078
竜が動きを止めた。セーンはいつしか立ち上がって腹から声を出した。歌はこう歌おう、とかどうしようとは思わなかった。自然と口から出てきたメロディ。それをまるで輪唱のように何度も何度も続ける。
眼だけは竜から逸らさない。今や、竜はセーンだけを見ている。セーンも竜だけを見ている。
歌で竜の動きは止めた。次は竜をどう『加工』するかだ。
ふっとミィの姿が浮かんできた。そうだ、あの竜はミィを飲みこんでいるんだっけ。キィの姿は詳しくはわからない。だが、それでセーンはどう向き合うかを決めた。
先ほど竜に話しかけたのを思い出したのだ。それで歌の調子を変える。抉るように、深く、だが優しく。余分なものをそぎ落とすように、かつ、竜にとって苦痛にならないように。
いつしかいつものように手が踊るように伸ばされて、己の手で加工するように手が動いていく。その動きの度に竜の身が少しずつ削られて、砂が散る。見た目では変わらない、そんなほんの少しの削る作業を根気よく続ける。
思い描くのは二人の双子。仲の良い、一人は活発な女の子。もう一人はそれを心配する男の子を。
――大丈夫、もう、誰も君たちを傷つけないよ。
セーンは思いが届くまで、否、届かなくても必死に歌い続ける。
緊急に急きょ造られた避難対策本部。何度目かの竜の方向が轟いた。遠雷のように今度は地に沁みわたり、震えが来るような大きな声だった。その次の瞬間、そこに激しい揺れが襲う。アーリアとアイリスの二人は悲鳴を上げる暇もなく床に叩きつけられる。
二人の護衛の武官が駆けこもうとするが、あまりの揺れに動けない。揺れが収まってから二人を庇うように武官が駆け付けた。大きな揺れから立ち直り、被害状況を確認する。
しばらくして微かな歌声が響いてくる。ふと手を止めてその歌を聴く。砂漠の端で、微かなのに記憶に残る力づよいメロディだった。歌詞は無く、聴いたこともないのに、活力を与えてくれるような歌。
「……これは?」
アイリスが顔を上げる。アーリアもそれに倣った。セーンの命令によって民の避難誘導案を三当主が直接話し、具体的な案が上り、実行に移したところだ。
ジルドレは岩盤大君で軍を統率する王なので、軍を引き連れ、一番被害の多い、儀式場の近くで救出作業に乗り出した。アイリスとアーリアで避難民の戸籍の確認や誘導を引き受けている。
「ご報告申し上げます!!」
アーリアの配下が駆けこんでくる。アーリアは視線だけで報告を促す。
「宝人の部下より、この土の大陸の、いえ、ドゥバドゥールの卵核が半壊とのことです!」
「なんですって?!」
アーリアが驚き、アイリスは眼を見開いた。
「それにより宝人が複数『鳴き声』によって精神的に苦痛を訴え、暴走の危険があります」
「……!」
アーリアとアイリスが目を合わせる。アーリアが言った。
「宝人たちはどう動くの?」
「我を忘れて遺跡に向かって移動をしているようです。どうやら、竜が呼んだようです」
「ジルドレ様にご連絡は?」
「既に」
短いやり取りの間に才女の二人の頭が高速で回転する。
「この歌は? どこから、誰が?」
アイリスが問うた。報告は別の所から響く。
「大地大君陛下です」
丁度二人の背後、戸籍の確認を行っていた住民が興奮しながら告げた。
「セーンが?」
アーリアの呟きは小さく、しかし表情は安心させるために住民に向かって笑顔を造る。
「大地大君は……」
アイリスと目を合わせる。そう言えば、セーンから命令は受けたが当の本人が指揮をしているわけではない。一体、彼は何をしているのだろうか。三大当主の前に姿さえ現さず、何を……?
「大地大君はあの場に残って、竜と対峙なさっています」
部下が耳を寄せる。アイリスの顔に驚き、アーリアの顔には疑問が浮かんでいる。
「ねぇ、避難はどのくらい済んだ? 調査の報告は上がったわね。それぞれの避難場所の状況を」
アーリアが尋ねる。即座に答えが別の文君と武君から返って来た。その答えからアーリアやアイリスが予想した場合よりはるかに早く、避難が済んでいる。これは直接の指揮に武君の頂点である岩盤大君であるジルドレが立ったのが大きいだろう。だが、一番は的確な指示を与え、確実にその指示が行き渡るようにしたセーンのおかげだ。
「アイリス様、では見に行きませんか?」
「え? 何を、ですか?」
「我らが次代の王が、何をなさっているか、ですわ」
アーリアは視線を巡らせる。何名もの部下が頷いた。後は任せても大丈夫だろう。命令は行き届いているし、今のところ新たな災害は発生していない。先ほどの激しい揺れは竜のせいなら、それを抑えるセーンがいる限り大丈夫に思えた。
アーリアもアイリスも市民の避難誘導やそれに関係する様々な調査で手いっぱいで今、何が起きていてどうなっているか具体的に把握していないのだ。
「はぁ」
アイリスは気のない返事をする。この避難の本部となっている場所に当主が一人もいなくて大丈夫か心配しているようだ。
「お任せ下さい、アイリス様」
ルイーゼ家の者もそう告げる。
「それに気になるでのはありませんか? 次代の岩盤大君陛下が」
それを言われた刹那、アイリスは視線を逸らした。
「そうですね。黒幕もそろそろ姿を現すでしょうから。ご一緒します、アーリア様」
二人の才女は部下に指示を出すまでもなく、外に向けて歩き始める。それを黙って礼をして見送る部下と、護衛と情報のやり取りのためにつき従う部下に分かれた。
杖を持つ手に汗が滲み、手から杖が滑り落ちそうになる。ヌグファは杖を掲げる腕が同じ姿勢を取り続けているせいで疲労がたまって震えてもいる。だが、少し先で懸命に歌い続けるセーンを見ると、この腕を下ろす事が出来ない。
同じメロディ。ずっと続けられる、聴き飽きてもよさそうなのに聴かずにいられない音。
セーンは初めは動かず竜と対峙していたが、今は竜が怯んだせいか腕を動かし、指揮者のように歌っている。周囲にはいつしか宝人が集まっていた。それに逃げ遅れ、軍の救助を待っている民衆もセーンをずっと見つめている。
セーンはそのことに気付いているだろうか。己が確かに今、何かを変えていることを。誰もがセーンを見つめ、その歌を聴き、セーンに期待している。いや、少し違うか。セーンに希望を抱いているのを。先程まで絶望の淵に立たされたかのように暗い顔をして、不安にしていた人たちが、今セーンのこの歌を聴いているだけで力がみなぎるようになっていくのが。
――これが王か。これが魔神に選ばれた王と言う事か。
ヌグファはキアたち、水の王を見た。彼らも王だと鮮烈な印象を残していた。
彼らのようになりたいとは思わない。だが、いざという時に。まさに今の様な、万民が希望に縋りたいと思う時にその希望を与えられるような存在は強烈に憧れる、とヌグファは思うのだ。自分には持ちえないものだけれど。憧れることは、きっと、自由だから――。
セダとカナは馬を入り口で捨ててしまったので、必死に禁踏区域から出た後の足跡を追う事になった。
「そこまで距離はなかったはずだが……」
カナはそう言ってセダと一緒に砂漠にわずかに残された足跡を走りながら追いかける。
「むこうさんも必死なんじゃねーか」
カナはセダと会話しながらも方角を確認して頷いた。
「奴ら、どうやら儀式場に向かっているみてぇだな」
セダは地理に詳しくないので、頷くに留めた。
「にしても、この歌はなんだ? どっから聴こえてくる?」
カナが不思議そうに言う。セダにとっては聴きなれたセーンの声だから不思議に思わなかった。
「セーンだよ」
「セーン?」
「ほら、お前にキィの救出を名乗り出た次の王だ」
「ああ!」
カナは頷いて、しばらく走りながら歌を聴いていた。
「待てよ」
思わずカナの脚が止まる。セダが遅れて気付いた。
「どうした?」
「この歌、次の王が歌っているんだよな?」
「そう。キィとミィを助ける為に竜をどうにかするって作戦だ」
「じゃ、居場所を知らせているようなものだろう……奴ら、セーンを狙っているんじゃないか?」
セダがそれを聴いた瞬間に眉根を寄せる。
セーンは王紋を誰かに見られてから王宮の者とエイローズ家に追われていた。
エイローズ家は王紋の確認のためもあっただろうが、王宮に追われる理由はよくわからないと言っていた。そしてミィは王であると宣言した瞬間に、何者かに射られた。
では、下手人がもう一度セーンを狙わない理由にはならない。あの場には戦える者がいない!
「急げ!!」
二人して叫ぶ。
「こっちだ! 狙いがわかりゃ、後を追う必要はない!」
カナの後をセダが追いかけながら問う。
「なんだって次の王を狙うんだ? 聴いた話じゃ次の王は国民の悲願だったんだろう?」
「そうだ。だけど、一部の人間はそうじゃなかったんだよ」
「! お前、理由を知っているのか?」
「ああ、謎を解いたのはキィだけどな。俺はキィのおかげで王である事を隠し続けていたから無事だったんだ」
「どうしてセーンは狙われたんだ?」
セダの問いかけにカナは話そうかどうか迷っているようだ。セダが急かすと渋った顔をするが、口を開いた。
「他国のお前には分からないだろうが、この国は初代の大君が定めた大綱集という骨子に沿って全てが成り立っていると言っていい。その骨子が意図的に書き換えられた。だから、正当な王であるはずの俺やセーン、ミィが狙われた。狙った方が悪いわけじゃない。奴らは法に沿って偽王と名乗る、いわば国家反逆をたくらむような輩を、民が知る前に消そうとしていた、そんなとこだ」
「そんな……だってお前の国は確か王紋が現れたやつが王だろう? どうやって書き換えるなんてことが?」
カナが他国で事情をそこまで深く知らないセダにはあまり説明したくないようだ。
「物事なんて突き詰めればそんな難しいことじゃねーのさ。まぁ、裏をかかれたってことだな」
カナはそうとだけ言った。この事実に至るまでキィと気の遠くなるような調査をした。アイリスやアーリアが答に追いついて、答合わせをしてみればこんなバカげたことだった。
「ただな、俺はこんなバカげたことで昔、主君と定めた大切な人間を一人失っている。俺にとってもアイリスにとっても大事な、大切な人だった。いつも正しくて、優しくて穏やかで……あいつの隣で国を支えていくと決めていた。それを、こんなバカみたいなことで叶わなかったんだ」
カナはそう言って前を見据える。
「ぜってー、許さねぇよ。だから、俺含めだけど、二度とこんなバカなことは起こさない」
カナはセダに言っているようで、自分の決意を一人ごとのように言っているようにも思う。セダはそんな厳しい横顔を見つめながら走った。
「俺が次の岩盤大君。国を守る剣であり盾」
セダはその顔を見てふっと思った。彼に過去敵わなかったのは、世界が広いせいだと思った。自分の実力が伴っていないからだと思っていた。
――剣にかける重さが違うのかもしれない。
「セーンもミィも必ず守る。死なせない、絶対守り切る」
ああ、敵わないなぁと思ってしまった。
思えば武器を一つに絞れないのも、全て得意で扱えると言えば聞こえがいいが、裏を返せば一つを究める決意がないということ。剣に何を懸けるかを決めきれない。そこまで深く考えられない。
剣の道はセダにとっていつしか学校の科目で、目標をクリアすることが目的だった。剣をうまく扱え、誰より強くなれたらいいと思った。だが、それはかっこいいな、等と言った軽い気持ちからだ。
カナに敵う訳ない。誰かをこれまで深く、強く決意して剣を握ったことがセダにはあっただろうか。
――そうか、俺に足りないのは、剣を握るための覚悟と意志か。
セダも同じように厳しい顔をして前を見据える。ただ駆ける。覚悟は異なっても、意志が軽くても、今は。この今だけはセーンを守ろうとするその意志だけは隣を走る少年と変わらないと、そう思うから。