁世を揺らしたな? この男はどうなった?」
 ハーンが初めて入矢に向かって問いを投げかけた。入矢は驚いたように一瞬ビクつき、そして振り返った。
「完全支配。それを行う禁術。翹揺亭に伝わる技だ」
『入矢と血約を結ばせる。そうすれば、満足してくれるだろうから』
 赤狂いが思い出の中に浸っているような声音で話し始めた。
『おにいちゃん』
「“おにいちゃんとは誰のことだ? お前は誰の下についていた?”」
 入矢は怒りを滲ませて問う。赤狂いは望まれた答えを返すべく、口を開いた。
『おにいちゃんはあたしの白面でのおにいちゃん』
「あたし?“お前、誰の言葉を話している?”」
『あたしは……』
 赤狂いが正体を明かそうと口を開きかけた瞬間、その口そのものがなくなった。
「え」
 アランもハーンもそして目の前の入矢さえ、呆然とせざるを得なかった。赤狂いの首が突然飛ばされて、そして、気づいたら部屋の隅に激突し、残った首から派手に血を吹き上げる。
 赤狂いの首から噴き上がる血は入矢に雨のように降り注ぎ、入矢の思考を驚愕から取り戻させた。
 入矢が何が起こったか確かめようとしたのと同時に頭を失い、制御不能になった身体が入矢と反対の方向にゆっくり倒れていく。血霧の向こうに人影。
「誰だ」
 入矢が思わず叫んだ瞬間、完全に赤狂いの体が崩れ落ち、その人影の正体が明らかになる。
「ただいま、入矢」
「……お前」
 その光景にはハーンさえ、目を疑った。なぜ、今ここに彼が?
「ノワール!!」
 入矢は思わず駆け寄った。ノワールがなぜここにいる? 聞きたいことはいろいろあった。だが、その前に無事でよかった。
 入矢の体がすぐに抱きしめられる。安心してその身を任せ、入矢は久しく会っていなかった相手の匂いを吸い込んだ。
「ノワール、無事だったのか?」
「うん。一応、君を助けに来たんだけど……遅かったみたいだね」
「いや、そんなことはいい! チェシャ猫が助けてくれたんだな?」
「いや、彼には会っていないよ」
「……会ってない?」
 入矢は思わずノワールの顔を見返す。
 チェシャ猫は自らノワールを助けに行くといったはず。チェシャ猫はノワールに気づかせないように助けたのか? いや、彼の性格上そんなことはしないと思うが。
 なら、ノワールは自力でどこからか出てきたのか? どうやって?
「なら、どうやって出てきたんだ?ノワール」
「そんなことよりも……入矢、君はまた私以外の相手、しかもこんなに大勢と肌を重ねたのか?」
 ノワールはそう言って、入矢の首筋に残されていた情事の痕に触れた。
「それは! ごめん、ノワール」
「悪い子だ。もう一回、君が誰のものか、その体に教え直すしかないのかな?」
「だって! ノワール!!」
 入矢がわけを話そうとした瞬間、入矢は一瞬で項を打たれ、カクンと身を折って気絶する。その気を失った細い体を抱き上げて、初めてノワールがアランとハーンを見た。
「なぜ、その男を殺した? 漆黒の黎明」
「おや、なつかしい。黄色い虐殺者」
 ノワールはソニークに行ったことなど忘れたと言いたげに自然にハーンを見下す。直接手を下した入矢はあんなに申し訳なさそうな目をしていたというのに。
「そいつは入矢や俺らが知りたい敵の情報を持っていた可能性がある。殺すなんて、お前らしくもない」
「そんなことはないさ。入矢を傷つけるものを私は許しはしない」
 ハーンは立ち上がって、ノワールに向かい合う。
 アランはそういえば、二人がハーンの大事な人を殺したのだということを今更思い出し、口を挟むのを止めた。
「何故、お前はソニークを殺した?」
 ハーンが怒りに満ちた声を上げる。その表情はアランが見たこともないほど、憎悪にゆがみ、感情的だった。
「ソニーク?」
「忘れたとは言わせない。ソニーク・デュバリサンク! 俺の奴隷、万緑の魔女だ!」
 ああ、とノワールは視線を一旦逸らせて、口を仕方ないと言いたげに開いた。
「殺したかったんじゃない。死んでしまったんだよ」
「どういう意味だ?」
「入矢は自分の本能をすさまじい理性で押さえつけている。死に直面したとき、入矢はその理性をなくす。入矢が本能に基づいた攻撃を行ったから、結果的に死んだだけだ」
「では、事故だったと? 入矢個人のせいだといいたいわけか? お前は」
「まぁ、そうだ」
 しれっとあまりにも悪気もなく言うので、アランでさえ怒りを覚える。やっぱりこいつは悪いやつだ!
「そうそう、君か。アラン・パルケルスス、入矢が君を大事に思っていることを私は認めよう」
 ハーンとの話は終わりだ、と言いたげにノワールはアランに向き直る。
「だから、君さえよければだが」
 一旦言葉を区切り、やはり何も感情を映していない声で、ノワールが言い放つ。
「入矢を一回だけなら、抱いてもいいよ」
「は?」
 アランは突然振られた話に目を見開き、何を言われているか理解できなかった。
「君が入矢を追い回すのは入矢が好きだからだろう? このままずっと追いかけられても迷惑だ。一回セックスして、すっぱりあきらめて欲しい」
「体さえ繋げればアランが満足するとでも思うのか? お前」
 ハーンが怒った調子でノワールに怒鳴った。
「所詮、愛だの、恋だの、そんなものは人間の欲に過ぎない。性欲とつながっているものだろう? だからさ、一回なら私も認めると言っているんだ。君は入矢を抱きたいんだろ?」
 アランを見下して言う姿に怒りを覚える。
「入矢の都合はお構いなしか」
 ハーンが気を失ってしまった入矢を見て、低く問いかける。
「何を思う必要がある? こんなに大勢の男に抱かれても平気な男だ。君一人、なんでもないさ」
「お前、入矢が何のためにこんなことをしたかわかっていないのか!?」
「私のためさ」
「お前は入矢がアランをどう思っているか知っているだろうに、そんなことを持ちかけるのか?」
「入矢は私のものだよ」
 それを聴いた瞬間、アランの中で何かが反応する。
(入矢は俺のモンだから何したって許されるんだよ!)
「同じだ」
 アランが低く呟く。全身から殺気が迸った。アランから吹き出てくる禁力を感じてハーンが目を見開いた。
「フェイさんがお前のものなら、フェイさんのことは気にせず、何をしてもいいのか?」
「愛で繋がっているからね、私たちは」
「愛し合ってれば互いを思いあわなくてもいいのか?」
「愛が自分の思い描く形しかないと思わないことだ。入矢は支配されたがっている。私に。だからこそ、私を魂の支配者として血約を結んだんだろう」
「違う! フェイさんはそんな人じゃないし、そんなこと望んでいない」
 アランがそう言って叫んだ瞬間に、部屋中が真っ赤に染まる。
 一瞬で部屋を埋め尽くしたアランの禁力にハーンはついに二の舞が起きてしまったと青ざめた。自分が少しばかり、興奮してしまったが故に、アランの心の乱れを感じ取ることができなかったのだ。
 しかし、赤狂いと違ってノワールは余裕でアランを見ている。
「稚拙な。自分だけが禁世に飲まれていると思ったら大間違いだ」
 静かなノワールの声とともに、ノワールからアランと同量の禍々しい禁力があふれ出した。
「馬鹿な!」
 ハーンが叫ぶ。禁世に飲まれるということがこんなに起こっていいわけない! この二人、何だ?
 ハーンが密度の濃い禁力に周りを圧迫されながら、二人の様子を伺うことしか出来なかった。