009
キラはこの街が嫌いだった。特にオレガノが。
ひどい。ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい――
ここは突き刺すようだけど本当は暖かいお母さんのような温もりを感じる空気じゃなかった。生ぬるくて、まとわりついて、気持ち悪い。
生ぬるくて気持ち悪いっていったら、アレも気持ち悪かった。カジャスタの血。
血? 血……? 赤くて、噴き出してきて、視界が真っ赤に染まってた。……アレが……血? 酸っぱい臭いもした。アレ? おかしいよね? だってファキは寒いんだもん。物はめったに腐らないんだよ……? え? じゃぁ、カジャスタは腐ってたの? ううん。違う。だって一緒に笑ってたもん、ファキで。笑うと腐らないんだっけ? もう、わかんないや。考えたくない……何も……。
ひたり。
――え? 何?
ぴちゃり。
――何の音?
ぱらぱら、ぽつぽつ。
――え?
生暖かい……。触ってみた。……赤い、これは……血?
どうして? 見上げたら……カジャスタの血だった。胸から噴水みたいに真っ赤な液体が流れてる。
あれが、落ちてきたの? あれが、血なの?
足元を見た。真っ赤な水が膝上まで来てる。――いつの間に?
見上げてみた。カジャスタだけじゃなくって、ロイド、タツム、ルジベルート、ウィンディア。みんなの胸から真っ赤な滝が流れてた。
――コレガミンナ、血、ナノ――?
そう思った瞬間から酸っぱい臭いがしてくる。
「うっ」
胸焼けがする。気持ち悪い。
ここから、出なきゃ。吐き気が止まらないもの……。
キラは赤い湖から、いや、もう今となってはみんなの血の海から逃げるように血に足を捕られながらも懸命に進んだ。
みんなが死んでる、貼り付けてある十字架の反対へ逃げる。
どんっ
――え?
これ以上前に進めない。どうして?? よく見たら透明なガラスに阻まれていた。
――逃げられない……。
ガラスを食い入るように見つめた。その向こうには赤いものなんて一つもない。ただ、黒い世界が広がっている。
遠くに行く程暗さは増していて手前は薄ぼんやりとした灰色のお部屋。
その中の、黒い一部がゆっくりと動いた。其れは何だろう?
よく見てるとわかってきた。それは、人形のように綺麗な―人間。
――たすけて
其のヒトは気付かない。黒い服を着た、黒い髪の……男の人。白い肌がその部屋のかんじとはチガウ。
――たすけて、ここはひどいの。
薔薇色のくちびる。思わず触れてみたいような……。長い睫毛が震えて目蓋がゆっくりと持ち上がる。いつのまにか助けてもらうことよりもそのひとに触れてみたい気持ちが膨らんでゆく。
――ここから出して。
そのひとの目が開いた。深い深い蒼穹のひとみ。澄んだ綺麗な――あおいろ。
その目が彷徨う様に動いて、そして、ついに、わたしを――見る
――ここからだして。
そのひとが驚いた。え? って顔してる。……それにしてもすっごく綺麗。美しいヒト。
こぽり。
――何の、おと……?
振り返って後悔した。どうせ死ぬならあのヒトの顔を見て死にたかった。
赤色が迫っていた。逃げてきたのに、みんなが追いついてきている。みんなが口々に叫んでいる――キラ。
やめて、呼ばないで、どうせ呼ぶならあのヒトに呼んでほしいのに。
――ヤメテ!!
あのヒトの姿は濁った赤色に埋め尽くされて見えなくなった。
「キラ! キラッ!!」
「んっ……」
目を開けると明るかった。慣れ親しんだ茶色の髪。緑の目が私をのぞきこんでいる。
「よかった~。キラ、うなされてたぞ、大丈夫か?」
「……ナック」
キラはナックの姿に安心した。
「私、どれ位、寝てたの?」
「三日だ。疲れてたんだろ? 何か食べる?」
「ううん、大丈夫」
ナックはほっとする。ナックもここまでキラが目を覚まさないとは思ってなかったのだ。
「今日の夜、みんなが、ファキのみんなを助けてくれるんだ」
ファキのみんな? ……処刑、か。
「そうなんだ……。あの、オレガノは?」
「オレガノ? 作戦に参加してるから今はいないよ」
キラは息を吐き出した。
「よかった~」
そのとたんに緊張がなくなる。ナックをようやくまともに見れた。
「主よ……」
「どうか、わたしたちの罪をお許しください」
静かに石の壁に吸い込まれる自分の声はなんだかすこし、情けない。でも、明日には死ぬ身だ。自身の罪を悔いるなら今しかない。
神もそれをお解かりだから、わたしたちに静かな夜を与えてくださったのだ。
自分は生まれてから罪など犯したつもりはないが、すべては神の思し召し、神がよいようにしてくださるだろう。
――ぴちゃ
何の音だろうか?
それにしても静か過ぎることに今、気付いた。いつもは誰かしらの生活している音が聞こえるのだが……。気のせいか。きっとみんな寝静まっているだけだろう。みんな、わが身の死の前に神への祈りを捧げているのだ。
「あぁ、やっと見つけたよ」
守衛でも仲間の声でもない、いったい誰だ?
「神への祈りは済んでるかい? っても、祈ってみたところで無意味だけど。神ってのは難聴なんだ、下界に向けて持っている耳はね」
その声は幼く聞こえる。だが本能が恐怖を感じていた。
「……どなたですか?」
「お前、トムゾン・ファルクだろ?」
靴音が近づいてくる。それと共に濡れた何かの音も――。
「……そ、そうですが。今更、何を?」
「俺さ、お前に一時間後に生きていてもらうと困るんだぁ。だから、今死んで」
「わたしは明日処刑される身です! なぜですか?」
沈黙の後に声の主がトムゾンの牢屋前に立った。
「ひぃっ!!」
自然と悲鳴が上がる。声の主は真っ赤な目をしていたからだ。
「あ、人の顔見て悲鳴上げるなんて失礼~。確かに血まみれではあるけど、仕方ないじゃん? お前だけ明日まで待てずに死ぬのは可哀相だろう? 安心しろよ、みんな平等に、さっき殺してきてやったから」
真っ赤な髪かと思っていた。違う、それは返り血で赤く染まっているのだ。
「うわああああ!!!」
トムゾンは我を忘れて、神に祈った穏やかな心を忘れて、絶叫した。
「あは! 怖くなってきた? 大丈夫。一瞬で殺してあげる」
「うあ、うわああああ……」
トムゾンの絶叫は途中でかき消され、大量の血が飛び出す音に変わった。
「ハイ、お~わりっ! 本日も俺さま、100点満点!」
ゲヴラーは笑って両手を挙げた。血まみれなのは構わず、そのままゲヴラーは外に出てどこぞの屋根の上に着地する。
「なぜ、殺す必要があったのですか?」
隣から静かに降ってくる女の声。その声は怒っているのではない。ただの事務的な質問だった。
「まずかった?」
「さて? でも此の事は報告させていただきますがよろしいですか?」
「いいよ。それよりさ、どっかに部屋借りてない? さすがにシャワー浴びたいんだ」
ケセドはポケットから鍵を取り出す。
「ラザフォードの客室2番です。どうぞ」
「ありがと」
ゲヴラーは笑顔で鍵を受け取った。
「わたしは追跡者の任を完全に解かれましたので次に会うのはしばらく先でしょう。私の後任は誰かは聞いていませんが、コクマーが舞台に上がったと聞いています」
ゲヴラーは言った。
「ありえないよ。あのおっさんは好き勝手にするのが好きだからさ」
ケセドはしばらく黙って頷いた。
「そうでしたね」
「きっと、ティフェが来るよ」
「ティフェレトですか? 何故です?」
「だって、ティフェの影なんだろ?」
「そうですが……理由にはなりえないと思います。まぁ、いいでしょう」
ケセドはそう言うとそれでは、とだけ呟いて消えた。
「ティフェと俺だったら楽しいだろうな。愉しみ!」
そして赤い目が虚空を睨む。
「俺の期待を裏切ったら承知しないよ? ホド」
ナックは作戦翌日に返ってきたみんなを見て、絶句した。
「みんなは!? 作戦は失敗したのか?」
オレガノとランガが言った。
「失敗以前の問題だった」
「どういうことだ!?」
「全員……すでに殺されていた」
「……え?」
ひどい状況だったという。拘置所はファキのみんなはおろか、見張りの軍人でさえも殺されていたらしい。
あたり一面が血の海でどう考えてもみんな即死。中には細切れにされた死体もあったという。
どの死体も必ず首が落とされていて噴出した血がみんなが到着したときには雨上がりのように天井から垂れていたそうだ。
苦悶に満ちて死んだ顔もあれば安らかな顔もあったという。
「派手にやったね。さすがゲヴラーだ」
笑いながらケテルとホド、笑わないでティフェとネツァーが机に広がった写真中の惨状を見ていた。
「やっぱ、この仕事はゲヴラーにあってないんじゃない? きっとストレス発散よ」
「あ、有り得る」
「どうかなぁ? ケセドは楽しそうだったって言ってたよ?」
「ストレス発散だもの! 楽しいに決まってるじゃない」
その中の一枚をティフェが取り、見た。
「ホド」
無言だったのに、どうしたのかとみんなが一斉にティフェを見る。
「ぼくにケセドの後任を任せてほしい」
ホドはちらっとケテルを見る。
「ご主人様がいいって言ったらいいよ」
ティフェはケテルを見た。ケテルは量るように見つめる。
「影には興味ないんじゃなかったっけ?」
「ない。だけど、他に興味がある」
「何に?」
「今はまだわからない。だけど……行ってみたい」
「浮気しないならいいよ」
ケテルは深い角度でティフェの口を貪った。
「あら、妬ける。ユナ、あたしたちもしよう?」
「いいの? じゃ、イタダキマス」
色は違えど熱い吐息が複数漏れる。
「大丈夫。ケテル以外なら相手が生きていたことはない」
「くす。物騒だね。でも主としてはうれしい事実だ」
再び交わる二人を離れたところからホドが呆れて見ている。
「書斎が汚れるから、これ以上やるなら寝室、行ってよ」
「へぇ? ホドとネツァーはいいんだぁ? それって差別じゃない?」
からかう様にケテルがホドを軽く睨む。ホドは余裕の笑みでそれをかわした。
「レナの出すモノなら何でもキレイだからいいの。ホラ、気を使わせないでよ。君たちがしたいように僕とレナも愉しみたいの!」
ケテルは降参、と言って笑ってティフェの手を引いて出てゆく。二人が出て行くのを確認もせず、ホドは書斎の机にネツァーを押し倒し、覆いかぶさった。
「やん。優しくして」
「ハイハイ。わかりましたよ、お姫様?」
――同じ国内、同じ事象で一方は嘆き、一方は嗤っていた。