モグトワールの遺跡 011

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 子供である光もいるし、出たのが昼過ぎと言うこともあって、一行は近隣の村で一晩休んだ後、翌日にモグトワールの遺跡があった場所にたどり着いた。
「ここ……かぁ」
 セダが思わず言ってしまうほど何もない。地平線まで見渡せそうな広大な草原が広がっている。空は青く高く風が少し強い。青々とした草が光達の隠れ里があった場所ほどではないが自由に伸び、風に寄る音を奏でていた。そこにまるでいたずらの様に石柱だったものが垂直に、あるものは斜めに立っている。全部で六本。その柱の周りに建物の壁や床であっただろう大きめの石材が転がっている。それだけだ。遺跡に相応しい壊れ具合。
「じゃ、行きましょ」
 ハーキがそのまま歩みを止めずに入口と言われた丁度柱だったものが2本立っている場所の間に行く。一行もそれに続いた。ハーキは何もないとは露とも持っていない堂々とした様子で歩いていく。そして、ハーキが柱の間を通り抜けた瞬間、ハーキの姿が消えた。
「ええ?!!」
 驚いて思わず足を止めてしまう。
「こういう、ことなのでしょうか?」
 ヌグファが恐る恐る言った。――泉の上に立つようなものなのです。ブランの声がよみがえる。
「ちなみに、愚問かもしれないけれど宝人は私達とは違って魔神を信じているのよね?」
 リュミィが代表して応える。
「信じる信じないというものではなく、いる……としか申し上げられませんわね」
「馬鹿か。楓が炎の魔神を下ろしたばかりだろう? お前、あれを信じていないのか?」
「あー。そうか」
 テラは確かに、と納得してしまう。そういわれると信じるというよりかは、いるものなのだろう。
 グッカスはそう言ってハーキと同様に通ろうとした。しかしグッカスはその場で脚を止める。
「どうした?」
 セダが尋ねる。やっぱり信じてなかったのか、と内心思いながら。
「壁みたいなのが……ある」
 グッカスも当惑した様子で言う。楓が側に近寄って、楓の横に並んだ。
「確かに。僕達は通れないみたいだね」
 楓も通れないようだ。ブランが言っていたことは正しいとこれで証明された。
「じゃ、炎の加護を与えたテラもきっと通れないね」
「そんな~~。ちょっと興味あったのに」
 テラは残念そうに言った後に笑う。
「じゃ、あたしたちはここで待ってるわ。言ってらっしゃい」
「おう。じゃ、俺行くわ」
 セダはそう言って光と共に気楽に柱の間を通る。すると、壁があると言っていたグッカスのようなことはなく、すんなり足が進んだ。と、思った瞬間そこはブランが言ったように泉の上だった。泉と言うのも正しくない。広大な一面水の上にセダは立っていたのだ!
「ちょっ……! え?!」
 慌ててバランスを取ろうとするが、そんな必要はないようだ。まるで地面の上の様に水の上に立っている。セダは驚いたと言おうとして隣に光が居ない事に気付いた。
「光?」
 手をつないで一緒に入ったわけではないが、はぐれるような時間差でも距離でもなかった。
「ひかり~~」
 セダは呼びながら水しかない光景のこの場所を歩き、次第に走り始めた。
 いくら歩きまわり、走り回っても人っ子ひとりいない。というか何もない。水以外なにもない。空があるべき場所にも水がある。
 例えて言うと一面水を張り巡らせた透明な空間に入っているような気分だ。地面も空も水。その証拠に歩けば水が跳ねかえるし、空の水は河の水面のように流れている様子がわかる。波紋を描く。水の音はする。しかしそれ以外の音はしない。
「ひかりー!」
 音が反響しない。相当広い空間の様だ。
「おっかしいな。ハーキもいないし」
 先に入ったはずのハーキの姿も、すぐに後を追うように入ってくるはずのヌグファやリュミィもいない。
「……水の遺跡か」
 魔神が住んでいる場所というのも納得できる。水しかないのだから。水面を見ると、ひたすら透明で、ずっと奥が透けて見える。その証拠にセダが地面に向かって手を伸ばすと、川や泉に手を浸す要領で腕が沈む。
 しかし、透明だが奥が見えない。深くまでもっと入って行ける気はするが、このまま潜っても底など知れないだろう。
“よく来ました、人の子よ”
 そう体中から声が聞こえた気がした瞬間、浸していた腕からセダは急に引っ張り込まれ、水の中に引き込まれていく。そして、意識を失った。

「セダー?」
 光は隣にいたはずのセダが居なくなったことも不安だし、この一面に広がる水しかない光景にも不安を覚えていた。こんなに水が溢れているのに、宝人の光には水のエレメントも水の精霊も見えない。
 というか、いない。感じられないのだ。あえて言うなら、この場に溢れている水そのものがエレメントであり、精霊のような、その母体の様な気がするのだ。では、これが魔神だろうか?
“よく来ました、運命の子よ”
「だれ?」
 この場中から、己の身体の奥底から、女性の様な声が響く。
“空の器。偉大なる可能性を持つ子よ。そなたは水が好きですか?”
 話しかけているのは誰なんだろう。どこにいるんだろう。だが、この声は懐かしいような、親しみを感じる。きっと人間で言うお母さんのような懐かしさと安心さ。
「好きだよ」
 だから自然とそう応えてしまった。水はセダの力があったとはいえ、宝人の自分に応えてくれた初めのエレメントだ。
“ありがとう。でも水も怖い部分を多く持っています。貴方は宝人として水を扱うからには水の全てを知らなくてはなりません。『水』の全てを知る覚悟が、貴方にはありますか?”
「それが私が今まで水を使えなかった原因なの?」
 今度は声は応えなかった。水の怖さ。それはなんだろう。それを知らないとだめなら……。
「うん」
 光がそう答えた瞬間、地面を形成していた水が盛り上がり、襲いかかるように光に向かう。
“では、お受けなさい。『水の試し』を!”
 ばさーっと水がふりかかる音が聞こえた瞬間に、水が覆いかぶさって来た。光は一瞬目をぎゅっとつむる。しかし、水が振りかぶった様な冷たい感触も、何もない
 目を恐る恐る開けると、そこには先ほどと何も変わっていない、一面に水の光景のままだった。
「……?」
 何だったんだろう、と疑問に感じた瞬間、突然地面がなくなった。一瞬の浮遊の感覚。え、と思った次の瞬間には光は空を落下していた。そこが空かどうかも分からないが、とにかく身体が落下していた。
 背中から真っすぐに落ちていく感覚に恐怖が襲い来る。怖すぎて叫ぶこともできなかった。自分の身を支えてくれるものが何もない。この後自分がどうなるかがわからないその恐怖。しかしその恐怖も唐突に終わりを迎えた。ばしゃーんという激しい音ともに水に落ちたのだ。背中から真っすぐに水に当たり、全身を一瞬で濡らしてそのまま沈む。
 光はそこでようやく目をあけた。普通はそこで浮かび上がるのだが、なぜか穏やかな速度を保ったまま、光はそのまま水の中に沈んでいく。水面に近い場所はおそらく太陽の光を受け、きらきらと輝いている。まるでカーテンを通したかのように水が揺れ動く度、光が様々な形で光を水の中へと届けてくれる。明るい透明そのものの水がそのまま光を反射していた。
 しばらく沈むと光が反射するほどではなくなり、水の色が青くなってきた。時折魚が泳ぎ去る。美しい一面の青。それが左右上下どこを見ても続いている。
「……これが『水の海』」
 もうずいぶん長く潜っているが呼吸が苦しくなることもなく、しゃべれることも不思議に思いながらずっとこの場所にいたい位、一面の鮮やかで明るく全ての水の中の生き物を支えるこの光景に浸っていたかった。
 しばらくすると小魚から中型の魚、大型の魚、それに光は見たことがないが、水の中で生きる動物の姿が見えて来た。知らないはずなのに、光はそれらの生き物を知り、どうやって暮らしているのか、水がどう関わっているのかを知っていた。
「水はすべての生き物を育んできた」
 小さいものから大きいものまで全て水が包み込み、その命を育んできたのだ。その雄大さ、その美しさ。言葉には表せない。
「すごい」
 次第に光が届きにくくなり、海の色が鮮やかな青から藍、群青、紺と深く黒くなっていく。それでもそのグラデーションが美しく、青い海がずっと続く光景が素晴らしかった。
 色が変わるにつれ、生活する生き物も違うし、その命が巡り、変わりゆく様が面白くもあり、素晴らしくもあった。そうしていくうちに視界は青が少なく黒一色になり、光の目には何も見えなくなっていた。水にもこういう景色があるのだと、光は初めて知った。
 しかし見えなくとも命の息吹を感じられる。水がそこにあるだけで生きていける強さを持った生き物がいるのだ。改めて思う。
「水って、すごい」
 光がそう感嘆した時、口の中に水が一気に入って来た。ごぼっという音と共に忘れていた呼吸を思い出す。吸おうとして吸えず、水が鼻にも口にも入ってきて、どこもかしこも痛い。苦しい! 胸の奥が焼けるように痛く、そして痛くて視界が暗転する。
 暗くて見えないのと苦しくて見えない光景は一緒だった。そのとたんに恐怖がせりあがってくる。怖い、怖い!! 苦しい! 空気を! 息が出来ない!! もがいていた光だが、次第に冷たい水を全身に感じ、指先から力が抜けていく。そうして、思考がうすぼけていき、もういいやと半ば諦め眠るように最後には意識を手放してしまう。
 すると溶けるように意識が白む直前で己の身が浮上し出した。己の身と一緒に水が急速に浮上する。そうして一気に黒から鮮やかな青に景色が戻る。そのまま色が透明になった、と思った時、自分が水と一体化していることに気付いた。
 水はそのまま姿を変え、小さく、目に見えないほど小さくなり空に上昇していく。そして寒い空で冷やされて固まり、雲となった。
「知らなかった。雲が水の塊だったなんて」
 そのまま水が空で集まり、大きく育ち、風に流され山にぶつかって光は水と共に雨となって大地に降りそそいだ。時には静かに時には激しく。雨となって降り注ぎ、地に落ちて溜まり、溢れて泉となり河となる。雨は木々を育て、作物を育て、そして生き物を育む。
 光は水となって木々の下を通り抜け、川となって大地を駆け、再び海へと還った。時にそれは嵐であり、雪であり、豪雨であった。
「これが水が巡るってことなんだね」
 そして水として巡る最中、木々に吸収された光は木々の中を通り、木々に水を与え、葉から放出され、木々の生きる行為を手伝い、動物の口の中に入り、一つ一つの細胞に行き渡り、生き物を支えた。
「だから水は全ての生き物に必要不可欠のエレメントなんだ」
 巡る事で全ての大地に、全ての生き物に己を等しく与えるエレメント、水。
「だから、命を表すエレメントなんだね」
 神が命が生まれない事を哀しんで流した涙から生じた第五のエレメント・水。そのエレメントが示すものは『生命』。示す性質は『喜び』。命を全身で感じるその喜び!
 水はこんなにも素晴らしい。光がそう感じた時、光の姿は水ではなく、光に戻っていた。
 そして大地を流れる川を上空で眺めていた。水の海が青く美しい。風に煽られて波立つ水面が、一瞬、揺れた。次にはさざ波立った水面が大きくうねり、それは大きな波となる。その波はその大きさを保ったまま、陸地を目指す。
「え……そんなことしたら」
 大きな波はそのまま浜や河口を直撃した。水が溢れ返り、川から逆流し、全てを水が制圧していく。その速度は尋常ではなく、そこに暮らしていた生き物は一瞬で命を失われただろう。
 水が引いた後も、木々は根こそぎ奪われ、何も残らない。泥地と化した場所には生き物の怨嗟が響いているようにすら感じた。溜まった沼地にはまり込んだ犬の子供が鳴き、必死にもがくが次第に力を奪われ沈んでいく。そうして死体が浮かび上がった。
「どうして……」
 気力を失って座りこむ人々。絶望が埋めつくす。
 次の瞬間、光景が変わった。雨がしとしとと降り続くその場所は曇天の空の元、作物の実りを心配する人々の暗い顔がよく見える。このまま降り続けば今年はだめだという声が聞こえる。雨がなければ作物は育たない。しかし雨が降り続いても作物は育たないのだ。
 ここにも暗い顔があった。次の場面では豪雨が続き、その豪雨で地形が変わり、山が崩れる様が見える。また違う場面では雪が積もり、その雪の重さでつぶれる人の家や、雪解けによって生じた雪崩。様々な水のエレメントが引き起こす災害が次々に映る。
 素晴らしく命を支えるはずの水が、逆に苦しめ、壊している様。津波、洪水、豪雨、雪崩、土砂崩れ、川の氾濫……あらゆる水害を永遠に続くかと思うほど見続けた。
 水害に寄ってもたらされる怨嗟と苦痛と疲労。生きる意志を折ってしまう災害は光にとっても苦しく、どうして水が存在するのかと思うほどだった。水と一体化している光にとって災厄をもたらす水という己が苦しく、死んでしまいたい気分にさせる。でも、自分は水で。水は生きる死ぬという次元のものではなくて。巡るもので。なぜこんなことをとしか思えない。死にゆくあらゆる命を己で贖えるならどれだけ良かったか。だけど、流す涙さえそれは『水』なのだ。己を構成する全ては水を元にできている。
 あらゆる生き物は水によって支えられ、あらゆる気候は大きく水が左右する。だからこそ、生き物の生活に、命に直結するのだ。その結果は絶望や疲労を招き、生きる意志を根こそぎ奪い流してしまう。
「そっか。命を支えるだけじゃないんだね。命を簡単に左右してしまうエレメントでもあるんだね」
 水がなければ生きていけないという意味。水は形を自由に変えるから様々な形で命を支えている。だけど、形がないからこそ、様々なものと混ざる事が出来、様々な形で災厄にもなりうる。
「だから、命を表すんだね」
 違う意味でそう思う。宝人が水を人々に与えたら、潤って人々は助かるだろう。だが、多すぎる水を与えてしまえば、それは苦しめる原因となる。水には過不足なく全てを行き渡らせなくてはいけないのだ。自然が決めた水の在り方に宝人も従う。そうでなければ、水は災厄になってしまうのだ。
 リュミィは過去に炎が世界を滅ぼしたと言った。もし水が炎の代わりに水の猛威をふるったら、世界は半壊しただけでなく、復興の希望さえ折ったかもしれない。
「これが、『水』」
 光は感じた。自分の身体にも確かに存在する水というエレメント。必要不可欠で、喜びを示す青いエレメント。
“そう、それが『水』。それは私”
 気付くと様々な風景はなく、目の前には一面の水の景色が戻ってきていた。
「あなたが『水』。あなたが水の魔神だね」
 光は姿が見えずともわかった。その存在を感じた。確かに在る。
“運命の子よ、あなたの名前を教えて下さい”
「光」
 光が答えると、水が隆起し、何かの形を作った。次第にその水は渦巻き、一人の女性を作りだした。青く半透明の水で出来た女性。長い髪は水を表すが如く、流れ、地面の水と一体化している。良く見ると身体を作っている水も絶えず流れ、めぐっているようだ。優しげな顔をした、美しく、三十代位と思われる女性だった。
“光。今の貴女にはもうわかりますね?私がどういうものか”
「うん」
“その上で貴女が『水の宝人』として己を望むなら、私は貴女を喜んで迎え入れることができます。私は水。この世界中にあり、全ての命にあるもの。貴女がその一端を担い、共に水を世界に満たしてくれるというのなら”
「私が自分の守護するエレメントを持っていないのはどうして?」
“貴女は全ての可能性を持つのです。貴女の様な存在は珍しいですが、決していないわけではありません。生まれた時から己の守護するエレメントを決める宝人ですが、時折貴女の様な存在がいます。彼らは生きるうちにエレメントを選び、自分がどのエレメントを守護するかを決めます”
 つまりエレメントを扱えないのではなく、決まっていないから使えないだけだったのだ。
“貴女はそれを知っていてここに来たのではないのですね?”
 過去の光のような存在はきっとここに水のエレメントを求めて訪ねたのだろう。だから水の魔神は『試し』と称し、水の全てを受け入れる覚悟があるかと聞いたのだろう。
“どうするのですか?”
 魔神が優しく言った。水の宝人になりたいと言って来たわけではないが、水の宝人になりたいなら喜んでそれに力を貸してくれると言っている。さすがブランが言っただけあって魔神は懐が広く優しい。
「……他のエレメントを見てみたい」
 光はそう言った。水と炎しかまだ使ったこともない。それなら全てを使ってみてから、全てのエレメントを知ってから選びたい。安易に水と仲良くなれたからという理由だけで水を選びたくはない。それでは他のエレメントにも水のエレメントにも失礼だと思うし、向き合っていないと思うのだ。
“わかりました。よく決断しましたね、光”
 水の魔神はそう言って微笑んだ。その顔が知らないはずの宝人には関係ないはずの『母親』に思えてしまって、光は思わず水の魔神を抱きしめた。冷たく、濡れてしまうがそれでも構わなかった。水の魔神も微笑んでいる。
“では、貴女が全てのエレメントを見て、その上で水を選んだその時は、心から歓迎しましょう”
「いいの?」
“ダメな事がありますか。魔神にとって宝人は我が子。どのエレメントを守護していようと関係ありません。これからの貴女の決断に力を貸してあげましょう”
 水の魔神はそう言って光に微笑んだ。
“これから貴女が心から水を欲する時、その場面に置いて水の力を過信せず、正しく均しく水を用いると決め、貴女が水を求めたなら、私の名を呼びなさい。私の名を持って水は貴女の味方です”
「……え」
 光は目を見開いた。どうして、そこまでしてくれるのだろう。
“しかし、わかっているとは思いますが、水とはいえ、力は力。過てばそれは災厄となります。私の名を用いて水を欲するのは貴女が真に求めた時だけ。私は力を貸せますが、扱うのは貴女ということを忘れないで下さい。そして、名はとても大事なもの。私が貴女に名を教えるのは、貴女を一人の宝人として認め、貴女を好きだから。決して乱用したり、安易に他の人に教える事はないと信じています”
「うん。わかっているよ」
 光は頷いた。
“私の名は『リーリオーラ』。水を欲する時、私を呼んで下さいね”
「リーリオーラ」
“はい。光”
 リーリオーラがにっこり笑う。その微笑みは水が形を失ったことで消える。
 小さく、あっと声を出した時には光の視界は暗転していた。