毒薬試飲会 017

038

「入矢がノワールを観察していた彼女の存在に気づいて、禁術解体を行い、彼女をノワールから断ち切ろうとしたの。
 彼女はまさか自分が視ていることに気づかれるとは思ってもいなかったし、そして禁術を解体されるなんて思っても見なかった。彼女は血約の恐ろしさを思い知った。そして完全に解体された禁術によってノワールを完璧に捕捉できなくなったことに驚愕した。
 彼女の不安と恐怖は的中した。彼らは第二階層ランク2のゲームで当時最強に近く、もっとも第一階層が近いと言われていたハーンとソニークのペアに勝った。それだけじゃない。入矢はソニークを殺し、ハーンを再起不能に落としいれた。そして禁じられた遊びのゲームそのものに介入するほどの禁術を解体できる。
 彼女は危険視したの。入矢を。そして入矢とノワールを一緒に置いておくことは危険を増すだけじゃなくて、自分の計画すら壊しかねないと危惧した。
 それと同時に彼女は気づいたの。15年目が来ていることに。だからこそ、今こそが最大のチャンスとばかりに第二階層の十指に話を持ちかけ、二人を追い落とすことにした。彼女の用意周到さは半端ないの。入矢はその危機にすぐに気づいた」

「俺はノワールの中からその存在が消えたことに安心してたんだと思う。もう、大丈夫だと。でも全然そうじゃなかった。ノワールの屋敷内に不穏な空気が漂い始めた。ノワールの前では忠実な配下が俺に殺意を向けることに俺は当惑した。そしてこれは仕返しだって、そう感じたときにはもう、遅かった。
 ランク2のゲーム以外でも俺は殺意しか感じなかった。わかるか? 目を向けると全ての人間が俺に向かって死ねと、そう囁く。ノワールには向けない殺意を俺は毎日どこでも感じて、俺は正直発狂しそうだった。
 耐えられたのは、ノワールがいたからだ。ノワールはさすがに気づいてくれて。俺は、でもそれでも不安だった」

「その入矢の不安を感じ取ったノワールが今度は彼女に牙を向けてきたの。今度こそ、完璧に彼女がノワールという肉体の器に仕掛けていた支配という名のものを破壊するために。
 彼女にとっては想定外すぎる出来事よ。だって、最高の人形師とさえ誉れ高い彼女が製作した人形そのものが主人に歯向かってきたんですもの。そして彼女はノワールを一度、諦めた。もう自由にして関係ないようにしようと。そう決めたとき、彼女の幸せな日々は終わってしまった。
 唐突に、少年の友人として入り込んだ友人夫婦に彼女は殺されてしまったの。幸せの絶頂のような日々だったのよ。だって彼女は少年の子供を妊娠していたんだもの。でも、身重になったことと、彼女は少年の前で自らの正体と能力を隠していたからこそ、彼女は死んだ。
 彼女自身は自らの死に対して人形を作り上げている。だから身体を換えればいい。でも少年は違う。彼女は少年のことを想った。だけどね、彼女が思うほど少年もまた、弱くなかったの。少年はね、何十年に一人生まれるか生まれないかの才能を持っていたの」
「才能って?」
「すなわち、その才能とは、禁世を引き寄せる力。禁世に飲まれるだけでなく、禁世を支配下における力。彼はそれを彼女を失った怒りと悲しみで開花させて、友人を殺しただけでは止まらなかった。少年は自ら彼女の“代わり”を造りだし、自分の幸福なる生活を取り戻した。
 彼女はそこで元々の目的をやっと思い出したの。少年を利用しようとしていたことの意味を。それと同時に彼女は自分の代わりで満足している少年のことを残念に想い、その存在と行為自体に嫉妬した。狂うほどに嫉妬したの。
 彼女の瞳にもう少年しか映らない。だから彼女は自分の死を利用した。少年の下から姿を消し、しかし準備ができ次第、すべてを実行に移せるように。そして少年が再び今度こそ本当に覚醒するのを待った。少年が覚醒すれば、それは牙を向ける最強の兵器を手に入れたようなものだからね。
 そして彼女は本格的に異分子と化したノワールに目を戻した。彼女はできればノワールを元に戻したいと考えていたから、入矢をどうやって引き離そうかと思案した。そうして思いついたのが、ランク2の十指に同盟を組ませ、入矢にどれだけ危険かを囁いて、入矢を殺そうと考えた。入矢はすぐにそれに気づいた。ノワールを危険な目に合わせることも理解した」

「俺はノワールが俺といれば危険になるとすぐにわかった。俺はノワールと一緒にいてはいけないと感じ、ノワールから離れることを決意した。何よりもノワールの中にいた人物がノワールに何をするか俺にはそれが不安だった。
 それに俺の身の回りではあの時、誰が敵かわからなかったから、俺はノワールの屋敷内にいる敵をあぶりだそうとノワールの部下を誘惑した。翹揺亭にはな、秘術っていう種類の技がいくつかある。あの時俺が使ったのは身体を重ね、相手を催眠状態にして、誘導尋問に引っ掛け真意を問いやすくした上で、意識が覚醒すると同時に事前に盛った毒で相手を殺す技だった。俺はそうしてノワールの身の回りから敵を一人残らず、殺した」
 淡々と語られるその事実は、入矢の決意をうかがわせる。ノワールの屋敷は確か広く、それに見合うだけの部下がいた。その部下のほとんどと身体を重ねるなど、ノワールにしてみれば裏切り以外の何にも見えなかったに違いない。アランが見たあの場面はその直後ということになる。
「どうして、ノワールに言わなかったんすか? スパイを殺したってことでしょう?」
「ノワールの中にいる存在が、ノワールを通して全てを見ているなら、本当のことを言っても無意味だろう? それにノワールを裏切ってしまうと、そう決めた瞬間から許してもらうつもりはなかった。ノワールを傷つけるとわかっていても、俺には他の道を選べなかった。他にも方法はあることにはあった。翹揺亭を頼るとか、不思議の国の住人に聞くとか。でも、俺は自分でノワールを助けたかった。俺は、ノワールを独占したかっただけなのかもしれない」
 アランはノワールと言っていることが似ていると感じた。たとえ相手に嘘をついて、嫌われて、憎まれても愛しているというその考えが。相手を傷つけても、己だけを映させたいという、その独占欲に満ちた愛のカタチ。
「俺はノワールから逃げた。ノワールが俺を追ってくる間に、俺は原因に関わっているだろう、少年を殺すために階層を下った。お前を殺そうと。お前と出会って、俺は何度も殺そうとした。でも、できなかった!」
「どうしてですか?」
 アランは見上げた入矢の目がひどく、深い色をしていることを知った。
「……お前は、俺が初めて出会った頃のノワールそのものだった」
「それって、俺がノワールに似ていたから、殺せなかったってことですか?」
「…………そうだ」
 アランは本当に本当に悲しいとき、人は反応できないものなんだなと思った。
 一番傷つけられることを、一番大好きな人に言われている。
 でも、でも好きなのだ。最低な人間だ。この男は最低だ。でも、好きで、すきで!
「ひどいっすね」
「ああ、最低だ」
「俺がノワールに似てなかったら、殺せたんですね?」
「たぶん」
 アランは涙がこういうときに出れば楽なのにと思った。涙は枯れ果てたかのように目を潤すことすらしない。
「じゃ、どうして俺と一緒にいたんですか? 俺の生活を壊して、俺に何をさせたかったんです?」
「……」
「俺は仮初でもエーシャナとの暮らしが幸せでした! どうして、俺を最初から見てなかったなら、どうして! なんで、俺と一緒にいたんですか! なんで俺の願いを聞いてくれたんですか? ……俺が、ノワールに似てたからですか? 俺はノワールそのものだったから、俺の願いを突っぱねることができなかったんですか!?」
「そうだ」
 アランはあまりのショックにその場に崩れ落ちた。たったそれだけのことで、己の人生を変えられてしまった。
「フェイさん、いや入矢にとってノワールは……“全て”だったんですね?」
「そうだ」
「どうしてです? 最初、憎むほど嫌ってたじゃないですか? 幼馴染の女の子利用されてそのためだけに身請けしたんでしょ? 血約結んだ理由だって知ってます。でもたったそれだけです! それだけなのに、あなたはどうしてこんなにもノワールが好きなんですか? 俺じゃなんでだめなんです? どうして!?」
 入矢はアランに向ける言葉を持たない。
「どうして、先に会ったかどうかの差じゃないですか? だって、同じ顔なんでしょう? さっきノワールが言ったのもそういうことなんですよね? 顔が同じなら入矢は俺に抱かれてくれるんですか??」
 入矢が何も言わないのをいいことにアランは入矢を糾弾し続ける。
「だってあなたは過去にこの顔をしたノワールに抱かれているはずだもの! なら、今俺に抱かれることも……できますね?」
 そう言ってアランは装置に触れる。抱いてやろうとそう思った。好かれなくても嫌われてもかまうものか! この男こそを傷つけて貶めて、辱めてこそ初めて自分の存在を焼き付けることができるのだ。初めて“アラン”を見てもらえる!
 そう嫉妬と憎悪にまみれた思考を冷ましたのは、冷たい水の感触だった。頬の上に断続的に落ちてくる水。それはきっと赤い色をしているはずだ。
「え?」
 上を思わず見上げる。入矢は何も言わず、戒められている手首を無理やり外そうとしているところだった。そのため棘が深く白い手首に刺さり、真っ赤な鮮血が雨のようにアランの上に降ってくる。
「何してるんすか?」
 唖然とした。いったいこの人は何をしているのだろうかと思って、先ほどまでのことが一気に頭から抜け落ちた。後から考えればなんて単純なんだろう。
「俺はお前と一緒にいてはいけない」
 入矢の声がすとんと頭の中に落ちてきた。それはどういう意味ですか? そう聞き返したいのに、落ちてくる血が思考を鈍らせる。ビクビクと痛みからくる痙攣で震える手首をそれでも動かす。
 果物を搾るときのように断続的にぼた、ぼたっと血が落ちてくる。骨まで達しているんではないかと思うほど無理やり右腕を抜こうとしている。そして布が裂けるような音ともに入矢の右手が大量の血を撒き散らして自由になる。
 激しく傷つけたからだろう、震えのとまらない真っ赤な右手をそのままアランの方に向ける。アランは何をされるんだろうと身構えることもせず、その赤い指先だけを眺めていた。
「逃がしてやる、俺が」
「どうしてです? 俺は貴方を抱こうと……」
「逃げろ、俺から」
「……どういう意味です?」
「アラン、人にはさ、どうしようもないときがあるんだ。その一言でもちろんお前に許しを乞おうとも、自分の罪を帳消しにしたいわけじゃない。
 俺は本当にお前には悪いと思っている。お前の人生を狂わせた責任は逃れられない。お前が俺に罰として抱かれろっていうのなら、構わない。
 でもそんなことじゃきっとお前は満足できないし、俺は罪を償ったことにはできない。
 ……アラン、俺はお前に会って、どうしてもお前を殺せなかった。それがノワールのためにならないとわかっていても、俺にはお前を殺すことはできなかった。ノワールそのものだった、俺を死ぬほど欲してくれたノワールの姿の前に俺は無力だった。
 俺は、ノワールのことが本当に好きなんだ。どれだけ嫌いって叫んでも、俺はノワールのことが好きだったんだよ。気づけないことだってある。自分の気持ちに正直になれない時だってあるさ。だって自分のことなんてわからないから。でも俺は自分の気持ちに気づくことができた。やっと、やっとだ。俺は本当にノワールが好きなんだ。でも、ノワールの為にならないのにお前を殺すこともできない。
 俺はとんだ軟弱者で、矛盾を抱えたままお前と過ごした。お前と一緒の日々は楽しかったし安心した。ノワールと俺の日常が燃え盛る炎だとすれば、お前との日々は暖かなぬくもりのような灯だった。本当にどうしようもないんだ。俺は。
 俺は優柔不断でお前に好かれるような人間じゃない。俺は醜くて、愚かで……いつだって間違わなければ答えにたどり着けないんだ。俺の間違いにお前を巻き込んだなんてそんな簡単な言葉で済ますつもりは、ない! だけど!」
 血まみれの手がこらえるように顔に添えられる。再び震えながら、俺に向けた手は今度は震えていなかったし、入矢の目から涙が流れているのがわかって何も言えなかった。どれだけノワールに責められても、俺の糾弾を受けても、痛みにも屈せずにいたのに、自分の気持ちと想いを吐露するときにこらえていた涙が、あふれた。
 それが意味することは、ただ一つ。この先に言う言葉が真実ということ。
「俺は、俺は! ノワールが好きなんだ。ノワールが大切で、ノワールが好きな自分が愛しいんだ。でも、お前も好きなんだ。同じ顔をしてもお前たちは別人で、俺にとってはどちらも大切で……」
 アランの目からも涙が流れた。そしてその瞬間に、入矢から放たれた禁術によってアランの腕を拘束していた手枷が破壊される。
 アランは迷わず両手を使って泣き顔を隠した。
「すまない、アラン。すまない、すまない、すまない、アラン」
 子供のようだと感じた。この人はちっとも大人っぽくなんか、なかったんだ。
「いいです、もう、いいんです」
 アランはそう言って入矢を拘束していた装置に触れる。ふわっと音もなく装置が消えていく。泣き顔を晒してアランは上から落ちてくる入矢を抱きとめる。
 そのまま二人で座り込んできつく、締め上げるように入矢を抱きしめた。
 そして泣く。ただただ泣いた。入矢も泣いていた。
「フェイさんは俺を殺したかったんですね? ノワールのために」
「ああ」
「でも、できずにずっと引きずって、俺の願いを叶えてくれたんですね?」
「違う。いつしかお前と過ごす日々が大切で、ノワールから逃げてそのままお前と一緒にいてもいいほどに思っていた。ノワールが向けてくれる愛はうれしい。でも、ノワールと俺は互いを想いすぎて、その想いが重荷になっていたのも事実なんだ。想い合いすぎて互いがすれ違った。その日々と殺意を向けられる日常に疲れていたのも、本当だ。俺はお前とノワールどちらも選ぶことができなかった。俺は二股かけていたようなもんだ。種類は違っても俺はお前も本当に大事だった」
「じゃあ、俺と一緒にすごした日々は貴方の真実と思っていいですね?」
「ああ」
「貴方は俺をノワールと見ていたから殺せなかったのではなく、俺を俺として見ていたから殺せなかった、そうですね?俺もノワールと同じくらい想われていたんですね?」
「そうだ」
 その瞬間ふわっと心が温かくなるのを感じた。好きの種類は違っても人に好きといわれることがこんなにも暖かく、うれしいものだったなんて。
「フェイさんが俺の日常を壊した理由はなんですか?」
「お前が普通じゃなかったから。殺せないからせめて日常を壊してやろうと思ったのも事実なんだ。でも気づいていなかったと思うが、あの偽りの日常を作ったのはお前だ。だから止めてあげなきゃいけないとも思ったんだ。じゃないとお前は永遠に閉じた時間の中にいることになるって。本人の意思なんて尊重どころか確認すらせずにそう思った。馬鹿みたいだ。殺そうと思っていたくせに、殺す人間の正常さを求めたなんて」
「俺の為ってことですね?」
「でも、お前にとっては……」
「いいんです。貴方が日常を壊してくれたおかげで俺は貴方が見えた。貴方を好きになって、貴方と共にいた日々が大切でうれしかったのも俺の中では本当ですから」
 入矢は何故こんな優しい男を傷つけてしまったのかと涙を流す。
「貴方は第三階層に上ればこの日常が壊れることを知っていた。だから全て話すと、教えてくれると言っていたんですね? あなたとノワールがすれ違ったように、俺と貴方もすれ違ったんですね。タイミングの悪さが俺たちを誤解させたんですね」
 入矢を誤解してしまったのは入矢が説明をする前にノワールがさらっていったからだ。だから自分で知ろうとして過去を見て、そして誤解した。イモムシの発言をちっとも理解していなかった。
 過ぎる情報は確かにアランに間違った感情を抱かせるに十分だった。自分で真実を知らなければこんなにも人間はすれ違う。
「アラン、お前は優しいな」
「いいえ、フェイさんに限定ですよ?」
 抱きしめていた腕を緩めて、アランは入矢の顔を腕で挟み込み、正面から見つめた。涙を流す目は澄んだ緑色。真紅の髪。白い肌。薄く淡い紅色の口。整った顔立ち。これがアランが好きになった男。アランが欲した人間のカタチ。誰が責められるだろうか。自分が最も大事に想っているカタチとそっくりなモノを傷つけることができない弱さを。
 人間は物じゃない。同じカタチはそれだけ意味を持っている。
「フェイさん、大好きです。貴方が一方的に俺に罪を負うことはないです。貴方が俺を傷つけたように、俺も貴方に傷つけるだけの理由を持たせた、それが俺の罪です」
「そんなことはないんだ、アラン!」
「いいえ。人間の関係なんてものは一方的なんてありえないんですよ? フェイさん。貴方が俺に向けてくれた好意は俺にとって尊いものです。俺は貴方が好きだ。本当に」
「どうして、俺なんだろうな……お前はこんなに優しいのに」
 入矢はそう言ってまた泣いた。本当に自分を責めているんだ。アランは思う。この人はこんなに弱い人だったのだと。自分が勝手にこのフェイと名づけ、愛した人間の内面を知ろうとはせず、勝手に思い描いた人物像を押し付けていたことに気づいた。
 アランから見たフェイはとても強く、冷静で、大人っぽく、できた人間だった。それだけに美しく、崇拝していたといってもいい。しかし入矢は弱く、人間らしく、愚かで、そしてとても純粋な人間だったのだ。
 人を愛することを理解することができなかった少年が、一人の人間を心底愛して、ここまで変わったのだ。
 一人の人間の為だけに行動するような盲目的な身勝手な行動を起こす、そんな感情や想いを愚かだと言うことはできるだろう。でも誰も否定はできまい。
「フェイさん、俺は今日貴方に振られたと思います。でも、振られたからといってそこで関係が終わるわけじゃないですよ。そうだな、貴方がもし俺に罪悪感を抱いているっていうなら、罰はこれですね!」
「何?」
 幼い子供みたいだ。そういえばアランはフェイの年齢さえ知らないことに気づいた。
「前にした約束覚えてますか?」
「ああ」
「あれをちょっと変えます。俺、第一階層に行きたい夢は変わってないです。でも、貴方とは行かない。ハーンと俺自身の力で行って見せます。だから貴方もノワールと行ってください。その代わり、また、一緒にいましょう。一緒に暮らすんじゃなくて、一緒に同じ目線で同じ高さで一緒にいましょう。途切れることのない時間を今度こそ、一緒に。貴方はそうして初めて俺の前で“入矢”になれると思うんです」
 入矢ははっとした。慈愛に満ちたアランの目を信じられないように見つめ返し、そして微笑みを向ける。
「ああ、ああ! 一緒にいよう。アラン。アラン・パラケルスス。俺のかけがえのない人」
「さようならフェイさん。最後に一つ、思い出をもらっていいですか?」
「ああ」
 大事そうに抱えた頬をそのまま近づけて、アランはフェイに口付けを落とす。最初は驚いたようだったフェイはそのまま静かに目を閉じ、アランに身を任せた。深く深く、交わって互いを結ぶ長い長いキス。唾液が絡まる音さえない、親愛のキスを。
「はじめまして、入矢」
「これからよろしく、アラン」

「じゃあさー、結局入矢がダメな人間だったってことでしょ? それはわかったけど、そんでこれからどうなるわけ?」
 グリフォンがつまらない恋話を聞かされたと言いたげにあくびをした。
「そうね。二人がどう結論を出すかはわからないけど……ああ、そうね。今情報が入ってきた。きっとこれから彼らなりの答えを出すわ。それに彼女が満足するとは思えないけれど」
「そもそも、少女は黒白の両面でいいとして、少年って誰なの?」
 ニセ海がめの言葉にイモムシはうっかりしていた、という表情をした。
「言ってなかったかしら?」

「アラン・パラケルススよ」

「道理で入矢が思いとどまるほど、似ているわけだ。だって同じなわけだもの。入矢はそれを知ってるの? だって黒白の両面が覗いてるからアランが見えちゃっただけなんでしょ?」
 ニセ海がめはそう言った。
「たぶん、大丈夫よ。入矢は答えを出していないだけで、その答えがもうわかっているでしょうし。本人たちの間では問題解決」
「ね、じゃなんで弟なのよ。同じクローンなんでしょ? 弟って言うよりかはアランを基に作られたわけだから兄のほうがしっくりくるじゃない?」
 グリフォンの問いにイモムシは答えを与える。
「おそらくノワールが最初にその事実を知ったとき、アランは黒白の両面によって時間を止められていたわけだから、自分より身体年齢は低いわけでしょ? だからそう感じたんじゃない?」
「ふーん。道理で女として嫉妬するわけね。だって、彼女が止めた二人の男の時間を動かしたわけでしょ? 入矢って。そりゃ天敵になるわね。……白ウサギか。わかる気がするわ」
「それはまた別問題でしょ? 問題はそこじゃないわ」
 イモムシはそう言って紫煙を吐き出した。
「なるほど。じゃ、問題をかき回す輩をどうにかしなきゃいけないわけね」
「そう。でもこれは私たちの問題じゃないから」
 イモムシの言葉を遮ってグリフォンが言い切る。
「やっとハートの両陛下のお望みがわかったわー。命令すんならわかるようにして欲しいわ」
「グリフォンが面倒がって聞かなかっただけじゃない?」
 ニセ海がめがつっこみを入れる。
「あら? そんなこと言っていいのかしら?」
「……」
 しれっとした様子のニセ海がめと向かい合うグリフォンにイモムシは苦笑して光る蝶を渡す。
「蝶をあげましょう。それでお願いできるわね?」
「じゅーぶんよ」
 立ち上がった二人はそのまま消え去る。グリフォンはウインクを残し、ニセ海がめは袖で涙をぬぐいながら。

「おそらくハーンは地下2階当たりにいると思う。一緒に探せなくてすまないな」
「いや、入矢はこれからどうするんすか?」
 入矢は傷口に止血を施しながらアランに言った。
「俺もやるべきことを、しようと思う。できるかわからないけど」
「それって、一体」
「今のノワールはノワールじゃないんだ。ノワールと同じ姿をしたノワールと同じ思考も持つ別人というとわかりやすいか。俺はあいつを拒めなかった。ノワールと同じだから。でも、俺もそろそろ俺はどこがノワールとして好きなのか、はっきりしないといけないんだと思う。だから」
 入矢はこれからノワールとまた対峙するのだろう。今思えば入矢がノワールに抱かれていたことは夢ではなく現実だったように思う。入矢が泣いていたのはノワールが“ノワール”に思えてならなかったからだ。
「わかりました。じゃ、行きます」
「ああ、気をつけてな」
 そう言って入矢も立ち上がり、アランを見送った。
「はい。また、入矢。今度会うときは第一階層で。追いかけますから、必ず」
「ああ、またな。俺もノワールと待っているから。次に会うときはきっと青空の下だ」
 またはもう一回、いや何度でも会うときの挨拶。一時の別れ。でももう離れない。
 アランは新たな約束と関係性を持って、自分の目的のために必要なパートナーを探しに一歩を踏み出した。