030
数日前。
ジルはビス殿下と共に共同作戦の詳細を詰め、後は機会を伺うだけとなったある日のことだった。
「閣下」
ジルタリアの兵士の声だった。ジルとビスは同時に反応する。
「不信な子供を捉えたのですが……。そのジル殿の妹君だと……」
ビスがジルを見、ジルはため息をついた。ジルタリアに着いた兄からヘリーがジルを追っているだろうという連絡が入ったばかりだっただけに、ため息しか出ない。
「通せ」
ビスの言葉に頷いて兵に一応両腕を縛られた状態で姿を現したのは白髪の小さな女の子だった。
「……ヘリー、俺は言ったぞ」
ジルの部下がヘリー様、とかヘリー陛下とか口々に呟くのを黙殺して、ジルがさすがに怒った口調で妹に言う。ビスは兵士に命じて拘束を解かせた。
「……ごめんなさい」
小さく謝ったヘリーに対し、ジルは視線を外すとビスを見た。
「申し訳ない、俺の妹です。のこのことくっついてきたようです。お荷物にしかならないのですが、今から追い返すことも出来ますまい。駐在を許していただけますか? 決してそちらに迷惑はかけません」
「なに、戦場まで兄を心配してくるとは優しい妹殿だ。巫女王の名は伊達ではない」
「そう言っていただければ幸いです。重ねて申し訳ない、少々お時間をいただけますか」
「なに、構わぬ。妹殿を、そちらの陣で休ませて差し上げるのがよかろう」
「ご配慮、痛み入ります」
ジルはそう言って頭を下げると部下に一声掛け、ヘリーの腕を引いた。シャイデというか、ジルが張った陣にヘリーを連れ込むまでジルはヘリーの方を向きもせず、さすがに怒っているようだった。自陣に残っていた部下もヘリーの姿を見て、軽く驚いている。それを視線で押さえて、ヘリーを自分のスペースまで案内する。
「キアから連絡がきた。キアもすごい怒っていたぞ。今度ばかりは勝手が過ぎただろう」
「だって……」
「だってじゃない。何かあったらどうする? いくらお前が半人の王とはいえ、戦いも経験していない幼い女の子なんだぞ。自分の身になにかあったらどうする?」
ジルが腕を組んで、なれない説教をするくらい、無謀なことをしたということである。
「仮に身を護れたとして、心配するとは思わなかったのか? キアが、ハーキが、俺が」
ヘリーはうなだれるが、視線を下げたりしない。
「それにお前はまだ子供だけど、シャイデの王なんだぞ。お前に何かあったら、俺ら兄弟は王じゃなくなる。そこのところ、わかって行動したんだろうな?」
ハーキもキアもまだヘリーに王の自覚を持ってもらおうなどとは思っていない。それはそれが許される安全な場所で学んでもらおうと考えているからだ。シャイデの王の交代は四人の王のうち誰かが一人でも死んだら行われる。別に王になりたかったわけではないが、なった以上責任は果たして交代する予定だ。
「うん。わかってる」
「いいや、わかってない。わかっていたらこんなことはできないはずだ。お前と俺とは基本的な能力が違う。俺は生まれてからずっとルルと一緒に世界傭兵をやって、死線を何度も潜ったし、大人とも戦った。こんな俺でも半人前、こんな俺でも自分の実力を知っているつもりだ。でもお前は違う。戦ったことはないし、大人とまともに交渉なんて真似もしていない。いいか、これははっきり言って俺やキアへの迷惑行為だ」
ハーキが怒るときは、烈火のごとく怒り、最後にちゃんと反省すると許してくれる。キアは怒ると諭すように、突き放すように、冷静に静かに怒られる。ジルが怒ると、許してもらうまで時間がかかる。ジルは怒ると何で怒っているかヘリーがわかるまで説明してくれる。でも、反省してもそれが身につくまで許してはくれない。
「それに、さっき俺と話していた方はジルタリアで行方不明中のビス殿下だ。この作戦でビス殿下の参加は本国のジルタリアの新王、フィスにも内密にしてある。お前は俺がいるだけでのこのこ着いてきた。だけど、本当はこういうことがある。お前がもしうっかりそれをばらしてしまったりしたら本作戦は失敗だ。お前が来たことで部下の命を落とす事だってあるんだぞ。離れた俺が何をしているかなんてお前には予測できないはずだし、それによってお前が取る行動が俺達の何の不利益になるかもお前にはわからない、そうだろう?」
「うん」
「陛下、そこまでになさっては? ヘリー姫もお疲れでしょう?」
見かねた部下がそう言って暖かなスープを持ってきてくれる。ジルはため息をついた。
「お前が来れば、こいつはこういう“親切”をしてくれる。だけど、こいつがそれをしてくれるこの時間、お前がこなければこのスープを飲んでいたのはこいつかもしれない。お前は俺の妹だから、こういう待遇を受けられる。だが、それによって何を犠牲にしてその行為が成り立つのか、よく考えろ」
ジルはそう言ってヘリーの前から歩み去った。泣くまい、としていた涙が零れる。だけど決して声は立てない。意地でも。下を向いて、唇を噛みしめて、ヘリーは静かに涙を流す。
「心配なさったのですよ、陛下は」
泣いているヘリーを撫でて、スープを手渡す。ヘリーは泣き止めず、ただ頷いた。
「今宵はもうお休みになられた方が良いでしょう。陛下はビス殿下と話しておかねばならぬことがたくさんあるのです。こちらは陛下のスペースですから、ご自由にお使いください。足りないものがあれば近くのものにお申し付けください」
ジルが激しく怒った手前、慰めることはせず、甘えも受け付けぬ態度で部下が去っていった。
ヘリーは言いたいことがあった。ジルに。だけど一つも言えなかった。確かに怒らせたかも、考えなしだったかも。でもあんなに怒るとも思ってなかったし。わかっている。
涙がスープの中に落ちて、液面に映っていた泣き顔が歪む。一口飲んだ。しょっぱい、涙の味かと思った。
ラトリア軍によって攻撃を受けた禁踏区域は大混乱に陥っていた。里が暴かれ、襲われた直後だったために混乱は頂点に達していた。誰もが『鳴いて』、そして己のエレメントを用いて『転移』を始めていた。パニックに襲われた宝人たちは誰もが我先に逃げ惑い始め、その混乱の最中、楓はテラの手を握ってセダたちと合流しようとしていた。
「セダたちはあっちで別れたけれど……今はどこにいるのかしら」
「わからない。僕もここに来たのは初めてだし」
様々なエレメントが入り乱れ、今にも爆発を起こしそうなほど、宝人たちがエレメントを制御できていないのも気にかかる。テラには見えていないが、火のエレメントがあればきっと発火を起こしていそうだ。
「向こうも探しているかも」
「にしても、ラトリアの旗印? ラトリアが攻めてきてるって……」
目のいいテラには遠くで暴れている人間の纏う鎧についているマークまで見える。そしてかなりの遠くから宝人を捕らえようとしている兵へけん制の意味を込めて矢を放っている。
その隙をついて宝人たちは『転移』を繰り返す。宝人たちのパニック様は半端なく、互いに助け合う心を忘れているかのように我先に逃げている。よってエレメントを上手く使いこなせない子供の宝人は走って人間のように逃げている。しかしそれも限界があって、人間に捕まってしまった子も多くいるようだ。
楓は意を決したのか、炎を使って兵士を遠ざけている。そんなことをしながら移動していた二人だが、ついにテラの矢が尽き、楓の炎しか頼れなくなった。
「ねぇ、楓。あっちの方向って何があるの?」
テラが指差す方向は禁踏区域の中心、集会場だ。
「……詳しく知らないけど、集会場があるって」
兵は宝人に攻撃をしながらそこを目指しているようだ。そこに里長でもいるのだろうか。
「里長のおばあちゃん、さっきまで私らと一緒にいたわよね。まぁ、知らないのかな」
トップに脅しでもかけるつもりなのか、と不思議がっていると、その里長である留美と呼ばれた老婆が老体に鞭打ってその場所へ向かっている。
「あ」
楓とテラは留美の尋常じゃない様子に驚いて、駆け出す。
「そなたらは何をしているかわかっておるのか! この人間共め!!」
留美に続いていたのか老人の宝人たちがラトリア兵に立ちふさがるかのように立ちはだかる。
「この場所に立ち入ることは宝人でも許されぬ!! 去れ!!」
エレメントで追い払おうとした瞬間、容赦ないラトリア兵による攻撃が老人達の身体を吹っ飛ばした。壁のように立ちふさがっていた老人たちは脇に投げ飛ばされ、ラトリア兵が集会所に入っていく。
「あいつらぁ~~!!」
テラが怒って楓とともに狼藉を働いた兵士を追おうとしたとき、それは起こった――!!
――アアアアアアア
――イアァアアアア
――キィィイイイ
獣の声に近い、その音は今や禁踏区域の全ての場所から響いていた。それに釣られたのか、それとも宝人自体が発しているのか、その音は集会場を中心にまるで輪を描いたように響く。
テラは驚いて辺りを見渡す。うめきながらも逃げようとしていた宝人たちが、今や呆然と立ち尽くしている。
その顔は一切の表情が抜け落ちて、ただ虚空を見上げている。口が半開きのまま、その音を共鳴させて、揺らし、響かせ大きくなっていく。音によるうねりが、人間であるテラにとっては怖くてたまらないものに思え、思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。
「なんなの!!?」
叫ぶが、誰も答えを返さない。楓を見るが、楓も同じ様子で我を無くし、虚空を見つめている。テラの周りの宝人誰もが同じポーズで、そして悲鳴のような絶叫のような声だけが大きくなっていく。
「楓?」
思わず楓の肩を揺するが反応は無い。そして、その音は始まったときと同様に突然止まった。虚空を見上げていただけの宝人の無機な目がいっせいに集会場に向く。テラは自分が見られているわけでもないのにその光景にぞっとした。
顔にはそれぞれの個性があって、別人であることだってわかる宝人たちが感情をなくした目で、操られた人形のようにいっせいに同じ動作を行っている。瞬きさえせず、集会場を見つめて離さない。
「どうしちゃったの……?」
不安でたまらない。こういうときにセダがいてくれたら……。
「ったく、なんだ、あの音は!」
悪態をつきながら押し入っていたラトリアの兵士達が集会場から出てきた。兵士達も自分たちを見ているとしか思えない様子の宝人たちの異様な雰囲気に圧倒され、一歩下がる。
「な、なんだよ、てめぇら!」
言い返す声にも怯えが混じっている。それに対する宝人の返答はない。無機な目がただ無感情に見つめるのみ。そして、次の瞬間集会場ごと、人間たちの集団が消えた―ようにテラには少なくとも見えた。細かく描写するなら、土は盛り上がり、裂け、水が襲い掛かり、人間の内部から破裂したように見えた。風は見えない透明な刃を向け、闇が集まったと思えば光が集まって、ちらりと炎が覗いた。一瞬で六色の色が駆け抜け、すべてのエレメントが集まり、そして跡には集会場ごと何もなくなっていた。
「……っ!!」
テラは怖くて、腰が抜けてしまった。よく見ると集会場は地下に何かがあったようで地面に空間がある。そこには岩の塊のようなものがあったようだが、おそらく先ほどのラトリア兵の仕業でその岩の塊のようなものが砕けているのだけがわかった。異常なのは、集会場さえ形も残っていないのにその岩の塊だけ残骸が残っていることだろう。あれは、なんだろうか。答えを与えてくれる宝人たちはみな狂ったようにその岩の塊のようなものの残骸を見つめている。
「な!! 貴様ら!!」
禁踏区域のほかの場所から集まってきたのか、数人の宝人を捕まえたラトリアの兵士達が呆然としている宝人たちを見て、何かを感じ取ったのだろう。もしくはこの場所の攻撃を命じられていたのかもしれない。
『イィィィィ』
捕まっていた宝人たちも同様に我を失っている様子だったが、無表情のまま、獣のような声を出した。それに反応したのか、一斉に宝人の目が新たにやってきたラトリア兵の集団に向く。それは機械のように恐ろしいほどに揃った動きと同じ顔で、ラトリア兵もぞっとしたのか、じりっと下がる。
無晶石で拘束された宝人たちも同じように人間を見ている。今度はテラにもはっきり見えた。宝人たちそれぞれが守護するエレメントが勝手に動き出したかのように身体から溢れ、あるいは足元から動き、人間に向かって攻撃を加えようと暴走しているように見えた。
そう、意思が感じられないのに、怖いほどにエレメントそのものから“怒り”を感じる。
――怒りとは、すなわち激情を司るエレメントといえば……!
「楓!!」
テラが叫んだ。楓の感情が抜け落ちた瞳がテラを捉える。怖い、あんなに怖いけれど、テラはまっすぐ楓の目を見つめ返した。
“テラ”
楓は口を開いていない。なのに頭の中に響くように楓の声が聞こえる。
“手伝ってくれるよね”
無表情なまま差し出される手。テラは楓の目を見つめたまま、首を振った。契約紋が刻まれた右腕が勝手に楓の手を取ろうと動くのを、テラは左腕で必死に止めた。楓の髪から火の粉が舞い始める。
「だめだよ、楓。だめ、それはだめだよ!」
楓の目が感情を映していないのに、宝人全ての怒りを映したかのように赤く染まっていく。
「ふざけてんじゃねーぞ! こっちくんじゃねー! こいつがどうなってもいいのかよ!!」
怯え、逆上したラトリア兵が宝人の子供を盾に叫ぶ。子供の宝人が獣のように甲高く鳴き、楓の目も、宝人たちの目も一斉にそちらを見た。
――その瞬間、火柱が空を赤く燃やした。
天高く、そして水の大陸のどこからでも見えたであろう赤い空と大地を繋ぎとめた炎の柱。
それは徐々にただの火柱、炎の塊からあるものの姿を取り始めた。太いただの炎だったものが、分かれ、木の幹のように三本に天に伸びたかと思えば、大地から湧き上がる炎も木の根のように二本に分かれた。
天に伸びた中心の一本は短く、他の二本はばらばらに動くことを覚え、大地の二本は前後にそれは歩く動作のように動き出す。
その姿は――まるで、炎の巨人。