毒薬試飲会 020

044

 アランは切符をポケットにしまうと、少し考えた末に、こう質問した。
「第一階層の行き方を教えてくれ」
 ビルはふむ、と頷いて答え始めた。
「へぇ。よござんす。行き方は2つばかし知ってやすよ。一つ目は自力で行く事。でもこれは若旦那には不可能だとあっしは思いやすがねぇ」
 ふぅっとため息をついて、ビルは言った。
「自力って階層のぼりってことか?」
「いえ、違いやすよ。第一階層ってのは、第二階層の直上にあるわけじゃねぇんですよ。だから無駄ですねぇ。そう、自力で行くってこたぁ、自覚なしで気づいたら着いてるってのが正しいでやんしょう。こいつぁ、本当に無自覚ですからねぇ、まぁ、まず無理でやんしょう。才能が必要でやんす。生まれ持った、差別された能力が。二つ目は案内人に案内してもらうことでやんすねぇ」
 アランはちょっと驚いた。まさか、あのうわさが本当ということはないだろうが……。
「それってチェシャ猫のことか?」
「はてねぇ。ここであっしが答えてもいいもんでやんすかねぇ? これから若旦那たち面白くなくなりやすよー。じゃ、代わりに。これを教えてあげやすよ。……第一階層とそのほかの階層との間には門が存在してやんす。だからこそ、簡単には入れないし、通り抜けられないんでやんすよ。門には入場制限があるってとこでやんす。案内人に案内してもらえばゲートパスが自動的にももらえる仕組みになってやす。それが一番手っ取り早い方法でやんすよ」
「ゲート、パス? ……それがなかったら、どうなるんだ?」
「ふぅむ、そうでやんすね。ゲートパスがないまま入った人間を最近は見やせんからねぇ。ただ、存在の居心地の悪さが違うとは思いやすよ。あと敵を増やすことになりかねやせんね」
 ビルはそう言った。
「そうでやんすね、たぶん、第一階層で不思議の国の住人に会ったら間違いなく、殺される覚悟がないと。ね? ゲートパス、大事でやんしょ」
 ビルはそういうと、それ以上は教えてくれなかった。アランは別の質問にすべきだったかと少々後悔した。だが重要なことも聞けた。第一階層、行けないというのにはやはりそれなりの理由があったようだ。さて、質問はあと1つしか残っていない。
「さぁ、最後の“問い”は如何しやすか?」
 アランは本当に良く悩んだ。ハーンならなんと質問しただろうか。だが、気になっていたことを質問することにした。それしか思いつかなかったともいう。
「決めた! あんたたち、不思議の国の住人って何者だ?」
 ビルは今度こそ、驚いた顔をして、唇をゆがめた。
「いいでしょう。教えやんしょ」
 ビルはそう言って暗い顔をして笑った。その顔をちょっとアランは怖く思えた。
「不思議の国の住人とは、普通の人間だった者が変質して、この快楽の土地で生きる定めを負った者というのが、正しい定義になりんすかねぇ」
 自分のことだからあいまいなのか、ビルは頼りない答えを返した。
「普通の人間、だった?」
 アランはでは、今は? と感じる。
「お分かりでやんしょ? 不思議の国の住人はまず、不老不死。大抵のことでは死にやせん。……というか殺せやせん。あっしもこう見えて、普通では死ねません」
「……怪我は、するんだろ?」
 アランはビルの引きつった口を見て、おそるおそるたずねた。
「あぁ、コレでやんすか」
 ビルはそう言って、頭の帽子を脱ぐ。淡い金髪が広がった。長めの前髪の間からのぞく目が何故、ぎょろっとっしているのか、その理由を見せるかのように、ビルは前髪を持ち上げた。
「うわ」
 アランは思わず悲鳴を上げる。
「気持ち悪いでやんしょ? いやはやお見苦しいもんをお見せしやした」
 ビルの額は爛れて薄い桃色をしている。そう、火傷の跡のようなケロイド状の皮膚そのままといった感じだ。だからか、彼の目には“瞼がなかった”のだ。そして、前髪で隠れている右目は濁り焼け爛れた薄い灰色のものと化した眼球が覗いている。
「こいつぁ、あっしが不思議の国の住人になる前に受けた傷でやんす。不思議の国の住人になれば、大抵の怪我は治りやす。でもその前のは治りやせん。ま、あっしはこの傷を消したくねーんでさぁ。だから、残しているんでやんす」
 ビルはそう言って笑う。唇から延びる縫合痕も、ない瞼も……いったいどんな怪我だ。
「不思議の国の住人は、とある人物にこう、持ちかけられるんでやんすよ。それにイエスと応えれば、仲間入りって寸法でやんす」
 ビルの話は進む。アランはあわてて話を聞き漏らすまいとした。
「どう、持ちかけられるんだ?」
「へぇ。こうでやんす。……『お前の望みを一つ叶える代わりに、私の頼みを聞いてくれないか』、とね」
 アランはそれって、願い叶える代わりにお前もオレの願い叶えろって言われているだけじゃ、と突っ込もうとしたら、あまりにもビルが暗い笑みを浮かべていただので訊けなくなってしまった。
「若旦那はアリスのワンダーランドをご存知でやんすか?」
「古代の童話だろ?」
「へぇ。不思議の国の住人ってのは、このアリスのワンダーランドから来てやす。あっしもちゃんと登場人物にいやすからね。ある人物は、このアリスのワンダーランドをこの快楽の土地と見立てて、登場人物の配役を与えるんでやんすよ。永遠に止まった時間の中で。永遠に同じ役目を」
 それは聞くべきではない頼みだったのだろうか。
「いや、なのか?その役目が」
「いいえ。あっしはちゃんと願いを叶えやした。この配役も嫌いじゃありやせん」
「じゃ、なんで?」
「へぇ。演じ続ける苦痛も、時間が進まない苦痛も、それよりも、あっしには、ね」
 ビルはそう言って、にっこり、暗い笑みを浮かべた。

「殺したい相手がいるんでやんすよ」

 ぞくっとした。アランはビルの次の言葉を待つ。
「ただ、その相手も不思議の国の住人でして、なかなか殺せないんでやんすよ」
 だから、若旦那にはご協力願ったわけで、とビルは言った。そうか、と納得する。きっとビルが会いたい相手は、殺したい相手なんだろう。
「なんで、殺したいんだ?」
「さっき理由ならお見せしやしたよ」
 怪我を負わせた本人か。
「お前は、その……何を願ったんだ? 頼みを聞く代わりに」
「へぇ。あっしは、殺したい相手を殺す舞台と台本をお願いしたんでやんすよ」
 アランは思った。この男は、復讐のためだけに生きているのだと。こんな人間らしい望みを叶える為に、なにかわからない頼みを聞くこいつらもどうかしている。
「さ、そろそろよござんすかね? 若旦那、旦那には時間がそうありやせんよ?」
 ビルはにこっと笑ってはしごを折りたたんだ。
「さ、もう旦那と向き合うべきでやんしょ。旦那と手でもつないでお休みくだせぇ、よい夢を、若旦那」
 ビルがそう言って立ち上がる。
「アランだ!」
「へい?」
「若旦那じゃなくて、アランって呼べ」
 ビルはくすくす笑うとこう言い返した。
「アランの若旦那、あっしはビル。しがない商売人でやんす、またのご利用お待ち申し上げてやすよ。きっとあっしとアランの若旦那とは再び会う気がしやす」

 入矢は時折、ぼぉっとしてはいるが意識を取り戻すことがあった。身体はおっくうで動かすことはできない。身体は熱を持ったまま、動くことはない。それもそのはず、腕は手錠でつながれたままだし、薬の効果で入矢は一日のほんの数分意識を取り戻すだけなのだ。
「やぁ、入矢。目が覚めたかい?」
「あ」
 入矢の目はうつろのままだ。
「さ、入矢。愛し合おうか」
 触れてくる指が入矢の躰を発火させる。俺に触っているのは、誰だ? 黒い髪、黒い瞳……の、わーる? いや、ノワールじゃない気がする。ああ、もう考えられな……い。
「あっ、あぁああ、い、あああ」
 いきなり、躰に衝撃がくる。そしてその後に快感が襲い来る。ズンと突かれ、喘がされて、何も考えられなくなる。それでも、頭の隅で、心の奥底で何かが違うと声がする。
「お前は、だれだ?」
 そう訊いた瞬間に、動きが止まる。
「私はノワールだよ。君が愛した男だろう?」
「のわーる?」
 ふと違和感を感じる。胸が熱くならないのはどうしてなんだろうか。ノワールのこと、好きだったはずなのに。そして腹にかかる熱い液体。独特のにおい。その臭いに空間が支配されていく。
 ――そして入矢の感覚は闇に再び飲まれていくのだ。

 黒白の両面は目の前で舞う女性を見ていた。彼女は美しい。彼女のことが大好きだった。信用もしていたし、信頼もしていた。一番近しい存在で、お互いのことを深く知りすぎた。
 それが彼女との関係。彼女は自分より幼い外見なのに、思慮深く、誰もがあこがれる女性だった。
「さぁ、本気でかかってきなさいな」
 にっこり笑ってもらえたなら、それが一番うれしかったのだけれど。
「ふん、強がっちゃって」
 すっと開かれた瞳が美しくて怖い。透明感のある美しい紅の瞳。これが惑乱の色彩。これが自分が姉と慕った女性。
 ゴっという音と共に衝撃が御狐さまに向かって襲う。それを扇をかざすだけで流してしまう。
「……止めるわ」
「口ではいかように仰っても、本心は私が怖くて?」
 ふるふると震え、そして目を潤ませる。
「当たり前じゃない、姉さん。その前に、やっぱり……姉さんには、攻撃できないわ」
 黒白の両面はそう言って腕を下ろす。御狐さまはそっと近寄って、頭をなでて、ふっと笑った。
「なんてね!」
 不意打ちの攻撃は確かに直撃した。はずだったが、次の瞬間、黒い扇が目の前に翳されていた。
「適わないからって、つまらないお芝居はお止めなさいな」
「ちぇ、用心深いなぁ、姉さん」
「うふふ。もっと鍛えなおしておいでなさい」
「そう言えば、訊いていなかったな。姉さんは何故、名前を捨てて、“御狐さま”なんて名乗ったの? あたしと違って不思議の国のやつらに目をつけられて捨てたわけじゃないでしょ?」
 御狐さまはふっと口元を和ませた。
「先ほど申したでしょう? 私は貴女の願いも知っていると。協力できなからこそ、私は貴女と同じく、名前を捨てることにしたのですよ」
 ハッと黒白の両面は目を見開く。そこにはあのときと変わらぬ姉の微笑みがあった。
「そんな、だって……」
「私はもう貴女を黒白の両面としか呼べません。でも、貴女の望みは知っています。私達、第一階層で世界の真実を知りました。そして私は哀しみ、あなたは呪った。私は貴女の望みに賛同できないけれども、貴女……今は別の望みもあるでしょう? どちらが貴女にとって重要なのです?
 貴女は兄と慕った妹背の君を深く愛し、彼の人形を作った。そして影から彼を見守り、彼の望みを叶えようとしてきましたね? だからこそ、己の正体を彼に悟られることを避けてきた。赤狂いが入矢によって自白しようとしたとき、ノワールの人形で彼を殺したし、ハートの女王が伝えようとしたとき、貴女はハーンを使って止めた。何故? 何故知られて困るのです?」
 レッド・ジャンキーは黒白の両面の正体が知れるときにブランによって殺害され、ハートの女王はドールと化したハーンに発言を止められ、アランに黒白の両面が自分の妹だということが知られずに済んでいる。だから御狐さまは問うた。
 アランを愛し、アランと添い遂げることと、己の目的、どちらが重要なのか、と。
「お兄ちゃんが大好き。愛してる。だから本当はお兄ちゃんに今すぐ会いたいわ。でもね、お兄ちゃんの中であたしはすでに死んでいるの。これ以上記憶をいじったらお兄ちゃんの脳に障害が残るかもしれない。だから先に自分の願いを叶えることにしたの。
 私は世界を変える。私は私の世界を創るの! だからその中でお兄ちゃんが願うことは叶えてあげたい。だから、入矢に手を出し、ノワールを殺すの。お兄ちゃんは私が全身全霊を掛けて愛したたった一人の男。だからお兄ちゃんの前では世界すら霞む。でも、お兄ちゃんは今は私を忘れているんだもの、仕方ないわ」
「だから、私も敵にした、そういうわけですね?」
 最終確認、そう言われていることがわかったが今更退かない。黒白の両面はむしろ強がって笑ってすら見せた。
「そうよ! 私は私の望みを叶える! 誰の力も借りない!!」
 何かが通り過ぎた。それだけがわかった。こぽり、と口から何かが垂れる。見ずともわかった。血だ。攻撃を受けたのだと。
「わかりました。さ、もう、お遊びの時間は終わり、お仕置きの時間といたしましょうか!」
 ガガガガガガガガガガ!!!!
 ひゅっと息を一瞬だけ吸うことができた。あまりの連打のような攻撃に身体はいいように玩ばれて、身体はぼろぼろだ。いたるところから血が噴出し、視界が真っ赤に染まる。
「残念ですね、貴女の大事なお人形のお躰だったと記憶しておりますが、リサイクル不能なくらいにしてしまいましょう。燃えるごみの日にでもお出しなさいな。そして、代わりに今度は精神の方にも、傷を作って差し上げましょう」
 まぶしいくらいの微笑みを浮かべた御狐さまの腕が胸にめり込む。そして桜色の爪がぷすりと額に埋まっていく。真っ赤な瞳が黒白の両面を覗き込み、すると視界がぐらりと揺れた。否。揺らされた。
「いや、いやぁあああ」
 えぐられる傷、それは最愛の人と別れた瞬間の、耐え難い痛み。
「これに懲りたら、もう二度と我が領域に手を出さぬように! さぁ! 舞台から退場なさい!!」
 白い扇と黒い扇が同時に振り下ろされる。黒白の両面が見た、最後の景色だった。
 御狐さまは目の前の女が動かないのを確認するとゆっくり両手の扇を下ろす。とたんに、扇から二人の人間に立ちかわる。
「さ、終わりました。帰りましょう、弥白、弥黒」
「はい。御狐さま」
 一瞬、妹だった存在を省みる。彼女が狂ってしまった理由をしっているからこそ、彼女を止めてあげたいと思っていた。
 でも、それが適わぬならせめて、二度と敵として出会いたくはないものだ。

 ノワールは暗闇の中をひたすら進む。だが、暗いこの場所では、どちらが上かわかったものではない。たぶん、己の感覚を信じて進むのみだ。宇宙とはこんな感じなんだろうか。
 黒が好きだから落ち着く環境ではあるが、長い間いれば発狂してしまいそうな孤独な場所だ。
“ノワール”
「入矢?」
“ノワール、どこに行くんだよ? 俺を置いていく気か?”
「入矢、どこにいる?」
“ここだ、この空間だ”
 冷静に入矢はここにいないとわかっているので、ノワールはチェシャ猫が言っていた幻覚の一種だろうと考え、無視して上を目指すことにした。チェシャ猫は現世と禁世の差は必ずわかるといっていた。ならば、今ここは禁世とノワールにさえわかるのだから、違うのだろう。
“ノワール”
“ノワール、ノワールノワールノワールノワールノワール”
 その声はだんだん恐ろしく聞こえる。入矢の声なのだけれど、それは機械が喋っているように感じるのだ。
「黙れ! 入矢の声を使うな!」
 だんだん機械じみて、音声がぶれ、気持ち悪い雑音と化した音で己を呼ばれるのが不愉快になり、虚空に向かって叫ぶ。すると、一瞬の沈黙の後に、ざわめき。
“ひどい、ひどい、ひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどい”
“愛しているのに、愛しているののいにぃぃいぃいいいいい”
「入矢の声を使うなといっている!!」
 おそらくノワールが望む入矢の声以外を選択できないのだ。女が集まった化け物のようだ。するとそれを具現化したかのように女のような白く細い手が幾重にも伸びて、ノワールを捕まえようとする。
 ノワールは急いで上を睨んだ。そして、早く上を目指す。
「まったく、こんなホラーな逃げ道とは聞いていないぞ!」
 声は下から下からついてきた。
「入矢!!」
 負けないように、ノワールは叫ぶ。最後には飛んでいるのか、走っているのかわからなくなるほどに、跳ぶように駆けるように、上へ移動していく。
 ――入矢!!

 ――入矢!!
 入矢はふっと目を開けた。
「……のわー、る?」
「呼んだかい? 入矢」
 目を開けて視界に飛び込んでくる黒が、己を呼んだのだろうか。その直後に熱い衝撃。
「あ! あん」
 喘いで、そしてふっと水から上がったかのように、視界が開ける。
「……お前!」
 入矢を犯していた男はノワールではない。入矢の目に生気戻ったと知るや、ブランは歪んだ笑みを浮かべた。
「入矢、本当に翹揺亭の教育はすごいね? まだ廃人になっていなかったのかい?」
「ふざけるなよ、お前! 俺をこんなにして」
 入矢は怒鳴る。まぁ、目が覚めたら自分が嫌いな男に犯されていたのだから、怒るのは最もだ。
「入矢、吠えるにはかまわないけれど、もう少し、己の状況を把握したらどうかな?」
「うるせぇ! お前、っ!」
 快感に慣れたからだは言うことを聞きずらい。入矢は感覚のコントロールができないことを恨めしく思いながら、ブランの攻めに耐えるよう、唇をかみ締めた。
「啼いて、入矢。その愛らしい声を聞かせておくれ」
 腰を直接抱かれて、ゆすられる。その度に、吐息と涙が零れ落ちた。
 ――入矢!
 入矢ははっと目を見開く。
 ――入矢!
 幻聴かもしれない。でも、ノワールの声が聞こえた気がした。
「ノワール! ノワール!!」
「どうしたの? 入矢、私を呼んでいるのかい?」
 快感による苦痛が入矢を苛む。畜生、早く来いよ! 俺はここにいる! 約束しただろ、俺が逃げたなら、お前は必ず俺を追ってくるんだろう!!
「来いよ、ノワール!」
「……! まだ、認めない! 何故、その名を呼ぶ!!」
 ブランの怒りに染まった顔さえ入矢には映らない。今はない、その姿を求めて入矢は叫ぶ。
「俺なら、ここだ! ノワール! ノワール・ステンファニエル!!」
「黙れ! その名を呼ぶな!!」
「かはっ!」
 ぎりっと気道が圧迫される。ブランに力任せに首を絞められて、入矢はダメージが積み重なって、一瞬で視界が白く染まる。だけど、最後まで諦めない。
「……の、わー、る……!」
 ブランはいまさら信じられない。どうして、今まで快楽に堕ちた人形のようだったのに、何故、今になって“ノワール”を呼ぶ!!? どうして私を見ない!
「入矢! 入矢、入矢あぁあああ!!」

 暗闇がどんどん赤みを増していくように思えた。叫んだら、声が聞こえた気がしたのだ。
 ――入矢!
 ――ノワール!!
 その声が、何故か本当に入矢だと感じた。胸の鼓動が増す。熱い血潮が駆け巡る。ああ、入矢が近くにいるのだと!
 ――入矢!
 ――来いよ! ノワール!
 胸が熱い。
 ――俺なら、ここだ! ノワール! ノワール・ステンファニエル!!
 応えた! ノワールの声がきっと血約を通して確かに入矢に届いている!! 入矢!
「どこにいる? 入矢!」
 真っ赤に染まっていく視界を恐ろしいとも、おかしいとも思わなかった。きっと近くに、現世の近くに! すぐそばに入矢が!

 ノワールの声が確かに聞こえる、わかる。
 胸が熱い、契約の血が叫ぶ。ノワールが帰ってくると!
 ――どこにいる? 入矢!
 ひゅ、と呼吸が止まる。苦しい、苦しいが、それよりも喜びが増した。
「俺は、ここにいる! 帰ってこいよ!」
 もう、声が出ていなくても入矢は叫んだつもりだった。すると視界が真っ赤に染まり、見えたのだ、黒い影が。なにか底のないプールのような場所で、ノワールが向かってくるのが見えた。
「ノワール!」
 必死に手を伸ばすが、何かに阻まれるようにその手が届くことはない。
「入矢!」
 直接声が届いた。その手が入矢に向かって伸ばされる。入矢は必死にノワールに向かって手を伸ばした。入矢は必死に手を伸ばす。
「もう、離さない!」
「離れない!」
 ノワールの方も手を伸ばしてきた。そして二人の手が触れ合った瞬間、世界は、弾けた。

 必死にブランは入矢をこちらに戻そうとした。何故だ? 何故禁世に落としたはずの人間を追い求める。何故、自分ではだめなんだ? 何故?
「入矢、入矢ぁああ!!」
 叫んだ口から、一滴、赤いものが落ちた。それは続いて二滴、三滴と零れ、ブランの目が見開かれた瞬間に、大量に喀血した。なにが起きたかわからずに、入矢の首を絞めていた手を離す。
 入矢は咳き込んだあとにすぐに意識を取り戻し、己の腹の上に零されている赤色を眺め、ブランの呆然とした顔を眺めた。
「……おまえ……!」
 入矢が掠れた声を出す。ノワールはそのまま時が止まったかのように動けない。
 ――帰ってくる。
 ブランであった期間は長く、ノワールであった期間はこんなにも短くあっけなかった。理解した。
 ブランのシャツの間から除く肌に血が滲む。否、血が流れ出していた。鮮血が最初は流れ、次の瞬間に激しく血霧が舞う。瞬時にノワールのシャツが真紅に染め上げられて、入矢は次の瞬間、信じられないものをみた。それは自分の顔や体が血に染まるのを忘れさせる光景。
「がはっ!」
 ブランは大量に血を吐き出した。そして、血が噴出す腹部が裂けた、という表現では正しくない。まるでブランの内部から風船を突付いて割るように、ブランの腹の皮膚が一点で盛り上がり、その頂点から血が噴出していた。
 血霧が最も激しく舞ったとき、そこから見えたのは指先だった。人間の指が、出てきたのだった。真紅に染まった爪がブランの腹を割き、手刀を差し込まれるかのように滑らかに腹から這い出してくる。素手で殺す場面を内部から見せられているように。そして今度はブランの胸の辺りから血が舞い始め、同じように手が生えた。
「さよ…な、…………ら」
 かすかに入矢に向けた言葉が、ブランとしての言葉が漏れた瞬間、両手は手首から腕まで這い出し、そのままブランの腹を上下に引き裂いた。入矢に大量の血が降りかかかる。
 入矢はその光景を瞬きもできずに眺めていた。顎から股まで引き裂かれた巨大な穴から黒い、血に濡れた頭が見える。恐怖を感じながら、見ていればそこから出てきたのは、ノワールだった。
 全身を血に濡らし、そのまま這い出して、やれやれといった顔をする。ノワールが完全に出てきた瞬間、ブランの、もう死体と化した体が音を立てて後ろに倒れこんだ。
「……ノワール?」
「入矢!」
 ノワールは驚いた。明るい世界、なれた感覚。戻ってきたと本能で知覚した瞬間に飛び込んできたのは、赤だった。そして全裸で拘束されている入矢。
 驚きに目を見開いている入矢が己の名を呼んで、ノワールは歓喜に震えた。
「戻って、これたのか」
「ノワール!!」
 ノワールはすぐさま、入矢の両腕の拘束を解く。すると、入矢が全身で抱きついてきた。力いっぱい抱きしめ返し、入矢の感触を確かめる。
 確かに、入矢だ。胸が熱い。鼓動が重なる。
「……ノワール、あの、それ……抜いて」
 恥ずかしそうに言う入矢の視線の先には真っ赤に染まる物体。よくよく見れば自分と同じ顔をしている。しかもその死体と入矢は繋がったままだった。
 ノワールはそれを急いで抜くと入矢から遠ざけた。抜いた瞬間に入矢の股間に白い液体が流れる。卑猥なソレをノワールは悔やんだ。
「すまない、入矢。私がこんな目にあったばかりに……君に」
「いいんだ。お前、わかる。今度こそ、繋がってる」
 入矢はそう言ってノワールの胸に手を当てた。暖かかった。ノワールも微笑む。
「入矢」
「ノワール」
 名を呼ぶだけでいい。心が通じる。互いの鼓動を共有できる。二人は血にまみれたまま、口付けを交わした。
「血の味がする」
 入矢がそう言った。ノワールは微笑む。
「俺たち、血まみれだ」
「そうだね。でも人間は母親の血にまみれて生まれてくる。私は二度生まれたということにすればいい」
「そうだな、確かにお前は腹から出てきたよ。ってことは、あれがお前の母親か?」
 茶化して血に塗れたブランを見る。入矢はブランをうらむことはできなかった。嫌いだったけれど、ブランも形が違えども入矢を愛してはいたのだ。
「見れば見るほどドールとは同じだな、気味が悪い」
 ノワールはそう言って苦笑いをする。
「だが、彼に罪はない。彼もまた、避けられない運命を歩んだ」
 同じ男を愛した。それはノワールの記憶を引き継いだからだが、本人も入矢を愛していたと思わなければ、救われない。
「弔おう。だが、その前に……風呂だな」
 ノワールはそう言って入矢を抱き上げた。二人とも血まみれだったから。
「ああ」
 そして二人はまた、互いを染みこませるように、キスをした。