モグトワールの遺跡 015

第2章 土の大陸

1.男装少女と女装少年(4)

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 物心ついた時には、すでに左の耳に一つ、穴が開いていた。目立つものじゃない。細い糸が一本通るくらいの小さな穴だ。だけど、両親はその穴をあまり他人に見せてはいけないよ、と幼い自分に言い聞かせていた。
「どぉして?」
「これはね、セーンが特別なお家の生まれであることを証明しているのさ。父さんや母さんがお前くらいの歳には同じ場所に穴があったよ」
しかし見せてくれた父の耳に穴は開いていない。
「特別なお家?」
「そうさ。だけど、それはいろんな人に見せて回るようなものじゃない。特別な家に生まれたといってもこの家には父さんと母さんとおじいさんにセーンしかいないだろう? セーンは村のみんなと同じ暮らしをしていて、何も変わららないだろう?」
「うん」
「だから、自分から皆とここが違うのだと言いふらす必要はないのさ。よく考えて御覧、セーン。この穴を誰かお友達に見られてしまって、それ以降セーンと口を利かなくなってしまったら、哀しくないか?」
「やだ! トリ君も、フィーナちゃんも、ルイもみんな友達だよ!」
「そうだろう? でも特別っていうのはな、何も良い事ばかりじゃないんだ。人によっては嫌な風に感じる人もいる。いつも言っているだろう? 人の嫌がることはしていけないよって」
セーンは頷いた。
「この耳の穴を見せると、嫌な風に思う人がいるんだね?」
「そうだ。だけど、皆に見せて回って嫌ですかって聞くわけにもいかないだろう? だから、セーン、父さんと約束できるよな? この耳の穴は見せてはいけないよ、誰にも」
「うん!」
 だから幼い時から左側の一房の髪は肩まで伸ばしていた。いくら女みたいだとからかわれても、母さんのお気に入りの髪型だからとか適当に言い訳をしてきた。
「でも、父さん。なんで特別なお家に生まれた俺には穴が開いているの? なんで父さんと母さんは今は開いていないの?」
「そうだなぁ。それはセーンがもう少し大きくなったら、教えてあげるよ」
「わかった! 父さんも俺と約束だよ!」
「ああ」
 親子でそうやって約束し合ったのは遠い昔だ。

 セーンが育ったのは、都市部からかなり離れた田舎の村だった。すぐそばに山脈が連なる自然豊かな村だ。村の人口は二百名程度の小さな村。閉塞的な村で、両親はセーンを身籠る前に都市部から引っ越してきた。村には医師もいなくて、誰かが怪我や病気の時はひとっ走りして隣村の医師を呼んでこなければならないほどだった。
 そんな田舎に夫婦で穏やかに過ごすことを望んだ両親は、不幸な山の事故で息子夫婦を亡くした年老いた男性と一緒に暮らした。そして、その老人に様々な事を習いながら、村の人に倣い村の習慣を覚え、山の裾で小規模の一家を養えるだけの規模の酪農を生業にした。主に飼育しているのは羊で、その他に乳牛三頭、ヤギ六頭、馬一頭、その他鳥を数羽の生活だった。
 朝は早く、動物に何かがあったら昼夜問わずつきっきりだ。それでも、その生活がセーンには楽しかった。羊の世話を羊牧犬と一緒に行い、遊んで暮らす。村の子供とは仲が非常によく、いつも遊んで暮らし、時には友人の家を手伝うこともしばしばあった。畑を持つ者もあれば、セーン達よりも大規模に酪農をしている所もある。村は協力し合って過ごしているのだ。
 セーンは朝早くに置きだして、家畜の世話をし、羊を山に放つ。その頃には母が朝食を用意してくれていて、別の仕事を終えた一家全員で朝食を囲む。朝食が終わると両親と一緒に話をしながら手伝いをして、その後友達と隣村の学校に出かけて行く。昼には学校が終わり、そのまま遊び疲れて帰る。
 時には羊の世話をしながら山に登っているおじいさんを追いかけておじいさんの作業を飽きずに隣で見ていることもある。日が暮れる前に羊を連れ戻しながら家畜を小屋へ入れる。そうして夕食の時間だ。
 両親は都市部で働いていたことがあったからか、面白い話をたくさん知っているし、おじいさんはこの村での様々な自然に関する話しや村に伝わる昔話を話してくれ、その話を聞くことがセーンは大好きだった。
 ――とにかく、セーンは小さな動物の方が数が多いこの暮らしが大好きだったのだ。
 血がつながっていなくとも、家族として一緒に暮らすおじいさん。そのおじいさんをお父さんと呼び、慕い、尊敬し仕事をする両親。自分の耳に小さな穴が空いていようがいなかろうが、セーンの暮らしには全くもって関係のない話だったのだ。
 村人たちは昔から住んでいるようにセーン達一家とも仲良く過ごしたし、セーン達一家もこの村に最初から住んでいたように馴染んでいた。
 さて、村には毎年新年となる、陽の光月には村の代表ら、大体五人程度だが、その集団でこの村を治めているエイローズ家に新年のあいさつをしに行く事になっていた。エイローズの街は大きく都会で、挨拶に行く事になる家に選ばれた子供はうきうきして一月以上前から、仲間内で自慢をするくらいだ。
 村全体がお祭りのように、挨拶に行く人たちに世話をしてあげて、盛り上がる。新しい服を仕立てたり、贈り物を用意したり、新年のお祝いに便乗するように大人も子供も嬉しそうに騒ぐ。セーンが小さい頃に両親は一度選ばれた事があるそうなのだが、セーンは連れて行かれなかったらしく、全く覚えていない。
 その挨拶にセーンとセーンの両親が今年は選ばれた。セーンは周りの子供たちが前々からうらやましがったり、前年度以前に行った子供達の話を聞いていたりしたので、選ばれただけでも誇らしく、うきうきしていたのだ。両親も村の中でははにかみ、嬉しそうな様子だったが、新年が近づくにつれて、両親の顔色は良くないようだった。
「おじいさん」
 セーンは昨晩目が覚めた時に両親が話していた内容が気になり、その日は真っすぐ学校から帰って、おじいさんが羊と共に過ごす山に登った。おじいさんは気持ちよさそうに歌を歌いながら石をいじっている最中だった。
「おかえり、セーン」
「ただいま」
 おじいさんは羊飼いであるにも関わらず、手先が非常に器用で、変哲もないただの石ころを宝石の様な美しい石に変える腕を持っていた。砂岩加工師だったのである。
「おじいさん、聞きたい事があるんだけれど……」
 おじいさんは石を脇に置いて、優しげな眼を細め、セーンに向き合った。
「ん?」
「新年のあいさつに行くことは、父さんと母さんには嬉しい事じゃないのかな?」
「どうして、そう思うんだい?」
 おじいさんは優しく問いかける。
「昨日の夜、俺、ふっと眼が覚めたんだ。そうしたら、母さんが挨拶に俺を連れて行きたくないって。父さんは十歳の節目に連れて行かないわけにはいかないだろう。今回はうまく逃げられない、……そう言ってた」
「そうかぁ」
「それに、みんな嬉しそうなのに、二人ともふっとした時に嫌そうだろう?」
 おじいさんはそのまま黙り込んで遠くの山並みを眺めていた。こう言うときはおじいさんなりになにか考えている時とわかっているので、セーンも美しい緑の山並みを眺めていた。
「おじいさんはセーンみたいに子供のころからこの村で過ごしてきたよ。セーンと同じように動物と一緒に暮らして、村の仲間とはしゃいで、そうしてもう今はいないが、奥さんと優しい息子夫婦と過ごしてきた」
「……うん」
 おじいさんの息子夫婦はひどい雪が降った年の冬、運悪く雪山で命を落とした。これから孫を生み、おじいさんの家業を継いでくれると思っていた矢先のことだったという。哀しみにくれたおじいさんはそれでも自分の奥さんと日々の暮らしを続けていた。ただ、二人とも歳を取り過ぎていて、息子さんを亡くした三年後に奥さんを亡くし、独りの生活を続けていたという。
「だけど、ディー君とリリィさんはちがう。二人とも首都や王家の直轄の土地からこの村に引っ越してきた。動物と一緒に、この仕事をする前は、二人とも違う仕事をしていたんだ」
「聞いたことがあるよ。父さんは偉い人の執事をしていたって。母さんも偉い人の家庭教師をしていたって」
 父、ディーと母、リリィはあまり仲の良くない家同士の生まれだったが、仕事の都合上出会う機会があって、二人で結婚を決意し、それを機に仕事を止めて、この村に暮らすようになったという。
「偉い人っていうのは、俺達とは違ってお金や、力が動く。それはディー君に習ったね? 偉い人は俺達凡人とは違って、様々な責任のある仕事をする。時には大きくいざこざを起こして、険悪な関係になる人を作るような仕事をすることもあるだろう。きっとディー君とリリィさんはそういう生活の一部に触れたことがあるんだろうね。だから、そういう場所にあまり行きたくないんじゃないかな」
 セーンにもそれは理解できた。大人、しかも権力を持った偉い人たちがする喧嘩は、自分と村の子供のように、殴り合いをしたり、次の日には謝って仲直りをしたりすれば解決するようなものではないのだ。
「そっかぁ。じゃ、俺だけはしゃいじゃって、二人には嫌な思いをさせたのかな」
 セーンは村の雰囲気に飲まれてうきうきした自分を少し恥じた。
「セーンは初めて行くのだから、みんなと同じように楽しんでくるといい」
「そうかな? じゃあ、なんで父さんと母さんは俺を連れて行きたがらないの? 俺がへますると思っているのかなぁ?」
「違うと思うがなぁ。ディー君とリリィさんに直接聞いてご覧?」
「聞いてもいいことなのかな?」
「聞いていけないならば、ちゃんとどうしてだめか教えてくれるだろう。ディー君とリリィさんは」
「そうだね」
 セーンはそう言われて頷いた。
「どころで、おじいさんは何を今度は作っているの?」
「お守り石だよ」
 セーンの中では新年の挨拶は両親に直接聞くことで解決しそうだったので、頭からすっかり抜けて、今度はおじいさんの手元に興味が移った。
 手のひらに握れる大きさの石をおじいさんはその腕と歌で加工する。おじいさんは村人たちの砂岩を直すことができる『砂岩加工師』なのだ。
 おじいさんも昔はやんちゃで、この村の生活に嫌気が差した事があるのだという。その時はお姉さんがいて、家業はお姉さんが継ぐと思っていたのだそうだ。ともかく、小さい頃から砂岩に興味が在って若い時に砂岩加工師に弟子入りしたのだという。
 そうしてちゃんと腕を磨き、砂岩加工師として数年暮らしていた最中、お姉さんが隣村に嫁入りすることが決まり、砂岩加工師の道を止めて、羊飼いになったのだという。
「へぇ。これは『荒削り』の状態でしょ? 『色付』は俺にさせてよ」
「そうさな。セーンは声がよく伸びるからなぁ。よし、じゃ、あの山並みのような美しい緑を出してご覧」
「うん!」
 砂岩はただの石でもできる。加工の腕さえ確かならば、誰にだってあの色相と肌触り、質感を表現できる。
 砂岩は石の形を、すなわち、刀や槌を使って完成形に近い形にする作業を『荒削り』といい、第一段階となる。例えば砂岩で丸い守り石を作るとすれば、荒削りでは、石を手ごろな人差し指の半分くらいの大きさにして、角を削り丸くするまでの過程だ。
 次の行程を『色付』といい、石に語りかけるように歌いながら作業を行う。これは感覚的な作業なのでうまく説明できないが、色の元となるものを石と重ね合わせ、歌いながら石に混ぜ込み、石に色を付けて行く工程だ。
 この工程が砂岩の色相と質感を決めるもので、才能の有無が関わってくる場面である。どんなに荒削りの腕が良くても、どんなに砂岩に対しての理解が在っても、色付の才能がなければ砂岩加工師にはなれない。
 歌の良し悪しは関係ないと言われているが、砂岩加工師の唄が耳障りであったことはないらしい。おじいさんの歌も伸びやかで村人が作業を止めて聞き入ってしまう位だ。ちなみに砂岩に制限を設ける場合は、この工程最中に祝詞を乗せることで完成する。砂岩は身分証明に使われるので、この砂岩は学士の免許取得者以外が付けると壊れるというような“願い”や“誓約”を砂岩に刷り込むのである。
 最後の行程が『仕上げ』。文字通り彫刻を加えたり、細部にこだわったりという行程だ。
「緑の色付けには何を使う?」
 セーンはおじいさんが砂岩を趣味の域で時々作るのを見て、興味を持ち、暇さえあれば教えてもらっている。荒削りはおじいさんも太鼓判を押す位に手慣れてきた。これから芸術性や利便性を追求した形を追求していく所だ。今は色付けを教わっている。様々な歌や音をおじいさんから教わり、石の力を引き出すにはどういった唄がいいのか、使う素材は何が適しているのか、実際に試してみるのが面白くて仕方がない。
「セーンは砂岩加工師になりたいのか?」
「うん。面白いもの。おじいさんみたいに羊を遊ばせている間に作れたら最高」
「そうかそうか」
 おじいさんが破顔して、セーンも笑う。セーンの声が、歌が山の斜面を伝い降りて、風の様に村に広がっていく。
 ――本当にセーンはこの暮らしを愛していたのだ。

 両親に話が在ると夕食の後に席に付いているように言われたのは、新年の挨拶まで残り十日という頃だった。
「セーン。大事な話が在る。よく聞きなさい」
 両親がテーブルの対面に座っていて、おじいさんは部屋の隅で静かに暖炉にあたりながら本を読んでいた。
「うん」
「前にセーンは左耳に開いている穴に付いて父さんに聞いたことが在るね? 覚えているかい?」
「うん。誰にも言っていないよ」
「よく約束を今まで守ってくれたな。今度は父さんが約束を守ろう。何故、父さんと母さんには今、耳に穴が開いていないか。特別なお家に生まれたことがどういう事が、教えよう」
「セーン。この土の大陸の神国、ドゥバドゥールの王様を代々務めるお家を言ってみて」
 母がそう言った。
「ルイーゼ家とエイローズ家、それにヴァン家だよ」
「そう。その三家ね。この村を治めているのはどのお家?」
「エイローズ家だよ」
「そうね」
 母はそう言ってセーンを撫でた。今度は父が口を開く。いつもの夕食の後のお話しの様だ。
「セーン。自分の名前を言ってみろ」
「え? セーン=エイルイ。それがどうかした?」
「そうだ。今まで父さんはセーンにお家の名前を聞かれたら、エイルイと教えてきたね。父さんも村ではディー=エイルイ、母さんもリリィ=エイルイと名乗っている。それが当然だし、これからもそうだ。だけどね、これはこの村だけの名前なんだ。戸籍に乗っている名前は違うんだよ」
 きょとんとして両親を見る。
「戸籍に乗っている名前では、父さんはディー=エイローズ」
「母さんはリリィ=ルイーゼよ」
 セーンは最初、ふーんと頷いた。そして、はたり、と思い至る。両親の名前に王家の名前が入っていることに。
「わかるかい? 父さんは昔、エイローズの街にいて、エイローズという王家の中で、エイローズの人間として今とは全く違う生活、いや、生き方をしていた。まずは、父さんの昔話をしよう」
 父はそう言って語りだした。父はエイローズの分家に生また。しかし、分家の中でもそこまで中心的な分家ではなく、傍流といっていい家の生まれだったという。父は生まれてエイローズの分家のそのまた分家の家に生まれた男の人に仕えることが決まっていたという。父の両親はそのように父を育て、父もその人を主として生活をしてきた。
 エイローズの分家に生まれた者は皆、生まれた時期と十歳までの才能を本家、並びに位高い分家の人に報告、観察されて、十歳の時に誰を主にするか、どういった職業に就かせるかを決められる。言い方は悪いが、そこでその家の運命が決まる。
 優秀ならより良い主を得、エイローズの中で位を高くしていける。逆に才能がなければ地方の有権者など、一般市民からすれば偉いが、エイローズの中では底辺と思われる人間を主に据えられることもある。
 エイローズはそうやって一族内の力を伸ばしてきた。家同士で次の世代を担う子供をどれだけ優秀に育て、上に上り詰めて行くか。エイローズに生まれた者は生まれた時から争いを強いられている。
 父はそういう風習が好きではなかったという。両親の期待を裏切らない程度に様々な事を努力した。そして十歳になって、それ相応の主を定められた。父は文君(ヴァニトール)になる事が決められ、それ以降は剣の稽古等は一切しなくてよくなったのだという。それから父は文君として主と共に将来のエイローズの領地の一部を治める事が出来るよう、日々学習を積んでいた。
 在る日、父はエイローズの偉い人にその才能を見いだされ、急に主の変更を言い渡された。才能や適性を見ていても十歳の子供だ。これから伸びる子供も多い。そういう場合、その傾向がみられた瞬間に適する主を宛がわれる。父はそうやって十五の時にはエイローズの中心の街で血統の高いエイローズの分家の嫡男を主と変えた。その主はエイローズの直系の人を主とする。
 知らず知らずのうちに、父はエイローズの中心へと近づいて行った。