毒薬試飲会 024

14.カドミウム 下

052

 舐めるなよ。
 俺がやられたまま、黙っていると思ったら大間違いだ。
 そうだろう?

 「毒薬試飲会」

 14.カドミウム・下

 ベットタイムが終了し、入矢と敵の奴隷、ナグアが向かい合う。
 入矢は先ほどのボルバンガー戦とは違い、殺意も怒りも抱いてはいない。ゲーム前の緊張感が支配している。
 しかし先ほどと違う点といえば、ノワールがわずかに顔に緊張をのぞかせている所か。相手の支配者サイネリアも軽い緊張を顔に見せていた。
 アランとハーンの隣で観客がゲームの勝敗について語り合っているのが聞こえる。このようにして会場全体がざわつき、それぞれが楽しみにしている様子が伝わってきた。
「やっぱ、勝つのは女帝だろう?」
「そうかぁ? だってノワールはまだ、禁術の1つさえ使っていないんだぞ」
「だって、片や十指の最強を争う女だぜ?」
 様々な憶測が行き交う中で、入矢とナグアの視線が交錯する。そして、瞬間二匹の獣が疾走を開始した。紅い髪が残像を残して、それすなわち真紅の弾丸。迎え撃つ獣は青白い髪を揺らして、ふらふらと何度か頭を揺らした瞬間に姿が消える。激しい金属の摩擦音が響き渡った。
 入矢が長い細身の剣、すなわち日本古来の武器、刀を振るい、ナグアは西洋の普通のタイプの剣を生成していた。二人の戦士の間に情など不要。ただひたすらに相手を殺すために刃を振るい、相手の血潮を浴びるがために殺意をまき散らす。
『ねぇ、聞いてもいいかしら』
 支配者側にも動きがある。それは奴隷とは違って、言葉を持った文化を持つ穏やかな戦い。
『なにか』
『どうして、スリーコインゲームを?』
『……理由がなければ戦えないかい? 女帝さまは』
 穏やかな会話の最中にも奴隷同士の戦いの音が響き渡る。
『うらぁああああ!!!』
『いぁああああああ!!』
 咆哮をまき散らして、刃の接触部分が火花を散らす。
『そうではないけれど、だって、興味ありますもの。あなたたちは麦? どうして踏まれても立ちあがってきたのかと。その原因が知りたいと思ったの』
『理由など特にない。そうだなぁ……あえていうならば、飽いたからだ』
『なんですって?』
『ゲームの宣言をする際に言わなかったか? 飽きたのだと。くだらないしがらみに、殺意に、そしてこの状況に。私と入矢、引き裂こうとした輩につきあうのに飽きたのだよ』
『なんですって? そんなくだらない、理由?』
 女帝の言葉に棘が含まれていく。しかしそれに気づかないように、バカにするようにノワールは穏やかにほほ笑んで言い切った。
『貴様などに、我が想いを理解していただかなくても結構だ』
 ふん、と言い放つ。
『もう一度言おう。私は貴様らのくだらない思惑に乗るが飽きたと言った。だからそれを打開するために、上に上る。その意志を貴様如きにどうこう言われる必要はない』
 ノワールは他の十指にも聞こえるように、わざわざ十指の座席を見て、言い放った。
『そう、なんて男! ナグア!!』
 女帝が叫ぶ。ノワールは片眉をあげて奴隷が支配者に応える様を見ていた。入矢の方も一瞬ナグアを見ている。
『叩き潰して上げましょう! こんな男』
 鋭い視線を向けた女帝に向かってノワールが逆に冷酷な瞳を返し、言った。
『思いあがるな! 貴様如きの基準が私に通用すると思うなよ』
『私ごとき? ですって?!』
『そんなに自分を見下されるのは嫌か? 貴様も二つ名に酔ったのだな。女帝などと呼ばれて、本当に己が女帝だと勘違いでもしたのか? 愚かな女だ。最初からお前は上になど立ってはない』
 ノワールは続ける。
『お前と、青い地獄、橙色の悪魔……中心になって動いたのはお前たちだと聞いている。それを知った瞬間にこの3組と当たればいいと私は思っていたよ』
 そう、激しているのは入矢だけではない。
『二度と二つ名など名乗れないように、お前たちを叩き潰そうと思っていたのだから』
『やってみればいい! 私は無形の女帝・サイネリア・バースカーク!! この名、嘘と思うならその身に受けよ!! ナグア!!』
『了解!』
 その瞬間に入矢が一瞬で距離を取った。刀を構えて瞬時に反応しようとする。
『グォォオオオオオ!!!』
 人とは思えない咆哮が響き渡る。その瞬間ナグアの影がありえないほどに表面積を増やす。そしてその影が持ち上がった。体積を増やしていくナグアの影。それだけではない。ナグアの身体がその影に包まれていく。
 入矢が目を見開いた。ナグアの身体が膨れ上がる。黒い影ごと。そしてその影は獣の姿を取った。犬か、猫か、なんでもいい四足の獣だった。入矢の3倍ほどありそうな黒い獣。
『シャドウ・ワーカー!!』
 ハーンが軽く驚いた。アランも驚いていた。己をそうする禁術を多用する戦術が多い事は知っていたが、初めて見た。
『いくぜ!』
 獣が叫んだ。そして、瞬時に加速する。
『ガ!』
 入矢は刀と獣の爪を交錯させるが、質量が違いすぎてそのまま引きずられる。
 そして入矢の身体ごと背後の壁に激突した。入矢があまりの圧迫に苦悶を漏らす。
『このっ!』
 入矢が刃を振るうが、それは獣と触れた瞬間に解けるかのように形を失った。
『なに??!』
 入矢が目を見開く。しかし戸惑いは一瞬、ふりかぶられた腕を避けるように直上へ入矢が回避をする。入矢は跳びながら己の手を見つめた。
「なんだあれ?」
 アランは呆然と呟いた。入矢の腕が瞬時に黒く染まっていったのだった。
『初撃でおれのシャドウに捕まっちまうたぁ、動きがノロいなぁ、入矢!』
『シャドウ?』
 入矢は己の腕を眺める。黒くなった以外になにかあるのかと、誰もが気にした。
『うわあ!!!』
 黒く染まった部分がビクリと痙攣した直後、黒い肌を這うように中の血管が生き物のように浮かび上がり、収縮し、動き回る。入矢が腕を押えて震えている。
『どういう、こと?』
『俺の影は自由意志を持っている。傷口から侵入し、お前の体内を侵す。影が全身を乗っ取った瞬間にお前の身体は俺の配下だ!』
『へぇ。それが、『シャドウ・ワーカー』?』
 ノワールは入矢が攻撃されたにもかかわらず、まるで他人事のように呟く。
『余裕だね、支配者。シャドウ・ワーカーってのはね、こんなこともできるんだよ』
 そう言った瞬間に入矢の黒く染まった腕が破裂した。入矢は顔をしかめただけで、もう声すら上げず、ナグアをにらみつける。黒い腕から真っ赤な血が滴り落ちる。その腕の部分は爛れ、腐ったように皮膚さえもぼろぼろにされている。
 入矢はそれを見て、軽く右腕を振る。その度に大量の血が床に降り注いだ。
『黒く染まった部分はすなわち俺の分身。止血でさえままならない。危険だよ? 入矢』
 入矢は右腕を握ったり開けたりして具合を確かめる。血が流れるのは気にしていないようだ。血の滴ったステーキのようになってしまった右腕。
『そしてワーカーの名の通り、影は動く。君を取り込むべく、徐々に。徐々に』
 影がゆるく、動き入矢の腕を這い上る。入矢は冷静にそれを眺め、そして短刀を瞬時に生成する。
『どうしようってんだい?』
 ナグアが余裕で言った。入矢は無言で己の腕に短刀を突き刺した。黒く染まる直前の腕を貫く。その行為には表情さえ変えることはない。翹揺亭お得意の感覚コントロールである。
『何を?』
 入矢は刀を突き刺したまましばらく観察をしている。
『なるほど……このまま腕を切り離せば、君に支配されるなんてことはないわけか』
『切り落とすと? 自らリスクを負うのかい?』
『さすがに俺の腕力じゃ、片腕では切り落とせないしね。まぁそんなことはするつもりは最初からない』
 入矢は己の腕から短刀を抜き、そしてナグアに向けて投げつけた。ナグアに直撃すると思われたが、それは瞬間、溶けて消える。
『あんたの力なの? それ』
 入矢はそうつぶやいた後、首を振った。答えは分かっている、というように。
『違うね。それ……なるほど』
『無形の女帝、か』
 ノワールが入矢の言葉を引き継ぐ。
『よく私だって、気づいたわね』
『だって宣言していたじゃないか。相棒の名前を呼んで、ね』
 ノワールはそう言って入矢をちらりと見る。入矢の目はナグアを見て、そしてどう行動するかを考えているようだ。
「まずいな……」
 ハーンが呟く。アランはなんでだ? と瞬時に返した。そのとき、ナグアが動く。入矢はその影から逃げるように行動している。最初の時はアレだけ積極的に攻めて行った入矢が、だ。
「お前は入矢の弱点がわかるか?」
「入矢の、弱点……?」
 アランはしばらく入矢を観察する。入矢は走って、逃げているばかりだ。禁術を発動させることも無い。それは諦めた、というよりかは何か手を捜すまでの時間稼ぎの様にも見える。
 アランは何故かわからなかった。入矢の攻撃は一般より速く、そして跳躍力に優れる身体的にも十分に強い奴隷だ。禁術面で言っても禁術の生成速度は速く正確。
「入矢は跳躍力が優れた奴隷。だけどそれは裏を返せば跳ばなければ打撃を与えられないってことを意味しているんだ」
「……打撃を、与えられない!?」
 アランにとって入矢ほど優れた奴隷はいないのだ。
「入矢の身体を見てみろ」
 すらっとして細身のその身体を見る。
「筋肉は必要最低限しかついてないバランスのいい身体だ。それは入矢が翹揺亭の暗殺者として生活してきたからだといえるだろう。だけどな、禁じられた遊びは暗殺じゃない。逃げたり、隠れたりする必要は無いんだよ」
「そうだな」
 戦う舞台は用意されている。
「つまり入矢の最大の弱点はウエイトがないこと」
「! それって、軽いってこと……だよな?」
「そう。入矢は軽いからこそ、武器を持たない肉弾戦にめっぽう弱い。それを補強する為に入矢は跳ぶことを思いついたんだ」
 ハーンは冷静に言い切る。入矢は標準的な男性より細身であり、体重も軽い。だから己の肉体のみで戦う奴隷にしては体重が軽く、一撃で相手を沈ませることがあまりできない。
 そして体重が軽いからこそ、相手の攻撃を受けたときに自らは一撃で沈む可能性が高い。
 入矢はその弱点を克服する為に高さを思いついた。速度を高め、ウエイトを増すことは翹揺亭出身の入矢にとっては容易いことではあったが、禁じられた遊びのレベルが上にいくにつれそれでは対抗できないと入矢は早期からわかっていた。
 自分と同等の速さを持つ人間は多い。速さではいずれ負ける。入矢は翹揺亭に所属しているときから咲哉には速さで敵うことは無かった。だから己の一番優れた身体的特徴を探した結果、跳躍力に目をつけたのである。
 物体はその高さが高くなればなるほど、その体重は何十倍にも跳ね上がって地上に激突する。そして落下速度もまた高ければ高いほど速くなる。速度はそのものの高さに比例するからだ。
 だからこそ入矢は高く跳べば跳ぶだけ己の攻撃が強くなることを思いつき、予備動作なしで、どれだけ直上に瞬時に高く跳べることができるかを鍛えた。そして落下の衝撃を相手にどれだけ多く与え、己には軽減させるかを図ってきたというわけである。
「跳躍力に優れるって、そういう意味だったのか」
「そう。だからこそ、入矢はウエイトに左右される肉弾戦、それも速度を伴うことも無い己の筋力のみの戦いには持ち込まない。そういう場合は多彩な武器を持ってして、戦術を広げてきたわけだ。しかし……」
「今回は、それができない」
 相手の奴隷ジャドウ・ワーカーことナグアは質量が半端ないほど重い影を操る。しかも己が傷つけた部分から侵食を行うタイプの厄介な禁術使いだ。だが、それは圧倒的な禁術攻撃に弱いと言えるがその弱点を克服すべく、無形の女帝・サイネリアが補助する禁術こそが一番厄介だ。
 無形の女帝、それが表すことは形を与えないということ。禁術によって生成される全てのものに形を与えない。つまり全ての禁術を無効化するということだ。触れた瞬間に禁術解体を行われる、という寸法だろう。
 だから入矢は不得意な肉弾戦を接近戦で、しかも己の身体を犠牲にする覚悟を持って臨まなければならない。徹底的に不利。
『入矢』
『手伝いは不要だ』
 入矢は短く言い捨てて、そして覚悟を決めたようだ。
『わかった』
 ノワールはそう言って視線を走らせる。
『させるものですか!』
 サイネリアが叫んで、ノワールに攻撃を始める。
『ノワール』
『大丈夫だ』
 入矢とノワールの短いやり取り。入矢が奔った。ナグアが咆哮を持ってその攻撃を迎え撃つ。
『わかっていてよ! 貴方達はそうやって相手の禁術構成を読む。だからそれをする暇もないくらいに攻撃し続ければ攻略はされない! さぁ! どうするの? 時間を稼いでくれる奴隷は今回はピンチだと思うわよ!』
 ノワールは眉をひそめただけで冷静にサイネリアの攻撃を避けるなり防ぐなり始めた。しかしそれは怒涛の攻撃とも言うべき連撃でノワールの周囲が絶えず爆炎に包まれる。
 入矢はやはり跳んだ。そのまま弾丸より速いとも思える速度で落下、いや迫りくる。入矢はそのままナグアの頭とも言える部分に踵落としを叩き込んだ。
『効かないなあ』
 ナグアは落とされた踵の部分から割れるようにして分裂する。
『何!』
 入矢は瞬時に反応してナグアと距離を取る。だが次の瞬間には二頭の黒い獣が入矢を挟み撃ちするように疾走を開始していた。入矢は避けるべく会場内を走る。
『おれはシャドウ・ワーカー! 働く影だぜ? 働きものなんだ』
 入矢の走りこむ方向にもう一頭黒い獣が迫り来る。影の獣は瞬時に頭数を裂かれた紙のように増やしていく。入矢は瞬時に方向を変えたが、その先にも黒い獣が。上を見上げて入矢は影に気づく。
『ひゃっはぁ! オワリだぁ!』
『チ!』
 入矢は上から迫り来る影を睨んだ。そして覚悟を決めたように血がいまだに滴り落ちる右手を握りこみ、獣の腹に叩き込んだ。その獣が涎をたらして悶絶するがやはり致命傷にはならず、逆に横から来た獣が殴った右手に噛み付いた。
『ッ!』
 入矢は動きを封じられたことに焦りを覚え、腕を引くがびくともしない。獣の牙が入矢の右腕に刺さる。そこから血が噴出し、そして黒い侵食が一気に速度を増した。
『うあぁああ!』
 入矢が苦悶の声を上げる。追撃をかけるように別の獣が入矢の身体を一文字に切り裂いた。入矢の胸元からへその辺りまでが薄く切り裂かれ、血と衣服が舞う。白い入矢の肌の上に芸術の様に描かれた一直線の赤い線。赤い色から滲むように黒い色がじわりと広がっていく。
 入矢はそれに危機を感じたのか、腕を放さない獣に蹴りを叩き込み、獣を無理やり引き剥がす。しかし獣の数は減ることもなく、打撃を叩き込んだ獣さえ瞬時に復活する。
 獣は助走をつけて入矢目掛けて走る。一頭目を蹴りで追いやるが背後から迫る二頭目からかばう為に右腕を思わず上げた。
『いっ!!』
 入矢が叫び、己の血を頭から浴びる羽目になった。獣が入矢の右腕を再び噛んだからだ。牙からじわりと黒が滲み始める。入矢はそれを見た。そして己の意思でもう右腕を動かすことがかなわず、すでに感覚が失せていることを理解する。
 そうわかった瞬間入矢はこの獣の群れから抜け出す為に、ある決断をした。
『汝、炎の使徒。我は請う。そなたの美しさと芸術を。汝の名は、爆発!』
『おれに禁術は効かないといったはずだ!』
『お前には、ね!!』
 次の瞬間、獣の口内でオレンジ色の閃光が噴出した。瞬時にそれは炎へと姿を変え、黒い煙を吐き出し、同時に燻った人間の腕が落ちる。
『グァア!!』
 獣が人間らしく悲鳴を一瞬だけあげる。口の中を爆発させた獣はのた打ち回り、その直後に獣の頭が爆砕される。しかし影とあって、血肉は散らさない。全身が完全に動かなくなって影として溶け、そのうち強い光に当てられた影のように姿はふっと消えた。
 獣が死んだ場所から少し手前の場所に黒く染まった細身の腕が落ちている。腕半ばで折られた骨が爆発からその身を残したらしく、肉よりも骨のほうが幾分長く残っている。煤と焦げた血の塊を付着させた骨はそれでも白く、ナイフかなにかのように折れた面が尖っているように見えた。プスプスと煙を上げる肉はこげて半生の状態のまま、しばらくして血を広げていった。
 そして燃えもせず、影に侵食されてもいない手の甲から長く美しい指が生きているかのように存在を主張していた。
『入矢、貴様!!』
『おれの腕には禁術は効くからね』
 入矢はそう言ってニヤリと笑い、相手が動揺している間に死んだ一匹の場所を使って群れから逃げた。そう、入矢は咥えられている部分の腕を自ら爆発させた。肘関節から少し上の二の腕の部分で入矢の腕が消失する。
 生々しい赤い血肉をさらして入矢は片腕を失う。
 しかし爆発によって亡くした腕はそれ以上黒い影を入矢に残さなかった。入矢は使い物にならない上着を瞬時に止血帯に使い、獣に囲まれる前に逃げ始めた。
 今度は当惑しているからか囲んだり入矢を追い込んだりしない。入矢は数匹の獣と追いかけっこをしているみたいだった。入矢は逃げる途中で失った己の右腕を拾い上げ、跳び上がった。
『なに!?』
 ナグアたち、獣には跳躍力はついていけなかったようだ。ノワールの椅子まで逃げあがった入矢をただ見上げている。入矢は瞬時にノワールと己を護る禁術を立ち上げ、ノワールに己の落ちた右腕を落とした。
『後で繋ぐ。預かってて』
『わかった』
『させるものですか!』
 入矢に向けられた攻撃を入矢は軽く避けた。
『ナグア!』
『わかってる』
 入矢は冷静に下で己を狙う獣の群れを眺めた。攻略方法がこれといって見つかっていないのだ。ノワールはサイネリアの相手で忙しいし、と考える入矢に異変が生じる。
『ガッ!!』
 入矢が次の瞬間に身を折り曲げて落下する。
『入矢!』
 突然のことにノワールが身を乗り出して叫ぶ。入矢は胸を押さえて落下するが受身を取るだけのことはできたようだ。しかし、すぐさま獣の餌食と化してしまう。
「え?! どうしたんだ?」
 アランも身を乗り出す。入矢の反撃がどうなるか注目していただけに、何事かと観客全員が入矢と獣に注目する。まるで見せてあげよう、とでも言うように獣は入矢からすっと身を引いた。
 入矢は獣が襲ってくる風もないのにその場で動くことが無い。
『あぁああああ!!』
入矢が絶叫した瞬間に胸から盛大に血が噴き出した。そう、獣に傷つけられた傷は身体の前面部分が黒く侵食されている。そして驚くべきことに、軽い傷であったはずの胸の引っかき傷がいまや、開胸したかのようにずっと深いものに変わり、いまだに何も誰も触れていないのに傷が開き続けているのだった。
 そこから血が溢れ、入矢を苦しめている。
『侵食されればそこはおれの支配下。傷を広げることなんて造作ない』
 麻酔もなしに胸を開かれるその痛みは想像を絶する。
『それに、こんなことだってできる』
 ナグアはそう言って入矢の腕を固定した。傷つける為ではなく、拘束のために押さえつけられたというのが明らかにわかったが、誰もがナグアの次の行動を見守っている。
『ぐぁあっっ!』
 入矢が目を剥いた。身体が細かく痙攣する。何が生じたかわからなかった。しかしそれは徐々にわかってきた。いまや深くなった入矢の胸の傷から血がとめどなく流れ、そして呼吸による胸の上下運動と思われたわずかな振動に不規則な揺れが生じ始め、いきなり入矢の胸の形が変形する。
『がふっ!』
 入矢が盛大に口から血を吐く。胸に激しく蛇腹のような魚のえらのような模様が浮き出てきたと思った瞬間に黒く染まった皮膚から血が飛び出すと共に白い棒が突き出してきたのだ。
 黒く染まった皮膚を染めつくすかのような鮮烈な赤色が広がっていく。そのしてその赤色から生々しい血肉にまみれた肉片を付着させた白い棒。何本も均等な感覚で胸から生えている白いもの。
 考えればわかることだ。肋骨である。肉食獣が獲物を食べるときでさえ、あれだけ赤が目立つことは無いだろう。血にまみれた白い骨は入矢の痙攣と共に上下し、小刻みに揺れる。そして突き破られた皮膚の隙間から血の陰に隠れて柔らかそうな臓器が見え隠れする。
 胸を覆う大きい肺は肋骨に傷つけられて血を噴出している。あれでは入矢は呼吸もままならないだろう。
「ンだよ、あれ……?」
 アランが血の気が一気に引いた。
『……、っ……』
 入矢は呼吸をすることすら苦しそうだ。しかし己の身に何が起こったのかと無理やり視線を下に向けようとしている。
『すごいだろ~?』
 ナグアが無邪気に言った。そう、入矢の肋骨が自ら入矢の胸を突き破ってきたのだ。支配されたから、とかそんなことでは理解の範疇を超える攻撃。ナグアは入矢の傷口を広げただけではなく、黒く染まった部分のほぼ全てを支配し、その結果入矢の肋骨を無理やり動かしたのだ。
 しかも肋骨の形は本来肺を護る為に内側に向いて生えているものを、反らすかのように動かしたものだから入矢の肋骨は当然途中で折れて曲がっていることになる。
「逆にすごいな」
 ハーンが呟く。入矢はもう動くことすらできないだろう。逆に死んでいないことが不思議だ。完全に入矢はもうだめだった。目が白目を向いて、身体が細かく痙攣を続けている。口から血泡を吹き、肋骨が飛び出、まともに呼吸すらできていない。
『中途半端にやっても、痛いし、死ねないだけだからな』
 ナグアはそう言って、突き出でた入矢の肋骨を無理やり左右に割り開くかのように握った。入矢がビク、ビクと痙攣し、血を口から撒き散らす。もう、叫ぶことすらできない。
 肋骨に引っ張られて、胸の傷は割腹されたかのように入矢の内臓を全てさらしていた。鼓動を一つ刻む度に血が一定量零れ落ちる。
『心臓、握りつぶしてやろうかなぁ』
 ナグアがニヤっと笑い、勝利を確信する。