毒薬試飲会 016

035

 同じ第二階層内でも、今度の場所はノワールの屋敷だった。ハーンはそこで待遇よく扱われるはずが当然なく、ついて早々身柄を拘束されるハメになり、自分のおろかさを少し呪った。
 ノワールはそれきり姿を見せていない。どこかに連れて行かれたアランも、ノワールによって抱きかかえて運ばれた入矢とも出会うことはなかった。
 ノワールによる扱いが自分に対する答えとでも言いたげに、簡素なまるで牢獄のような部屋に拘束されたままだった。
 自分の心はソニークが死んだときに、同じく死んだのだ。そう思って今まで生きてきた。ソニークのために、復讐に燃えることもなければ、死ぬこともできないどうしようもない人間だった。
 イモムシの依頼が来たとき、入矢と関係がある少年と知って、気が向いた。それだけだった。
 逆にソニークとの出会いの方が衝撃的だったと思う。普通に第三階層の道端で、それこそ運命的な出会い方をした。
 ソニークはこの土地ではとても珍しい種の人間であることに間違いはなかった。車椅子に乗っていたからだ。
 禁術による医療発達から、この土地では失くした臓器さえ金さえあれば復元できる。それどころか細胞レベルの問題でさえ、すでに薬品投与一回で済む世界。なのに彼女は車椅子に乗っていた。神経系の病だそうで、どうにもならないんだそうだ。
 身体はいたって健康なのに神経異常で身体がまったく動かない。それだけではない。身体が動かないのではなく、神経が通っていないという方が正しかった。彼女には五感もなければ、なにもできないただの女だった。植物人間に近い症状といえた。
 だが彼女には意思があった。意識が存在し、その意識を外に表現する方法をも思いついた。車椅子に乗り、見えない目をむけ、見えない耳をすまし、話せない口で対話する。通常なら動くことさえままならないのに、彼女は車椅子で動いていた。
 脳と身体二つがあって初めて人間の身体は“動く”。しかし彼女の場合どちらも正常であるにもか関わらず、その両者をつなぐものがなかったために動くことができなかった。
 彼女はそんな状況を理解するだけの知識を元から持っていたといってもいい。だからこそ彼女はオリジナルの禁術を編み出した。自分の身体と脳をつなげるための禁術だ。禁術で擬似的に神経をつなぎ合わせ、普通の人間のように動かす。それでこそ、彼女は五感を復元させ、通常の人間と同様の行き方をしていた。
 車椅子は足を動かす必要がなくて楽だからだそうだ。車椅子の方がずっと大変でつらいことのように当時は思ったものだ。
「あら、案外簡単なものよ。人間の身体なんて、仕組みさえわかれば動かなくたって、生きていけるもの」
 車椅子さえ動かせないはずなのに、彼女にはあふれんばかりの禁術の才能があった。だから彼女は平然と生きてきた。いわば脳しか働かせないといえる状況のくせして彼女はさも当然のように禁じられた遊びに出て、第一階層に行きたいと言い出した。
 見ていて面白い。見ていて愉快だ。ずっと彼女といたいと思った。彼女の望みをかなえてあげようと思った。なのに、彼女は死んだ。
 彼女が望んだゲームでは死んでいるのが当然のハンデだったが、笑って生きていた。だが、死んだ。今度こそ本当に何も動かなくなり、死んでしまった。
 死に目に会うことさえできなかった。同じゲームでハーンもまた、入矢に殺された。でもハーンはゲーム上での死。ダメージ係数だけ眠れば自然と起きる。そして起きたときにはもう、彼女は死んでいた。――それだけがたった一つの事実だった。
 彼女を失ってハーンは死んだ。心を失い、何も考えず、何も感じずにただただ空虚に生きていた。
「どうして俺のソニークは死ななければならなかった? なぜ死んだ?」
 ソニークが死んだときのゲームは何度も見た。いつもと同じ戦法。初めて第二階層の上位に食い込んできた新人ペアたち。
 自分たちが勝つまであともう一息というところで、戦況が逆転した。
 入矢によって発動された禁術解体。彼女は禁術によって“生きて”いた。
 だから禁術をすべて解体されて、彼女は死んでしまった。
 そして混乱の最中、ソニークを殺した入矢が気づいたら背後に立っていて血まみれのソニークの血が浴びるほど付着した鎌を振り上げた途端、俺は意識を失っていた。
「ソニーク」
 むなしい声が響く。もう、自分は一人きり。空虚な心に吹く隙間風。
 この部屋は一人ということを自覚させるこの部屋でハーンは抱きしめてくれる腕も抱きしめるべき肩もなく、意識を深く暗闇に落としていく。

「入矢」
「入矢」
 やさしい声が響いて、入矢はまどろみから覚醒する。目の中に入るのは漆黒の光。あぁ、ノワールが帰ってきた。入矢は微笑んでその顔に手を寄せる。
「入矢、悪い子だね。私の居ぬ間にあんな大勢と浮気するなんて。君の中から他人の残滓が沢山出てきたよ」
 そう言われた瞬間、入矢のほほにカっと血が上る。おそらくそれは赤狂いに第三階層で抱かれたときのことだ。
「それに他人との情事の痕をこんなに残している」
 入矢の身体に散りばめられてるキスマークを一つ一つ触れて確認する動作に息が上がる。
「だって、ノワール」
「お仕置きが、必要だよね!」
「待てよ! ノワール。俺はっ!」
 その続きが言えない。心の中が混乱している。しかし、ノワールはそれには触れずに入矢の答えを待った。答えて欲しいのだろうか。言って欲しい? でも血約を結んだのだからとっくに通じていてもおかしくない。なぜノワールは俺の答えを待っているのだろう?
「俺は?」
「……っ! わかるだろう!」
 ノワールの胸に手を当てて、呟く。きっとわかってくれるはずだと信じて。なのに、うんともすんとも言わず、ノワールは黙ったままだ。それを入矢は確信めいた不安を感じる。
 そしてノワールがチェシャ猫の手を借りなかったという事実がなにか気にかかる。
「ノワール、本当にチェシャ猫とは会わなかったんだな?」
 手を当てたまま尋ねる。嘘をついていたりしてもこれで通じる。何が起こったかわかる。だが、答えは違った。
「なぜそんなに彼を気にする?」
「チェシャ猫はお前を俺の元に案内するといった。アイツが約束を破るとは思えないだろう?」
 胸に当てていた手をつかみ、捻りあげられて入矢は苦痛に眉を寄せた。そのまま深く口付けされる。
「んっ! ……んふ、むぅ、んんっ!!」
 そして感じる。ノワールと血約を結んだのに、ノワールの思考がまったくわからない。感情の起伏さえ伝わってこない。何かが違う。ノワールとの血約がまったく効果を発揮しない。血約を結んでいないように感じる。
「やはりお仕置きが必要なようだね。私との間に他人の男を持ち出すものではないよ、入矢」
 口付けた瞬間に最大限で相手を理解しようと求めた。これだけやって通じないのなら、ノワールとの血約はすでに切れているのかもしれない。そもそも血約が一生の約定。切れることなど、あるのか?
「もとはお前が死んだりするから!」
「私に反抗するの? 入矢」
 入矢の試みも無駄に終わってしまい、入矢は愕然とした。何も感じないし、何も起こらないのだ! ノワールの思考が読めないし、ノワールに想いが伝わらない!!
「機嫌が悪いんだよ。お前が血を俺にくれないから。血約で俺はお前の血が必要だもの」
「ああ。そんなこと? じゃ、たんとお飲み」
 ノワールはそう言って指先を切るとぽた、ぽたりと血を入矢の口元に落とした。そして不安と予感が心の中で出会い、それは確信へと変わる。
「お前……誰だ?」
「は? 何を言うの入矢。私はノワールだとも」
「なぜ、ノワールなら俺の血約が通じない。なぜお前には呪いが発動しない?」
「それは、私が禁世に落とされていたからではないかな? しばらくすれば感覚も戻ってくるだろうさ」
 入矢はそう言うノワールを睨み挙げた。
「血約はそんな簡単なものじゃないはずだ。俺はお前と血約を結び、その血約は重いものだ。お前と俺は肌を触れ合わせれば互いの心が読めるはずだ。お前が死ぬ前までそうだった。そして俺はお前を呪うことが出来る。俺の呪いは今、お前に通じない。そして俺はお前の血を欲する。だけど、お前の、今ここにいるお前の血が欲しいとまったく感じない。なぜ、お前が禁世に落とされての弊害なら俺にもそれが起きている!!?」
「……」
 ノワールは無表情になって入矢の糾弾を受け止めていた。過去の恐怖が現実に変わっていく。入矢は必死に否定して欲しくて、ノワールに冗談だと言って欲しくて、必死に叫んだ。
「違う。以前にもこんな感じがあった。……お前、ノワールじゃない」
「何を言っているのかわからないよ、入矢」
 くすっと笑いながら言う姿に一瞬の罪悪感を覚える。俺は何を言っている? ノワールに対して。でも。
「茶化すな! お前はノワールじゃない。ノワールによく似た別人だ!!」
 入矢が叫ぶついでにノワールを跳ね飛ばした。後方で激しい衝撃音とともにノワールの身が家具にぶつかって沈黙する。
 こんなことをすればノワールなら対応できる。しかし、攻撃をあえてノワールのようなモノは受けた。その真意を確かめようとした瞬間、ノワールの中から……女の声が響いた。
「頑なな否定ね……だから聡い子はキライよ」
「誰だ」
 入矢が厳しく問い立たす。すでにノワールとしての表情はなく、誰かがノワール自体を影から操っているようだ。少なくとも入矢にはそう感じられた。そしてこれは入矢は以前ノワールに感じたことがあるものだった。
「ふふ。あたしはそうねぇ……黒白の両面って呼ばれてるけど、この子を識別して呼びたいのなら、教えてあげましょう。子の身体の持ち主の型番名は“ブラン”。“ノワール”と対応させて造ったの。どちらでも好きなように呼びなさいな。でも、ノワールって呼ぶのが正しいのよ」
「どういう意味だ?」
 入矢はブランと称されたノワールにしか見えない、しかしノワールではないモノに厳しく問いかける。
「あたしの職業は人形師。ノワールはあなたもよく知っているあたしの愛しいお兄ちゃんを基に創ったドール。そしてブランもドールの一つ。ノワールは自分の運命を知って抗ってきた。だから、言う事きかないお人形は、処分しなきゃいけないからね」
「ノワールを殺したのは、お前か!?」
「あなたがノワールと血約を結んでくれて助かったわ。お兄ちゃん、貴方にぞっこんみたいだから。それにあたし貴方の事嫌いじゃないの。結構好み。だから貴方はおにいちゃんの人形にしてあげようと思って」
「なんだって」
 入矢は突然与えられた答えに当惑する。解法を教わらずに答えだけ教えられたときのように。
「わからない? ノワールはおにいちゃんを元につくった完壁なる人形。その役目が果たされた時、ノワールの結んだ血約はおにいちゃんに返る。つまり、あなたはおにいちゃんの奴隷になるの」
「何だと! そんな血約はそんな簡単な仕組みじゃ!」
「ないわ。でもあたしの作る人形には可能なの。それがあたしの力。」
「ノワールは、ノワールはどうなる!!?」
「言ったでしょ? 役目を果たした人形は消すのよ」
「でもおにいちゃんは完全に目覚めていないから、あなたにはつなぎを用意したわ。それがこの子。ブランはノワールの記憶を写したノワールのドール。ノワールそのものよ。思考回路も記憶もなにもかもノワールと同じ。完壁なノワールのドール」
「そんな」
 入矢が愕然として目を見開いたまま硬直する。
「ノワールは消滅したの。だからあなたは代わりにこれからはブランを愛するといいわ」
「ふざけるな! おれが好きになるだと? こんな偽者のノワールをか!!」
「どうして? 人間を構成するのに一番大事なのはなに? それはそのものの記憶と思考回路よ。そして外見。この三つがそろった時、どうして別人といえるの? ブランは完全にノワールの記憶、思考回路を受け継がせた。ノワールと同じことを考え、ノワールと同じ行動を取るの。ノワールと同じようにあなたを愛し、ノワールと同じようにあなたを抱くわ。何が違う? どこがノワールじゃないの?」
「ノワールは……!」
「ノワールそのものの行動を取るのよ。それがドール。なんなら受け入れやすいようにあなたの記憶もいじりましょうか?」
「そんなままごとのような茶番をして何の意味がある」
 ギリっと歯を食いしばって入矢は低く問うた。
「言ったでしょ? お兄ちゃんが完全に目覚めるまでのつなぎよ」
「……おれは道具か。お兄ちゃんとやらを愛するように強要させられるためだけにこの白いブランも愛せと言うのか。おれは将来、そのおにいちゃんとやらの奴隷にさせられるためにお前の監視下にある、というわけだ」
「ふふふ。お馬鹿さんは嫌いじゃないわ。あたしはね、自分が気に入ったものはぜぇんぶ、この世のものは玩具で、道具なのよ」
 女の心底愉しんでいる声が響く。いや、愉しんでいるのではない。この女は本気でそう思っているのだ。
「なら、チェシャ猫はどうした?」
「チェシャ猫? なぜその名が出てくるの?」
 ブランの中から女が問う。入矢は切実な想いでブランを見た。何もかもノワールと一緒なのだ。
「チェシャ猫は俺のもとにノワールを連れてくると言った。そしてさっきブランは禁世に落とされていたと言った。ノワールは禁世にいるんだな? チェシャ猫はそれを迎えに行った。お前はノワールを処分したと言い、つなぎにブランを愛せと言った。でも、ノワールが死んでいないなら? チェシャ猫ならお前の思惑通りにはならないぞ」
 入矢は一瞬で状況を理解する。
「残念ね。そうね。当事者であり、もっとも近い場所にいるあなたになら知る権利があるかしら。この計画は私だけで行っていないのよ。あなたが、いや、あなたとノワールが第二階層で十指に入った瞬間、あなたの能力を元の十指は本当に危険視した。だからこそ、ありえない同盟を組んだ。それがあなたが気づき、危惧したこと」
「まさか!!」
「そうよ、そのまさか。あなたたちとあなたたちに負けた黄色い虐殺者以外のすべての十指があなたたちを消そうとしている。あなたは逃げて正しかったのよ?」
 入矢は拳を握り締め、ぶるぶると震わせる。
「本当にあなたには驚いたわ。まさか禁術解体があんな危険なものになるとは思いもしなかったもの。私だって思う。あなたは本当に危険だわ。すべてに死を撒き散らす存在ね」
 くすくすと女が笑う声がする。
「まさか、禁じられた遊びそのものにかかっている禁術でさえ解体できるなんてね」
「……っ!!」
 入矢は下を向く。
「私があなたを気に入っているのはそういう能力を買ってのことでもあるの。愛しのお兄ちゃんがチェシャ猫になれるなら、あなたは白いウサギさんになれるかもしれないって、そう思うのよ」
「白いうさぎ?」
「ふふふ。知りたければ第一階層に行くことね! まぁ、私がそれをさせないために、今の状況を作り出すよう仕向けたわけでもあるのだけれど」
 最後まで女は朗らかに自分本位な発言を残してブランの中から消えていく。
「そうだ。あなたに最後のプレゼントをしてあげるわ。あなたは認めたくないみたいだから少しだけ、この身体にブランという人格を入れてあげるわ。これでノワールと区別化できるでしょ? 存分に混乱して、その心を乱すといいわ。あなたの泣き顔は結構いいと思うから」
 入矢は気を失ったようなノワールとまったく同じドールであるブランを見つめた。入矢の中ですべてがつながる。
 自分が恐れていた事態にはとっくになっていた。そしてノワールはもう、いないのかもしれない。
 でも先ほどの黒白の両面の話が本当なら、まだノワールは死んでいないことになる。
 ブランに血約が通じない限りはノワールが生きているんだと、絶望的な希望を持っていることだけが入矢の心の支えだった。

 アランはまどろみの中で夢を見た。ひたすらフェイさんがノワールに抱かれ、犯される夢だった。嫌がるフェイさんを無理やり組み敷いて、その身体をガクガク揺さぶり、モノのように壊れてしまうと心配するほど抱くのだ。
 フェイさんの目からはひっきりなしに涙が溢れ、ノワールがときどき俺を見て、悪魔のようにささやく。
「お前もここに挿れたいんだろう?」
 抱かれているときのフェイさんは壮絶に色気がある。触れて、抱き壊してしまいたい。いや、触れることなど叶わない。至高の存在だ。その間逆の想いがせめぎ合う。
「もう、やめてくれ! お前は」
「まだ認めないの?」
 フェイさんの泣き顔は、快感による生理的なものなどではなかった。苦悩しているのだ。そして泣いている。でも何に対して? フェイさんがついに女のように顔に両手を当てて泣き出した。
 それをむりやり引き剥がし、ノワールがフェイさんを攻め立てていく。
「だって、感じるんだろ? 同じように」
「イあぁあああ!!」
 拷問のように、それは罰を受けるようにフェイさんは何度も何度もノワールに蹂躙される。抱かれて、傷ついている。止めなくっちゃ。ノワールからフェイさんを取り戻すんだ。
「どう? 見られている気分は? 興奮する?」
 ノワールはそう言って意地悪く俺に向かって笑うと無理矢理フェイさんの顔をこちらに向けさせた。フェイさんの目からまた涙が零れ落ちる。
「もう、やめてくれ」
 フェイさんは羞恥を煽る行為の静止を願ってるのではなさそうだった。ただアランにはそれがわからない。
「やめてくれ」
 フェイさんはそう言って気絶した。それに釣られるようにアランもまた深い眠りに落ちていった。