毒薬試飲会 016

10.ダイオキシン 上

034

 ああ、かの人の目線がいとおしい。
 かの人の示す指先をいつも追ってしまう。
 だからこそ、こんどこそ。
 かの人の視界に入りたいと望み、
 いつしか。

 かの人自身を蹂躙したくなったのだ。

 「毒薬試飲会」

 10.ダイオキシン・上

 いつもは奥の座敷には決まったものしか出入りできない、翹揺亭最奥の住まい、そここそが御狐さまの生活空間だ。
 しかし、今宵にいたって、その部屋に見知らぬ男が通されている。
 青い髪を見事なオールバックにして撫で付け、きちっとストライプのスタイリッシュなスーツを着こなす男。
「貴様っ……!」
 その男は周りを翹揺亭の者に囲まれ、ありえない殺気を向けられているにもかかわらず、平然と御狐さまの対面に座し、茶をすすっている。
「何と申されました?」
 御狐さまではなく、その横に付き従う弥白が厳しく問うた。男はしれっと答える。
「だからぁ、言ってんだろぉ? 入矢のことに手ぇ出すなってさ。あいつはおめーらの手からは離れてんだろぉ? じゃ、こっちの事情に首突っ込まないでほしいわけ」
「入矢は翹揺亭出身! 家族同様です! 家族を心配して何が悪いのですか?」
「家族ぅ? はっ! あんたら家族ごっこなんかしてるわけ?? 悪趣味ぃー。な、おきつねさんよ」
「貴様!」
 弥黒が声を荒げた途端に、翹揺亭のすべての人間が男に向かって殺気を放つ。瞬間、男はニヤっと笑った。
「そんな俺を殺そうとしちゃっていいのかなぁ~? おれ、あんたらに贈り物持ってきてんだけど」
「贈り物?」
 怪訝そうな目をする弥白と弥黒に男はにやっと笑う。次の瞬間に扉から新たに人物が入ってきた。それはいい、しかしその男が引きずっている人物こそがここにいるすべての翹揺亭の皆を凍らせるものだった。
「佐久!!」
 声を上げたのは黒鶴だ。駆け出そうとしたのを、一瞬で弥黒に止められる。
 佐久は見るも無残な姿に変わっていた。白く美しい肌は真っ赤な血と青紫色の鬱血によって醜く変色しており、ぐったりとして動かない。真っ黒な着物が着崩され、腰に巻かれた帯でかろうじて着物を身にまとっている状況だった。
「彼はあなたに身請けしたはずの男娼ですよ? この扱いは何です?」
 弥白が怒りを隠しもせずに声高に叫んだ。
「こいつぁな、俺のかわいい部下たちを二人残して全員腑抜けにしやがった。それが起こった時に俺様のそばにいた二人残して、全員だぁ」
「腑抜けっていうよりか、全員殺されたってのが正しいが……」
 新たに入ってきた人間が佐久の髪の毛をつかみ、顔を上げさせる。美しい佐久の顔は痛ましく哀れなほどに青紫色に変わっていた。それを見て黒鶴から殺気があふれ出す。
「だから、おしおきってやつだぁ! ……で、御狐さまよぉ、こいつを使って何をするつもりだった?」
「貴様、佐久に何をした!!」
「とある人形師に頼み込んで、同じように腑抜けにさせてもらったんだよ」
「……人形師ですって?」
「そうさ、有名人だろ? 黒白の両面さぁ」
 そう言った瞬間、御狐さまの細められていた瞳がゆっくりと開いた。

 アランから噴出される禁力とノワールから出される禁力が部屋中を圧迫し、禁力が目視できるハーンにとって呼吸困難に陥るような状況だった。完全にアランは怒りに身を任せている。
「うあぁああああ!!!」
 アランの叫びと共に、禁力が振り下ろされる。巨人の鉄槌のような圧倒的な力でさえノワールの元には届かない。すべての禁力が届かないと言いたげに何もないように振舞っている。
 実際、ノワールの髪の毛一本でさえ、アランの禁力ではノワールに触れることさえかなわない。
「禁世を理解もしていない、禁術さえまともに使えない……君では私には勝てないよ」
「うるせぇ! フェイさんを!!」
「入矢を? 返せ? 入矢をどうして欲しい?」
 くすくす笑うその顔は余裕に満ちている。ハーンは愕然とした。大勢の命をごみのように扱い、いとも簡単に消したその力が、ノワールの前では無力に等しい。
 入矢はいったい、この男とどうやって過ごしてきたんだ。こんな異常な男と!!
「さてさて、相手は私の弟ときた……。殺すわけにはいかないか」
「弟?」
「知らないの? 君は私の弟なんだよ。といっても生き別れの弟なんてことではないけれど」
 ノワールのくすくすと言う笑いが響いた。アランはその声を聞いているうちに、まるでそれが睡眠効果があるとでもいうようにひざを折り、倒れ伏す。それはまるで力を使い果たしたかのように。
 だからこそ代わりにハーンが鋭く尋ねた。
「アランに何をした?」
「別に何もしていない。この子は不思議の国の住人の誰かに所有印を刻まれている。効力が発揮したんだろう。ま、簡単に言うなら力尽きたってところかな。……さてどうしようか。あなた方はまだ、私たちに用があるみたいだ。場所を変えさせてもらおう。こんな場所は空気を吸うのも嫌になる」
 ふっとため息をつくと入矢を抱え上げ、アランに手を向けて、その姿をどこかに消してしまう。その仕草、最早人間のものとは思えない。ハーンがランク2から落ちた後、このノワールという男はどれだけ変貌したというのだろうか。
「アラン!!」
「心配しなくていい。気になるならあなたもついてきたらどうだ?」
「どこに?」
「我が屋敷へ、招待しましょう。黄色い虐殺者」
 回れ右をして入矢を抱えたノワールは屋敷を我が物顔で歩き去っていく。アランの身が消されてしまった以上、従うしかない。
 ハーンは激しい舌打ちをして、その背を追った。

 禁世を表す色といえば、真っ先に思い浮かぶのは赤色だ。赤こそが禁力そのものを表す。
 しかし、赤という色は光があってこそ、初めて赤と認識できるもので、光のない世界ではそれは等しく黒。いや、無色とも言える闇色となる。
 チェシャ猫が歩く場所はすべてが闇に染まっている。チェシャ猫は自身の姿さえ知覚することはできない。それが今の現在の場所だった。
 禁世は赤いが、光なき場所でそれは夜闇に覆いつくされた時刻のようにすべてを等しく闇色に塗り替える。
 禁世という場所はひどく移ろい易い。色、形、すべてが意思あり、力あるものに従う。
 だからこそチェシャ猫が望んだように何もないただの一面の暗闇が広がっている。これはチェシャ猫が何も望まないからこその禁世の本来の姿。
 人によってはこれは無だといい、宇宙の闇といい、無限と呼ぶかもしれない。
 しかしチェシャ猫にとってはこの場所は彼自身かなり詳しく知っている場所だし、扱いも心得ている。禁世に何か命じるほうが後々面倒であることを知っているのだ。
 視界が黒に埋め尽くされてもその足取りが止まることはない。音もなく光もないその空間でチェシャ猫は迷わず歩み、進んでいく。
 チェシャ猫の数歩先にはわずかな光だけを淡く灯す小さな蝶が光という燐粉を撒き散らしながら飛んでいる。チェシャ猫はそれを無心に追いかけているのだ。印をイモムシが穿ったなら、この蝶が飛ぶ先にノワールがいるということ。
「お待ち申し上げておりましたよ、チェシャー・キャット」
 ぼうっと辺りに赤色が血色の赤黒さから真っ赤な鮮やかさに戻っていく。この場はあの男が光を必要としたってことか。ひらひらと道案内をしていた蝶が男によって踏み潰されてあっけなく消えていく。
「誰だァ? おまえェ」
 紫と黒の縞々模様の尻尾が一回軽く揺れた。
「覚えていてくださらないとは! 少なからずショックですよ、愛しのチェシャー・キャット」
「ま、どっかで聞いたことあんだけどな、そのうっざい話し方をよォ」
「それは光栄です」
「で、てめェはこんな大層な場所に、お仲間連れて、死ぬかもしれねーのに、ご苦労なこったァ」
 男に歩み寄ってくるのはまさしく一つの影のようだ。漆黒に紫を滲ませての目視できるほどの禁力を身にまとい、悠然と歩む。それは脅しだ。だが男はチェシャ猫の禁力に恐れることなく見つめ返す。
「返してもらォかァ。ソレ、おれのモンだからさァ」
 いつの間にか男の周りに数人の男の姿が見える。そしてその男たちからノワールの気配がするのにチェシャ猫は気づいていた。この男どもをどうにかしないとノワールの元には行けないようだと、理解する。
「あなたがこうも簡単に罠に掛かって下さるとは思いもしませんでした。……そんなにこの男が大事ですか?」
男 の背後に黒にまみれた哀れなノワールの姿が見える。チェシャ猫は顔色一つ変えずに男に笑い返した。
「あァ、大事だァ。それがどォかしたかァ?」
「嫉妬します。私の心は嫉妬で狂いそうです。嫉妬のあまり、この男を殺してしまいたいと思うほどに!!」
「やめろ」
 男の狂気を一瞬で見抜き、チェシャ猫は厳しい声を上げた。男は幸せそうに笑ってチェシャ猫を見る。
「そろそろ、教えてもらおーかァ? てめェが誰で、なぜわざわざ死に場所にここを選んだのかを、なァ?」
 チェシャ猫はそう言って足につけているホルスターから銃を抜いて男に向けた。
「それでは脅しにもなんにもなりません。ご存知でしょうが、我々はここに死にに来ていますから」
「そうだろうなァ。普通の人間は禁世に一度入ったら、その体は廃人となり、朽ち果てる。精神さえまともに残されない場所だ。居れても数時間。こんな人間にとっては放射能に汚染された場所に等しいだろォに、モノ好きもいたもんだなァ」
 禁世は人間に圧倒的な力をもたらす。その代わり禁世に人間が入り込めば、ただでは済まされない。
「あなたはこと男を取り戻しに来た、そうですね?」
「わかりきったことをわざわざ聞くな」
 チェシャ猫はニヤついた笑みを浮かべる周囲の男たちに鋭く目線を走らせた。この男たちをかいくぐってノワールを助けるには、と一瞬であらゆるパターンを思考し、脳内でシュミレートを行う。
「無駄ですよ。あなたは我々の包囲網から抜け出せません。交換条件と行きましょう。この男はあなたにお返しします。その代わりに、あなたを下さい」
 男がいたってまじめに言うものだから、チェシャ猫は唖然とする。
「はァ?」
「そういえばまだ私の正体をお教えしませんでしたね。私はあなたもご存知のはず。橙色の悪魔と申します」
「橙色の悪魔ァ? レーベン・ベッカウルフだとォ? 馬鹿なこと言ってんじゃねーよ。橙色の悪魔と同じ格好しようが、同じ口調で喋ろうが、てめェはレーベンじゃねーだろうがよォ」
「その名前は呼ばないで頂きたい。橙色の悪魔と呼んでくださいませ。……そうです。外見が違いますでしょう。これは私の意志と感覚をつなぐ、いわば媒体のようなものです。有名な人形師に作ってもらったんですよ」
「黒白の両面か。そうか、てめェと組んだのか」
 チェシャ猫はやっかいな、と言いたげに舌打ちを一つ打つ。そしてまとっていた禁力を消した。
「じゃ、お前はここでのことは自分がいるかのように感じるが、実際がいなくて命の危険もなんともねーってコトなんだな? 卑怯なこってェ」
 一番厄介なのは黒白の両面の人形における技術がこんなに発達しているとは、予想外だったことだ。
「いちおー、言っといてやるけど、本気で俺とセックスすんなら、てめェの身体じゃ不十分だぜ?」
「それはどういう意味です? 私ではあなたを満足差し上げられないと?」
「違ェよ」
 包囲網を狭めてくる男どもにチェシャ猫は眉を顰めると、橙色の悪魔を軽く睨んだ。それ以上は教えたくないと言いたげだ。しかし橙色の悪魔はそれさえ理解していると言うかのように頷く。
「知っていますよ。私はあなたのことを本当に愛しています。だからあなたのことをありとあらゆる情報を使い、金を用い、あなたのことを徹底的に調べ上げました。あなたは一番最初の不思議の国の住人と呼ばれていて、最強の強さを持っている。そして、なぜか知らないが他の不思議の国の住人はあなたの言うことに従う。
 あなたは悠久の時をこの快楽の土地で過ごし、この快楽の土地にいる限りあなたに敵はいない。でも、あなたは定期的に我々の前から姿を消す。それはだいたい15年に一度。その時期、あなたは我々の誰とも連絡を取り合わない。あなたはおそらく第一階層に行っている。そしてその周期で、あなたは強くなるし弱くなる。
 あなたは15年に一度、第一階層に行かないと弱くなる。違いますか?」
 チェシャ猫は笑みを消さず、しかし無言のままだった。まるでその考えが真実だと言うように。
「あなたのその周期はあなたの行動でだいたい憶測できる。
 髪と目、そして姿を異なる色に頻繁に変えはじめたら、または我々第二階層以降の階層の住人と身体を重ねなくなったら、あなたは第一階層に戻らなければいけない。なぜかはわかりませんがね。
 そしてあなたは、その時に第一階層にいる本当の主人に会いに行く。
 主人が定めたのだとしたら、私だったら許せません。忠誠を誓わせるためかどうかは知りませんが、あなたは自由であるからこそ、美しい。あなたは誰のものでもないからこそ、ミステリアスで高貴なのです!
 ですから、私が僭越ながら、あなたをご主人さまから解き放って差し上げたい」
「大きなお世話だぜ。まったく。……しかもてめェは勘違いしてる。俺が飼い猫だとォ?ふざけんな」
「これは確定情報ですよ。なにせ第一階層に行った、黒白の両面からの情報ですから」
 チェシャ猫は黙り、そして笑みを消した。
「てめェ、さっき俺は15年に一度弱くなるつったなァ? 残念だったなァ。俺は15年に一度弱くなるんじゃねェんだよ! 15年に一度、てめェらを壊しちまうからよォ、てめェらとはいられねぇんだよ! だが何だ? てめェ、今がその時で、弱ってるとでも思ったか? 易々と手に入るとでもォ?」
 チェシャ猫はそう言った瞬間、チェシャ猫の周りにあった禁力が意思を持ち、形を持って橙色の悪魔に襲い掛かる。それは意思を持った液体のようであり、あらゆる風に形を変えた。鋭い矢のようになって襲い来る禁力を橙色の悪魔は容易く避け、周りの男たち何人かが餌食となり、身体を貫かれて血が舞い散る。
 しかし次の瞬間、血を噴出した男の足元から、禁力が意思を持って再び螺旋を描くように立ち上り、男を飲み込んだ。すぐさま、男は禁力に支配され、身体が霧のように霧散する。
 一瞬の出来事で、現在は男が存在していたということさえおぼろげである。
「なるほど、禁世に立ち入った者は、死ぬだけでなく、存在そのものを消されてしまうのですね。今ここにいる私でさえ、彼がいたことが嘘のように、夢のように感じます。これが禁世に人間が入った咎ですか」
「そうさァ。禁世は貪欲だ。そいつのすべてを欲し、すべてを食っちまうんでよ、だから忠告しただろ? 怖いなら今なら見逃してやるぜェ? てめェも一応第二階層の兵(つわもの)だからなァ?」
「これで逃げたら、今までの準備がすべてなくなります。そんなことはしませんよ、ねぇ?」
 橙色の悪魔はそう言ってうっすら笑うと、横たわっているノワールに唇を寄せた。
「死んでも、いいんですね?」
 暗にこれ以上攻撃したら、殺すと言っている。完全に敵の手の中にノワールがある以上、チェシャ猫でも手を出すのは難儀だった。チェシャ猫はため息を一つ吐いて、仕方なさ下に両手を挙げた。
「言ってみろ。何が望みだ」
「今ここで、あなたを抱かせて戴きたい」
 橙色の悪魔はニィっと唇を吊り上げた。チェシャ猫は一端、男を睨んで、そのまま両手を挙げたまま橙色の悪魔近寄った。それは吐息さえ直接肌で感じられるほどに。
「あなたは本当に不思議な方だ。なぜ、こんな男のために、自らの身を捧げるのか?」
「俺は案内人だ。入矢の元にノワールを案内すると約束した以上、それは俺が果たすべき仕事だ」
「ずいぶん仕事熱心でいらっしゃる。さぁ、では念のため、両手を縛らせていただきますよ?」
 チェシャ猫の頭上に上げられた手を彼の背に持ってきて、禁力を具現化しきつく縛る。橙色の悪魔はそうすると背後の男にノワールを預け、馴れ馴れしくチェシャ猫の顎に指を走らせた。
「ああ、何度あなたを思って夢精したことか」
 チェシャ猫の後頭部を固定し、はじめからチェシャ猫と橙色の悪魔は深い口付けを交わす。
「ん、っふ」
 橙色の悪魔はチェシャ猫の舌を思うように貪り、吸い、彼の歯列を嘗め回した。チェシャ猫はそれに応える。舌を吸われれば、そのまま舌を絡ませ、口付けしやすいように動く範囲で顔の角度を変える。
「なかなか乗り気になっていただいて光栄ですよ」
「どうせ抱かれんだァ。愉しんだ方が得じゃねェか」
 唇を離すと、唾液でチェシャ猫の口紅が落ちたのか、充血によるものか唇がばら色に染まっている。
 橙色の悪魔はそのまま、首元で蝶々結びをしている黒いリボンをするりと解いた。リボンはそのまま彼の手を離れ、禁世に飲まれていく。ジーっという音を立てて、チェシャ猫のジャケットが縦に割られる。チェシャ猫は黙ってその焦らすような、羞恥心を煽るような行為を受け入れる。ジャケットの下から現れる黒いキャミソールの上に指を這わせ、胸の頂点の辺りでその動きを止めた。
「意外と白いんですね。ってことは乳首の色は桃色ですか?」
「自分で確かめりゃァいいだろ?」
「ええ、それもそうですね」
「ッア!」
 いきなり服の上から頂点を押しつぶされて、チェシャ猫は悲鳴を上げた。それに気をよくした橙色の悪魔はキャミソールをのど元までたくし上げ、白い素肌をあらわにさせる。
 観賞するように嘗め回すかのようにじっと眺めてから、乳首に舌を這わせ、余った手をチェシャ猫の口の中に突っ込み、濡れた指でもう片方もをいじりまわす。
「ン、……っやァ」
 いつもの様子とは異なる弱弱しい声に明らかに橙色の悪魔の下半身が反応する。橙色の悪魔はそのまま舌でチェシャ猫の胸の頂点を攻めつつ、彼の腰に手を掛け、ショートパンツのボタンを一つ、一つ外していった。
「これは驚きましたね。なんと美しいことか」
「気色悪ィこと言ってんじゃねェ!」
 初めて見る憧れのチェシャ猫の性器を見て、橙色の悪魔はごくり、とつばを飲み込む。
「尻尾ってどうなってるんです?」
「見てみろよ。ちゃんと生えてるぜェ?」
 ずらせば確かに尾てい骨の辺りから紫色の尻尾が確かに生えていた。するり、とそこをなでると、感電したようにチェシャ猫の身体が震える。その反応に満足して橙色の悪魔は意地悪く耳に息を吹き込みながら囁いた。
「猫ならではの性感帯ですね。生え際、感じるんですか?」
「あ、ああん! やめっ」
「もしかして、この飾りのような耳もちゃんと生えていて、性感帯だったりします?」
「やぁああっっ!!」
 耳を口に含むように甘噛みすれば、呼吸が乱れ、頬が上気する。完全に性感帯だ。しかし人間に不要な猫耳や尻尾など、移植はできようがどうやって神経をつなげているのだろうか。
「胸などより、こっちのほうがご満足いただけるようだ。勃ってますよ?」
「言うなぁ、ぁあ」
 ガクガクと膝を震わせながら、半泣き顔のチェシャ猫は告げる。相当猫耳と尻尾は弱いようだ。
「立つのがつらいなら、座っていただいても結構です。ですが、私を満足させてくれるのと引き換えですよ?」
 橙色の悪魔は自分自身をそう言ってひざをついたチェシャ猫の顔面に凶器のように差し向けだ。チェシャ猫は一瞬、戸惑いの顔を浮かべたが、おずおずと舌を這わせてくる。そのたびに猫がミルクを飲むようにぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、といやらしく舐める音が響いた。
「舐めるだけじゃなくて、ちゃんと咥えてください。奥まで入れて、喉で吸うんですよ」
 後頭部をつかんで、無理やり受け入れさせると、くぐもった吐息がチェシャ猫の口内で消えていく。
「ンん! ……ン、ン」
 腰をチェシャ猫の口内に打ち込む度に断続的な、苦しげな息が聞こえる。それに満足して、チェシャ猫の後穴に指を這わせ、何の予告もなしに指を突っ込む。
「ンンン!! ん、ウウン、ンむ!!」
 目を見開いて、チェシャ猫の動きが止まった。そのままきつい締め付けを抑えるように前を空いた手で弄り、指を奥へ奥へと進ませる。
 熱い彼のナカにうっとりして自分の体積が増すと、さらに苦しげな彼の悲鳴が消えていく。橙色の悪魔は完全に興奮し、この状態に満足していた。そしてまた、予告もなしにチェシャ猫の口腔内で射精する。
「んグっ!!」
 一瞬喉が詰まったような声を出し、目を見開いて、彼は口腔内にあふれんばかりの精液を受け止め、次の瞬間、橙色の悪魔自身から口を離し、激しく咳き込んだ。しかし、咳き込むチェシャ猫の顔に受け止め切れなかった精液が飛び散る。
「ごほ、ごほっ」
 口から白い精液を垂らし、顔中に白い飛沫が残るその様はかなり卑猥だった。興奮に身を任せた橙色の悪魔はそのままチェシャ猫の顔を地面に押しつけ、腰を固定する。姿だけ見れば、欲情して自分から腰を振っているように見えなくもない。
 腰だけを高く上げさせられ、両腕は固定されたまま、チェシャ猫の秘穴に橙色の悪魔は己を突き刺すように挿入する。
「イヤぁアアああぁあァあ……!」
 こらえきれずに涙が零れ落ちる。
「まぁ、なんといい気分なんでしょう。孤高の存在を組み敷き、我が物に蹂躙する! なんと言う快感!!」
 ずり下がったチェシャ猫のショートパンツがひざの位置で留まる。だが、そんなことを気にも留めず、橙色の悪魔は自ら腰を激しくチェシャ猫に打ちつけた。
 ガクガクと揺さぶられ、チェシャ猫の悲痛な喘ぎが途切れ途切れに響く。あまりの激しさに腕を縛っていた禁力が支配を解かれ、チェシャ猫の両腕が自由になる。
 橙色の悪魔はその事実に気を止めることなく、チェシャ猫を後ろから抱きすくめた。半仰け反り状態のまま下から突き上げられて、空中にチェシャ猫の両手が彷徨う。まるで外に出してとせがむ猫のようだ。
「ひィ、あ、はぁ……」
 チェシャ猫はそのまま橙色の悪魔にいいように弄ばれる。体を自在に揺さぶられ、蹂躙しつくされる。それでもチェシャ猫は抵抗しなかった。チェシャ猫はそのままただ、相手の肉欲をぶつけられるだけの行為に耐える。
 橙色の悪魔は一瞬でもこの時を延ばそうとしつこく挿入を続けたり、挿れたまま休んだりと、とにかくチェシャ猫と繋がっている時間を引き延ばそうとした。
「早くしろっ!」
 チェシャ猫がそう言って悲鳴を上げた。
「もう、降参ですか?」
 橙色の悪魔がうれしげにそう言うと、チェシャ猫は唇をかみ締めた。
「早くしろ! もう、時間がない!!」
「何の時間です? 黒白の両面が作ってくれた人形が禁世に耐えうる時間はきていませんよ」
 チェシャ猫は違う、と短く叫んだ。呼吸が荒くなっている。それは橙色の悪魔と身体を重ねているというだけの理由ではなさそうだった。
「仕方ねェ……から、俺が、15年目が近づくと……アァ、他人と、せ……ックス、しない、理由を……教えて、やる!」
 チェシャ猫は息も絶え絶えにそう言い切った。相変わらず、後ろの橙色の悪魔を受け入れたままだが、ゆっくりとチェシャ猫は語りだす。
「俺は、禁世に……愛された存在。15年の周期、で、俺は……お前らに、とっての、麻薬となる」
「麻薬? 人間麻薬だとでも言うつもりですか。それなら少々期待はずれですね。あなたはもっと尊い存在のはずだ。人間麻薬などというものが仮に存在しても、麻薬である以上それは人の役に立つものでは?」
 じらすように動きをわざと止めて、橙色の悪魔は耳に息を吹き込んだ。
「行き過ぎたドラッグは、人間の精神と脳、身体を壊す。徹底的に。俺はセックス最中にお前らに最高の快楽をもたらし、お前らを廃人にする。だから、止めろと言っている!」
「それはすばらしいことですよ、廃人になるほどのテクニックをお持ちときた。しかし現在の私の身体は私のものではありません。心配はご無用ですよ」
「精神もっつたろ! お前自身も精神を破壊される」
 つまり、現在橙色の悪魔は身体は別人だが、その人間の脳を支配して動かしている。だからこそ、身体から伝わる脳信号、すなわち快感や触覚、痛みなどは橙色の悪魔自身の身体の脳にダイレクトに伝わり、擬似的なセックスを現在行っているのだ。
 だからこそ、チェシャ猫は危険度を忠告する。そのまま脳と神経がつながっているのなら、行過ぎた快楽で、廃人になりかねない、と。
「仮にそうだとしても、解せませんねぇ。あなたの現状況を考えてください。あなたは私に強姦されているのですよ? なぜ被害者の立場であるあなたが私の身を案じる必要があるのです? そのまま私が廃人になればそこの漆黒の黎明とて簡単に取り戻せるでしょうに。ですから信じられないのですよ」
 チェシャ猫はそこで言い切った。なぜ、そんな忠告をわざわざするのかと。
「それは、お前も第一階層に行く可能性があるからだ!」
「ランク2の十指ですからね」
 軽く流した橙色の悪魔だったが、チェシャ猫が不思議の国の住人との会話を片鱗でも知っていれば、これは相当チェシャ猫が本気ということがわかる。
 不思議の国の住人すべてが罠と知りつつ、弱っている彼を禁世に下ろすことを反対した。
 危険をわざわざ犯し、それでもチェシャ猫が断行したのは、ひとえにノワールを助けるため。しかしなぜ、ノワールなどという一人間をチェシャ猫自ら助けねばならないのか。入矢に頼まれたからではない。気に入っていた、気が向いたなどという理由で済ませるほど禁世は甘い世界ではないのだ。
 だが、チェシャ猫が行った理由、それは
 ――第一階層に行く可能性があるから。
 だからこそ、チェシャ猫は第一階層に行く可能性のある者を差別しない。ノワールも助けるなら、橙色の悪魔とて同じだけの価値をチェシャ猫の中に持っている。
「馬鹿がっ!」
 チェシャ猫の本気の呟きはただの悪態にしか取られず、そのまま行為が再開される。チェシャ猫はもう、何も言わず黙ってその仕打ちに耐えた。否、自身が先ほど言った言動が実行されないように何からか必死に耐えている。
 その仕草さえ、快感をこらえているようにしか橙色の悪魔には映らずしばらくその行為は体位を幾度か変えて続き、橙色の悪魔が先に絶頂を迎える。
「うぁアぁぁあ」
 正常位によって終えたため、橙色の悪魔は射精しつつ昇天する気持ちに震えた。やっと震えが収まったとき、ゆっくりずるりと己を引き抜く。その瞬間にチェシャ猫の犯しつくされた場所から己の白濁がどろりと出てきたことに視覚的興奮を再び覚える。
 穢した。穢した。穢した。穢した。
 ――己の中の孤高の存在、神にも等しい愛だけでは言い尽くない存在を己の白濁で穢すことができた!!
「最高です」
 その一言に尽きた。
「満足、したかよ」
 チェシャ猫はそう言って、震えながら身を起こす。ジジジと橙色の悪魔の身体がぼやけ始めるのを見て、ニヤっと本来の笑みを再び口元に浮かべ、彼は言った。
「約束だ、ノワールを返してもらう」
「本当はもう一回お相手願いたかったのですが……残念ながら時間のようです。本当に自分の身体ではなかったことが惜しいですが、多くを望めば身を滅ぼすようですしね。では約束どおりこの男は置いていきます。願わくば、今度は生身の私とお相手願いたいものですね。では」
 音もなく、光もなく宇宙空間でモノが消えていくように静かに、そして唐突に男は消えた。と同時に男を守っていたかのような男供も消えうせる。無音の空間が再び帰ってきて、赤い景色はしだいに夕焼けから闇色の空に移り変わるが如く、黒に戻っていた。
 チェシャ猫は立ち上がり、衣服を整え、そのまま何も見えないはずなのにまっすぐ進んだ。
「畜生、アイツ、ナカに思いっきり出しやがってェ!」
 チェシャ猫自身も禁世の危険さを十分理解している。ただ、一般人と不思議の国の住人とでは危険の種類が違うのだ。しばらく歩いてそのまま真っ暗な闇の中、ひざをついて座り込む。
 いつしか、ぼぉっと彼の周りにほのかな赤暗さが戻ってきていた。暗闇しかない時、それはどんなに薄暗く心もとなく、消え入りそうでも色が違うと認識できるだけで、人は安心するものだ。
 チェシャ猫は死んだような様子のままの黒に包まれたノワールを見て、ほっと安心のため息をついた。