毒薬試飲会 021

047

「……入矢」
 妙にその身体が熱い。入矢が浅い呼吸を繰り返す。血を吐き出す口は真っ赤で、入矢の肌から血の気が失せて青く染まっている。
「ソニーク! 攻撃の手を緩めるな!!」
 ハーンが叫んだ。ソニークは頷く。そして拘束されたままの入矢もどきを斬って、斬って、斬りまくる! 斬られる度に痙攣する。そしてハーンのビームの攻撃が入矢を襲う。入矢がノワールの腕の中で絶叫する。ノワールは考える。この状況を打破する方法を。入矢を死なせない方法を。視線を走らせると、いつしか入矢の絶叫と痙攣が止まっていることに気付いた。
 最悪の事態が訪れたか、と恐る恐る入矢を覗き込む。入矢はガクガク震えながら、必死にノワールの腕をつかんだ。
「入矢? 入矢」
 優しく呼びかける。はっ、はっ、はっ、と短く血の混じった呼吸音が届く。その度に唇から、斬られた体の部分から血が漏れる。
「キスして、ノワール」
「うん」
 ノワールはここが禁じられた遊びの会場だろうが、ゲームの最中だろうが、構わず入矢を強く抱きしめて、深く口づけた。血の味がする。溢れる血をノワールは嚥下する。その瞬間、身体が発火したように熱くなった。
 胸が鼓動を早く刻む。入矢の身体が熱い。その熱さが飛び火したかのよう。これは入矢の熱さ。入矢の想い。入矢が生きたいと願う、その――強さ!
 すぐにわかった。血約が進化する。
 命の極限状態で、入矢とノワールが血の交わりを深くする。
「入矢」
 朱の混じった銀糸を引いて二人の唇が離れる。その間もソニークの攻撃は止まっていない。入矢はいたるところから血を出して流して、それに耐えている。ノワールは一滴でも落とすまいと入矢の傷口ごと抱きしめた。そして己の下を軽く噛み、再び入矢に口づけた。
 私の想いも受け取って、入矢。死なないで、一緒に生きよう。
 ノワールの血をゆっくり嚥下する入矢の赤く染まったのど元にくらっとする。こんなときだからか、本能で入矢を抱きたい気分になる。入矢が血を飲む。それは、血約に定められた、行為。
 ――殺してやる。
 入矢の理性の箍が外れた。入矢は己に受ける攻撃と死への恐怖が理性を押しつぶした。入矢の目が爛爛と光る。禍々しい緑の目が赤い髪と血に濡れた顔の間で存在を主張する。それを、その想いと感情を受け取ったノワールもまた、ハーンをにらむ。
「ああ、殺してやろう」
 抱きしめたまま入矢のうなじにノワールは親指を当てる。
「あぁああっっ!!」
 入矢がのけぞって、細かく痙攣する。いつもなら決してすることはない。入矢を廃人に近づける行為を。こんなゲームに命を懸けて、こんな勝利にこだわったりしない。だけど、入矢が望むなら。殺して見せよう。だから、入矢、我慢してね。
 ノワールが入矢に直接打ち込んだのは、常時再生禁術と、麻薬だ。身体を修復させ、痛みを感じないほどに興奮させる。痛みを感じず、戦い続けることができるよう。
「俺のこと、気にしなくていいからな」
「わかってる。君の強さは私が一番知っている」
 入矢は跳び下りた。ソニークはノワールと入矢の様子を見ていただけに、雰囲気が変わった入矢を思わず攻撃の手を止めて眺める。入矢は無言で鎌を生成した。それはソニークのものより大きく、ソニークは何を始めるのかと、そう感じた。
 迷わずに向かってくる入矢にソニークは対応する。そして周りの入矢もどきにも攻撃をさせた。すると、入矢はそのまま鎌を振り回した。当然、入矢もどきは入矢の攻撃を受け、入矢が派手に血を散らす。ソニークは入矢の攻撃を避けながら、その行動を信じられない表情で見つめた。
「そんな……!」
 そしてその攻撃が入矢に返り、入矢から派手に血が噴き出す。入矢が一瞬、苦悶の表情を浮かべ、唇の端を釣り上げる。再び鎌を振り上げた。
「バカな!」
 ハーンが叫んだ。己の身体を自ら攻撃する、というのか。
「邪魔なんだよ、こんなに俺、いらないし」
 ソニークではなく、逆に入矢は入矢もどきを次々に殺していく。そして己を傷つける。異様な光景にソニークは止まった。止まってしまった。入矢は己の血で真っ赤に染まる。その赤い中で二つの緑色の目だけが、光っていた。
「あなたもそんな暇、ないですよ?」
 ノワールがハーンにそう告げる。次の瞬間、会場が真っ暗闇に包まれた。
「ちょっと開発途中の禁術だったんですよ? 上に這い上がる為に、オリジナルの禁術が必要でしょう? あなた方みたいなのが、ねぇ?」
 視界がふさがれた。ハーンは目が見えるように暗闇を払う禁術を試すが、効果がない。目が見えなくった時の対処法がどれも効かない。そしてそれはソニークにも同じことのようだ。
「あぁああ!」
 視界がふさがれた性で鋭敏になった聴覚にソニークの悲鳴が聞こえた。同じく視界をふさがれたソニークが入矢から攻撃を受けているのだろう。ソニークも混乱していた。次の瞬間、ハーンの身体が禁術によって攻撃される。
「ほら、あなたはいくら入矢の偽物とは言え、入矢に穴をあけて下さったので、お返しです」
 ノワールがそう言う。胸を外した、肩に空いた穴はおそらくレーザーのもの。
「入矢、わかったよ」
 そうしてハーンはノワールのその言葉を聞いた。
「うん、俺もわかった」
 入矢もそう応える。と同時に通信でソニークの声も響く。
(ハーン、わかったわ)
 三者が同じ言葉を口にする。
(これ、目を潰しているんじゃないわ。私たちの視神経と脳の神経を断絶して、それを維持してる。だから、目が永遠に視えないんだわ。私、もう、見えるわよ。無理やり耳からつないだの。ハーン、同じ事をしたわ)
 己の神経を禁術でつないだソニークだからこそ、わかることだった。間もなくしてハーンの視界が復活する。暗闇でソニークはだいぶ入矢の攻撃を受けていた。だが、視界が戻れば、そう一方的でもなくなるだろう。
「あれ? もうばれちゃいました? 残念だな」
 ノワールがそう言う。その顔は微笑んでいた。
「知ってます? 入矢は跳躍力が注目されてますけど、入矢はね、本当は禁術解体が得意なんですよ?」
 ノワールはそう言った。ハーンは何も言えない。
「だから、なんだと……?」
「あなたの禁術、解析し終わりました。私がわざわざ視界を奪うためだけにあんな大がかりな暗闇作ると思います?」
 ――わかった、とは。ハーンの禁術を理解した、そう言ったのだ。この男は。
「あんた、特別な身体してるんだね」
 入矢がソニークに言う。
「じゃ、その糸、切ったら、……あんたお人形さんに戻っちゃうんだね?」
 ソニークが目を見開く。入矢がぞっとする位美しく微笑んでいた。
 ――わかった、とは。ソニークの身体を維持する禁術を入矢が理解したということ。
「ソニーク!!!」
 ハーンが絶叫する。次の瞬間に、暗闇が入矢もどきをきれいに消し去った。ソニークがハーンに向かって振り返る。そして口を開き、何かを言いかけ……、背後に鎌を振り上げた、赤い死神が。
 血が散る。今度はソニークの血だった。それを信じられないように見たハーンの足元から、ズンっと重い揺れが生じる。
 入矢が同時に禁術解体を行う。それによって、ハーンに伝えられようとしていた言葉は、表情は、すべて消えうせる。
 糸が切れた操り人形のようにくたりと力を失ったソニークが絶命する。
 だが入矢の解体は止まらない。会場を揺るがし、バトルフィールドと客席を隔てていた分厚い隔壁が空気に溶けたかのように消えうせ、ノワールの暗闇が観客をも襲い始める。
 周りから目がぁああと呻く声が響いた。ハーンはその光景に目を疑った。なぜ、なぜ観客にまで禁術の効果が?
「入矢、もういい!!」
 ハーンはノワールの叫び声で我に返った。ソニークを殺した後も、入矢は力を解放し続ける。異様な光景だった。入矢は何かに取り憑かれたかのように目を光らせ、ソニークを通じて禁術を解体し続ける。それに気づいたノワールだけが入矢に呼びかける。ハーンもようやくその恐ろしさを知った。
 揺らぐ会場、ノワールが入矢を呼んでいる。ノワールの声が届いたのだろう、ふっと入矢が動きを止め、視界にハーンの姿を映した。ハーンは為す術もなく、気付いたら鎌を振り上げた入矢が立ち塞がっていた。
 ――衝撃。ただ斬られた衝撃だけが残っていた。そこでハーンの意識が薄くなる。死ぬ直前に見たのは入矢が力を失ってハーンの椅子から落下する姿。
 入矢はノワールを鎌で切り裂いた後、鎌を手放した。禁術解体によって力を失った入矢の武器は入矢の手を離れた瞬間に塵と消えうせる。そして揺らいだ体が傾いで、背中から落ちていく。その姿は入矢が最後の力を振り絞った結果、ゲーム終了までに命が残らなかったことを意味した。
 そう、ハーンを殺した瞬間に入矢も死んでいた。常時再生の禁術により、身体の修復は行われても、もう、気力が残っていなかったのだろう。ノワールが急いで闇を紡いで入矢を抱える。目が見えない観客達がゲームがどうなったかを気にする。今まで以上にざわついた会場は暗闇に包まれたままだ。だが、その暗闇がふっと晴れていく。
 晴れた先には入矢を抱えたノワールが君臨していた。闇が完全に晴れた会場には絶命しているソニークと支配者の席で一文字に斬り裂かれたハーンの姿。それを認めた瞬間に会場が湧いた。うぉおーと声が響く。
「完全にハーン、ソニークの死を確認! 今宵、生きた女神はノワールと入矢に口付けましたぁあああ!!」
 いつしか現れたアナウンスの女が告げる。と、同時に会場が瞬時に修復されていった。己の身体が会場から消えていく感覚を感じながら、負けた事実より、横たわるソニークの姿が目から離れない。そうして、ハーンは意識を失った。
 アランは言葉も出なかった。こんな壮絶な戦いだったとは。こうして入矢は『真紅の死神』と呼ばれ、闇を晴らしたノワールが『漆黒の黎明』と呼ばれたのだろう。

 ハーンが次に目を覚ましたのは、禁じられた遊びの救護部屋だった。機械音声が次の予定を告げ、事務処理を行う。
「なぁ、俺のパートナーは?」
 係員の女に確認した時、予想もしていなかった答えが返ってきた。
「あー、死にましたよ?」
 目の前が真っ白になった。
 彼女曰く、入矢が行った禁術解体はソニークの身体の禁術だけにとどまらず、禁じられた遊びそのものにも干渉を起こしたそうだ。それによりシステムに不備が生じ、その都合で、ダメージが直接身体にいってしまった。つまり、本当に生身に攻撃を受けたことになったと。だから、ソニークは死んだというのだ。
「そんな……嘘だ……!」
「いえ、本当ですよ」
「ソニークに、会わせてくれ」
「えーっとですね、はい。試合終了から一カ月が経ってまして、その間に死体引き取り人が現れなかったため、彼女の死体は規定通り死体バイヤーの手にすでに流れています」
 ハーンは目の前が真っ暗になった。そんなバカな。死んだだけじゃなく、その死体すら俺には会えないっていうのか!!
 ――あっけない。あまりにも、愛した女との別れが、死が、こんなにもあっさりと終わってしまった。もう、二度とソニークに会うことは叶わない。ハーンは無駄と知りつつもソニークの死体を捜してバイヤーを当たったり、探し回ったが徒労に終わる。
 ――あの時、最初から全力で戦っていたら。
 ――あの時、降参を申し出ていたら。
 ――あの時、入矢の攻撃を防げていたら。
 ――あの時、ノワールを殺せていたら。
 ――あの時、自分がもっと早く目覚めていれば。
 あの時が止まらない。後悔が止まらない。最初はノワールと入矢を憎んだ。殺してやろうと何度も考えた。だが、それよりもソニークを救えなかった己がふがいなくて、情けなくて、許せなくて……。
 一番自分を殺してやりたかった。怒りに身を包んだ。自分を何回でも殺してやりたかった。
「ソニーク」
 むなしい男の慟哭がこだまする。ソニーク、ソニーク、ソニーク!!!

 アランは泣いている自分に気付いた。愛する女の最後を飾ってやることができなかった。愛する女は最後にハーンに何を言いたかったのか、わからなかった。守ってやれなかった。
 あまりに別れはあっけなく、あまりに彼女の死は唐突で。
 次から次へと溢れだす後悔の念。ハーンの胸から消えることなく、いまだ血を流し続ける深い傷。膿んで、少しでも動けば新たな血を流す、ひどい傷。
「なぁ、ハーン。そろそろ、その傷つけるナイフ、抜いて治していっても許されるんじゃないか?」
 アランはそっと呟いた。己が一番、許せないのだ。ハーンは本当にソニークを愛していた。こんなに深い愛をアランは知らない。己の傷が癒えることすら許せない。自分が一番許せない。ハーンはそういう男なんだ。
「ハーン、俺、お前を許してやるよ。お前がどんなに許されたくなくても、俺はお前を許し続けるよ」
 だから、お前を癒すにはどうしたらいい?

「すべての起こした事への起源、何を知識として蓄えても、溶け合うほど親密に、合わさるほど同じにはなれない」

 ふっと声が聞こえた。アランは上を見上げる。だれもいない。だが、確かに声が届いた。誰の声かはわからない。知らな人の声の様でも、既知の人の声にも聞こえた。知っている、でもわからない、誰かの声が、アランにそう投げかけた。
「溶け合うほど、親密に……合わさるほど、同じに……」
 すんなりと、その言葉が入ってくる。そうして、ふっと気づくと、あの情景が、ゲームが再びの開演を迎えている。
 同じようにアナウンスと共にソニークと入矢、ハーンとノワールが向かい合う。そうして再び、ゲームが再開される。
 何度も何度も、何度も何度も。繰り返し、繰り返し、ハーンはソニークの死を繰り返す。
 そうして傷をえぐり、記憶を留め、忘却を拒否する。何度も、何度も、そうやってハーンは苦しんできた。
「合わさるほど、同じには……なれない」
 アランがどんなにハーンの苦しみを見ても、理解しても、ハーンと同じ気持ちを抱くことはない。ハーンはハーン。アランではないのだから。決して、同じには決してなれない、だから!
 走り出し、入矢と対峙する緑髪の女。ハーンが愛した女。その女を背後から刺す。いつの間にか握られていた剣で、アランはソニークを殺す。その瞬間、映像が止まる。入矢も止まり、ソニークを中心として世界が崩壊する。崩壊した世界で再演される記憶。
 何度も何度も再生された記憶を、そのものを壊すために、アランは何度でも何度でも入矢が殺す前にソニークを殺し続ける。
 入矢との戦いのように激しくもなく、情熱さえ失せて、ただ、無感動に、無表情にソニークを殺す。
 映像を流させやしない。二度とハーンがソニークの死ぬ場面を見させない。ハーンの大切な記憶だ。ハーンが心から愛した女の最後だ。だからこそ、許さない。
 ハーンが己を許さないことをアランが許さない。
「お前は、俺のペアなんだろ!」
 アランは叫んだ。ソニークを何回殺したかわからない。アランという人間が認識されることのない、この過去の記憶に入り込み、世界を蹂躙する。殺す、殺す、殺す!
「お前は俺の手を取っただろう!」
 同じになんかなる必要、ないんだ。これから俺がお前を俺の色に塗り替える。溶け合うなんて、冗談じゃない。合わさるほど同じ色になんかしてやらないよ。一緒に手を取り合って、共に歩んでほしいんじゃない。
 俺は、お前の手を取って、お前は俺を引っ張って、俺たちは共に戦っていきたいんだ。
 ノワールと入矢のように、互いの存在を認め合って、必要として、そうして生きていく形。それを俺はお前にだけは求めない。ぶつかって、ぶち当たって、互いに傷つけて、そしてわかりあいたいんだ。
 俺はお前を苦しめてなんか、絶対してやらないんだ。だから!
 ソニーク・デュバリサンクを消してやる。彼女の死を塗り替える。上書きする。
 入矢が殺した? 違うさ、俺が殺すんだ。俺は傲慢で、単純だから、お前が死ぬくらいなら、俺がお前を支配して、お前の記憶なんか上書きしてやる。もう、ソニークすらわからないほどに。
「だったら、俺だけを見ていろよ!!」
 ソニークの首を斬り落とす。
 ――瞬間、世界が割れた。

「起きてくだせぇよ、アランの若旦那」
 ぺち、ぺち、とひんやりしたなにかがアランのほほをたたく。目を開けると緑色の何かがぼやける。
「まったく、よくこんな場所でのんきに寝てられやすねぇ。その根性、呆れかえりやす」
 がばっとアランは起き上がった。その瞬間、べちっと緑色の塊が投げ出される。
「ハーン!!」
 ったく、と呟いて、器用にトカゲは二足歩行を行った。そういえば肩に乗られていたからそんな場面は初めて見た。ちなみに余裕がなくて気づかなかったが、トカゲが黄色いビル自身が被っているような帽子を被っていた。なかなかお洒落。
「大丈夫でやんすよ」
 トカゲを両手で掬い上げ、アランは背景が変わっていることに気づいた。なにか、真っ赤になっていることに気づいたのだ。そして心なしか、空間が暖かくなっている。
「アランの若旦那、ご苦労さまでございやした。無事に旦那の禁術は壊れてやんすよ」
ほっと力が抜けた。一応、ハーンを救えたらしい。
「さ、アランの若旦那、ぼやぼやしてやいられやせん。旦那の精神が戻ったなら、急いで戻りやせんと。今度は旦那の防御機構に攻撃されやすよ」
「防御機構??」
「へぇ。誰だって精神的に攻撃受けたら自分を護るでやんしょう? それでさぁね」
「そ、そっか!」
 よくわからないが、ハーンの心が元に戻ったなら、長居しては苦痛になるだろう、とアランはビルの発言を思い出して納得した。そして帰りのトレインを心の中で呼び出す。すると今度は何もラインも、なにも変化が生じなかった。
「あれ? 失敗した?」
「何言ってやんすか? もう、きてやすよ!!」
 ビルはそう言って、アランの肩に飛び乗った。え? ビルが言った方角を眺めると、そこには一枚の板、というには頼りない厚手の紙、すなわち、過去にダンボールと呼ばれていた紙に紐がついただけのものが高速で近づいてくる。
「ええええ!?? トロッコですらねーのかよ!」
 帰りはダンボールそりらしい。アランは急いでその高速で滑っているダンボールに飛び乗った。あわてて紐をつかみ、身体を安定させる。
「ちょ、ダンボールにしては、は、速すぎやしねぇかぁああ??」
 トロッコより速い気がする。おそろしいのはそり、という乗り物の原則を無視した、登り坂なのに、高速で滑っているところだ。確かにトロッコでは落下したけどー!!
 うひゃぁあと悲鳴を上げながらアランは疾走する。
「間が悪いでやんすねぇ」
 ビルが呟く。あまりの速度に空気が風を呼び、轟音でアランには届かない。
「え? 何か言ったか?」
「アランの若旦那、あっしはここまででやんす!」
 アランは思わず肩を見る。
「旦那の防御機構が働く前にあっしは先に戻りやす!」
「ちょ、どうやって出るんだよ!」
 ビルは笑う。人に聞いて解決する問題じゃないって言うのに。まぁいい。目覚めて、そしてこの場所から出るにはまだまだこの少年は学ぶことは多いだろうし。
「アランの若旦那、自分の身体を念じるんでやんすよ!」
 肩に乗っていた緑色の物体がふっと塵になったかのように消えていく。
「お、おう!!」
 急いで返事をすると、ビルに言われた通りに己のおそらくハーンの隣で眠っている体を思う。すると、ふっと意識が自然に遠のいていった。

「ぷぎー」
 何もない空間に豚の声が響く。愛らしいよく太った豚はスンスンと寝転がる二人の臭いを確認するかのように鼻を近づけた。豚はしばらくそうして、また、鳴く。
「ぷぎ」
「わかってるわよ。ったく、最近禁世でドタバタが多いってのに、舐めた真似するわね」
 音もなく一人の女が眠っているハーンとアランの元に立つ。その女、格好が異様だった。白い足袋に朱色の脚半。ミイラ男のように白い布で覆われた胸と腰。日本文化を知るものならば、それがさらしであることがわかるだろう。腰にはなにか皮製のものが一巡し、腕には同じく朱色の手甲をしている。それしか身につけていない。白い肌の女が跪くと二つに分けられて結ばれた黒髪が垂れ下がった。
「しかも、何女王のテリトリーにいちゃってくれてんの? この人間、しかも寝てるってどういうこと?」
 死んでるとか、廃人になってるとかならまだわかるが健やかな寝息を立てているというのはどういうことか。
「まぁ、いいわ。知ったことじゃない。私の役目は禁世の不法侵入者を排除すること」
 腰の皮のものを解き、女は一振りの包丁を取り出した。異様に光る、包丁だった。そして、それを見て、豚が二人から離れていく。それを確認して女はアランの首目掛けて、包丁を突き下ろした!
 キィィイイン! その瞬間に甲高い金属が擦れる音が響く。女は驚いてもそれを態度に出さず、眉を動かすことさえしなかった。包丁と交差しているのはアルミ製の棒。否、はしご。
「お待ちなせぇや、料理女」
 料理女、と呼ばれた女が包丁をどかすと、それと共にはしごも動き、女が処理しようとしていた少年をかばうように、ひょろりとした男が立ち上がる。それを見て、女は今度は眉を一度だけ動かした。
「掃除屋が何故、こんな場所にいる?」
「チェシャ猫に頼まれましてね、この二人を」
 それでも女は包丁を構えたままだ。違うのは豚がスンスンとビルの臭いをかぎに戻ったということろか。
「ご機嫌麗しゅう、料理女、ならびに赤ん坊」
 ビルがにやりと笑った。ひきつった唇がよけいに引きつって見える。
「退け。私達の仕事は禁世の侵入者を排除することだ」
「知ってやすよぉ。だが、この二人はハートの女王とチェシャ猫に認められてやす。ここは手を引いていただけねぇですかねぇ?」
「私の意志を誰が止めることが出来ると思う?」
 強気に女が言い放つ。
「仕方ねぇですねぇ。柔軟に物事を考えられねぇようですと、商売上がったりですよ? 料理女」
 ビルはそう言ってはしごを下ろす。途端にズンという音が響いた。
「ぷぎー」
 殺気が溢れ、豚が逃げていく。
「うるさい、私に命令するな」
 包丁が華麗に女の手の中で回転した。
「あっしの配役を知っていてもなお、戦うその意気、買いやしょう。さぁ、楽しい商売といきやしょうか!」
 ビルはそう言って笑う。対する女は無表情に包丁を両手に構えた。