毒薬試飲会 021

12.オゾン

045

 ああ、このたゆたう温かな場所から出たくないんだ。
 この場所は永久に、無償で幸福を与え続けてくれる。
 ああ、ソニーク。
 俺はお前とずっと一緒にいたかったよ。

 「毒薬試飲会」

 12.オゾン

 アランが眠りに誘われ、まどろんでいた時、ふっと己の耳元に呼気を感じた。そして次の瞬間にこう、大声で叫ばれ飛び起きることとなる。
「アラン、アランの若旦那!!」
「ふぇああぁ??!」
「おんやぁ、奇特なお目覚めの挨拶ですねぇ、アランの若旦那」
 アランはようやく目を覚まし、そしてこの場所が今までいた所とは少々異なる事を発見する。確か灰色一色の景色だった場所にいたはずだ。だがここは灰色ではなく、どちらかというと濃いセピア色、否、温かみのある茶色……といったところだろうか。
「……その声、ビルか?」
 ここがどこかはわからないが、おそらくハーンを元に戻す場所にはきているはずだ。だってビルから買った道具があるのだから。アランは切符をポケットからは出さずにその感触で存在を確かめた。しかし、トレインはいったいどこに、いつ来るのだろうか? 肝心な事を聞いていないことにいまさら気付いたがもう、遅い。
「ちょっと、お気づきでやんすか? アランの若旦那」
「え?」
 空耳かとは思っていたがどうやら、そうではないらしい。どこからかビルの声がする。
「ビル?」
「へぇ。そうでやんすよ。まったく少しも気づいてくれないんでどうしようかとおもいやしたよ」
「や、ちょっと待ってくれ。どこにいる?」
「どこって……ここですよ、アランの若旦那」
 声はすぐ近くで聞こえる。むしろ、隣に立っていても不思議ではない位の大きさの声なのだが、姿が全く見えない。
「どこだよ?」
「いやですねぇ。まったく。アランの若旦那、両手を胸の高さの当たりに、そう、広げて……いきやすよ?」
 ビルの声に合わせて両手を胸の前で掲げると、次の瞬間に緑色の物体が降ってきた。
「ぎゃぁああ!!」
 驚きにその物体を思わず落とす。すると、その緑の物体から声がした。
「なんてひでぇことしなさいます!」
 アランは我に返って、その緑をよく見る。それは手のひらサイズのトカゲだった。そのトカゲからビルの声がしているのである。
「も、もしかして、お前がビルなのか?」
「そうでやんすよ。ひでぇですね。さっさと拾いあげてくだせぇよ」
 ビルが文句を交えて言うのでおそるおそる拾うと、どこをどうみてもトカゲだった。よく思い出せば、ビルと同じ暗い緑色の眼をしたトカゲではある。
「まぁ、この身はちぃとばかし特殊でしてねぇ、あっしの分身とぉ……申しやしょうかね。ま、先ほどアランの若旦那と取引したのは本体で、こっちが分身って相成りやす。この手の商品をお買い求めになられたお客さんには分身つけることにしてるんでやんすよぉ」
 声が近くに聞こえた、ということはきっとビル(分身)はアランの肩にでも乗っていた、ということになる。
「ビルが案内してくれるってことか?」
「まぁ、そう考えてくだすってかまいやせん。補助パーツのように考えてくだせぇな。ささ、参りやしょう。そろそろトレインが来るころですぜ」
 アランは茶色一色の世界で、あたりを見回した。
「ここはどこなんだ?」
「まぁた、とぼけちゃってぇ、アランの若旦那。あんさん、どこを望まれて切符を手にしたんでやんすか?」
「ハーン」
「でしょう? ってことは、ここはもうあの旦那の中。精神に入り込んだといってもいいでしょうかねぇ」
 え? これ、ハーンの精神?? ハーンの心って茶色? よくわからないな、とアランは思った。
「で、トレインって……どこに行けばいいんだ?」
「そんなの決まってやすよ。アランの若旦那が望めばいいんでさぁ。ここは旦那の精神世界。都合いい世界とも言えやすよ。ここの支配者、いわば神は旦那です。そこにイレギュラーのあっしたちが侵入してるんでやんすよ? こっちも動くには神をも動かす望みが必要でやんす。ですから、念じればいいんでやんすよ。“トレイン、来い”とね」
「そんなんでいいのか?」
「逆にここでこう話し合いをしていても埒あきやせん」
「そ、そうか」
 アランはそう言われて、とりあえず言われたままに「トレイン、来い」と念じた。すると、目の前に二本の線がすーっと走っていく。その後にゴロゴロという音が。
「来やしたね」
 ビルの声がしたと共に右手側からじわりと箱のようなシルエットが見えてきて、そして、トレインの姿に絶句した。
「ちょ……」
 そしてそのトレインはそのままアランの目の前を走り去っていく。
「なにやってんすか! 追いかけて乗らないと、もうないでやんすよ!」
「あれ?あれがトレイン??だって、それ、どう見たって……」
 ゴロゴロと激しい音を立て、木製の箱に木の車輪を付けたかのようなシンプルなフォルム。そう、それは
「トロッコじゃね??!!」
 しかもたったの一両編成。すなわちアランがぎりぎり膝を曲げて座れる程度の大きさしかない。しかしトロッコなだけあって速い。アランは必死でそれを追いかけていく。ゴロゴロと鳴るトロッコを追いかけ、その姿が視界に入った瞬間に飛び乗る。
 加速もあってすぐに狭いトロッコの中に座り込むことになり、かなり速いスピードのトロッコによるアランの旅路がスタートした。
「乗れたからいいけどよ、なんでトロッコなんだよ? トレインっつたらさー、もうちょっと、こう……」
「なに言ってんでやんすか? さっきも申しあげやしたけど、ここは旦那の精神世界。あっしらっていう異物を受け入れる旦那のダメージってどの程度かご存じでやんすか? そんな何両も豪華な列車でも走らせたらそれだけ旦那の目覚めが遠くなりやすよ。だからこそあっしだってこの姿なんじゃねぇですか」
「そうなのか」
 実際に体積がダメージに関連するのかは別としてハーンにダメージをしかも精神攻撃なんてとんでもない。
「ま、トロッコっつーのは珍しですがね。ま、速いし、小さいしいいんじゃねーですかね」
 そこでビルは口には出さなかったがトロッコから眺める景色を注意深く観察する。普通もうちょっと拒絶反応があるものだが。それだけドール化が進んでいるということか。急がないとまずいかもしれない。
「で、これ、どこ向かってる?」
「アランの若旦那ぁ……これはアランの若旦那の思うがままなんですよ? ってことは、ドールの根幹となる記憶まで、一直線が妥当ですねぇ。それに他人の記憶は勝手に見るにはそれ相応の覚悟がいりやすよ? 若旦那次第で目的地点まで停車なしの特急で行けやすよ?」
 アランはそう言われてうなづいた。入矢の記憶を勝手に望んでひどい目にあったばかりだ。ハーンの過去は気になるが、これからツインとしてやっていくんだ。自分のパートナーになる男だ。なら、自分で聞けばいい。
「わかった」
 アランが力強くうなづいた瞬間、トロッコはもっと加速した。
「え? これって加速し、す、ぎぃいいい!!!」
 あまりの急激な加速に舌を噛みそうになる。トロッコはそれに応えるかのように、高度を一気に下げた。
「どっちかっていうと、ジェットコースターじゃねーかぁあああ!!」
 トロッコは加速というには生ぬるい、むしろ自由落下の勢いで、茶色い世界をどんどん暗い穴の底のような場所に向かって落ちていった。

 ふっと意識が上昇する。チェシャ猫はながいまどろみの中から目覚めた。生温かい羊水のような水の球体に閉じ込められている事を知り、次にその水がニセウミガメのものだと知る。
 母体の中にいる赤子のように頭を下にして膝を抱え、水の卵の中にいた自分を客観的に知覚する。そうして、ふっと身体を伸ばすようにして、四肢を実際に伸ばすと、水の球はあっけなく弾けて、砕けた。その質量の割には小さなぱしゃんという音を立て、チェシャ猫が華麗に一回転して着地する。
「畜生ォ、ひでェ目にあった」
 ニセウミガメとグリフォンの姿はとうにない。まるでアルコールのように水球の中から出た瞬間に水が蒸発していく。しかし気化熱を奪われることもなく、一瞬で普通の状態へと戻った。チェシャ猫は軽く首を回し、足首を動かして手を伸ばし、己の身体を確認しなおす。
「ありがてェことでェ。ちっとは治されてらァ」
 一人、そうつぶやくと無言で猫の耳が動く。ピクピクと。何かを探っているかのように。
「残るはァ……あいつらだけかァ。さァて、どうしたもんかねェ」
 一振りしっぽを動かしして、おもむろに誰もいない空間に向かって言葉を発する。
「よォ、ちょっと頼みがあんだけどよォ?」
 相手の声は電話のように聞こえてこない。しかし電話のような機器は存在しない。
「あァ。俺が目ェかけてんだ」
「頼むなァ」
 何者かに何かを頼むと、チェシャ猫はふっと消える。

 まっすぐ落ちていく感覚をしばらく味わい、死にそうな落下を何度か繰り返した、というか、これは自分の思い通りになるという割には旅が苦しいものなのは如何なものか。
 その後トロッコは自然に止まった。そこは真っ暗闇の世界だった。ただ、先が見える程度の闇。いうなれば黒に近い灰色の場所というべきか。しかも今までの世界とは異なってここは洞穴のように限りがある。永遠に地平線の様な世界は続くのではなく、限りある世界だ。
「なぁ、止まっちまったけど?」
「若旦那、ここが最果て。つまり終着点てことでやんすよ」
 肩のビルが平然と言った。根幹となる記憶を壊す。だが、どうやって? ここはただの場所だ。何もない。アランはビルに聞こうとして、一瞬止めた。自分の望む世界になるということは、ハーンの根幹となる記憶を見たい、と望むまなければならないのだろう、と。
 しかし今までとは違い、何度念じてもイモムシの所でみたような情景が浮かぶわけでも、何らかの変化が起きたわけでもなかった。
「ビル、どうやったらハーンの記憶、見れるんだ?」
「だって見る必要ないでやんすよ? だって破壊するだけでやんす。ここがその場所。ならここを壊すだけでやんすよ? 違いまさぁね?」
 アランにはどう映っているか知らないが、この場所はまさしく利用された記憶の場所だ。人形化に使われた禁術と禁力がビルには見える。しかし、ハートの女王の所有印を刻まれたこの少年ならば、おそらく、見えない。
「そっかー」
 アランはそう言ってとりあえず、壁を殴ってみた。
「いってー!!」
「バカでやんすねぇ」
 しみじみとビルは呟いた。破壊でいきなり殴るって。あんたはどこぞの格闘家か。ボコォンとか音を立てて壁を破壊できるとでも思っていたのだろうか。あほだ。
「アランの若旦那、一応言っときやすが、ここは旦那の精神なんでさぁね。攻撃なんてしようもんなら旦那に精神攻撃してんのと同じでやんすよ? あっしはおすすめしやせん」
「え? そうなのか??」
「へぇ」
 アランはどうしたらいいものか悩んだ。だって、破壊しなくてはいけない。この場所を。だが、攻撃はしてはいけないという。攻撃せずしてどうやって破壊するっていうんだ??
 アランはそっと壁に触れる。温かい。これがハーンの心ってことか。確かにこんな温かいもの、攻撃できない。
「ちなみにお教えしやすけど、もうあまり時間はありやせんよ? 旦那はもうすぐ人形化の負荷でこの場所から朽ちていきやすもの」
 アランが目を見開く。悩む暇さえないっていうのか!
「ど、どうしたら?」
「ってか若旦那? おかしいとは思いやせんか? 他人の心に侵入したってのに、こんなに静かなのが。それってすなわち、旦那の精神状態が廃人に近いってことでやんすよ? お気づきにならなかったんで?」
 アランは愕然とする。全く知らなかった。いや、知らないでは済まされない。このままではハーンが……!
「教えてくれ! どうしたらいいんだ? 頼む、教えてくれ」
「そうやって若旦那は何でも人に聞いてきたんでやんすねぇ」
 ふっと失笑された気がした。肩に乗るトカゲからはもちろん表情なんて見えはしないのだが。
「え……どういう……」
「今まで聞いたら教えてくれる人ばっかりでよかったでやんすねぇ。でもねぇ、若旦那ぁ。世の中そんなにうまくいきやすかねぇ?」
 アランは信じられない表情を見えもしないトカゲに向ける。
「若旦那ぁ、あんた本当に旦那のこと、助ける気あんですかぃ? あったら、見えないはず、ないんですがねぇ。旦那に書きこまれたこの禁術が、旦那を縛るこの禁力が」
 辺りを自然と見渡してしまう。それでもアランにはなにも見えない。確かに入矢とハーンに禁術の使い方と接し方を習ってきた。禁世も感じられるようになったはずだ。なのに、なぜ、何も感じない!
「俺だけが見えないって……そう、言うのか?」
 ビルは笑うだけで何も答えない。ビルは助けない。助けることは簡単だけれども、それでは意味がない。何も変わらない。チェシャ猫は確かにアランを頼むと願った。そう頼まれたからこそ、わざわざ分身を遣わした。
 でもね、チェシャ猫。あっしはこの程度の人間、どうでもいいんでぁ。生きようが死のうが、どうでも。この程度の人間ならざらにいる。逆に不思議の国の住人が思ったように、ビルとてここまでこの少年に執着するチェシャ猫こそわからない。
「若旦那ぁ、あんた、そろそろ目を開いた方がいいんじゃないですかねい?」
「目?」
「そうでやんすよ? まさかお気付きでない? ……そうでやんしょう? だって、若旦那、自分の見たくないものは……“視えない”んでやんすよねぇ?」
 ビルが意地悪く、そう言った。アランは当惑する。見えない? 視えない? 観えない? 視得ない?
「いい加減にしたらどうだ?」
 がらりと口調が変わる。
「お前は発してばっかりだな。全てを鏡のように反射する。だけどな、それじゃだめだ。いくら器が広く大きかろうが、それじゃだめだよ。他を受け入れ、他と同調し、そして他と同じになって発する。……それが共鳴。そいつぁ、コミュニケーションの基本だぞ?」
 気が付いたらトカゲではなく、ぎょろっとした目がアランを覗き込んで、見下し、笑っていた。まぶたのない瞳がまっすぐにアランを射抜く。毛ほども笑っていない、本質を見た気がした。
「共、鳴……?」
「そうでやんすよぉ。あっしがアドバイスできるのはこれくらいでやんすかねぇ」
 いつもの口調に戻ったと気がついた瞬間、ビルはおらず、トカゲに戻ったようだった。否、幻だったのかもしれない。そして一言一句、ビルの言葉を反芻する。
 ――見たくないものは、視えない。
 ――発してばかり。
 ――反射する。
 ――受け入れ、同調し、同じになって……。
 その瞬間、アランは意識が遠のいた。なにか、一番大切なことを忘れている気がする。なにか、自分の過去で最大の過ちを犯してきたような気がする。大事な、大事なことだ。
「若旦那、そいつぁ、今は必要ねぇですよ」
 びたっと顔面にビルがくっついた事で、はっと我に返る。そう、大事なのはハーンだ。
 一緒になる。ハーンと一緒に。甲高い破砕音が鳴り響いて、脳内の白いもやが硝子のように砕け散る。すると、ふっと目の奥に浮かんできた情景があった。
 それは、アランが知りえない、ハーンの大事な、大事な記憶――。

『さぁ、始まります今宵のゲームはぁああ! 皆様お待ちかねぇ! 十指の一組ぃ、黄色い虐殺者、ハーン・ラドクニフと万緑の魔女、ソニーク・デュバリサンクのツインー!!』
 激しいアナウンスとあふれんばかりの会場の歓声。すぐに禁じられた遊びだとわかる。おそらく、ランク2のゲームだ。
 椅子に座って悠然と眺めている金髪の頭。アランが知るより短くて、そして、顔つきもいまより精悍で。おそらく今より若いとすぐにわかった。
 無精ひげも生やしていない、目にも力がある。悠然と支配者の席に腰かけていた。ということは、黄色い虐殺者と呼ばれたころの、ハーンということか。
 つまり、下を見れば、ハーンのパートナーがいるはずである。鎖に絡まれたはるか下、ハーンのペアはいた。しかし、アランにとっては驚きだった。
(女?)
 確かに奴隷でも女性は多いが、身体的な理由で圧倒的に男性が多いのも事実だ。しかしそれより驚いたのが、彼女が車いすに座っていたことか。車いすで奴隷? しかも禁じられた遊びに参加なんて聞いたことない。
『対するのはァ、ルーキーツイン! 最近のし上がって十指も近いノワール・ステンファニエルとイリヤのツインー!』
 はっとして振り返る。ハーンと同じ目線の場所にノワールの姿があった。ノワールがいるという事は……当然、彼の下には真紅の頭髪が見て取れた。入矢だった。
 つまり、ハーンが人形にされた記憶はノワールと入矢のペアと闘ったとき、ゲームをした時の記憶ということだ。そしてハーンの言動からすれば、おそらく……彼のペア、ソニークを失った時の記憶ということだ!
『さぁ、皆様ベット、ベット、ベット、ベットー!!』
 会場の熱気と共に掛け金がどんどん上乗せされていく。その様子を余裕を持って眺めるハーンとノワール。お互いに戦意はあるが殺意はない。上品なゲームに思える。その下でコールを待つ奴隷の入矢とソニーク。
 アランはソニークを見てみたかった。一体、ハーンの心のほとんどを占めた女性がどのような外見なのか、性格なのか、どの程度の強さなのか。緑色の髪は肩口で切られているがそろってはおらず、ざんばらのままだ。ふっくらした胸に細い手足。しかし白くはなく、むしろ健康的に日焼けした手脚だった。車椅子にさえ乗っていなければ健康的な女性だろう。
『さぁて、皆様、ベットタイムはもう終了ですよぉ? さぁ、準備はよろしいぃ~? はい、ベット終了でぇす! おぉ、やはり十指、ハーン・ソニークのツインが優勢ですねぇ。しかぁし、黒星少なく短期間で台頭してきたノワール・入矢のツインもまだまだ人気ぃ。この掛け金分をぉ、両ツインの力に加算しまぁす。さぁ、奴隷、解放です!』
 鎖の重々しい音と共にスレイヴァントの表情が明らかになる。入矢は真紅の髪の下に男性にしては色白の美貌、意志を持った強い緑色の瞳を輝かせ、口元に笑みを浮かべている。
 対するソニークは大きめの瞳をしっかりと開け、微笑んで見せる余裕がある。深いアメジストのような紫色の瞳に魅せられる。――これが、ハーンの愛した女。
『それでは、みなさまぁ~、ゲーム、スタートです!!』
 アナウンスの女の声が響き渡り、そうしてアナウンスの女がぶら下がる席が天井へと消えていく。歓声は叫びとなり、熱気の渦を巻き起こす。そうしているうちに入矢が動いた。相変わらず、速い。その速さは間合いを一瞬で詰めてしまう。己のテリトリーに気付いたら侵入されてしまうのだ。
 しかし、ソニークも負けてはいない。一瞬で車いすが車いすの範疇を超えた速度で動く。それは人が動くのと同じ、否、人より速く、人より機敏に動く。入矢は冷静に相手の動きを観察すると、そのまま次の攻撃に移る。微笑んでそれをかわすソニーク。そうしているうちにドーミネーター同士でも動きがある。炎を吐きだしたハーンに余裕の笑みだけで炎の禁術を消しさるノワール。
「まいったな。もっと弱いと思ってたよ」
 ハーンはそう冷静に苦笑しつつ言葉を漏らした。マイクに拾われた挑発ともとれるその言葉をノワールは意にしない。
「認識を改めていただけて何よりですよ」
 入矢はいつの間にか、刃渡り40cmほどの短刀を禁術で生成しており、それを逆手に構える。ソニークは微笑んだまま車いすの操縦バーから手を離さない。
「引きずりおろしてやる」
「まぁ、怖い」
 うふふ、とソニークは微笑む。こんな女性だったのか。ソニークはそのまま車いすのバーを動かす。すると前輪の前の当たりから散弾銃のごとく、入矢に攻撃が迫る。入矢は声すら上げず、軽いフットワークで避ける。
「ちょっと、車いすありもどうかと思うけど仕込みありの車いすもどうなのかなぁ?」
 入矢はぼそりとそう言った。ふっと笑ったソニークは車いすを動かす。一瞬入矢を追い抜いたと思った瞬間、ノワールに向けてバズーカ砲が火を吹いている。
(ええええ???? 無茶苦茶だ、この車いすってか、この人)
 ノワールはそのままバズーカ砲をふっと笑うだけでいなしてしまう。ノワールの背後で爆発。ノワールの直後にいた観客からどよめきが生じた。そして次の瞬間にノワールの椅子に君臨するかのごとく、入矢が立ちはだかった。入矢があの刹那の間で砲弾を“斬った”のだ。ノワールを守るために。
「やー、攻撃的ですねー、あなたの奴隷」
「いやはや、貴方の奴隷ほどじゃー」
 にこにこした支配者同士の水面下の挑発が始まっていた。ハーンが生き生きしている。ノワールも楽しそうだ。それに入矢だって本気で楽しんでいる。
 これが前の、否、過去の皆。アランが知らない時間。