TINCTORA 004

011

 ナックがキラを盛り上げようとがんばっているのがキラにはわかった。その気遣いが今のキラにはとてもうれしかった。
 ナックがいれば大丈夫。オレガノにいじめられたってたぶん、平気。明日からがんばれそうな気がした。
「いいお店ですね? マスターが設計も?」
 キラはナックに笑いかけて店内を見回した。
「あぁ、ちょこっと要望を言って、あとは建築屋さんに。友人なんだ」
「すごいな~」
 キラは店の一点で目が留まる。
 釘付けになってマスターとナックの声が、周りの声が聞こえなくなった。そして体が自然に動いていたことにも自覚はなかった。突然席を立ったキラにナックが驚く。
「キラ? どうしたんだ? キラ!!」
 キラは聞こえない風で歩いている。そして奥のテーブル席へと向かった。
「おい!」
 ゲヴラーがキラに背を向けて座っているティフェに小声で言った。
「星が近づいてくる」
「なんで?」
「わからないが知らん振りしようぜ。普通の客だからな」
「わかった」
 ティフェはキラの視線を背に感じながらもゲヴラーと話を続けた。
「見つけた」
 キラが言った。ナックはキラの様子がおかしいと気付き席を立つ。
「夢のヒト」
 キラは幸せそうに微笑んでティフェの手をいきなり握った。
「!?」
 ティフェが振り向く。こんな行動に出るとは思っていなかったからだ。話しかけられる位だと思っていたのだった。
「誰だ、お前!」
 ゲヴラーも予想しなかった事態に急いで参入する。
「会いたかったの。ずっと触れたいと思ってた」
 キラは周りの声が何も聞こえないようで、絡めた腕の反対の手で驚いて動けないティフェの頬に触れる。
 そのまま指がスライドし、顔の輪郭をなぞってそっと唇をなぞる。瞳にキラが映ってティフェは凍りつく。そしてそのまま、うっとりしてキラが己の唇をティフェのそれに近づけた。
「お前! やめろ!」
 ゲヴラーがキラに叫んだ。ナックも思わぬ自体に愕然とする。
 ティフェは何もできないまま、ただキラを見開いた瞳で見続けた。
 ティフェは本能的にキラに嫌悪感を得た。この女が自分は嫌だと。はっきりしたティフェが抱いた感情のままにティフェは口が重なる直前にキラを突き飛ばした。
「はぁ、はぁ」
 ティフェが喘ぐ。それでもティフェはキラの彷徨う瞳から逃れられない。
「キラ!!」
 ナックがすいません、と言ってキラを抱きかかえティフェから引き離す。
 それによってティフェはキラの目の呪縛から逃れ、よろよろとキラから後ずさると思わず店を出て逃げていた。
 ティフェもまた、初めての感情に戸惑い、自分が何をしているかわからなかった。
「ティフェ!!」
 ゲヴラーが叫ぶ。金をテーブルに置くとゲヴラーは急いでティフェの後を追った。慌しくお店のドアベルが鳴った。
 キラは逃げ去るティフェの背中にずっと熱っぽい視線を送っていた。ナックはそんなキラを信じられない様子で見ていた。
 突然起こった事態に店にいる者があからさまな視線をキラとナックに送っているのに気づき、ナックはキラを立たせた。
「すいません。マスター、お代は?」
「あ、ああ。コーヒーが一袋だったね」
 ナックは何とか事態を終わらせようと昼食もそこそこに料金を払いキラを引き連れて店をでた。キラに何があったはわからないが、とりあえず人があまりいない裏路地にキラを連れ込む。
「キラ! 一体、どうしたんだ!?」
 ナックはキラに問い詰める。
「ごめん。どうかしてたのかも」
 今となってはぼんやりともしていない正気のキラがナックに謝る。
「本当だよ! いきなり知らない人にキスしようとするなんて。挨拶にしたってやりすぎだろ? たしかにあの人は綺麗だったけどさ」
「ナックに何がわかるの!!」
「え!?」
 突然発せられた拒絶の言葉にナックは呆然とする。
「あのヒトは、私が見つけたの! 夢の中で。あの時みたいにまた私を邪魔しないで!!」
「邪魔って……だって、キラあの人は知らない人じゃないか。それともキラの知ってる人だったのか? あの人はキラを知らないみたいだったし、俺はあの人、知らないぜ」
「知ってる! 会ったもの」
「どこで!? 少なくともファキには来なかっただろ! キラはファキから出たことなかったじゃないか」
「違う! 私の夢で会ったの! ナックが知ってるはずはない!!」
「夢? ……夢だって? キラは自分が何をしたかわかってるのか!?」
 ナックはキラが当然のようにわめき散らしている事実が信じがたかった。
「夢だぞ! 相手はキラと同じ夢を見ていないんだ。あの人はキラのことまったく知らない赤の他人だ。夢で起きたことを現実ではしちゃだめだ! それ位わかってるだろ?」
「目が合ったもの! あの人は私を知ってる。初めて現実で会ったから確かに驚いたかもしれない。でもきっと分かり合える!!」
「馬鹿言うなよ!! 夢なんだぞ! 夢は現実とは違う。嘘だ。まやかしなんだぞ! 下手すれば、キラの妄想だって考えられるんだぞ! わかってるのか!?」
 ナックもキラの感情的な言い分に腹が立ち感情的になっていく。
「妄想? そんな事言うなんて信じらんない!! ナックって最低!」
「最低!? 自分がやった事の方が最低じゃないか! 俺がいつ間違ったこと、言ったんだよ!!」
「さっきよ、さっき!」
「はぁ? 頭冷やせよ。お前は自分が知ってるって言い張って、知らない人にキスしようとしたんだぞ。相手の人の顔、見てなかったのか? 嫌がってたじゃないか。相手の連れだって怒ってたぞ。よく、思い出せよ!!」
 キラは真っ赤になって怒っていた。感情的になるとキラは手に負えない。ナックは我に返って言った。
「ごめん、俺だって言いすぎた。帰ろ」
 キラは何も言わなかった。が、頷いた。

 死ぬ気で追いかけてやっとゲヴラーはティフェに追いついた。ティフェは仲間の中で最速を誇る。瞬発力も持久力もありの本来なら有り得ない速さだ。
「どうした。お前らしくないよ」
「嫌だったんだ。いつもなら殺してる。でも、今回は出来なかった。だから、怖い」
「それは、ケテルがほしがったから本能的にできなかったんだろ?」
「違う。ケテルはあれ位なら手に入らなくてもそんなに怒らない。殺せなかったのはほかに理由があるはずなんだ。それが、わからない。だから嫌だ。だから、怖い」
 ティフェはその暗い瞳に影を落とした。
「……やっぱ、自分の影、だからじゃないか?」
「そうなのかな? でも、殺意はあった。何かが止めたんだ……何かが……。」
 ゲヴラーは面白そうに嗤う。
「ああ、俺も会ってみたいな。自分の影に」
 ティフェはまだ、悩んでいる様子だった。
「会ったら、その感情を俺が理解できる」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
 ティフェが言った。

 ナックとキラが帰宅すると同時にオレガノが言った。
「ナック、今度こそ、助けてみせる!」
「え? 次の処刑が決まったのか?」
 ナックがオレガノに問い詰めるとオレガノは頷いた。
「ああ、今度は火刑が予定されているそうだ。村長さんかリーダー的な人物が捕まったんだろう」
「……親父さまかもしれない。オレガノ! 俺も作戦に入れてくれ!」
 ナックが頼む。
「それはサグメが決めることだ。お前の剣が使えるなら……の話になる」
「……わかった」
 ナックは頷いてすぐ、キラを置いてサグメに会いに行ってしまった。その場にキラとオレガノが残される。
「キ、キラ……」
 何とか普通に話すオレガノをさえぎってキラは言った。
「オレガノに頼みがあるの」
「な、何だ? お前も作戦に参加したいのか?」
「違う。この街で知り合いがいるみたいなの。探したいの。許してくれる?」
「……それは、ファキの民か?」
「そう。でも、ナックには黙っていて。忙しそうだから心配かけたくないの。私一人でやりたいの。いいかな?」
 オレガノは悩んでいった。
「そりゃ、いいけど……お前一人で大丈夫か?」
「大丈夫。今日ナックに街を案内してもらったことだし、いつまでも休んでいられないから」
「そっか、じゃ、いいぞ。大きい行動を起こすときは必ず相談しろよ」
「わかった」
 オレガノはキラが作り話が上手いことを知らない。まんまと騙された。
「絶対、私はあのヒトを手に入れてみせる」
 キラは一人ひそかに呟いて決心した。

 サグメに稽古をつけてもらうよう頼んだナックは熱意に溢れていた。
 今度こそ、今度こそ救ってみせる。
 キラとはあれからあまり口を利いてないがキラも活動しているようだし行動は変だったが、結局外に連れ出したのはよかったのかもしれない。
 処刑はやはり、村の重要人物が捕まったのだろう。一ヵ月後に予定されていたが、一般市民には知らされていなかった。
 前回の事を考えて、救出作戦は処刑の一週間前に決まった。
 ナックは現時点では作戦の参加は認められてない。だが、三週間のナックの進歩次第で、参加が認められるかもしれない。
 ナックは頑張っていた。カナードも復讐ということでやる気が前より出たせいか、かなり進歩したらしい。
 カナードは今回の作戦に参加が認められている。負けていられない。

「処刑? 悪趣味だよねぇ? ダンチェートに逃げたことにしてさ、奴隷として売り払えば? もう、面倒じゃない?」
「そうはいかないよ。だいたい、今回処刑するって言い張ったの僕じゃないし」
「誰だっけ?」
「バイザー卿だよ」
「ああ。そっかぁ。あの人、暴力的に見えて策略家だもんねぇ。よく国民の深層心理を理解してるよ。ま、僕にしてみれば、処刑を娯楽にしてるのもどうかと思うけどねぇ?」
「そういう風にそそのかしたんだろ? 昔の王が」
「コロシアム然り」
「そうそう」
 ケテルとホドは笑った。
「どうした? 何を隠してる?」
 ケテルが突然言った。その瞳に射抜かれて、ホドは軽い緊張を覚える。
「敵わないなぁ。いいよ、教える」
 ホドはケテルに言った。顔は笑っていても内心は冷や汗ものだった。
「ティフェは影を殺せなかったそうだ。その、理由がわからなくて怖がっている。教えなかったのは他意があってのことじゃない。君はティフェのこととなると視野が狭くなる。だから黙っていただけだよ」
 ケテルは軽く驚いた様子でホドを見た。
「殺せなかった? ティフェが? そんなはずはない。影は屈服することが必要なはず。ティフェが影に屈服されては意味がない」
「そしてティフェが影に勝てなければそれは、ティフェの存在が揺らいでいると言う事。そうなったら危険だ。僕たちはあまりティフェの事を知らない。離れたら呼び戻す術(すべ)が君しかないことになる」
 ケテルが真剣な顔つきになった。
「ビナーは何をしている」
 ケテルが言った。
「例の貴族令嬢と遊んでるよ」
「呼んで解明させて。コクマーもだ。二人にティフェの影の調査を命じる」
「了解」
 ホドは頷いて手配をはじめる。
「絶対に放さない。ティフェは僕のものだ。勝手に消えるなんて絶対に許さない。キラとかいったか、あの女……早めにケリをつけようか」
「いいよ。では処刑なんてどうでもいいか。今回で終わりにしよう。十分な娯楽を与えただろうし。ケテル、ファキは手放すね?動くなら早めに言ってよ。いろいろ大変だからね」
「好きにしてくれて構わないさ」

「ヴァトリア将軍」
「なぁに?」
 白い甲冑姿の女はいつ見ても凛としていて一般兵のなかではかなりの人気だ。
「よかったですね。先程の十公爵会議でファキの処刑は終了になるようですよ」
「そうなの。よかったわ。何も罪を犯していないのに死ぬなんて主(この場合は神を指す)だってお許しになるはずないもの」
「ええ。ただ、次回の処刑は主犯がいますから取りやめにはならなかったようですけど」
 レナは痛ましい表情をした。
「それは、仕方ないわね」
「ええ。これでもケゼルチェック卿はとても頑張っておられましたが」
「そう。一公爵だもの。権限は平等だわ。しかも若いから。ま、わたしたちは卿をサポートするのが務め。卿が協力を請うたら真っ先に力になりましょうね」
「はいっ!」
 部下は歓喜に震えた様子でレナの元を去って行った。
「何か起きたわね。どうしたのかしら。私は手伝ったほうがいいのかしらね」
 レナはこの国の将軍だ。軍ではかなりの権限を持つ。その立場を利用するためだけに将軍になったといってもいい。全ては自信の主(あるじ)の為に。
「ま、言われたらでいいかな」

 あれから三週間が過ぎた。ナックはサグメ、オレガノ両名に認められてちゃんと作戦に参加することができるようになった。
 処刑まで一週間を切ったが一般市民への発表はいまだに行われていない。軍のほうで何か起きているのだろうか。
 キラはいまだに何かをしているらしい。オレガノに聞いても答えてくれないから何か特殊なことでもしているのだろうか。
 それよりもナックは今回の救出作戦に全力を注ぐ必要があった。
「ナック、そろそろ行く。支度はできているか」
「ああ」
 ナックは黒い服を着込みみんなと同じように武装して集まった。それぞれ作戦に参加するものは程よい緊張に包まれ、最終確認を行っている。
「時間だ。みんな、各自の行動は頭に叩き込んだな」
 オレガノが暗闇の中でみんなに聞こえるよく通る声で小さく言った。みんなが頷く気配がある。
「次こそ失敗は許されない。各自ベストを尽くせ!」
 オレガノが一呼吸置いて、行った。
「行くぞ」
 みんなが作戦通りに散ってゆく。ナックはオレガノ、サグメ、ランガと一緒だ。
 まず、二階の窓から侵入し、見張りを倒す。仕方のないときは騒ぎにならないうちに殺すことも念頭に入れること。
 次に看守から鍵を奪い、身柄を確保して、移送班に引き渡す。速やかに遠回りをしてアジトに帰る。
 これが進入班に任された至って単純なしかし、難しい作業だった。
 カナードは各班の連絡係で制圧の完了などを知らせる手はずになっている。
 アジトから走って約三十分。歩けば一時間以上かかる場所にファキのみんなは捕まっている。そこまでばれないように自然に各自バラバに向かう。
 ナックは余裕をもって向かった。走って行ったりして体力がなくなったらとんでもない。カナードら特殊班は先に向かっているという。身体能力の優れたカナードらは状況をリーダーであるオレガノにいち早く届ける。
 ナックは自然に裏道を通って向かった。何度もシュミレーションしたし、住民に怪しまれないように最近よく使った道である。
 ナックは最短距離であるため一時間はかからないがランガはそれ以上かかる。
 全員集まればカナードが各自に知らせてくるので目標の建物の二階に隣の建物から侵入して作戦開始だ。

 ナックは目の前に落ちてきた影がカナードと認め安心する。カナードが来たということは作戦開始の合図だ。ナックはすばやく進入する建物に登った。すでにみんながいて進入の経路を確認している。
「窓は開けてきたよ。看守は全部で三人。入り口に見張りが二人。武装有り。裏口に同様の見張りが二人。あと、見回りは二人。その他に交代の人員は三人。今は三回の警備室で仮眠を取ってる。武装は拳銃が一丁とナイフは一本。警棒が一本。看守警棒を一本持ってる。調べられたのはこれだけ」
 カナードがすらすらと言った。
「それだけありゃ十分だ。よくやったな。カナード」
「えへへ。行ってらっしゃい」
「おう」
 オレガノが剣を抜く。サグメも同様だ。みんな一応銃を持っているが発砲音で余計なことを知らせないために今回は剣を極力使うことになっていた。
 ナックもサグメと稽古に使用した剣を抜く。
 オレガノが目で合図して音もなく隣の建物に着地した。次にランガが侵入する。次がナックで殿がサグメだった。
 自分の番にナックは緊張する。窓枠に手をかけて足に注意して一気に飛び込む。無音とまではいかなかったが小さな音で着地できた。
 オレガノとランガはすでにいない。オレガノは入り口の見張りをランガは裏口のを倒しに行っている。ナックは看守だった。サグメが来た気配を暗闇で感じ、行動を奮い起こす。
 暗闇から一気に項を狙って、打つ! ナックは照明の影になる場所で息を殺し、存在を消す。何も知らない看守が棒をつまらなさそうに振って近づいてくる。
 呼吸を整え、タイミングを計る。歩幅を計算し、一、二、三……今だ!
 音を立てないように剣の柄を振り上げる。背後に無音で寄り添い、そのまま、項に叩き下ろした。
 ゴっという音とともに看守の目は白目をむいて力を失い、倒れる。倒れる前にその体を抱きとめ、左手で警棒を掴む。音は立てないようにそっと体を横たえ、持っている紐で簡単だがなかなか解けない結い方で足と、手を縛る。
 それが終われば迅速に移動し、次の看守を待つ。看守を二人捕らえて、三人目を探すがなかなか現れない。カナードだけにわかるように合図を送る。気配も立てずにカナードが寄り添った。
「三人目の看守はどこに?」
「看守室。あの奥だ」
 短く最低限に言葉を交わし、行動に出る。ナックは看守室がどのようなものか考える。当然明かりがついていて隠れられない。では、短時間に狙うしかない。ドアが閉まっている。当然の事実に苦労した。静かに、音を立てないようゆっくりとドアを開けた。光が暗闇に漏れる。ナックには少々眩しかったがすぐに慣れた。
「ん~? 誰だ?」
 奥から男の声がした。
「風かぁ? 窓なんて開けてねぇがな」
 足音が近づいてくる。コツ、コツ、コツ。それに比例してナックの心臓も鳴った。ドッ、ドッ、ドッ。
 ――コツ。ナックは飛び出した。看守が振り向く。ばれた!!?
「誰だ!!」
 ナックは柄を持っていた剣の向きを刃の方に変えた。叫んだり、誰かを呼ぶ前に斬らねば、でも、初めてのことに手が震える。体が動かない。相手は警棒を振りかざしている。反撃しなければ、でも!
「か……」
 男は何もしないうちに鮮血をこぼして倒れ伏した。男を背後から殺したのはオレガノだった。
「何をやっている? 看守はこれで最後か?」
「あ、ああ」
「鍵は?」
「まだ」
 オレガノは剣の血を払い、看守の死体を漁る。しばらくしてないとわかると看守室に入って壁にかかった鍵束を取った。
 ナックは呆然とする。たった今まで生きていたのに、もう、冷たくなっている。オレガノが、殺したのだ。当たり前だ。計画に支障が出るなら、殺すとも言われ、自分も当然と思ってた。
 だけど。……死ぬって。この人は仕事でいただけなのに……。
「どうした。次に移行するぞ。カナードに知らせろ」
「ああ」
 ナックは震える手でカナードを呼ぶ。ランガとサグメも帰ってきた。しばらくして救出班が入ってきてファキのみんなを運んでいく。ナックは呆然として、男の死体を見ていた。
 これが、死。これが、殺すということ。
 自分はファキのみんなを助けたかった。だけど、こんなに死を見て動揺してるじゃないか。一体何をするはずだった? 殺すってことをわかってたはずじゃないか?
「何している? 終わったぞ。帰る」
 オレガノが言ってナックは後に続いた。ナックは帰る途中に考えていた。
 どうしてわからなかったのか。ファキのみんなが処刑されたとき、嫌って言うほど死を見たじゃないか。
 どこが、あの看守の死と違う? 同じだ。何を迷う? みんなを救いたかったんだろ? 復讐したかったんだろ? なのに、今更、怖いのか? 人を殺すことが。
 オレガノはこの覚悟を持って何事にも挑んでいる。覚悟がなかったのは自分だけだ。
 じゃぁ、次には人を殺す、命を奪う覚悟が持てるか? 自身が今度は憎まれる側に立てるのか?
 ……自信がなかった。出来ない、気がした。