毒薬試飲会 016

036

 第三階層、チャイナストリートにも異変が生じていた。第三階層の住人誰もが敬意もって対する、チャイナストリートの支配者・またの顔を不思議の国の住人・イモムシ。
 彼女の住居に礼儀を持たない人間の土足が踏み込まれる。彼女はそれを予知していたかのように悠然と紫煙を吐き出した。
「何の御用?」
「教えてもらう」
「何をかしら?」
「第一階層の行き方を、だ!!」
「お金の用意はできていて? ここは情報屋。何かを知りたいならそれなりの対価を支払うことよ」
 男が乱暴にイモムシの水キセルを振り払う。
「知ってるんだぜ? お前は第三級不思議の国の住人! 俺ら束になれば敵わねぇ相手じゃねぇってことをよぉ!! さ、寄越しな! すべてをよ」
 イモムシはそれでも傲岸不遜な態度を改めることもなく、言い放つ。
「全てを欲するだと? 愚かな。この世はね、すべてのものをやり取りして成り立つの。全ては過不足なく行うからこそ、世界は正常でいられる。それなのに全てを寄越せですって? その覚悟はできているんでしょうね? このイモムシの全てを受け取る覚悟が!」
 イモムシはそう言ってようやく立ち上がる。その姿は威厳があり、侵入者は一瞬、怯んだ。しかし相手は女一人。いくら不思議の国の住人とはいえ、彼女は戦闘に特化された人間ではない。だからこその奇襲作戦だ。
「うるせぇよ! 女は黙って蹂躙されてりゃいいんだよぉ!!」
「そりゃぁ、聞き捨てならないねぇ?」
 侵入者の背後から新たな女の声がする。そして一瞬でイモムシに襲い掛かろうとしていた男の身体が鞭で拘束された。何事かと確認するまもなく、鞭が一瞬で締め付けられ、男の身体が人間とは思えないほどにまるで粘土細工のように二つに千切りはなされる。
 痛みを知覚する暇さえ与えられない、圧倒的な攻撃。赤い螺旋を描いた攻撃道具はそのまま血は鞭を振るうことで払われ、主人の命令を忠実に実行する。
「そうです。女性だけが蹂躙されることはありません。僕ら男ですら強姦される身だというのに、ああ、悲しい」
 別の声も響く。そこには可憐な少年が立っていた。少女とも取れる中世的な顔立ちなのだが、あまりにも胸が平らで身体の節々が男らしくちゃんとしなやかな筋肉がついていることから少年だとわかる。
「ちょっと、泣き始めないでよ」
 少年の隣で赤い鞭を振るうのは長身の美女。強気な態度が全身からあふれ出ている。
「誰だ! てめぇら!!」
 突然の圧倒的な攻撃に驚きを隠せないまま、男が怒鳴った。
「あら、知らないの? まぁ普段あたしら、第三階層まで降りてこないから、仕方ないかしらね」
 第三階層に下りてこないというフレーズはすなわち侵入者より高位の戦闘能力を保持していることに他ならない。あからさまに怯んだ様子が伺える。
「あたしは不思議の国の住人・グリフォン。自己紹介なんてすっごい久しぶりだわ!!」
 つりあがった眉が笑みの形をつくるのとは逆に侵入者は戦意を無くしている。第二階層以上の不思議の国の住人だと!! しかも攻撃手段を見る限り、戦闘タイプの人間だ!
「同じく、ニセ海がめ」
「……っ貴様も、不思議の国の住人だというのか?」
 動揺のあまり心の声が、そのまま問いの形となって現れるが、少年は気にせず答えた。
「そうだよ。普段は第一階層と第二階層にいる。けど、犯される。ああ、悲しい。ボクなんかを性欲の捌け口にしかできないひとはなんてかわいそうで哀れなんだ」
 少年の嘆きの意味は理解できないが、不思議の国の住人が二人もいては敵うはずもない。全員が早々に逃げ出そうとしたが、なぜか部屋から出ることは叶わなかった。
「逃がさないよ」
 少年がぼそりと長い袖で顔の半分を隠し、涙をぬぐいながら呟いた。
「そうよ、あたしら不思議の国の住人に喧嘩売ってただで済むわけないじゃない。それにね、戦闘が得意じゃないほうがえげつない罰を科すものよ?」
 ね? と満面の笑顔でグリフォンはイモムシを振り返る。そこには笑顔が伝染したかのように美しく笑うイモムシがいた。彼女の手には水キセルが戻っている。
「ええ、もちろん」
 イモムシはそう笑って水キセルから色とりどりの煙を吐き出した。その煙はたしなむように味わうように何度も数回に分けて吐き出され、部屋全体を覆っていく。煙しか吸うものがない時点で侵入者たちは異変に気づいた。
「な、なんだ!!?」
「“全て”をもらうってこういうことよ?」
 イモムシがそう言って笑う。次の瞬間に、人間が、人間の形を保たなくなっていた。それはありえないことに煙のように霧散してそのまま消えていく。
「人だって情報の塊みたいなものだもの。あたしはね、何でもかんでも情報という媒体にそのものを変えることができるのよ。どうかしら? あなたたち、すべて情報となるの。すべてただのデータに」
 痛みも感覚も何もないまま、足元から身体が煙となって消えていく。さらさらと砂が零れ落ちるように煙と化した自らの身体は知覚はもちろんできないし、死ぬこととも違うような気がする。
「あら、よく気がついたわね。これは死ねないわよ。言ったでしょ? すべてデータとして保管するの。データは半永久的だからね。よかったわね。あなた、不老不死よ? ただしデータとして、だけど」
 うふふと笑われるその言っている意味に恐怖で発狂する。
「よくも第三級だなんて言えたものね。誰に吹きこまれたかしらないけど、不思議の国の住人、ナメすぎよ」
「あんたも怒らせるとこわいよね」
 グリフォンが呆れた顔をしてイモムシの諸行を眺める。侵入者がすべて人としての形を保たなくなってようやくイモムシが珍客に向き直る。
「どういう風の吹き回し? あなたたちの領域は第二階層より上のはずでしょう?」
「知らなければいけないことがあるのよ。教えてもらいたいの」
 グリフォンの言葉にイモムシはモノクルをかけなおした。
「金はまぁ、持っていないわけでもないんだけ……助けたことでひとつ、おまけしてよ」
 グリフォンのチャーミングなウインクにイモムシはため息をついた。
「ものによるわ。何が知りたいの?」
「チェシャ猫の居場所」
 イモムシはその言葉を聞いた瞬間、目の色を変えた。
「なぜ、貴方達が知っているの?」
「ハートの両陛下に頼まれてね。厄介だけど、こちらも状況がいまいちわからないの。だから、あんたさえよければ、今のこの状況教えてもえらえるかなぁ?」
「チェシャ猫はもう、ヤバいんでしょ?」
 ニセ海がめの無感情な言い方が深く事実を抉るようだ。その事実を否定する言葉をイモムシは持ち合わせていない。彼女は目を伏せて、肯定の言葉を口にした。
「ええ。恐らくアイツもう両足がダメになってるはず。時間がないばかりか……禁世にまで。……そう、ハートの両陛下が独自に動き出したの。なら、教えましょう、あなたたちも舞台に上がって当事者として踊ってもらうわ」
「面倒なことこの上ないわね」
 グリフォンは笑いながらそう言って、ベッドに腰かかける。その隣にニセ海がめも立った。
「どこから話せばいいのか……すべては黒白の両面が一人の少年に恋をしてしまったことから始めるとしましょうかね」
 イモムシは遠い場所を眺めてそう、語った。

 立ち上がった御狐さまは冷ややかな目線で二人の男を見つめた。
「もう、結構」
 鈴を鳴らしたような、美しい声が冷たい言葉を吐く。
「すべての疑問は大体解けました。ですからもうお引取り下さいませ、”青い地獄”ボルバンガー・ラーゼ殿」
「はぁ?」
 青い地獄と呼ばれた男は挑発的に御狐さまに向かい合う。
「おいおい、なに一人で簡潔しちゃってんだよぉ! 俺はこの男が俺のかわいい部下どもを皆殺しにした責任を問うてんだろぉ?」
「ご冗談を申されますな」
 御狐さまはそういってくすりと笑う。その表情にこの場にいたすべての翹揺亭の者が恐怖する。すなわち御狐さまが怒っていると。
「弥白」
 御狐さまが傍らにいる側近の名前を静かに呼んだ。白いと表せるその人間ははい、と返事を行うとすぐに真っ白な扇と変じて御狐さまの右手に収まっている。
「弥黒」
「は」
 同様にして同じような双子の黒い方の側近は同様の黒い扇となって左手に収まる。
「おいおい、どんな手品だよ」
 人間が一瞬で物に変じたその様が青い地獄には信じられない。その信じられない光景で動けないまま、青い地獄は自分のすぐ隣に風のような圧力が通り過ぎ去ったことを知った。そして数瞬遅れて響く、連れの絶叫。
「てめぇ!! 何をした!!」
「勘違いなさいますな。あなたがどうして、この私に刃向かい、牙を向いてきたのかは存じません。しかし私は私の愛しい息子を蹂躙したあなたを許すことはないとお思いくださいな。本来ならば貴方も殺すところですが、これで痛みわけといたしましょう。あなたは佐久を、私はあなたのお連れ様をこれで数は合いましょう。このまま逃げ帰るなら良し。逃げずに愚かにも向かってくるならそこのお連れ様と同じ目に合うだけでございますが?」
「ふざけんな! 先に手ェ出してきたのはてめェだろうがよ!!」
「先ですって? 愚かにも黒白の両面に唆されたのはどちらです? 普通の思考を持っていればわかるはずではありませんか? 黒白の両面と共に誰が第一階層に行き、制覇してきたのかを」
 青い地獄がはっとする。
「それでもかかってくるなら容赦情け致しますまい。愚かなその意思を尊重して、徹底的に殺すまで。そのお心に留め置きくださいませ。あなた方はこの“惑乱の色彩”にけんかを売ったのだと」
「惑乱の色彩だと!!?」
 青い地獄が叫んだ。その名は黒白の両面と共に第二階層に刻まれている名前だ。
「ええ。そうですとも。それにしても本当に情けのうございますな。たった一人の新人に恐れを抱き、よってたかって排除しにかかるとは。ランク2のゲームはいつから同盟などという愚かしいものが生じたのでしょうな?」
 侮蔑と嘲笑が篭った意見に青い地獄はブルブルとこぶしを怒りで震わせる。
「さぁ! お答えや、如何に!!」
「クソ!」
 青い地獄は盛大な舌打ちをして、その部屋から走り去っていく。すべての翹揺亭の者がら嘲笑を受け、侮蔑され、そして敵意と殺意を向けられることとなりながら。
「黒鶴!」
「はい、御狐さま」
 扇をふわりと下ろすと、そのまま扇は弥白と弥黒に立ち代る。そんな光景ですら黒鶴は初めて見た。が、今はそんなことを気にしている場合ではない。御狐さまも抱きしめている佐久に視線を注ぐ。
「大変危険な状態です。黒鶴、佐久が大事ですか?」
「もちろんです!」
「佐久の未来を貴方の両手に担えますか?」
「はい」
「佐久の両手に貴方の未来を託せますか?」
「はい、できます」
 その答えを聞いた瞬間にできの悪い子を持った母親のような自愛の目で御狐さまは黒鶴を眺めた。
「あれだけ禁じたのに、お前は佐久を愛しているのですね?」
「申し訳ありません、御狐さま」
 死んだような、半分濁った目をした佐久を黒鶴は抱える。折れそうな肢体はやせ細り、軽く命が残り少ないことを物語っていた。
「よいのです。覚悟を定めたのなら私にもう、反対する理由などありません。黒鶴、今から佐久の精神を一瞬だけ呼び戻します。佐久は今、精神を禁世に落とされ、徹底的に身体を痛めつけられ、蹂躙されています。呼び戻したら最後、会話はできぬと思いなさい。はっきり言って佐久はもう、だめでしょう」
「そんな!!」
 黒鶴の声を諌めて、御狐さまは続けた。
「血約を結びなさい。お前が佐久の魂の奴隷となり、佐久の身体に生きる呪いをかけなさい」
「そ、それは……! しかし御狐さま、もし佐久が拒否したら……!」
 黒鶴の言うことは最もだった。血約を結ぶ儀式で相手が応えなければ、黒鶴の命は禁世に飲まれる。
「いえ、佐久の為なら……承知しました」
 そこからは思い切りがよく、佐久の指を切り、血を飲み、印を胸の上で描く。かつて入矢が決意の証に決めた覚悟の儀式。佐久の白い胸に堂々と血の文様が描かれる。
「行きますよ、黒鶴」
「はい、御狐さま」
御狐さまが声をかけた瞬間、ゆるりと佐久の瞼が痙攣する。
「佐久!!」
 黒鶴の一声をきっかけに周囲にいる翹揺亭の者が次々に佐久の名を呼んだ。
「……ほら、一番に……会いにきた、だろ?」
 佐久の濁った瞳では、もう黒鶴の姿さえ映すことはできないのだ。もはや彼にまともな思考能力は残っていない。夢うつつのように佐久は微笑んだ。痛々しいその笑みに涙を流すものまで現れる。
「俺、約束は……守った、な」
 黒鶴はその手を握り締めて言った。
「まだ、死んでねーよ! 死なせねーよ!!」
「ふ、わがまま、直ってねー……な」
「直すかよ! 俺のわがまま聞くのは、お前の運命だ! さぁ、俺のわがまま付き合えよ、今度こそ、死ぬまで!!」
 握り締めていた佐久の手を自分の胸に押し当て、自分の手を佐久の胸に当てる。
『我は、汝。汝は我。我は誓おう、そなたに我の全てを懸けて。我は結ぼう、血の交わりを持って』
 賭けのようなその行為にその場にいる全員が祈る。どうか、応える気力が佐久に残っていますように。
「おまぇ、わがまま、すぎんだよ……」
 佐久はそう言って口元の笑みだけ残して、瞼を下ろす。絶望に全員が染まったとき、かすかな声が黒鶴の耳にだけ届いた。
『我は、汝。汝は我。……我は誓おう、そなたに我の全てを与えて。我は結ぼう、血の交わりを持って』
 黒鶴が歓喜の表情を浮かべた瞬間、佐久の意識が再び途絶える。
「黒鶴! 反魂を!」
「はいっ!!」
 御狐さまの言葉と同時に黒鶴が意識のない佐久に口付ける。そうして佐久の身体が死なないように呪われていく。入矢と違って方法を熟知している黒鶴は手際よく佐久の身体を修復するかのように治していく。
 血色がよくなった佐久を見て、誰もが歓声を上げた。御狐さまも安堵の息を吐く。
 力を使い果たして倒れた黒鶴を介抱する者、佐久を介抱する者に分かれた。
「流星、それと柏木!」
 御狐さまの鋭い声に、即座に声が上がる。
「は、ここに」
「そなたたちに命令を出します。いいですか、たとえ誰であっても、入矢を捕らえている者から入矢をこちらに連れ戻しなさい。いいですね。誰であってもですよ。但し、この件には不思議の国の住人が関わっています。彼らと相対する場合のみ、争ってはなりません。わかりましたね?」
「は」
 即座に二人が退出していく。それを見て、御狐さまは次の指示を出した。
「綾、今回の件で身請けさせた男娼と娼婦を全員連れ戻しなさい。そして、ここ三日ほど、全員の予定を空けるのです。これより三日、翹揺亭を急遽、休業日にいたします」
「承知しました」
 大変な命令に対応すべく、綾以外にも何人かが出て行く。そして残った者は驚きを隠せずにいた。翹揺亭が休み??
「弥白、弥黒。そなたたちは私についておいでなさい」
「はい」
「皆のもの、私はこれよりしばし店を開けます。私が居ぬ間は男娼、娼婦は羽住に、裏方のものは綾に従って行動なさい」
 御狐さまはそういい残し、奥の間から出て行く。
「御狐さま!」
 皆が疑問をその名前に載せた。
「案ずる事はありません。少し昔の因縁を終わらせようと思っただけのこと。……思う先が違うからこその別れ、しかしこれ以上の勝手、もはや我が妹なれども捨ておけません。黒白の両面、灸を据えてやりましょう」
 その威厳ある言葉に誰しも自然と頭を下げた。それが誰も見たことのない、御狐さまの戦に出るなどという信じられない事態だとしても。
「御狐さま」
 弥白が声をかけた。
「不思議の国の住人が大勢動き始めています。なにも、御自らお出にならずとも……」
「いいのです、弥白。彼らはこの土地で暮らすための大切な友人と言えましょう。そのために振るう刃、まだ錆付いてはおりませぬ。あの子が不思議の国の住人にならなかったわけは自分本位だったと想像できますが、弥白。そして弥黒。私は違うのです。……あまりにも悲しいと思えたから、辞退を申し出たのです」
「悲しい?」
「ええ。この土地が自由であろうとするのは成り立った理由が、悲しいからかもしれないですね」
 目を伏せた御狐さまの心の底が伺えない二人は疑問を抱きつつも、それを問うてはいけないのだと、黙ったまま御狐さまに付き従った。