TINCTORA 005

013

 キラはオレガノやナックがいないのでおもいっきり街を探索した。
 あの人がどこにいるかわからないがきっと会えると確信していた。それはきっと、人ごみにまぎれてか、誰もいない通りか、どちらかしかないと考えていた。
 だから今回は裏路地をひたすら進み、住宅街の暗く、人気のまったくないしーんとした小道を歩いていた。
「お嬢さん、何をお探しだね?」
 キラはかなり驚いて声にするほうを振り返った。暗い路地に黒いスーツを着た男がゆっくり紫煙を吐きながらキラに声をかけていたのだった。
 さっき通ったときは誰もいなかったのに。
 キラは男を恐れて一歩後退したが、何かわからない興味も同時に感じ、そこで止まった。
 男はスーツだった。なら、どこかの貴族の使用人。金に困っているわけでも、キラの体が目当てではない。礼儀のある人種だ。
 よく見れば男の清潔さや品のよさが格好で窺えた。髪は金糸のように淡い金髪でまっすぐ伸び、手入れが行き届いている。暗い影の中では金髪は白髪に見える位だった。髪は背の中ほどまで伸び、やわらかそうな印象を受ける。黒いスーツは釦がひとつ残らずきっちり閉められていて黒いネクタイもしっかり結わえられ、まっすぐスーツの中に収められていた。
 立ち姿も礼に適っていて優雅だし、手袋は貴族の従者特有の白だった。肌は白く目は暗く、深い緑色で淡い金髪によく映えていた。男はキラの答を待つように煙管を口に含む。
「人を、探しています」
 男は緩やかにかといって不快にさせない笑みを漏らした。
「人ですか。貴女の探す人はこんなところにはいませんよ。ここは影が支配する場所だ。早々に去ったほうが貴女のためですよ」
「そ、そうですか。ご親切にありがとうございます」
「いえいえ。あぁ、貴重な貴女の時間を浪費させてしまいましたね。申し訳ない。お詫びにこれを差し上げましょう」
 男はそう言って何もなかった手のひらに赤い薔薇を一輪だした。
「よく、お聞きなさい」
 キラは男が始めより近づいていることにも不思議を感じずに男の声を聞いていた。
「この花を窓際に窓から見えるように活けなさい。月に当てるのです。三日後に新月が訪れます。そのときに薔薇の花をうまく毟って寝る前に全て口にするのです。ただし、花びらを一枚も零さぬよう、気をつけて。さすれば、待ち人と夢で出会えますよ」
 キラは虜になったように男の声を聞き、それをすんなりと頭に入れた。
 薔薇を受け取る際に棘が刺さった。その痛みでキラは男がこんなに近づいていたことに今更驚いた。
 男はやさしくハンカチでキラの血を拭うと微笑んでいった。
「申し訳ない。悪戯な薔薇だったようだ」
 キラははぁ、と頷いた。
「では、ごきげんよう。お嬢さん」
 男は笑ってキラを見送った。キラは礼を返して歩き出す。光のほうへ。にぎやかな街へ。
「新月は三日後、お忘れなく……」
 さわりと男の声が響いてキラはばっと振り返った。が、男の姿はすでに無く、風さえ通りにはなかったように何も変化していなかった。キラの手に真っ赤な薔薇を一輪残して……。

「相変わらず悪趣味な芝居だったぞ」
「言うね、君も。まぁ、これで、目的は果たした。受け取りたまえ」
 コクマーは先ほどキラの血を吸ったハンカチを出すと手を翳し、力をこめた。するとキラの血が白いハンカチから珠のようになって離れ、ビナーが差し出す手のひらの上に浮かんだ。
 ビナーは無言で頷くとすぐさま、術式を開始する。ビナーの長い前髪が術の圧力によって持ち上がりアクアマリンのような澄んだ淡い水色の瞳がちらりと覗く。
 キラの一滴ほどしかなかった血の珠はビナーの術によって抗うようにその質量を物理的にありえないほど増やして縦に伸び、また横に伸びてビナーの腕に絡みついたりはじけたように拡散したりした。
 その一部始終をビナーは無言で見ている。隣のコクマーはそれを含み笑いをしつつ見ていた。
 しばらくして、ビナーの周りから風のようだった術の圧力が消えうせ、術式が終了した。
 もとの珠に戻った血はビナーの手に上で嘘のように動かない。ビナーはコクマーに血を返した。
「わかったかね?」
「ああ。理解した。確かに彼女はティフェレトの影だな。間違いない」
「何故、そう思うのか説明していただいても?」
「構わん。が、場所を変えるか。さすがに往来でここまでやってしまったのは我としても迂闊であった。興味とは何時も人に警戒を失わせるものだな」
「違いない。部屋は取ってある。行こうか」
「仕方あるまい。お前と一晩過ごすことにはなろうがな」
 ビナーはため息をついて了承する。
「嫌だったのではないのかね? 私としてはうれしい限りだが」
 ビナーは鼻で笑った。
「我も動物の本能には逆らえんよ。誰しも持つ欲だ。我とて、行為自体は嫌いではない。お前が相手なのが不満なだけだ。……それに言っただろう? 興味は警戒を亡くすと、な。今回も期待している」
「流石、わかっていたかい? 私が、君のために集めた世界の欠片を」
「無論だ」
 コクマーは満足げに紫煙を消すとビナーの手を恭しく取ってビナーを引き寄せると魔法陣の中に消え去った。

 ナックは自室に戻ってうなだれていた。まさか、自分たちのせいでティラがあんな目にあっていたとは。それに何より、自分に向けられた憎しみの目がナックには信じられなかった。
 思わずため息が漏れる。そこに隣の部屋から音がした。キラが帰ってきたのだ。ナックとキラは部屋が隣同士なのである程度、例えば相手がもう寝たとか、行動が読める。
 一応、キラにも報告しておかねばと思い、ナックは重い腰を上げた。
「キラ、いいか」
「うん」
 ナックは返事を聞いてから部屋に入る。風が頬をなでて珍しくキラが窓を開けていると知った。窓を見れば赤い薔薇が一輪活けてある。
「……綺麗だな。薔薇か。買ったの?」
「ううん、これは今日町で貰ったの。あ、で、何の用?」
「あ、ああ。……座ってもいいか?」
「どうぞ」
 キラは笑っていすを勧めてくれた。ナックは思いつめていたことをゆっくり吐き出した。
「今日、助けたファキのみんなに会ってきたよ」
「ああ。そうだね。誰だった?」
「村長さんや、俺の親父さまもいた。……その中にな、ティラがいたんだ」
「ティラ……あぁ、アザン君!」
 キラは手をたたいて言った。
「俺たち、ティラに助けてもらっただろ? それが、軍にばれてティラは処刑で殺されるところだったんだ。俺たちをすごく、憎んでたよ……」
 キラは無表情になる。
「それで、ティラは私たちに何をしてほしいのかな? 罪滅ぼし? 何も悪いことしてない私たちが?」
「……そういうことじゃないと、思うけど……」
「っていうかさぁ、ナックもっと喜んだら?」
 キラは笑っていた。
「自分のお父さん助かったんだからさ。ティラがどうしたの? いいじゃない、別に。捕まったのは彼が馬鹿だったからよ。気にすることはないわ。それとも何? ナックは自分の境遇も忘れてティラに何をしてあげられるの? ナックも私もティラもみぃんな、罪人なんだよ? 彼に何かする前に自分が助かる方が先だったじゃない。だから、彼に助けを求めたのよね?」
 ナックは瞳に怒りの炎を宿したキラの笑顔を見て絶句した。
「確かに、安全になったら、お礼だって借りを返す事だってできるわ。だけど、今は何もできないじゃない。じゃぁ、何がしたいの? 何ができるの?」
「キ、キラ……」
 キラはまた、無表情になってナックに言い放った。
「ナックって、いっつもそう! 肝心なときに覚悟が足りないのよ。自分が生き残るためにはやさしいところを切り捨てていかなきゃだめなんだよ? カナードから聞いた。ナック、この前の作戦で人の死に呆然としてたんだってね」
 ナックの目が驚愕に見開かれる。
「人を殺すのは確かに、怖いよ。だけど、自分が生き残る為には已む無いことなんだよ。ナック、ナックは相手のために易々と殺されてあげるわけ?」
「……そんなこと、ない」
「だったら! 殺して」
「え?」
「殺して、敵を」
「キラ……」
「答えはイエスしか聞かない。ナック、殺して、殺して殺して殺して! ……私の敵を。ナックが死んじゃうのは、嫌なの。だから……殺して?」
 ナックは涙さえ浮かぶキラの顔の裏に何があるのか測りかねていた。ナックにしてみれば心やさしかったキラがこんなに短期間で変わってしまえるだろうか? わからなかった。
「……その前に、一つ答えてくれ」
「いいよ」
「お前はキラか?」
「は?」
 キラが困惑に顔を歪める。
「お前は俺の知っているキラ・ルーシか?」
「そうだよ、ナック」
 キラの笑顔にナックはまだ、この少女がキラだと感じられた。だから今はそれでいい。キラに何が起きているか解らなくても、彼女の望みに応えよう。
「いいよ。キラの敵は俺がみんな、殺してあげる」

 ナックはあれからファキのみんなに会いに行ってないみたいだけど、知ったことではない。
 キラにとってファキは大切な人を失いすぎた過去の産物だった。だから、キラはあの人を求める。
 キラはあの紳士に言われた事を守ってきた。今日がその、新月の晩。手順を間違えなければ私は夢で、再びアノ人と出会える……。
「薔薇の花を……毟る」
 薔薇の花の額片を指で掴んで思いっきり捩じった。
「花びらを零さないように……」
 思いっきり刺に指が刺さって血が溢れ出す。痛みにキラは顔を顰めたが、薔薇を放さなかった。
 ぎりりと花が悲鳴をあげる。それにも耳を貸さずにひたすらに花を鷲掴みにして毟る! 持ち替えたり花弁が落ちないようにしたりしてキラの手には無数の血の筋が走った。
 ぶつっ。
 真っ赤な花がまるで首をもがれた血だらけの人形のようにキラの手の中に残っている。
 キラは両手で花を大事に口元へ持っていった。そしてすくった水を飲むように薔薇を口に含む。結構な大輪だった薔薇の花は一口で食べるには大きい。でも、花弁を落とさないようキラはむりやり薔薇を噛む。
「うっ!」
 吐き出しそうになるが堪える。薔薇は特に味はしないぶん性質が悪い。なにかトマトのようなそこまでではないが植物の生のすっぱいような苦いような甘いような変な味がキラの口腔を埋め尽くしていた。
 キラがいつまでその味に耐えていただろう。気が付くとそこはあの暗い先の見えない黒い部屋だった。
 それに気づいて喜んでいるうちに飲み込んでもいないのに薔薇が口からなくなっていた。
 キラは急いであの人の姿を探す。
 チェスボードのような黒と白のチェックのタイルは永遠に続き天井と四方の壁はあまりにも永遠すぎて見渡せない。ただ、黒い塊があるだけに見える。
 キラは歩を進めようと手を前に出す。すると冷たい感触が伝わってきた。きっとまた、ガラスがあの人と私を阻んでいるのだと。キラはここから進めないとわかるとガラスにべったりとはりついてあの人の姿を探した。
 前は横たわっていた肢体が今は、ない。会えないのだろうか? キラは泣きたくなった。
 が、ふっと冷たいガラスに暖かさが伝わってきた。最初自身の熱かと最初は思った。しかし、見てみるとキラの手に覆い重なるように白い手がガラス越しに重ねられているのだった。その手に気づいてキラははっと正面を見る。
 すると深い深い闇夜を孕んだが蒼穹の瞳がキラを眺めていた。それは写し絵のようにキラと同じ姿を取っていたキラの求める人だった。
「あ、あなたは……」
 キラはもしかしたら声が聞こえないかもと思いつつも緊張にかすれた声を上げた。
「……」
「わ、わたしは、キラ。ずっとあなたに会いたかったの。こ、この前は……」
 キラは真っ赤になっていることを自覚しつつ、弾丸のように一気にしゃべった。
「エロハ」
「え?」
「ぼくの、名前……」
「エロハ……」
「そう。でも、誰も知らない、ぼくの本当の名前。だから、誰にも教えないで」
「わ、わかったわ」
 本当に声まで美しい人だと思った。外見に合う鈴を鳴らしたかのような涼しい声だった。
「君は、ぼくの影なんだって」
「影?」
 エロハはキラを見ずに下を向いたまま言った。キラは睫毛が翳った様子も素敵だなとただ考えていた。
「そう、オナジ存在なんだって。表と裏。照らさせるものとその影。だから、ぼくは君できみは僕」
 キラは混乱していた。現実のように拒絶されはしなかったが言っていることの意味がまったくわからない。
「それって……」
 ん? と尋ねるようにエロハは小首をかしげた。その動作がまた、かわいらしくてキラは何も言えなくなってしまう。それをごまかすようにキラはおずおずと自分の欲求を言ってみた。
「わ、わたし、あなたに触りたいの。いけない事かしら?」
 現実に会ったエロハよりは夢のエロハの方が幼い感じがする。ある程度のことは笑って許してくれるような、そんな気分にさせる。
「どうやって触るの?」
 エロハは微笑んで言った。確かに二人の間にはガラスが会って直接触れることは不可能だった。そんなことを失念するほど、キラのそばに今はエロハがいて、ぬくもりを感じられるのだった。
「そ、そうだね。わたしはここから出る方法を知らないの? 貴方は知らない?」
「知ってるよ。だけど、ぼくは自分でここから出ない」
「……どうして?」
「ぼくはケテルのモノだから自分ではここから出ない」
「出れないんじゃなくて? ケテルって誰?」
 キラは少し自分とエロハの時間を見知らぬケテルとやらに邪魔されたようでイラついた。
「ケテルはぼくの主。だからここから出ない。ケテルに見放されるのは嫌だから。でも、ぼくはここから出ないけど、君はここに入ってくることが出来る」
 キラは少々驚いてその方法を問う。
「キラが仲間に……ううん。君がぼくの影になればいい」
「え? だって、さっきわたしはエロハの影って言わなかった?」
「詳しいことはぼくにはよく、わからない。仕掛け人が知ってるよ。また、会いに行けばいい」
「仕掛け人って?」
 キラは急速にこの場所が明るくなっている事に気づいた。同時にエロハの影が、姿が薄くなって消えてゆく。
 キラは焦ってエロハに言おうとした。まだ、終わらないでと願いながら。
「君を夢に招いた……」
 しかしぱぁっと光が闇を切り裂いた。エロハの声も姿も部屋自体も何もキラには認識できなくなってキラ自身も自分が認識できなくなった。
 ――目覚めだった。キラは夢が唐突に終わり、そして朝が来た事を知った。これほどまでに光と夜明けを憎んだことはなかった。
 でも、わかったこともあった。彼の名はエロハ。わたしが仕掛け人に会いに行けば、彼とまた会える。そして、触れられるのだ、あの人形のような綺麗な人に。
 夢の仕掛け人はきっとあの裏路地で出会った紳士だろう。
 キラはまた、あの陰鬱とした場所に行く事を決意した。

 また、同じ時、ベッドで目覚めた者がいた。ティフェレトである。
「どうして……」
 彼は擦れた声で呟いた。
「どうして、何でまた……?」
 彼は青ざめた表情をしていた。まるで悪夢を見た人のように。ティフェは額を手で押さえ、汗を拭うこともせず、険しい顔つきで虚空をにらんだ。
「んん? どしたぁ?」
 寝ぼけ声でとなりのベッドからゲヴラーが声をかける。それに答えず、ティフェは立ち上がった。
「ケテルのとこに帰る」
「はぁ!?」
 ゲヴラーは一気に眠気が覚めたようで起き上がった。
「大丈夫。すぐ、帰る」
「どうかしたのか? 報告にはまだ時間あるだろ?」
「あの女の夢を見た。また、拒めなかった……。アレが影ということ? ぼくの存在をあいつは揺らす! 怖いんだ。今までにそんなこと……なかったから」
 ティフェの声は小さく、次第にか細くなった。ゲヴラーはティフェに近寄り、そっと抱きしめて子供をあやすように背中をやさしく叩いた。
「大丈夫だ。ケテルが何とかしてくれるよ。ゆっくりしてくるといい。俺、ここで待ってるから」
「うん。ありがと」
 ゲヴラーは笑って、ティフェから離れると彼のために窓を全開にした。
「行ってらっしゃい」
「うん」
 ティフェは窓から飛び降りる。暁の空に黒い肢体が鳥の如く飛ぶように建物の上を走っていき、すぐに姿を消した。
「影かぁ。ティフェがあんなに動揺するのか……」
 窓の外を眺めながら、ゲヴラーは嗤う。
「俺の影はどこにいるんだろうなぁ。……あはっ!」
 満面の笑顔は子供のようだった。ただし、その目だけは赤く爛々と輝き、殺気を放っていた。
「そろそろ、俺、限界なんだけどなぁ、ホド」
 呟く声でさえ愉しげだが、知る者へそれはある種のカウントダウンであると伝えていた。