毒薬試飲会 018

040

『ウルヴェ・アルヴェ。イヴァヴァ・ステルス・カナンマーシ。カンマーシ・カナンマーシ。キューヴェキューヴェ。イルルエリ・ゲルルヴェリ!!』
 三月ウサギは油断していた。そう言ってもいい。だけどそれだけでは言い切れないことだった。普通の人間は背骨をバッキバキに砕き、内臓を引き出し、筋繊維をズタズタのボロボロにしたのだ。それはもちろん筋も神経も破壊したということなのに、なのにノワールには意識があった。
「マーチ・ヘイヤ!!」
 焦ったマッド・ハッターの声が響いた。肉塊と化したノワールは声さえ響けば禁術を発動できる。そしてその禁術は三月ウサギが対応できないもので、その構成速度にマッド・ハッターすら対応できなかった。
 さすが安定し、速度の速い禁術生成を誇る入矢のドーミネーター!
 そしてすべてが反転し、ノワールが受けた攻撃はすべて三月ウサギに帰る!
「ぎゃぁああぁあぁぁぁああああ!!!」
 三月ウサギが地に倒れ伏し、臓物と血をぶちまけた。口から水風船を割ったような量が吐き出される。そして楽しげなお茶会の風景は一瞬でノワールの無機質な部屋に戻った。
 ノワールは身体の異常がすべて自動的に修復されていることを知り、立ち上がる。ノワールが使った禁術は反転禁術。それは食らった技が禁力に関するものならば同等の禁力を持ってして、与えた相手にそっくりそのまま返すもの。
 ただ自分のダメージは直らない。相手が同じ技を食らうだけ。自分の身体が治っているのは黒白の両面がそのように設計したからだ。
「ガッ!」
 三月ウサギがその小さな身体を歪めて動きを止める。その間にノワールはゆっくりと自分の身体が修復されていくことを感じ、悠々と二人を見つめた。
「反転術式か!」
 マッド・ハッターが低く言い、マーチ・ヘイヤを倒された怒りに震える。
「何を、ずいぶん残虐な殺し方をしてくれるものだ。痛かったよ、マーチ・ヘイヤ」
「君は入矢のときもそうだったが、物怖じという言葉をしらないようだね」
 マッド・ハッターはそう言って、シルクハットを深くかぶりなおす。黒いロングコートが翻った。
「次は貴方が相手ですか? マッド・ハッター」
「マーチ・ヘイヤは私にとってお前の入矢のような存在。黙っていると思うか?」
 ざわざわと空気が振動する音が聞こえる幻聴がした。ノワールはこの部屋の明るさが急激に落ちていくような感覚に支配される。
 確か話の中では気違いのお茶会が開かれるのは三月ウサギの庭。いかれた帽子屋の店や屋敷、庭どころか彼が主催するお茶会の風景は出てこない。ということはこれが彼のお茶会ということか。ざわざわと鳴るものは一体なんだろう。
「私はしがない帽子屋でね、さまざまな帽子を売っているんですよ」
 マッド・ハッターが急に話し出す。三月ウサギと同様の攻撃手段をしてきたということは彼もまた、言語によって空間を支配するのだろうか。
「お前達を喋らせはしない!」
『汝は嘆きの印。歌え、叫べ、汝の存在こそが我々を表現する力。だがその力は我の許可なくして響くこと適わない。そなたの名は声!!』
 マッド・ハッター相手に何分持つかわからないが声は封じた。これでしばらく彼は歌えまい。口がみやりと笑う形を取ったことから一気に攻撃を畳み掛ける。
『一つのところに集まって、群れを成して襲い来る。我が手に宿りし強大なそなたの名は、光!!』
 ノワールの指先から何もかも焼ききってしまいそうな力強い一本の光の道が刹那にて漆黒の塊に浴びせられる。巨大なレーザー光はマッド・ハッターを直撃し、その上半身を焼ききったはずだ。しかし相手は不思議の国の住人。攻撃の手は緩めない。
『我が憎悪で歪むのは、血の泉が其処にあるから。噴き上がれ、噴き上がれ……そなたは全ての死の具現!!』
 ドンとマッド・ハッターが立っていた場所で爆発が生じる。天井が吹き飛んだ。一瞬にして吹き抜け構造にされた上の階の部下が慌てふためいて逃げていく。
「そんなものかい?」
 背後からぞっとする声が響く。その声は女性的で妖艶だ。しかし死を含み、ノワールを驚愕させるには十分だった。マッド・ハッターはやはり傷一つ負うことなく、ノワールの前で微笑んでみせる。
「さて、マーチ・ヘイヤの攻撃から回復したということは……お前は回復禁術をかけているか、それともすでに人ではないのかな? 禁世に飲まれたときいてるからね」
 ノワールはじりっとマッド・ハッターから距離を取る。マッド・ハッターはそのまま赤い唇を吊り上げ、三日月形にした。
 それをノワールが見た瞬間、背後から衝撃が襲ってきた。ノワールは衝撃を受けきれずに向かいの壁に激突する。
「かはっ!」
 すぐさま振り返って確認する。何をされたのかと。しかし、マッド・ハッターは何もしていなかった。
『腕なんてなくなってしまえばいいよ』
明るい調子だった声が、同じ音程のまま、まったく感情を込めずに呟かれた。
「ぐぅっ……! お前、だれだ!!」
 ノワールは自ら手が突如消えた事に狂ってしまいそうな感覚をなんとか押さえつけて目の前の三月ウサギと同じ姿をした、しかしまったくの別人に問うた。
「どうして、回復……したのか?」
「よくも、マーチ・ヘイヤをあんな目に合わせたな」
 暗く、低く感情のこもらない声はストレートに意思を伝える。
 血まみれのつなぎのジーンズ生地からひょろりと長い尻尾がのぞき、水色の輝いていた目はまるで何も映さない紫色に変わる。健康なウサギそのものだった明るい茶色の短髪は自己主張をしない灰色に。ピンと立ち上がっていたウサギの耳がいつしか小降りの丸い形の耳へと変わっている。
「お前……まさか!」
 ノワールはうわさを思い出した。“ノワール”が一度も会ったことがない、気違いのお茶会メンバー。永久に眠りを享受する、最後の一人。
「ドー・マウス(眠り鼠)!!?」
「マーチ・ヘイヤは永遠の子供。だからこそ君を嫌ってはいなかったのに。言う通りにならない玩具なんて、壊してしまえ!ね、マッド・ハッター」
「同感だね」
 マッド・ハッターがそう言って黒いシルクハットを脱ぐと、表れたのはまた別の黒いシルクハットだった。二重に被っていたのだろうか。そして脱いだシルクハットを片手に持ち、もう片方の手を帽子の中に入れた。
 ゆっくり片手が帽子から引き出され、その手には手品のようにすらりと長い剣が握られている。ドー・マウスは歌うために息を吸い込んだ。
「爆発しちゃえっっ!!」
 ドー・マウスとマッド・ハッター、そしてノワールが臨戦態勢でまさに攻撃しようとした瞬間、この部屋一帯が紅蓮の炎に包まれた。明るい女の声。反応は瞬時。
「クィーン・オブ・ハーツ!!」
 ノワールは今の瞬間に自分の身体を治す禁術を掛け、状況を把握する。部屋一室が爆発したことにより、上の階と吹き抜けになり、下の階にまで床が抜け落ちた。
「あぁ、見つけたわ! さぁ! 言いなさい」
 ノワールは舌打ちした。気違いのお茶会メンバーだけでさえ手を焼いているというのに、これ以上不思議の国の住人が増えでもしたら! 入矢はどれだけ探されているというのか。
「アランはどこにいるの?」
「速やかに答えなければ、この屋敷中を爆破しますよ?」
 ハートの女王の影からハートの王が子供らしからぬ口調で言い張った。
「アラン? 何故彼を?」
「栄えある女王陛下の所有物にするためですよ」
 ハートの王の言葉にノワールではなくノワールの中のドールマスターの意思が伝わる。絶対にダメだと。
 入矢はアランがいるからこそ必要となる存在。アランがいなくなれば入矢とて必要ない。
「さて、まったく何故こんなにも一度に不思議の国の住人が集まってしまうのやら」
「そういえばお久しぶりですね、マッド・ハッター、ドー・マウス。貴方がここにいるということは、マーチ・ヘイヤはこの人間ごときにやられたわけですか?」
「お前、マーチ・ヘイヤを馬鹿にするのか!」
 ドー・マウスが静かなる炎のような怒りを向けた。
「お止め! あたしの目的を邪魔するなら皆死んでおしまい! お前達の目的は入矢でしょうに。私達の目的はアランよ」
 ハートの女王はそう言って、剣を振りかざした。
「何故、こうも私の屋敷で、私の客人を狙うのですか? 皆様方」
「あまり私達不思議の国の住人を馬鹿にしないことね、黒白の両面。チェシャ猫は見かけによらず狡猾ということよ。さぁ! お話し! ノワールのドール!!」
 ぐっとノワールは息を呑んだ。ドールとばれている。
「マッド・ハッター! ここにいるのはノワールのドール! 黒白の両面にプログラムされた行動しているに過ぎないのよ! かまわず殺しておしまい!」
 ハートの女王は最初からノワールが言わないとわかっていたのだろう。だからこそ周りを爆破していく。そして二人の人影はノワールの屋敷の中に消えていく。
 追おうとした瞬間、行く手をマッド・ハッターに阻まれた。
「君にはまだ借りを返せていないね?」
「邪魔をするなぁ!」
 ノワールはそう叫んだ。行かせはしない。自分は“ノワール”は入矢を愛しているのだから!

 アランはノワールの屋敷というものの大きさを改めて思い知った。この屋敷を維持するだけでも相当の金がかかりそうだ。なるほど、ノワールというのは本当にすごい奴ではあったわけだ。
「確か……地下二階に行くには左に曲がるとたどり着けないんだったな」
 入矢は複雑怪奇で罠が仕掛けられているノワールの屋敷の簡単な攻略法を教えてくれた。そしてノワールの屋敷の特徴は隠し部屋が多いということらしい。
「入矢はよくこんな屋敷から逃げ出したなぁ」
 感心してしまう。入矢は翹揺亭でプロの裏家業に対する訓練を積んできたというのは伊達ではない。
 アランは慎重にハーンを探した。ハーンがどこにとらわれているかわからないし、アランのようにもしかしたらアランを探しているかもしれない。
「うーん、見当もつかね」
 こんな広い屋敷で誰にも出くわさないことが奇跡に近いのだが、アランは誰かに聞きたい気分だった。しかし次に瞬間、アランは屋敷自体が揺れていることに自分が倒れてから気づく。
「な、何だ??」
 快楽の土地は地震と無縁だ。つまりノワールの屋敷自体がなんらかの事態に巻きこまれて揺れていることになる。そして敏感に感じ取った。
 この揺れは……爆発だと。

 意識が薄れる。まどろみの中、見えるのは暗闇しかない。
 生きているのか。死んでいるのか。眠っているのか。まったくわからない。
 身体の感覚も無く、ただ思考だけが存在している。でもそれもまどろみの中で、はっきりしない。
 何も考えられない。ただ波間に浮かぶ流木のように意思を持てない。
「しっかりしろ!」
 聞いたことがあるような声。だれ? わからない。
「ノワール!!」
 のわーる。それは、何だ?
「ノワール! お前はノワールだ!」
 おれ? ぼく? わたし? われ? のわーる??
「こんなとこでくたばってんじゃねーよ! ノワール!」
 こえの主は見えない。暗闇だけ。
「チ。手間かけさせるぜ、黒白もよォ!!」
 ざぁっと風が吹くような音共に暗闇が吹きはらわれて、いくぶんか目が見えるようになった。目の前に猫のような少年がぼくを見ている。
「さぁ! 思い出せ! お前は何だ!!」
 ぼくは視線を動かす。黒い粘ついたものに絡まっているのは……肉体? 身体? にく。ぼくの身体。からだ? 身体? 体? 躰?
「そう、それがお前を構成するからだ、お前を動かす肉体。お前を生かす命の器!!」
 にちゃっと音を立てて腕を動かす。手のひらを開いては閉じ、感覚が戻ってくると同時に肉体、躯に関する記憶と知識が戻ってくる。それは失ったパズルのピースがはまるようにすんなりと理解できた。そう、これが躰。生きていくための器だ。
「さぁ、その身体の主は誰だ? お前は誰だ?」
「ぼくは……」
 そしてまどろみの中で聞いた単語を口にする。
「のわーる」
「そう。そうだ。それが主を表現する言葉。お前を示す単語。お前の名前!!」
「ノワール……ノワール・ステンファニエル」
 自分の名前を思い出すと、それに伴って記憶も戻ってくるようだ。ピースがまた一つ、埋まる。
「さぁ、見てみろ。お前の胸の印は誰が描いた?」
 視線を下に走らせると不思議な文様が浮かんで赤く光っている。なんだ、これは? 熱い。
「お前の身体に流れる契約の血潮は誰のものだ?」
 文様を指でなぞるとどくどくと鼓動が響き、躯が発火したかのように熱くなる。
「共にいると誓った相手だ。さぁ! 誰だ!!」
 熱さに思わず目を閉じる。すると瞼の奥で炎が灯る。いや、炎じゃない。揺れる赤色は髪の毛だ。白い肌、赤い髪。緑の目。微笑む顔は……?
『俺が一緒にいてやるから!! だから、泣くな!』
 蘇ってくる声。どうして、忘れていた!
「入矢」
「そうだ。思い出せるか、理解できるか! お前がすべき事。お前が願う事! お前が行きたい場所が!!」
「ああ!」
 そして完全に意識が覚醒する。その瞬間に黒い粘つくものが肉体から離れていった。
「チェシャ猫! 私はどうして生きているんだ?」
「入矢がお前を生かすよう呪った。死なせない呪いを入矢がかけた。血約に従って」
「誰が私を、いや、私達をこんな目に合わせた」
「黒白の両面」
 その瞬間、肉体の中に己を支配している存在のことだとすんなり理解する。
「入矢は無事か?」
「無事とは言いがたいが、身体的には無事だ。精神的にはかなり追いやられているだろう。俺もわからない。俺は入矢にお前のことを頼まれたから」
 怒りが自分を支配する。なんてふがいないんだと。そして禁力を発散した瞬間、この場所から完全に暗闇が払われた。
 自由になったからだを伸ばし、立ち上がってチェシャ猫に言う。
「案内してくれ、入矢のもとへ」
「チップは弾むんだろォなァ!」
 チェシャ猫はそう言ってノワールの手を強く握った。

 爆発と思われる揺れが激しすぎてアランは立っていることすら不可能になった。その場にへたり込み、この揺れが収まるのを待つ。しかしこんな時でも崩れたりしないノワールの屋敷の強固さに呆れる。まぁ、無事で何よりなんだが。とか考えていた瞬間に、もう、本当に間近で爆音が響いた。
 あまりの音にしばらく音が聞こえなくなる。次の瞬間に灼熱の風が吹きすさぶ。
「うあぁああ」
「見つけたわ。手間かけさせるんじゃないわよ!」
 訊いたことのある可憐な声と禍々しい爆発。そちらに視界を向けずとも誰かわかった。
「……女王陛下……」
 なんで女王陛下までノワールの屋敷にいるんだ??
「お久しぶりですが……なぜここにいるんすか?」
「あんたを探してたのよ」
「おれ……?」
 ハートの女王はふぅっとため息をつくと、剣を下し、アランの顔面に手をかざした。
「えっと、何を?」
 背筋に冷や汗のようなものが流れ落ちていくのを無茶苦茶感じながら、アランは後ずさりして問う。なんか、この人、俺に何かしようとしてない??
「黙ってなさい」
「は、はぁ」
 半分返事するが、ものすごくいやな予感がする。ああ、どうしてもこうしてもいやな予感が!
「まぁ、ずいぶんと生意気な口を利く人間もいたものです」
 そんな声が響いてきて、アランはあれっと思った。誰だろう。ハートの女王の後ろの方に、愛らしい小さな男の子がこれまたお遊戯のような格好をして立っている。王冠をかぶり、赤いマントをはおって……右目のハート型の眼帯が異様ではあるが。
「えっと、誰? 君」
「あたしの弟よ」
「弟ォ!!? そんなのいたんですか? 陛下」
「あら、いちゃいけない?」
 よく見れば赤い瞳は特有のものだが、似ているかといわれるとそうでもない気がする。
「お初にお目にかかります。ハートの王と申します」
 完璧な動作で頭を軽く下げた少年はいたるところにハートを身にまとっていた。
「女王陛下はあなたを栄えある所有物に認められたのです。ですからその儀式を行うのですよ」
 アランは一瞬固まった。何を言われているのかわからなかったからだ。
「……所有物??」
「そーよ、なんか問題でもある?」
 問題って。その言葉自体問題なんですが。アランは内心突っ込みまくっていた。
「えっと、その……」
「アランも嫌がっていることですし、お止めになったらいかがですか? 女王陛下」
 三人の後ろの方から声が投げられる。アランはその方を向き直って驚いた。
「ハーン!!」
 アランは駆け出そうとして、その腕を女王陛下につかまれた。
「え?」
 アランが驚きに女王陛下を眺める。と次の瞬間にハートの王の周囲から八方向に影が伸び、それが起ちあがった。その影はそのまま長方形の形を取り、アランよりも巨大なカードと化す。
「邪魔をしに来るとは思っていたわ」
「“だって、アランは私のものですもの”」
 ハーンがにっこりと笑った。アランは驚いてその姿を見る。あのハーンが笑顔!!?
「ハーン・ラドクニフをドール化ですか。やる事がいちいち陰険ですね、貴女は」
 ハートの王がそう言って、ハーンをにらみあげた。ハートの女王はチャキっと音を立てて剣をハーンに向ける。
「“いいの? 殺して。この体は正真正銘ハーン・ラドクニフよ”」
「信じられるものですか」
「“別にかまわないわ、私は。でもチェシャ猫は違うんじゃなくて?”」
 その言葉を聞いた瞬間に二人の顔が歪む。
「私たちをそれで、脅しているつもり? 私たちはアイツの僕でもなんでもないのよ?」
 ハートの女王の言葉はそのまま切っ先をハーンに定める。
「ちょっ、ちょっと待って下さい! ハーンに何を?」
 アランは焦って背面にハーンを庇うように二人の前に立ちはだかった。
「どきなさい」
「いやです!」
「なら、あんたもろともよ? もともと、あんたのおかげでこんな事に巻き込まれているんだからね」
 ハートの女王の瞳に殺気がにじみだす。アランは内心、彼女を怒らせてしまった事にひやひやしたが、なぜが不安を感じる事はなかった。なぜか、彼女にさえ負ける気がしないのだ。
「あなたは何か、勘違いをしておいでですね。そこに立っている男がハーン・ラドクニフそのものであるという保証はないのですよ? その男はドールです」
 ハートの王は同じようにアランに冷たい目線を投げかけて、そう答えた。
「ドール!?」
 ハーンを改めて見る。どこも違う場所などない。
「最高の人形師が創ったドールよ。あの女はたった一つの想いを軸にして、その人間をドール化させる! あたしたちに違いがわかるとは思えないわ」
「……ノワールが、こんな真似を?」
「違う。ノワールですらドールなのよ。やったのは黒白の両面! あんたの……!」
 その言葉をさえぎるようにハーンが女王に躍りかかった。細身の身体がハーンに押されて後方に下がっていく。
「姉さん!」
 ハートの王が紙兵を動かした瞬間、その紙兵が鮮やかな橙色の炎をまき散らせて燃えていく。
「な! 僕の紙兵が」
 ハートの王は驚きに目を見開く。その次の瞬間、王の小さな体を覆っていたワインレッドのマントが音を立てて燃え始めた。ハートの王は瞬間的にマントを脱ぎ棄てる。
 その選択は正しく、次の時にはマントは跡形もなく燃えきっていた。子供らしい華奢な肩がむき出しになる。
「借りは返させて頂きますよ。約束通り」
 別の声が空間から響く。アランは声の主を探した。しかし、声の主は見当たらない。
「……その声、忌々しい! 橙色の悪魔ですか!!」
 ハートの王は叫んだ。ハートの王はそのまま片手に幾枚かのカードを握る。
「姉さん!」
「橙色の悪魔! お前! 何の用なの」
 ハートの女王がまだ音を立てて燃え盛る橙色の炎に向かってどなった。その声に反応したかのように、炎がだんだん大きくなり、人の形を取った。
 しばらくして、まるでファッション誌のモデルのようなおしゃれな格好をした男が現れる。ハートの両陛下の前で完璧なお辞儀をして見せる。
「何、簡単な話です。私は漆黒の黎明にも真紅の死神にも興味はありません。私の思考を支配するのは、いつだって美しい孤高の猫です。その猫に隙があると教えていただき、先ほど、望みを簡単にではありますがかなえさせていただきましたから、お礼をと思いましてね」
 二人には猫と言われて、チェシャ猫しか思い浮かばなかった。
「……願いが叶った? あいつの気まぐれもほどほどにしてもらいたいわね」
 ハートの女王はそう言う。橙色の悪魔の望みが何だったかなんて関係ない。しかしさっきハートの王はこう報告しなかったか? 双子は何かを誰かに報告するために戻りました、と。
「いえ、結構単純な手で堕ちて下さいました」
「堕ちる?」
「はい。私に乱暴に強姦され、蹂躙されましたよ。彼は」
「……っ!」
 ハートの女王が歯ぎしりをした。そして剣を構える。予備動作も何もなしに、彼女は剣を力任せに振るった。
「消えろ!」
 叫んだ瞬間、全ての空間を断ち切る彼女の技は愉快な声を発し続けていた橙色の炎も、その軸線上にいたハーンでさえも、そしてアランをも切り裂いた。
「ぐあぁああ!」
 アランは急いで避けたので、肩腕一本を犠牲にするにとどまったが、ハーンはそのまま身体の中心を斬られ、激しく血を噴き出し、後ろに倒れていく。
「ハーン!!」
「最初からこうすればよかったんだわ。これで死ねば、ハーンはドール。生きていれば本物ね」
「どうしてこんなことすんだよ!!」
 一人状況を理解できないアランが叫んだ。ギチっと左目がうごめいた気がした。
「その通りですとも、私に物理攻撃が効かない事をお忘れですか? 両陛下」
 アランの目の前でぽっとオレンジ色の炎が点り、そこを中心として渦のように一瞬で炎が描かれる。まるで導火線が存在しているかのように燃え盛る炎はいつしか大きさを増して、炎の壁を立ち上げた。
「私とあなた方では相性が悪いですよ、退散する事をお勧めします」
 そして部屋一帯が橙色の炎に埋め尽くされた。アランの目にはオレンジ以外映らなくなる。
「この橙色の悪魔の手が伸びる前にね!」
「舐めた真似を……!」
 ハートの女王の声が聞こえてくる。ハートの女王はオレンジ色の炎の壁に囲まれ、舌打ちをする。さすが、黒白の両面、自分たちの苦手な相手ばかりぶつけてくる。だけど!
「お前は第一階層に先に帰ってなさい」
「でも、姉さん!」
「お前は橙色の悪魔相手には足手まといよ。わかってるでしょ?」
「……だけど!!」
 弟の心配がわかるハートの女王はその頭を一撫でして笑った。
「大丈夫よ。あたしだって無理するつもりはないわ。だから、安心しなさい」
「……わかった」
 力になれない事を悔やむ顔を隠しもせず、ハートの王の姿は大量のカードに埋め尽くされていく。カードが一枚もなくなった時、そこに男の子の姿はない。
 それを確認すると、ハートの女王は剣をもう一本生成する。両刀を握りしめ、燃え盛る炎をにらみあげた。
「苦手だからって、倒せないわけじゃないのよ!」
 それはまるで完成された舞踏のように、滑らかに両腕が動かされた。次の瞬間、ゴっという轟音が響いた。
「な!」
 アランは目を見開いた。視界を埋め尽くすオレンジ色が一瞬で消えさる。それはハートの女王がやったに違いない。ハートの女王は先ほどに比べ、より無情な顔をしたまま、剣を目にもとまらぬ速さで降り続ける。
「私は炎ですよ? さすがに炎が斬れる女王陛下でも、私に対処は……」
 セリフごとぶったぎっていくハートの女王。切り裂くのはすでに空間、空気そのものだ。斬った瞬間、本当に空気が分断されて空気が圧縮され、風圧が生じる。巨大すぎる空気のうねりに巻き込まれ、炎はちぎれ飛ぶ。
「お前、自分が強いと勘違いしていない? お前が強いんじゃないのよ? お前の使う禁術が強いの。そこ、間違えてはだめよ。お前の力じゃないんだから」
 ハートの女王はそう言って、笑う。
「だから、禁世を理解する不思議の国の住人に勝てるなんて夢を!」
 炎が消え去った瞬間、空間が変質していく。アランでも感じられるほどに何かが変わっていく。
「見ないことね!! 首を刎ねてあげるわ!!!」
 衝撃。圧倒的な暴力。ハートの女王がそう言った瞬間、アランは理解だけできていた。
 斬られた。なぜか自分も斬られたのだ。そして無理やり何かの空間に押し込まれる。斬られたと知覚できるのに、まったく出血もなく、けがもしていない。それどころか押し込まれた空間には何もない。何も感じられない。
 それは意識できる夢の中に似ている。自分の身体が思い通りに動かないのに知覚だけはできる状態。彼女は何をしたのだ?
「アラン」
 灰色のような暗闇のような空間の中で女王の声が聞こえた。答えようとしても億劫で、口も開かない。
「お前はお前の答えを出したなら、お前が欲する人間をひきあげなさい。今ならそしてここなら間に合うわ」
 ――間に合う?
「そう。お前たちは死んだの。私が殺した。だから、死んでいる間にお前の欲する人間を元に戻しなさい」
 ――死んだ!!?
 なんか目が覚めてきた。この人、いま無茶苦茶言いましたよね? 死んだ? なのに何かしろって。
「そう、そこらへんに転がってるでしょ?」
 アランは動けることを知った。なんだ、寝起きみたいなもんか。そしてずっと離れた所にハーンの身体を見つける。
 欲している人間。一番に思い浮かぶのは入矢だ。しかし、入矢とは約束した。それで十分だ。なら、ハーンのことだろう。
 元に戻すってことは……ドール化を解けということか。
「やり方知らないっすよ?」
「お前がその人間の深淵をのぞくのよ。そして、軸を破壊しなさい。軸を元に立ち上げた術式ならそれで解体できる。まったく、入矢ならこういうこと得意なのに」
「そんなのどうやって!!?」
「聞けば答えが貰えるなんて、甘えてんじゃないわよ! 十分サービス以上のことこっちはしてやってんだから、自分でどうにかしなさい。あんたのパートナーでしょうが」
 それきり女王の声が聞こえてくることはなかった。仕方なくハーンを起こそうとつついたり、引っ張ったり大声を出したりしてみたが、効果は薄かった。
 アランは途方に暮れて、ハーンの隣に寝転がった。

「まさか! 強制退去など!!」
 炎の中から消え入るような小ささで逆に焦った声が聞こえてくる。女王はにやっと笑った。
「あんたなんか幾年経とうが力不足なのよ、バーカ」
 ハートの女王はそのままノワールの屋敷を立ち去っていく。
 アランの封印を完ぺきにするべきだったが、まぁいいだろう。二人とも亜空間に似た場所に押し込めた。これで自分も手を出せないが、両面側にも手は出せない。
 あの二人が出れる状態になれば状況は好転するだろう。
「あたしの仕事は終わったも同然ね」
 うまくいけば封印などせずとも力の使い方を覚えるだろう。