モグトワールの遺跡 022

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 ドゥバドゥールは温暖な気候で、年中暖かいか少し暑い程度だ。しかし空気は砂漠を多く含むせいか砂漠に近い首都は乾燥しており、夜は冷え込むことが多い。昼夜の寒暖差が大きいのだ。
 アーリアはセーンに言われたとおり、外套を用意して、部下に仕事を任せ、セーンを待っていた。アーリアの元には暗君が数名控えているし、万が一の時も大丈夫だろう。
「アーリア様」
 ノック音と共に侍女の声がした。来たか、とアーリアは席を立つ。
「陛下がお見えになりました」
「お通しして」
 かすかな返事とともに扉を開けた執事の後ろから侍女に案内されて小柄なセーンが姿を現した。
 屋敷の中だというのにセーンは外套を脱いでもいなかった。お茶でも薦めようと準備をさせていたのだが、すぐに出かけるつもりなのだろうか。
「今晩は、アーリア」
 セーンがアーリアからすれば珍しい、緊張を含んでいない笑みを見せた。アーリアもつられてほほ笑む。
 ただ、自分はちゃんと微笑んでいるか、アーリアには自信がなかったのに加え、本物の笑みがよくわからなかった。
「こんばんは、陛下。ようこそいらっしゃいました」
「うん」
 セーンは珍しそうにアーリアが待っていた応接間を眺めている。
「外は冷えたでしょう。まずはおくつろぎになってはいかがでしょう? お茶を用意させます」
 侍女に目くばせしようとしたが、セーンが首を横に振った。
「ううん。お気づかいありがたいんだけれど、時間がないんだ。すぐに出かける」
 アーリアは少し驚いた顔をするが、今度は執事を見た。
「そうですか。では、馬車を……」
 セーンはまた、首を横に振った。
「ううん。必要ない」
 セーンはアーリアの背後にある大きな窓を見上げた。背丈よりはるかに大きな窓は毎日磨かれていることもあって曇りひとつない。
 セーンは窓ではなく、窓枠に手をついて、窓から外を見た。そして、一般的な窓の作りだからか、格子を押して、観音開きの窓を押し開けた。
 とたんに室内に夜風が吹きこみ、豪華なカーテンがまるで急に騒ぎ出したかのようにはためいて騒がしさを演出する。
「見て、アーリア。いい月夜だ」
 夜空には真っ青な月が見事な満月で昇っていた。
「はぁ」
 アーリアはセーンが何をしたいのか分からず、かといって窓を閉めさせるよう指示を出すわけにもいかず、少し思案する。
 その間にセーンがアーリアに近寄った。なぜかわきに抱えていた毛布を出すと、アーリアの肩にふわりとやさしく掛け、アーリアを毛布に包みこんだ。
「何を?」
 すると、セーンは唇に人差し指を当てて、いたずらっ子のように無邪気に笑った。
「ええっと、皆さん!」
 セーンは残された執事や侍女の方を見て、声を上げる。
「アーリア様を今からお借りします! 無事は保証します。だから、ついてきてもいいけど、邪魔にならないように視界に入ってきたりしないでください」
 執事も侍女も何を言われたか、唐突すぎて目を丸くしている。アーリア自身も頭が疑問でいっぱいだ。
 セーンはそう言ってアーリアの肩を抱き寄せた。アーリアはそんなことをされたのが初めてだったので、目を白黒させている。
 事実、アーリアは直系の娘。エイローズの当主。礼儀からしてもそんな大胆なことをする男性は皆無だったのだ。
「じゃ、失礼。しっかりつかまっていてくださいよ!」
 セーンはそう言うと反対側の腕でアーリアの腰を抱き寄せた。
「え。いったい、な、何を……ひっ!!?」
「それでは~!!」
 セーンがそう言った瞬間、セーンの周囲から円を描いて風が吹き荒れ、セーンとアーリアの体がふわりと浮きあがる。
 セーンはのんきに笑いながら開け放たれた窓から逃げるように飛び上る。アーリアを抱いたまま。
「アーリア様!!」
「へ、陛下!?」
 仰天した部下が腰を抜かしたり、窓から身を乗り出したりしていたが、セーンの身はすでに中空。誰もつかまえることはできない。が、そのすぐそばを漆黒の影がよぎる。
「おっと! さすが、優秀だな」
 セーンがつぶやきながらよける。闇の中飛び出したのは、暗君の頭を任せているユンだろう。小柄な人影がアーリアを連れ去るセーンを邪魔しようと、周囲の暗君が一斉に飛び出してくる。
「伊達に何度も暗君から逃げてないよ!」
 楽しそうにセーンは高らかに言い放ち、さらに高度を上げた。風が吹きすさび、暗君がいくら優秀でも近づくことはできないようだ。アーリアはそれを当惑しながら見下ろすことしかできない。
「陛下! わたくしを、どうしますの?」
 空を飛ぶ経験などしたことのないアーリアは、セーンがどの程度の速度で移動しているかはしらない。だが、周囲の風の音に負けないよう、声を大きくして言った。
「お楽しみだよ!!」
 セーンは明らかに楽しそうに言い放つ。セーンは空を飛ぶことに慣れているのだろう。怖がっている様子のアーリアを安心させるように強く抱きながら飛行を続けた。
 セーンは街の上空を抜け、外れの砂漠まで飛んだ。しかし、飛ぶことをやめない。
 いったいどこまで連れて行かれるのだろうか、この距離ではセーンから離れてもすぐにエイローズの本家まで戻ることはかなわない。
 ある程度の地理は把握しているものの、市街部を抜けてしまえば、どのあたりにどの町がある、くらいの知識しかアーリアには備わっていない。
 さまざまな街をエイローズの当主として回ってはいるものの、馬車に頼りきりで、自分の足で移動したわけではない。道順は知らないのと同義だ。
 それに対し、セーンはこの数年を全土にわたって逃げ回っている。地理はセーンが有利だろう。
 彼は一体何をしたいのだろうか。自分の安全や、聞かれたくないなどといった理由で自分をここまで連れだしたわけではないだろう。
 アーリアにも、王となったらはっきりさせておきたいこと、などといった理由がすでに嘘とわかっている。そうすると、アーリアを拉致に近い形で連れ出した理由がわからない。
 もしかすると、両親を軟禁したことの仕返しや、セーンを狙ったことに対する仕打ちだろうか?
「寒い?」
 アーリアがとりとめもなく考えていると、すぐ近くから声がした。そのことに内心驚きながら、抱かれているのだから当たり前か、とも納得する。
「いえ。ただ、あの……」
 不安、とはアーリアの立場や性格上言うことができない。相手に付け入るすきを与えてはいけない。
「もう少し飛ぶことになる。疲れるだろうけど、ちょっと我慢してほしい」
 セーンは申し訳なさそうに言いながらも楽しそうだ。
「ほら、見て。今日は満月なんだ。上空は地上で見るより少し大きく見えるだろう? きれいでしょ?」
 セーンがそう言って視線を上げる。するとすぐ真横に大きな水色に輝く月が見えた。
「わぁ」
 思わず歓声を上げてしまった。眩しいくらいに光かがやくのは陰の水月だ。淡く青く光る月は満月なだけあって見事に地上を淡く照らす。地上で見るより大きく、迫力があった。
「満月だと逆に星が見えづらいけど、確かにあるんだよ。西を見て」
 セーンは視線だけでアーリアに説明する。
「先月は陰の火月。その影響で、この時間帯だと地平線近くの星は、火月の影響を受けて赤く見える。もう少し宵の時間なら、反対側、東に来月の月の光の影響を受ける星が出てくる」
 確かに地面すれすれの星はみな、淡い赤い色をしているように見える。
「よくご存じですのね」
 空を見上げる暇などないアーリアは感心した。そうか、月は暦を知るためだけだと思っていた。
「夜空はきれいでしょう? 毎日少しずつ見える景色が変わる。面白いよ」
 セーンはそう言いながら、今度は星座の説明を始めた。説明を受けるとひとつの輝きでしかなかったものが、形に見える。もう、他のものには見えない。不思議なものだ。
 そんなことを話している間に、いつの間にか砂漠を抜け、山間部へと移動していたようだ。山頂には雪が残る、土の大陸でも土壌が豊かな土地。
「もうすぐ着くよ」
 セーンがそう言って山の方を目指して飛び続ける。景色が夜でもわかるほどにがらりと変わる。
 広がっているのは一面の自然な大地だけだ。人が暮らしている雰囲気などないように見えるほどに、緩やかな丘が広がっている。
「ああ、見えたね」
 セーンがそういう。山の麓まで飛んで、その麓に人が確かに暮らしていることを証明する灯りがちらほらと見えた。
 セーンは懐かしそうに微笑んで、山の麓、点在するいくつかの明かりのうちの一つの元とへとようやく飛び上ったときと同様にふわりと降り立ったのだった。
「疲れたでしょう? 長旅、御苦労さま。そして、ようこそ、サルンへ」
 セーンは肩にかけていた毛布を取って、両腕を広げた。セーンの背後にそびえたつ高大な山々。
「サルン?」
 アーリアが驚いて問い返す。セーンは頷いた。
「さ、寒いし、入って、入って」
 セーンは当惑するアーリアを無視するような形で手をぐいぐい引いて灯りの元、すなわち小さな小屋の中へとアーリアを誘ったのだった。
「ただいま~」
 セーンがアーリアの手を引いたまま、朗らかに笑いながら暖かな光の元へとはいっていく。小さな小屋の中にはセーンの両親、すなわち、ディーとリリィが同じように笑いながら二人を出迎えた。
「アーリア。夕食は食べてきた?」
 セーンが問う。アーリアは驚きながら頷いた。
「そっか。じゃ、体も冷えただろうからヤギのミルクでも飲む?」
 セーンが驚き、どうしたらいいかわからないアーリアをテーブルに座らせた。アーリアの向かいに微笑むディーがいる。暖かそうな鍋をゆっくり回すのはリリィ。……これは、なんだ?
「セーン。彼女が当惑しているよ。ちゃんと説明したのかい?」
 ディーがさすがに見かねてそう言ってくれた。アーリアは隠しようのない驚きに頷かざるをえなかった。
 リリィが湯気の立つミルクをアーリアの前に差し出した。お礼を言いながら器を受け取る。その瞬間に、温かさが手のひらを通して伝わった。
 寒いとは感じなかったが、緊張はしていたのだろう。ゆっくりといろいろなものがほどけていくようだった。
「そうだね」
 セーンがそう言ってアーリアの隣に座る。リリィはセーンの向かいに。それぞれが席に着いた。
「アーリアはきっと覚えていないだろうね」
 セーンはカップの中を覗き込みながら、さみしそうに言った。
「俺は十歳の時に、十四の君と出会った。浮いている俺を見かねたのか、君だけが俺に話しかけてくれた。俺、その時うれしかったし、君があまりにも美人だったからびっくりしたんだよ」
 セーンが思い出すように言う。アーリアは驚いたことを気づかれないよう、ひそかに息をのんだ。
「何を話したか、覚えてないよね、もちろん」
 セーンがつぶやく。アーリアは内心首を横に振った。そんなことはない。すべて覚えている。貴方こそ、きっと忘れていると思っていた。アーリアの大事な思い出――。
「きらびやかな世界。優秀な子供。そして大人たちに囲まれて、すべてを持ち合わせる君が、とてもつまらなさそうに見えたんだ、俺には。約束したんだよ? 友達になろうって。だから、サルンに君が来たら、一緒にサルンで俺がいつもしていることを一緒にして、一緒に遊ぼうって」
 かなわなかった約束。違う立場、だから、憧れて――。
「その約束を今、一緒にかなえられたら素敵だなって、思ったんだ」
 セーンはカップから顔をあげてアーリアを見つめた。照れたようにはにかみ、視線をすぐに逸らす。
「もちろん、アーリアの立場は理解しているつもりだ。サルンに遊びにくるような暇は君にはない。来ても視察とかになって、ゆっくり過ごすことはできないだろうし、君にも責任と立場がある。だから、一日位なら大丈夫じゃないかと思ったんだ」
 セーンは覚えていてくれた。それだけでもうれしいのに、約束を果たそうとして、こんな行動に出た。
「もちろん、今のアーリアはそんなことを望んでいないことは承知だけど、王になる前の、王になる俺の望みと思ってわがままをきいてくれないかな?」
 アーリアは感極まって口を開けば、何を言うかわからない気がして、ただただ、頷いた。
「そっか! よかった!」
 セーンが一安心したように、力を抜く。それと同時に彼の両親も力を抜いた。それを見て、くすりと笑う。
「明日だけれど、サルンの朝は早いんだよ。朝一に動物の世話からなんだ。といっても、俺らが飼っていた動物は今、俺の友達の家にあげちゃったから、お邪魔するつもり。アーリアも一緒に来るでしょう?」
 セーンがそういう。そうだった、そういう約束だったのだ。彼と同じ生活をして、一緒に遊ぶ。セーンには当たり前のその行動をとってみたかったのだった。
「じゃ、今日はもう寝よう!」
 セーンはそう言って飲み終わったカップをアーリアの手元からさらい、寝る支度を始めるようだ。どうやら、彼の家族も同様のようで、アーリアはどうしようと考えたが、それは杞憂に終わった。
 リリィがアーリアの肩をやさしく叩いてアーリアを促した。
「おやすみ、アーリア。母さん」
「おやすみ、セーン。あなた」
「ああ、おやすみ」
 一家が寝る前の挨拶をした。そんな挨拶アーリアはしたことがなかった。
 なにせ、物心つくことから侍女に囲まれ両親と離されて過ごしたのだから。両親とは住む建物さえ違い、週に何回か食事を共にするだけだった。
「お、おやすみなさい」
 アーリアの戸惑いの混じった挨拶を聞いてセーンが笑顔を浮かべた。それだけで心がこんなに満たされるなんて。
「ごめんなさいね、セーンのわがままに付き合ってもらって」
 リリィはセーンの望みを理解しているのだろう。アーリアをエイローズの当主としてではなく、セーンの友人として扱ってくれた。
 その証拠がアーリア様とも呼ばず、敬語を使わない態度だった。
「いえ。正直、驚いていますが、お心遣いが嬉しいです」
「そう。それはよかったわ」
 小屋の二階の一室に案内され、使用するベッドに案内された。ベッドの上にはアーリアが着たことのないような質素な毛織物の、有体にいえば、下等な衣服があった。確かに王宮や屋敷ではこんな恰好はできない。恥ずかしいとか、馬鹿にされたと思うことだろう。
 だが、この場所では自分が今着ている服のほうが浮いている。それは十分理解できた。
「その服はとても似合っていて素敵だけど、この村で過ごすにはちょっと不向きかしらと思ってね。飾り気のないものだけれど、我慢して頂戴ね。セーンは思いついたはいいけれど、こういう気遣いをできないのが男の子よねぇ」
 リリィはそう言って笑いながら部屋を出ていく。アーリアが着替え終わったころ、ノック音とともに再びリリィが姿を現した。その手には湯気の出る盆を抱えている。
「お化粧も落としてから寝たいでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
「きっと気になるとは思うし、恥ずかしいと感じるでしょうけれどこんな田舎じゃろくなお化粧もしないのよ。口紅くらいなら私のを貸せるんだけれど。でも、アーリアさんはとてもおきれいだから、お化粧をしなくても大丈夫よ」
 お世辞ではない、自分の容姿を褒めてくれる、そんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「じゃ、本当に明日は夜明け前から仕事をするから、早く寝た方がいいわ。おやすみなさい、アーリアさん」
「はい。おやすみなさい」
 今度はさらりと言えた。リリィはほほ笑みを残して去っていく。
 彼女は夫のディーと一緒に寝るのだろう。ずいぶん狭い小屋に思えたが、セーンはどこで寝るのだろうか。セーンの家は焼け落ちてもうないはずだ。では、この小屋は誰のものなのだろう。
 しかし、そんなことは気にしなくてもいい気がした。とにかく、明日のために寝よう。こんなに気持ちよく寝入れそうなのは久しいことだ。