毒薬試飲会 028

065

「ハーン、ハーン。イかして、イかせてくれよぉ」
 強く刺激を受けて口からはいつの間にか涎が垂れている。懇願に近いその訴えをハーンは聴こえないふりで、性器への刺激を止めるどころかますますエスカレートさせる。薄いその唇でアラン自身を挟みこみ、時折軽く歯を立てて、アランを頂上まで責め立てる。
「ひうっ、あ、あは、ん」
 アランがハーンの肩に爪を立てた。
「いてて」
 ハーンがそう笑い、そしてアランの肉茎を握り、そのまま先端の雫を結ぶその先にぎりっと爪をめり込ませる。
「ひぃあああ!!」
「だぁーめ」
 一番の直接的な刺激にアランの目が見開かれる。そのまま仰け反って射精するかと思ったが、どうもそうはならない。ハーンが反対の手で自身を握り、せき止めていたからだ。それに気付いたアランが、揺れる瞳でハーンを見る。
「な……で? はーン?」
 息も絶え絶えに問いかけるアランにハーンは何も返さない。ただ笑うのみだ。
 ハーンはそのまま、片手でアラン自身を戒め続け、もう片方の手の指をアランの口に突っ込んだ。そのまま、アランの舌を掴むように指を動かされる。
「あぁ、う」
 急速に口の中を暴かれて、アランの後頭部が落ち込んだ。指で舌を愛撫するかのようにハーンが舌を撫でる。舌を撫でられるというのも初体験だが、もう媚薬のせいなのか、ハーンの刺激に対してなのか、なんでも感じてしまう。
「そう、上手。もっと舐めて。ねぶって。丹念にな」
 ハーンが生徒を褒めるかのように微笑みながら言う。アランはわけもわからないまま。ハーンの指を吸い、舐めて行く。
「ん。もういい」
 ハーンはアランの唾液でてろてろに濡れ光る指を、まるで執刀医のように掲げて見せる。
「?」
 この隙に呼吸を整えながらアランはハーンの笑みを眺めている。そんな最中も己はハーンに戒められて熱が出ようとして戻り、アランにゆるく、熱い拷問を強いる。
「ほら、脚を開けって」
「はっ!!?」
 アランが信じられない目でハーンを見るが、ハーンは当然だろと言いたげにアランを見返す。
「おいおい。男同士でどこを使うか、お前が前に俺に実践したんだろ?」
「や、だって! ……あの、時はっっ……!」
 恥ずかしさにアランの顔が赤くなり、視線は彷徨う。ハーンは悠然と微笑んでアランを見下し、そうして告げた。
「このままだと、お前、ずっとこのままだぞ? お前が脚を開いて秘部を見せつけるまで、俺はお前をイかさないからな」
「ちょっ、そんな!」
「さぁ? どうすんだ? せっかくアランが舐めて濡らしたのに、乾いてきちゃうぞー? そしたら痛い思いするの、お前だからな」
 どうして指をなめろと言ったのか、今更思い至る。
「ちょ、おまっ! え、ええ?」
 目を白黒させてアランはハーンを見上げるが、ハーンは至って普通ですと言わんばかりだ。
 アランは選択を迫られる。自身を人質とはいわないが、それを盾に自ら行為をねだり、堕ちて来いとささやかれている。その先にはアランにとっては未知の快楽が、それも引き返せない道への入り口へ自ら来いと誘われる。
「くっ! ……うぅう……ハーン」
「泣きそうな顔してもダメ。それ、煽ってるだけだからな」
「ハーン!!」
 ハーンはにやにやしながらアランを見ているだけだ。……ぜってー、こいつ愉しんでる!!
 そろり、と。
 アランはいつ脱がされて下半身が裸にされたかも覚えていないことをいまさら自覚した。だが、そんなことはもう言っていられない。日に焼けていない部分が多い、白い内股がハーンの眼前にさらされる。ゆっくりとそれこそハーンを焦らすようにアランの内股がゆっくり開かれる。そのまた間には先走りを滴らせる花茎がそり立っている。まるで触れて下さい、と言わんばかりの誘惑の様。
「よくできました」
 ハーンは笑うと、その長く節くれだった男にしては白い指をアランの秘部にそっと触れ、添えて、アランの瞳を覗き込んだ。
「ハーン?」
 ハーンは不安げにするアランに気を紛らわせるかのようにして軽い口づけを一つ。
「ンんぅ!??」
 ハーンの中指がアランの中に押し進められる。わかってはいたが、身構えていたせいか、ハーンの指は最後まで入っていない。
「よしよし。こわくない、こわくないぞ」
 そのまま唇を触れ合わせたまま囁かれる。アランの目から涙が一つこぼれる。
「ほんと?」
「ああ。さ、大きく息を吸ってみな」
「すーっ」
「そう。で、吐いてみな」
「はーっ、はっ、はぁ」
「そうそう。その調子。吸って、吐いて」
 まるで気分の悪い人か妊婦を相手にするかのように深呼吸を促すハーン。
「上手い、その調子。続けな」
 ハーンの言葉に従い、深呼吸を繰り返すうち、力が抜けたと知れるや否や、ハーンは指をぐっと奥まで推し進めた。
「ひっ!」
 アランが再び力むが指が最後まで入ったハーンは指を中で動かす。その動きに従ってアランの悲鳴が短く響き、身体が硬直する。
「偉いぞ、アラン。指、最後まで入った。ホラ、感じてみろ」
 くん、と軽く第一関節を曲げた程度だろうが、アランにとってはそれがダイレクトに伝わって、身を折ろうとしてできない。締め付けてしまい、余計ハーンの指を感じる。どうしたらいいのかわからない。
 くちゃ、ぐちゅ、と粘液質な音が己の体内を通してアランに伝わる。アランは不愉快だったその指の動きに次第に慣れ、不思議な気分になっていた。もともと媚薬が入っているのだ。どんな動きでも快楽になってしまう。ハーンに言うほど気持ち悪いわけでも痛くもなかった。
「お? 慣れてきたな」
「でも、へんな、かんじ」
「もうちっと待っとけ。探ってやるから」
 ハーンはそう言って笑う。
「あ! ン!」
 アランが体内で増した指に呻く。ハーンは指をもう一本増やし、アランの体内で自在に動き回る。ゆるく、痒くもない場所をくすぐるように、無理にでも刺激に反応させるかのように。
 ハーンはアランの後口を探りながら首筋に、胸板に口づけを落として行く。
「ひっ、あ、ハーン」
 時には舌が緩やかな動きをし、アランを快感の渦にまたひき戻して行く。そうしているうちにアランの体内に埋め込まれた指は三本へと数を増やす。
「さぁて、アラン君が慣れたところで、本格的にいきますよ、っと!」
「ああぁっ」
 語尾に勢いを付けて、そのまま指がぐりっと内壁を強く削る。腸内をかき混ぜようと言うかのような大雑把な動きだがそれだけ刺激も強い。しかもアランはハーンに堰き止められて達していないのだ。媚薬の効果も相まってそれは敏感に感じると言うものだろう。ハーンの動きに翻弄されてアランはひっきりなしに声を詰まらせ、吐息を吐きだすことしかできない。ハーンは内壁を抉り、掠め、強弱をつけてアランに甘い、そして時には強烈な快感を与え続ける。
「そろそろ気持ち良くなってきただろう?」
 ハーンが問いかけるが、初めての後ろを使っての快感にアランは答える余裕を持てずにいた。
 が、しかし――。
「ひぁああん!」
 アランが突如仰け反って目を白黒させる。
「お! 見ぃつけた」
 ハーンが嬉しそうに言って、アランが叫んだ箇所をしつこく押しつぶすように刺激する。その度にアランはまな板の鯉の様にびくん、びくんと痙攣した。
 その場所を刺激されると、視界が真っ白に染まる。頭のどこかでこれが前立腺と思考がかすめるものの、極度の快感にそれさえぐずぐずに溶かされるように、かき消されるように流れ、消えて行く。
 堰きとめられた己が、圧迫感を増してアランに一つのことだけを要求する。熱は中途半端にめぐり、出口を求めてアランをさいなむ。
「じゃ、アラン、覚悟はいいな?」
「ふぇ? ……な、んの?」
「一つになる。お前と繋がりたい。いいか?」
 指は動きを止め、そしてハーンがアランを覗き込んで了承を取る。こんな時だからこそ、早急に勧めてもよさそうなものだが、アランとの初めてをハーンは大事にしてくれているのだ。思考がもう熱に浮かされてふわふわしてなにもまともに考えられない。だが、ハーンの涼やかな青い瞳だけがアランにはすべてを解決し、叶えてくれるように思えた。
「うん」
 幼子の様に、ただ頷くのみ。たったそれだけ。だが、
 ――ハーンはほころぶように満面の笑みを浮かべて見せた。
「ありがと」
 そしてまるで火が触れたとも言わんばかりの熱さが触れた――。
「っ!!」
「いくぞーっと」
 言葉は軽い調子なのに、ズンと熱い塊がアランを内側から割るのではないかという勢いで入って来た。その侵入に、反射的に力を込めてしまう。息が詰まる。なにか重い物が伸しかかってくるような気がしてアランは急に暗闇に取り残された気分になって、不安に突き落とされた。
「アラン」
 軽く頬を叩かれ、ハーンが声を掛ける。おかげでふっと意識が浮上した。光が差したように、見えるのはハーンの涼やかな瞳とやわらかな顔だけだ。
「悪いな。ちと頑張れ」
 安心させるようにアランに口づけを落としながらハーンが言う。
「全部入ったら、少しはましになるからさ」
 笑いながらハーンはそう言って力押しと言わんばかりに急性に進められる。ぐっと力強くハーンが入ってくる。
「お、鬼ぃー!」
 アランは泣きながら叫んだ。ハーンは笑っている。
 その熱が、熱さがそのものがハーンで。熱くてたまらない行為だからこそ、愛おしい。
「あああああ」
「はい、入った。よしよし、よく頑張った」
 全てを収めたハーンが言葉通りアランを撫でて、一呼吸着かせる。
「はいった? つながった、のか? お前と?」
「そう。感じるだろ?」
「うん。あちー」
「俺もだ。お前の中、熱い。熱くて、イイ」
 ハーンがそう囁いて、アランに口づける。舌を絡ませてそれももう、不自然さはない。快感を求めるだけの行為に変わる。
 ――アランとハーンの間の関係が一つ、先に進んだ。
「なー、そろそろ動いていい?」
「ああ。来い、よ」
 アランもようやく涙をにじませた顔で笑った。
「よく言った」
 ハーンはそう言うと禁術を一回発動させた。そして、アラン自身を戒める拘束具を生成し、アランに己の手の代わりに装着する。
「え? まだ開放してくんねーの?」
「もうちっとな。その代わりすんげーイイ思いさしてやんよ」
 ハーンはそう言うと、アランの腰を両手でつかみ、思いっきり腰を打ちつけてきた。
「あぁっ! はっ、んン……ふ」
 ハーンがアランの中を穿つ度に、アランから甲高い嬌声が漏れる。腸壁とハーンの熱い塊が擦れるだけでじわりと、摩擦熱を生み、快感が増して行く。
「あ、ああ! も、もう、だめだ! ハーン、ハーンっっ!!」
 快感に喘ぐ。気持ちが付いていかないくらいに高みに上り詰めると言うよりかは追い上げられる。
 だた、ただただ気持ちよくて、泣いて叫んで、そして請う。
「ハーン! ハーン!」
「ああ!」
 ハーンが応えてくれる。それだけで、嬉しくて。それからこれから来るであろう予感に期待してしまう。
「イかして! ハーン、おれ、も、だめだっからっ!」
「イけよ」
 ハーンが容赦なく前立腺を抉るように、強く、強く刺激する。その最後の一撃みたいなド直球の快感を何度も味わわされてアランはわけもわからなくなっていた。
「イけって! そのまま、イけ!」
 それなのに、アランの肉茎は解放されない。ずっと戒められたまま。
「うー、うーっ!」
 唸りながら己の解放を願い、アランが手を伸ばす。それをハーンが留めて、指を絡め、拘束する。
 それは、甘い拘束。だが、アランにとっては地獄にも等しい快感の地獄だ。
「ムリだってぇ! お願、ハーン」
「大丈夫だって」
 ハーンからも汗が滴り落ちる。肉と肉が、身体と身体が、そして心と快感がぶつかり合う。
「ほら! アラン」
 ハーンが押し込むように己を突き刺し、アランの腰に打ち据える。
「あ、ああ! おかしっ、く、なるぅ……!!」
「なれよっ!」
 激しい動きが互いを高めて行く。
「で、イっちまえ! アラン!!」
「ああああ!!」
 最後のひと押しで、ハーンが先にアランの中で弾ける。熱い血潮の如く、ハーンから思いも含めたものが出され、アランは知らず自然にすべて絞り取るような動きをしてしまい、そして己が脈打つのを感じた。
「いあぁああ!」
 仰け反ってひときわ高い声が出る。嬌声のそれは、一つの印。
「はっ、はっ、はっ」
「はぁ」
 アランは目を見開いて身体を震わせた後、それまでの激しい運動の後遺症の様に、身体を弛緩させた。ハーンもアランに覆いかぶさるような形で息を整えている。アランは目を半開きにしたまま、呆けていた。
「よく頑張った」
 ハーンがアランの頬をさらりと撫でて、そして軽い口づけを落とす。
「っ!」
 ハーンが己をアランがずるりと引き抜く。その感覚でアランが呻き、ようやく意識が戻って来た。
「なん、だったんだ? 今の」
 身体が未だに動かない。快感は過ぎ去ったが、射精した記憶がない。視線だけをハーンに向ける。
「まぁ、追々な。それより、だ」
 ハーンは己の身を清め、アランの身を軽く清めて服を元に戻す。アランは力が入らず、まだ熱が回っているような身体で一応座りこんだ。そういえば、思い出したくない現実を嫌でも思いだした。
 ――花々に見られていたんだった……。
「約束は果たしたぞ。さぁ、道を譲ってもらおうか」
「あなたを通す条件は、相手をイかせること」
 パンジーが言葉を引き取って続ける。
「彼の条件はあなたにイかされないこと」
 ハーンはにやりと笑う。
(いいか、射精してないんだからイかされていないって言い張れよ)
 禁じられた遊びのようにハーンの声が頭の中で響く。
「俺はイってない!」
 アランがようやくハーンの考えを理解して叫んだ。
「そうかもしれないわ。彼は射精していない」
 ヒナギクがそう言う。複数の花が頷いた。
「冗談じゃない! 俺はちゃんとイかせた! どう見てもドライオルガニズムだっただろう!!」
 ハーンがアランを指差して叫ぶ。
「それもそうね。熱いものだったわ」
 オニユリがそう言う。他の花も頷いた。ハーンはその間にアランの高ぶった熱を冷ますための禁術をアランに打ち込んだ。おかげでまともに思考が働く。どうやら媚薬も解毒してくれたようだ。
「俺はルールに従い、条件を守ったぞ」
 アランがそう言って、服を急いでちゃんと身に付けた。
「俺もだ」
 ハーンはルールに従い、ハーンがアランをイかせないように見せかけ、でもイったとも主張できるように一芝居打ったというわけだ。男でよかったと思う瞬間だ。男のイく、とは感覚を指すのか、射精を指すのか、指定しなかったことを逆手にとったわけである。成程、とアランは納得してしまう。――だが、心境は複雑すぎる。
「こういう場合はどうしましょう?」
 バラがオニユリを見、オニユリは肩をすくめ、初めて笑みを消した溜息を吐いた。
「どうやら、貴方がたの勝利の様ね。初めての敗北よ」
 オニユリとバラの決定は皆が従うようで、残念そうに花が溜息をつく。
「よろしい、どうぞお通りなさいな」
「どうも」
 ハーンは短く言うと、花たちの躰ともいう緑の部屋の一角がさーっと開く。複雑に絡み合っていた蔦や茎が解け、道が見えた。
「そういえば、俺の願い叶えてもらってないね」
 ハーンはそう言って振り返る。
「まぁ、呆れたお方」
 オニユリが笑いを消して大げさに言う。どうやら餌にならない客人には少しでもこの場所にいてほしくないらしい。あの歓迎ムードよりはこちらのように花たちが刺々しい方がアランにとっては安心する。
「どうぞ?」
 バラが諦めて言った。花たちが潔い性格でよかったと思うべきか。
「白ウサギの住処は何処にある?」
「白ウサギ?」
 花たちが不思議そうに顔を見合わせる。心底不思議そうな顔だ。
「何か御用なの?」
「いや、白ウサギ自身に用があるわけじゃないんだが、彼女の屋敷に用があると言うか……」
 ハーンがそう言って言葉を濁す。花たちは信用できる相手ではないから、本当の事を言うのを控えているのだろう。アランは腰の痛みが鎮痛剤で消されているとはいえ、違和感がぬぐえなくてしきりに腰を撫でている。
「まぁいいわ。関わり合いたくはないし」
 オニユリが呆れたというか、本当に興味のなさそうな顔つきで溜息をつく。
「白ウサギの屋敷はここから近いわよ。よかったわね」
 すると強烈な甘いにおいが瞬間的に流れた。アランとハーンが怪訝そうな顔で甘い蜜のにおいの元をたどるように視線を向ける。花たちが一斉に身を寄せ合い、天を向いている。
「説明が面倒だから道先案内人を呼んであげるわね」
「案内人?」
 もしやチェシャ猫か、と思ったがその人物は蜜のにおいにつられ、すぐにやって来た――バタパンである。
「お姉さま方、何か用?」
「あ、てめー!!」
 アランは恨みがましくバタパンを睨んだ。こいつの笑顔に騙されてついてきたばかりにこの食人花たちの相手をするはめになったのだ。
「ああ。無事だったの?」
 知れっと言う事からこの少年は花たちの相手をした者の末路を知っていたようだ。
「おかげさまで」
 アランは精一杯嫌味に聞こえるよう言うと、少年は朗らかに笑っただけだった。慣れているらしい。
「この殿方を白ウサギの屋敷まで連れてって上げて頂戴」
「白ウサギ?」
 心底不思議そうに少年が聞き返す。やはりまともではないのだろうか、彼女あの外見だし。この花たちも奇抜っちゃ、奇抜な格好だが花をモチーフにしていると思えば、全身緑や露出が激しいのも納得できる。
「あそこには変態しかうろついてないけどな」
 少年の言葉にハーンとアランが、え? という顔をする。白ウサギの格好は変態だが、そんな烙印を押される程の変態なのだろうか。

 少し白ウサギの屋敷を目的地にしたことを後悔しながら、ハーンとアランはとりあえず大きくなるために第一階層の入り口から内部へと踏み出す。何せ大きくなれなければ全てが大きすぎて、アランの夢見た空でさえ見えないのだから。

「ふん、ふふふ~ん、ふん、はぁ~ん」
 明るい空の元、唐突に現れる灰色のコンクリの固まり。よく見て、近づけばコンクリの固まりではなく何かの住居ということがわかる。生い茂る草木のど真ん中に立つ近代的なコンクリ製の住居の周囲で伸びる雑草を刈っているのは可憐な少女だった。
 鼻歌さえ明るく、ご機嫌なのかそれともその仕事が大好きなのか、とにかく楽しげだ。
「よォ」
 そこに何も現れていないのに、少年の独特の声が響く。すると少女はすっと立ち上がった。
「あらあらぁ?」
 少女が立ち上がり、振り返る頃には独特の紫色の尻尾がゆれ、チェシャ猫の姿が現れていた。
「おひさしぶりでございますぅ、チェシャ猫さまぁ」
 少女は腰まで伸びた真っ直ぐの白髪を翻らせ、チェシャ猫に抱きついた。勢い余ってチェシャ猫もろとも草の上に倒れこむ。
「えへへへ~」
「相変わらずトんでんなァ。ウサギは留守かァ? その様子だと」
 少女は抱きついたまま、チェシャ猫の肩口に顔をうずめ、においを嗅ぐように深く息を吸った。
「あぁ~~。ご主人様の香りが少し、本の少しされますぅ。いいな、いいなぁ」
「変態」
 チェシャ猫が切り捨てるように吐き捨てた。だが、顔は慣れたような諦めがある。
「下さいな、下さいなぁ」
 少女はそのままチェシャ猫の首筋に舌を這わせ、いつもより露出の多い服であるシャツの裾から手を侵入させた。
「ダメだァ」
 チェシャ猫はその手を拒むように掴む。少女が不満そうに唇を尖らせてチェシャ猫の目を覗き込んだ。
「なんでですぅ? いいじゃないですかぁ!」
「俺も自分のご主人さまの元に帰んなきゃいけねェからなァ。他人に手を出したら火傷モンだァ」
 少女は納得したくなさそうに不満げな顔をしていたが、チェシャ猫から身を起こし、腹の上からどいた。それにあわせてチェシャ猫も身を起こす。
「いねェならしょうがねェ。伝言頼めるなァ?」
「もちろんですともぉ」
 少女の目が輝く。その目は片方が明らかに義眼とわかる眼とは言えない何かが入っていた。
 チェシャ猫は少女の耳元に唇を寄せ、二、三言う。少女はくすくす笑いながら頷いた。
「じゃ、頼んだぜェ……」
 ニマニマ笑いながらチェシャ猫の姿が消えていく。
「   ――メアリアン」
 メアリアン、そう呼ばれた少女は優雅にチェシャ猫が消えた方を向いて一礼すると、思い出したかのように再び歌いながら雑草駆除の仕事に取り掛かった。藍色のメイド服は今日も動きを止める事を知らない――。