053
『ほぅら、どうするの? 貴方の奴隷、もう死んじゃうわよ?』
ノワールは無言のままサイネリアを睨み返す。かと思えばふん、と鼻を鳴らした。
『それだけ言えば、満足か?』
ノワールが言う。
『何?』
『確かにナグアの禁術は入矢に厄介だった。それに貴様の禁術もな』
ナグアとサイネリアを交互に見てノワールは言う。そして声高らかに、ノワールは叫んだ。己の相棒の名を。
『入矢!!』
しかし入矢は応えない。
『無理よ、もう彼は虫の息。というか、死んでいるんじゃないかしら?』
「確かに……ノワールはどうするつもりだ?」
アランもノワールを見る。ノワールはまだ試合を諦めていない。しかし入矢は血に沈み、復活はおろか、動くことさえできまい。ナグアは致命傷すら負っておらず、サイネリアとナグアの禁術は破れてさえいない。
『応えるさ、だってそう私が呪うから』
ノワールはそう言って己の手首を傷つけた。まっすぐ伸ばされた腕からノワールの血が滴り落ちる。ノワールの椅子から落下した入矢は同じ場所から落とされるノワールの血をその顔に浴びる。
しばらくして入矢の手がピクっと動き、白目を剥いていた眼球が戻ってくる。緑の目がぼうっと上を見上げ、その視線がノワールを捉える。
『入矢』
『………………っ』
胸を著しく損傷した入矢は応える言葉を持つことはできない。しかし、その緑色の目が意思を取り戻す。
『入矢、君は動ける。わかるね?』
『……あ…』
血を吐き出しながら入矢が肯定も取れない言葉を漏らす。ノワールは満足して頷いた。
『嘘だ! 動けるはずが無い!!』
ナグアが叫ぶ。いまだに起き上がらない入矢を見てサイネリアも頷く。
『本当はここまで入矢を苦しめたから同じだけ、傷つけてやりたいんだけどね……一撃で倒したほうがいいみたいだ。その程度にお前たちが強かったことは認めるよ』
ノワールが余裕に微笑んでそう言った。その視線は攻撃の色に反転する。
『何ですって?』
サイネリアが怪訝な顔をする。ノワールは次の瞬間に禁術を発動した。瞬時に会場内が薄暗く染まっていく。急な夕立でさえ、ここまで急速に暗くはなるまい。
『汝は刹那の道。瞬時の判断。我は汝を受ける大地。そなたは紫電、そなたは引き合い、繋げるもの。暗黒を引き裂き、咆哮を上げる竜!そなたの名は、雷(いかずち)!!』
ノワールが叫んだ瞬間に轟音が響き渡り、会場が揺れる。青白く、閃光が視界を焼いた。
「馬鹿な!」
ハーンが叫んだ。いくら限定された会場内だからといって雷を起こすことができるなんて。ハーンは絶句した。
物理的な禁術と己の身に生じる禁術攻撃を無効化するサイネリアの無形の禁術。それによって倒れることの無いナグア。それがやっかいだった。入矢がたとえ復活してもノワールは入矢を使って攻撃に移れない。だから、会場全体に雷を落とした。ナグア自身に攻撃するのではなく、会場の床に雷を落とすことで一瞬で感電死させる。それこそがノワールの狙いだった。
もしサイネリアの禁術によって効果が薄れたとしても何万ボルトの電圧をかけられて動ける生き物はそういまい。そう、ナグアの動きを止めることが先決。雷は確実に獣を屠り、もう一人の人となったナグアが倒れ伏している。
アランは視界が戻った瞬間に会場に見入る。視界が戻った時にはすでに動くものがあった。その色は、真紅。
『何!!?』
動けるはずの無い入矢が身を起こすどころではなく、走っている! 胸から突き出すのは確かに彼の骨であるし、零れ出るものは血液であるはずなのだ。身を黒く焦がしているが入矢は確かに走っている。
『何故!』
サイネリアが叫んだ。それよりもノワールの雷の禁術は入矢でさえ回避不能だったはず。会場全体を攻撃したからこそ、ナグアは雷を受けたのだ。だから己の奴隷である入矢だって雷を受けているはずなのに、しかしなぜ入矢だけが動けるのか。
「……あれか」
「え?」
アランが呆然と呟く。ハーンはアランを見た。
「見えないか? 入矢の胸に赤い印が、首に幾重に絡みつく首輪が見える」
ハーンは言われて入矢を見るが、ただ内臓をさらし血を零す胸しか見えない。
「何を?」
「入矢が動ける理由だよ。血約だ。ノワールが呪ったんだ」
アランが呟く。
「まさか!」
ハーンはアランが見える印は見えないが、アランが何を言おうとしているかは理解した。
――血約。つまり、ノワールは入矢の精神を支配できる。だから、ノワールは入矢に何があってもどうなっていても動けると、そう呪ったのだ。
入矢はその呪いに従って動けるはずのない傷を受け、何万ボルトの紫電を浴びようとも己を動かしている、ということになる。ありえない。だが、ノワールの行動はそうとしか思えない部分がある。
血を零し、ノワールと入矢は血の交わりを深くする。果ての無い、その関連性。
『でも、私にあらゆる禁術は無意味!』
サイネリアは入矢が動くという問題から現実に立ち直った。すぐさま防御になる。
『それはどうかな? 私が反撃しないと、そう思うかい? これだけ君の、禁術を見せ付けられて私が打つ手なし、と悔しがっているとでも? ……入矢!!』
ノワールはそう言い放って、会場内が一気に黒く染まっていく。光を許さない漆黒の空間に会場が支配されていく。
「漆黒の黎明!!」
ノワールのオリジナル禁術が発動していた。全てが視覚不能の空間にとって変わられる。その瞬簡にサイネリアはナグアに復活の禁術を無言で発動させる。
入矢はちらりと敵が復活する可能性を見、己の身体を加速させた。
『ナグア!』
本能が危険を知らせている。サイネリアが今度はナグアを呼ぶ。ナグアは雷によってショックを受けていたが幸いサイネリアの治療禁術によって息を吹き返した。
『サイネリア!』
応える声が響く。そして入矢が動いていることを知ってナグアが入矢を追う。すぐさまの行動であったが、どうしても埋まらない差がある。
『待て!』
ナグアが叫ぶ。
『遅い!』
『がはっ!』
入矢の声がした。漆黒がさっと晴れた瞬間、入矢が生成したであろうナイフがサイネリアの首を貫通した。すべての禁術を無効化するはずのサイネリアの首に、禁術で生成された武器がめり込んでいる! 鈍いナイフのきらめきがサイネリアの血を浴びて、光らなくなる。
それはノワールがサイネリアの禁術を破ったことを照明していた。サイネリアが驚愕に目を見開いた。なぜ、と短い声がする。
入矢は無言で彼女を見下し、もう首を切り落とすつもりで稲刈りに使うような鎌を生成した。それを左手で突きたてるが首を切り落とすには力が足りない。それを理解しすぐさま左手から鎌を離し、予備動作を行って鎌の柄を、回し蹴りの要領で蹴った。
『入矢ぁあああ!!』
獣と再び化したナグアが次の瞬間に入矢の喉元に喰らい付く。そのまま入矢の身体は地面に打ち付けられた。入矢の身体が鞠のように弾むが、喉を喰らったまま離さない。獲物をしとめた肉食獣のようにナグアは入矢を殺すべく動かない。入矢も動かなかった。しかし、どすん、という音が響き、女の首がナグアの背後で血の水溜りを作り始める。
恐る恐る振り返ったナグアが光景を目にして、入矢を思わず離す。首を開放された入矢だが、あまりの力に入矢の首も半分もげて血が流れていた。ありえない方向に曲げられた入矢の首は半ばで折れ、静かに血が零れていく。入矢も死んだ。
『あ、あああああ!! サイネリア、サイネリアァアアア!!』
ナグアの絶叫が響き渡る。入矢の方が速かったのだ。サイネリアの首が飛んでいた。
『私に勝てる、夢でも見たかい?』
ノワールは静かに言った。次の瞬間に観客の絶叫のような歓声が響き渡った。
『ノワール、勝ちましたぁあ! この奇跡のようなスリーコインゲームで、ノワール見事に全勝!! ノワールと入矢にはぁ、ランク1のゲームへの挑戦権が与えられます!!』
アナウンスの女が叫んだ。
『今宵、生きた女神はノワールと入矢に口付けましたぁああ!!』
「すっげー」
アランは呆然と言った。最終ゲームで入矢は死んだが、それでも見事すぎた。
「にしても、ノワールはどうやってサイネリアの禁術を破ったんだろうなぁ?」
アランの問いに先ほどのゲームをすでに見返していたハーンは呟いた。
「ここだ、見事にだまされたな」
入矢がノワールに己の腕を渡したところだった。
「え?」
「入矢は後で腕を繋ぐって言っただろ? だからそんなことさせるかってサイネリアとナグアは動いた。だけど、入矢は最初からそんなつもりなかったんだよ」
「違うのか?」
「ノワールにナグアとサイネリアの禁術構成を読ませるために己の腕を渡したんだよ」
入矢は最初に二人の禁術を受けたとき、己の右腕は使い物にならないと理解していた。その上で己を支配するという侵食をどう食い止めるかが課題だった。そして自分の弱点ともいえる肉弾戦を避けるべく、サイネリアの禁術を破る必要があった。しかし入矢にはその暇が無い。ノワールにどうしても頼むことになる。だがノワールもまたサイネリアの攻撃に忙しい。
だから腕を渡した。直接二人の禁術攻撃を受けた腕なら術の構成が残っている。発動前に読んだり、発動後に考えたりすることもない。腕に残る禁力を解析すれば済む。入矢は最初からそのつもりだったのだ。だからノワールはナグアの攻撃によって入矢がいためつけられて相手が優位に立つのに浸っている間に解析を終えた。
「なるほどなぁ。すげーなぁ」
アランがそういうとハーンが言った。
「今度はお前の番なんだぞ? 感心している場合じゃない」
「まぁ、ランク2のゲームの高さはわかったけどよぉ」
とアランが言った瞬簡に、アナウンスの女が叫んだ。
『皆様がゲームに熱中している間にぃ、愚かな挑戦者がぁ、名乗りを上げていますわ』
会場がざわついていく。アランも何かと耳を済ませた。
『再びぃ、スリーコイン・ルールを宣言した愚かなペアをご紹介いたしまぁああす!!』
「え? マジで!」
アランはそう言って会場を眺めた。しかし、次の瞬間に己に光が当たる。
「え?」
スポットがアランとハーンを照らしていた。
『なんとぉ、黄色い虐殺者こと、ハーン・ラドクニフが新たなペアを得て、復活のゲームに、このスルーコインゲームを選びましたぁああ! 愚かな挑戦者の片割れはルーキー・アラン・パラケルススでぇす!!!』
「え? えええ? はぁああ?!!!」
アランは知らん顔で涼しげにしているハーンを睨んだ。
『挑戦者達のゲーム日程が決定いたしましたぁああ! 1週間後、再び同じ時間で、開催いたしまァああす!』
うぉーと観客が唸るのを別のことのように聞きながらアランは笑うハーンを見ていた。
「ちょ、待て。お前どういうこと??」
ノワールが当惑するアランとハーンをちらりと眺め、微笑んで消えていった。
『それでは、皆様今宵の勝者・ノワールと入矢に今一度盛大な拍手を! そして来週の同じ時間に、新たなる愚か者の挑戦を、楽しみにしましょう!!』
周囲の観客が頑張れよ、兄ちゃんとか言って消えていく。ハーンは周囲に人がいなくなってようやくアランに言った。
「まぁ、一言。勝手に申し込んで悪かった、と思う」
「思うだけかよ」
アランはふてくされて言い切った。
「スリーコインゲームは特殊なゲームってことはわかっただろ?」
ハーンの言葉に頷くアラン。
「スリーコイン・ルールが発動された試合の1週間以内に違うペアがスリーコインゲームを宣言すると、前のゲームで出場したペアは参加資格を失う。こういうルールがあるんだ」
つまり、ノワールと入矢が戦った、爆殺双児のツイン、青い地獄のツイン、無形の女帝のツインは絶対にハーンと戦うことは無いのだ。
「すると確立はすでに10分の7に減る」
残りの7組のペアだけを考えればいいのだから、そうなる。
「どうして、そんなルールがあるんだよ」
「普通のゲームでも1週間は次のゲーム日程が組まれないだろ? それと一緒で負けた場合、傷を癒す期間が設けられてるんだよ。まぁ、歌い鳥は瞬殺、青い地獄は半殺し、無形の女帝も即死を考えれば、おれ達のゲームでも復活する可能性はないけどな」
「ハーンはそれだけで申し込んだのか? 俺の実力も考えずに?」
「いいか、よく考えろ。ランク2のゲームをクリアするにはスリーコインゲームに挑戦しなければいけない。しなければ永遠とゲームを積み重ねていかなければならないんだ。その暇があるのか? 誰もが挑戦したがらないゲームにノワールと入矢は挑戦した。己の勝率を上げる為に考える対戦カードが少なくなるのは貴重なんだ」
ハーンは続ける。
「今やろうが、後でやろうが一緒なら今挑戦して、負けたときはそれでいい」
確かにハーンはあの十指に名を連ねていたのだから、挑戦してもいいだろう。しかしアランは、そうではないと己がわかっている。
「俺はソニークと組んでいたとき、絶対に勝てないと踏んでいたのは無形の女帝だった。あの女の禁術、禁術無効化がやっかいだったからだ。だからノワールとの対戦に彼女が組み込むなら俺は宣言をするつもりだった」
相性が悪いのだという。
「まぁ、不安がるな。ハートの女王に投げられたり、禁世に落とされたりしたお前だ、そうそうやられたりしねーよ」
ハーンは笑った。アランは根拠は無いが、その笑みに大丈夫な気がしてくる。
「は! しょうがねー」
「そうそう。それに気にするな。3回戦のうち、初戦は、一発で、エンド!」
「へ?」
その自信がどこからくるのかと、アランは逆に笑うしかない。
「『黄色い虐殺者』、お前に見せてやんよ」
ハーンが強く言い切った。
静かに緑色の目が開く。
「目は覚めたかい?」
「ノワール」
禁じられた遊びの控え室で入矢は目が覚めた。体に残るダメージは無い。無残に食い破られた喉も、引き裂かれた胸も失った腕も何もかも元通り。
「何か指示は、あったか?」
ノワールは首を振る。そう、ランク2をクリアした二人だが特に主催者側から指示は無い。
「おそらく、自分で見つけよ。ってことだろうね」
「自分で第一階層に、行けって?」
身軽にベッドから飛び降りて入矢は肩をすくめた。
「まぁ……」
ノワールの先を入矢も思う。
「……チェシャ猫?」
そこは案内人に頼むのが一番だろう。
「にしても、アイツ、いらねぇときにはいるのにこういう時に限っていやしねぇ」
「第一階層に行く為には、猫探しから、ってことかもね」
二人は笑いあった。入矢は己の身体の調子を確かめ、普段どおりに動くことを確認した。
「はい、君の」
ノワールは入矢の望むものを渡す。入矢は黙ってそれを受け取り、青い地獄戦で中途半端に失った髪の毛を整えた。真紅の髪が肩より少し長い位置で整えられる。
「短くしなくていいのかい?」
「最近望まずに長いことが多かったからね、慣れちゃったんだよ。あってこまることはないだろうさ」
無造作に一つに括り、入矢は普段どおり、黒に緑のラインが入った奴隷服を着用する。ノワールが用意した武器を衣服のいずこかに隠し、ノワールに言った。
「行こうぜ」
「ああ」
ノワールはただ入矢が寝ている間に何もしなかったわけでもない。第一階層に行く為の準備は全て済ませてきた。入矢もそれをわかっている。目覚めたらすぐに行くことが二人の中では決定していた。
「にしてもさ、チェシャ猫ってどうやって会うんだ?」
入矢が尋ねる。そう、チェシャ猫はいつも自分が必要としたときや、どうでもいいとき、勝手に現れる。神出鬼没。しかしそれが当然だからこそ誰も不思議に思わなかったのだ。
「そういえばそうだな。いつも、勝手に現れるんだ」
「チェシャ猫の住処とかって知っているヤツいる?」
「聞いたこと無いな、そういえば」
考えれば考えるほどチェシャ猫はなぞに包まれている。いるときはさも当然のようにすべての事象に首を突っ込み、かき回し、悪戯に片方に味方をしては去っていく。入矢の願いを聞き、ノワールを禁世から取り戻してくれた。
「……その道は、その道に聞くのが一番か」
ノワールはそう言って、頷いた。
「第三階層に降りるぞ、入矢」
「ああ、イモムシ!」
アランはハーンによって十指の残りのペアのゲームを見ていた。確かに鮮やかな手並みだったり素晴らしい身体能力のものばかりだ。
「こいつは、俺がいなくなってから十指に入ったから知らないな」
ハーンがそういうのは、若い二人の男のペアだった。
「『藤色の雨滴』……ガトー・ヴァスカンティ」
アランは静かにその名を呼ぶ。
「『淡色の殺意』、ルヴァ・ルヴェーデンドゥーのペア」
ハーンが厳しく見ている。己が知らない。それは予測不能なゲームを表し、ハーンが警戒をそれだけしなければならないということだ。
「覚えるくらい、穴の開くくらいゲームを見続けろ。そしてどうやって己の力だけで勝つか、考えてシミュレーションしろ。お前には入矢のような速さも跳躍力も、根性も、そして血の繋がりも無い」
「俺とお前で血約を結んだら、どうなる?」
アランはふっと聞いた。過去入矢と結ぼうとしたことがある。入矢は拒絶した。恐ろしさがわかっていないとも言った。だがノワールと入矢を見る限り恐ろしさはあまり感じられない。便利な契約に見える。
「やめとけ。少なくとも俺は認めない」
「どうしてだ?」
「血約が最も重く、そして恐ろしいのは禁世を通すとかそういうことじゃない。契約の本質が、人間としてあるには異質なものだからだ」
血約が便利そうに見えて使うやつがあまりいないのがその証拠。
「……意味が、わからない」
「そうだろうさ。血約の本質を見ず、表面だけなでているなら、な」
ハーンはそう言う。そして語った。
「血約は簡単に言えば、個を無くし、二つを一つにする禁術。血約の果てに待っているものは、個の喪失。そして二人の人間に一つの命。そういうことなんだよ」
ハーンはそう言ってどこからか電子データをもってきた。
「『ドマルゾ・アヴェンディ博士の論文。血約とは簡単に二つを一つにする禁術であることが我々の研究結果によって判明した。
そもそも血約の起源には不明なものが多く、一般的には一人の永遠の命を願った禁術のマスターによって生み出されたものという認識がされている。誰が、何の為に開発したのかはわからないが、この禁術は使用に値するにはあまりに危険度が高く、人間のためにならない。
この結果を我々は100組のペアに血約を結ばせ、5通りの実験を行い経過観察を行うことで得られた。いかにその実験手順と経過観察を記す。中略。
以上の結果から、血約における奴隷、支配者という認識は間違っている。血約はお互いがお互いの存在をそれぞれ身体、精神両側から近づき、溝を埋めていく過程である。奴隷側とされた者は己の精神の壁を崩し、相手に触れさせることで相手と精神をリンクさせていく。そして支配者側は血液という遺伝情報や身体的情報を相手に摂取させることで、身体側の個、壁をなくしていく。
血約は結んだだけでは効果はあまり無いが、血液の摂取を繰り返すことにより、身体的な溝は薄まっていく。晩年には二人が二人の身体を自由に己の身体のように操ることさえ可能になる。また、精神側はショック状態やパニック状態、または性交によって深まっていく場合が多く、これも晩年には二人の思考が完全に同じものになることがわかった。
段階的に言葉を解さず、触れ合うだけで互いの思考が理解できたら、相手の意思と関係なく相手の身体を支配できるようになり、果てには二人の人間が完全に一人の人間になってしまう。以下略』わかったか?」
ハーンの膨大な朗読についてくのが必死だったアランだが、信じられなかった。
「一人の人間になっちゃう禁術?」
「簡単に言うとな。つまり俺とお前が禁術を結んじゃったりするとだ、いつしか俺とお前は同じ事を考え、俺がお前という認識もできなくなり、俺はお前、お前は俺なんていうファンタジーな関係になってしまうわけ」
アランは思った。そんなことを聞けば確かに恐ろしい。どうして入矢はそんな禁術をノワールと結んだんだろう。その危険を知っていたのだろうか。いや、二人の様子からすれば知っているだろう。では、二人は一つになっても構わない、そういうことなのだろうか。
「どうして……?」
「あのな、ノワールと入矢のことは二人に訊け」
ハーンがあきれたようにいった。
「で、本題だけど、この二人、血約結んでいるらしいから」
藤色の雨滴と淡色の殺意のペアだ。
「じゃ、入矢みたいに……」
「そう、殺しても動くし復活に限りないわけ」
「それは強敵だ!」
「そう。お前、前回の入矢の映像見とけ。あんなのと最悪戦うことになる。あんなんで動いたらもう、化け物だから。確実なのは首落とすことだな。人間の構造上、脳と脊髄が離れれば動けないから」
だから入矢は毎回首を落としてきたのだろう。確実に息の根を止めるために。
「わかった」
アランは入矢を仮想敵として、ゲームを見返し始めた。
そこは寂れた教会だった。ぼろぼろになった壁、折れ曲がった柵、色がくすんだ屋根。鈍い光を弱く放つ、十字架。
古臭い扉を開ける。薄暗い中に曇ったステンドグラスからもれる光が祭壇を照らしている。色あせた赤茶色の、もとは豪勢な赤い色だった絨毯は、ほつれたり破れたりしているが、祭壇から入り口まで延びている。
祭壇からの段差があまりない階段にところどころにある茶色というかどす黒いシミが広がっている。両側に整列する木の椅子も、もうくたびれて座れそうも無い。
「よォこそ、お二人さん」
階段の上で寝転んでいた影がゆっくり起き上がった。
「お前らは、間に合ったなァ」
口には笑み。緩やかに動く尻尾は紫と黒の縞模様。
「第一階層に案内を頼みたい、いいか?」
「もちろん。それが俺の仕事だからなァ」
チェシャ猫が紫色の目を光らせて、手を二人に差し伸べた。