TINCTORA 006

016

 サロンにはケテル、ホド、イェソド、マルクトが集まっていた。
「どのような策か教えてくれる?」
「ケテルはファキの生き残りがティフェの影がほしいと言ったね。僕はそのためにティフェには少々辛いけどティフェの影がティフェに付き従うようにした。それが完了したらすぐにでも捕獲できるようにね。コクマーも僕の思うように動いてくれた。全ては僕の思うままに進んだ。ケテルは僕にできるかと聞いた。いまその期待に応えよう。君のために準備はすでに完了した。あとは君のしたいように、マイン・ヘル」
 ホドはそこで優雅にお辞儀して見せた。
「マルクト、君はコクマーの元に皆を運ぶんだ。イェソド、君はティフェの姿をとって。あとは知識者の術に干渉すればすべてが君の意のままだよ。そう、僕は仕向けたからね」
 ホドの言葉にイェソドは、はぁいと返事して一瞬にしてティフェが姿を現す。しかしこれはイェソドが化けた姿であり、本物はまだベッドで寝ているはずだ。
 マルクトがケテルとホドに頷いて両手を下に向ける。
「いってらっしゃいませ」
 ホドが笑って見送る横でマルクトの足元から鮮やかな緑色の魔方陣が現れる。それは大きく広がってケテルとイェソドをも包み込む。そこで若草色の光が魔方陣から立ち上がるように螺旋状に回転する。
 術の圧力がホドの前髪を揺らし、中にいるケテルたちの衣服を躍らせる。が唐突に光が収束を始め、それと同時に魔法人の中にいた者らもみんな消え去った。移動したのである。

 キラはようやく開放された、と考えていた。
 なぜならもうどうでもいいファキのことにつき合わされたからだ。
 そしたらナックの友人が襲ってくるし、ナックは落ち込んでしまうし、と思ったら今度はまたファキの処刑だ。
 もう関係ないんだから。そう思わなければキラは自身を保てなかった。キラはファキで息苦しかった。なぜならみんなの望むキラを自分である程度演じていたからだ。
 すべて演じていたわけではない。本当の自分もある。でもいつか、私が自分をさらけ出したらファキのみんなはどう思うか気になって自分を押し込めていた。
 朗らかに笑って親切で明るい自分。友人が多くて気立てのいい自分。違った。本当は腹が立てば悪口を言いたかった。器量良しじゃない周りの女の子を陰で笑っていた。何であんなこともできないのかしらって。でも実際は大丈夫、次はきっとできるわ。コツがいるのよね、この作業。なんて言って励ましてたりした。
 こんな自分がいるとファキにいたころは気付いてなかった。いることは何となく気づいてたけど気にすることはなくて本当の自分がいい子の自分に自然に塗り替えられていた。
 ファキが滅んでメッキが剥がれた。本当の自分にようやく出会えた。自分にとってファキはそんなに大事なものではなかった。
 それならばどうして復讐したいなんて泣いたんだろう?
 わかっている。ナックのせいだ。ナックは私みたいな子って気づいていたからだ。きっとナックにも私と同じ部分がある。今はない。きっと眠っている。でも目覚めたら私たち本当に友達になれる。自分を隠さなくていいのはなんて素敵なことかしら。
 だからナックの本当が見たくてティラを殺させた。でもナックの本当は目覚めなかった。引き金は友人の命では軽かったのだ。
 キラにはしたいことが二つある。エロハに触れ、共にいること。ナックの本当をさらけ出してナックの本当に触れること。
 ティラの件でナックの心の封印は硬いとわかった。別の策が必要だろう。だから今はもうひとつの欲求を満たす。
「夢の仕掛け人に会いに行く」
 キラは薄暗くて人気のない裏路地に足を踏み入れていた。しばらく歩いていくと暗さと静けさが増していく。昼真っ只中なのにここは建物が作り出す影のせいでひやっとした冷たいか感じを覚える。
 暫く歩くとこの前紳士に話しかけられた通りに出た。ここで何も知らないように歩けばきっと声をかけてくるだろう。
 そう考えていたらキラの思うことがわかっているとでも言いたげに紳士が紫煙を吐き出して立っていた。
「どうかなさいましたか」
「会えると思ってました。教えていただけますね」
 キラは自分から紳士に歩み寄った。
「何をお知りになりたいのですか? 私が知っていることなら喜んでお教えしますよ」
「ならば、教えてください。彼に現実で会うためにはどうすればいいんですか?」
 紳士は微笑んだ。
「その男に問うとろくな事にはならないぞ、娘」
 どこからともなく女の声が聞こえた。キラは辺りを見回したが姿はない。紳士は何事もなかったかのように笑っているだけだった。
「ビナー、邪魔したいのかどっちなのだね?」
「まだ気づかぬのか。黒煙の影も堕ちたものだな。我はお前のためを思って邪魔してやっているのだ。感謝してほしいところだ」
 女の声が聞こえたと同時に紳士の隣に金髪の変な格好をした女が現れた。変な格好というよりかは斬新な格好かもしれない。
「ははぁ、ホドか。私はまんまと踊らされたわけだね。期待に添うと言った手前、仕方ない。手を引こうか」
「賢明な判断だ」
 そういって紳士と女は唐突に消えてしまった。キラは驚き、どうすればいいかわからなかった。
 そこに緑色の光が突如地面から立ち昇る。キラはもはや何もいわずに逃げることも忘れてただ起こっていく事態を見つめていた。緑の光が消えるとそこにはキラ以外の誰かがいる気配がした。
 振り向いて確認しようとする前に通りの向こうで緑の光が煌めいた。キラが見ていると光の中から何とエロハが現れた。
 紳士はキラに何も語ってはくれなかったが代わりにキラの望みを叶えてくれたのだった。
 キラは駆け寄っていこうとしたが、何かがキラの足を止めた。それはキラでも説明できない変な感情だった。
 エロハがすぐそこにいるのに、アレはエロハではない気がするのだった。
「彼が欲しいかい?」
 キラのすぐ後ろで幼い声が響いた。それは耳に直接息を吹き込まれ、囁かれているようにその者の声も、吐息もキラに感じ取れるほどその者はキラの近くにおり、キラに気取られずに立っていたのだった。
 キラは誰か確かめようと自分のものではないようなこわばる体をむりやりゆっくりと反転させた。まず始めに目に入ったのは風に流れる明るい栗色の髪だった。キラより少し背の高い少年だった。
 少年は自然にキラの体に腕を絡めキラを拘束する。しかしキラはそれが嫌ではなかった。
 どちらかというともっとしてもらいたいような恋人同士の抱擁のように感じられた。少年の瞳は鮮やかな空色をしており高級なトルコ石のようだった。
「あなたは……だれ?」
「僕は君の望む者の主」
「私の望む者……エロハのこと?」
「エロハ? あぁ、コクマーは君にティフェの神名を教えてしまったのか。後で怒ってやんなきゃな」
 少年は愉快そうに一人で呟いてキラを改めて覗き込んだ。
「君は彼をエロハと呼んではならない、時が来るまで」
 キラは唯一のあの人の情報を奪われ悲しくなった。が少年に逆らうことは何故か出来なかった。
「悲しまなくていいよ。これから君はもっとティフェの事を知っていくんだから。ただ、神名は重要なんだ。そう多用して日常に呼んでいいものではないってこと。わかる?」
 キラはよくわからないがとりあえずなんとなく頷いた。
「いい子だ。これから彼を呼ぶときはティフェレトと呼ぶ事を許してあげる」
「ティフェレト?」
「そう。美を意味する」
「あの人にぴったりね」
 キラは微笑んだ。少年も微笑む。
「さて、始めの問いに戻ろうか。彼が、ティフェレトが欲しいかい?」
 少年はそう言って道の先に立つ人影を示した。
「欲しい。触れたい」
「残念だけど、ティフェは僕のなんだ。君には譲ってあげないよ」
 少年は嗤ってキラに言い放つ。キラは少年を見つめた。
「あは、哀しそうだねぇ。可哀想だね。じゃ、君の望みが叶うかは君とティフェ次第だけど、僕は君を僕らの愛玩動物にしてあげようか? キラ・ルーシ」
「どういう、こと?」
 キラは冷静な判断ができなくなっていた。麻薬中毒のように目の前にいる青年を求めている。もはや、どうして少年がキラの名を知っているのかさえどうでもよかった。
「君をティフェの側に置いてあげる。そうだね、毎日ティフェに会えて話ができるくらいの位置にね」
「それでも、いい。あの人の側に……」
「あはは。これはすごいね。賢帝が美女に溺れて道を見失うのはこういうことなのかぁ」
 少年はひとりでに笑う。そしてキラの目を離さず言った。
「では、僕のモノとなれ」
「……はい」
 少年はそこでキラに絡めていた右手を離しその手でキラの目を覆った。キラには暗闇が訪れ、何も見えなくなる。
 しかし、キラにはきっと向こうに今も立っているあの人、ティフェレトが見えていた。
 ――今、ゆきます。キラは心の中でそう呟いた。
『今からはじめるは、我と汝が契約。汝、我がモノを欲する時、我は汝の願いを叶えよう。汝は我に対価として我に汝の存在を渡せ。我が名は生命の樹の頂点に位置す者にして王冠、ケテル・フォン・イ・クレイス、汝の願いを叶えるもの。汝の名は生命の樹の中央に位置する美の影、キラ・ルーシ。……堕ちよ』
 視覚が閉ざされ聴覚が鋭敏になった耳に悪魔の囁きのような甘い少年の声が響いた。
「はい」
 答えた瞬間、キラは意識を失い崩れ落ちた。少年はそれを抱きとめることすらしない。
「捕まえたよ。ティフェ、君の悪夢の正体を」
 ケテルは嗤ってキラを見下した。
「終わったの?」
 マルクトがキラを珍しそうに覗き込んでいる。
「ああ。イェソド! もういいよ」
「は~い」
 イェソドの姿がティフェから可憐な少女に変化する。歩いてケテルの下に来た彼女にケテルはキラを運ぶよう示した。
「コレがティフェの影? 頷けるけどあまりにも……」
 マルクトが首をひねった。イェソドはそんなマルクトに絡み付いている。
「そう、それでもティフェの影なんだこの女は」
 ケテルの仲間を見る目つきとキラを見る目つきはあまりにもかけ離れている。
「ケテル、コレ、嫌い?」
 イェソドがそんなケテルの様子を見てたずねた。
「うん、嫌いだよ。だってティフェを苦しめたからね。イェソドはどうだい?」
「ティフェレト、虐める、イェソド、嫌い、ケテル、一緒」
「そっか」
 笑ってケテルはイェソドを撫でた。イェソドがすっとマルクトから離れる。
「長き道のり、転じて急ながらも短くなるだろう、迎えよ。新たな部品を。さすれば大儀成就せん。次なるモノは赫き血潮に潜む影。力は影を落とさん、助言を与うることなかれ。血潮には血潮を以って応うるべし」
 がらりと口調を変えてイェソドが呟く。その目は遥か彼方を見つめており、どこまでも冷たい。ケテルはマルクトに視線を合わせた。これがイェソドの『予言』である。
「どういう意味?」
「……さぁ? でも時が来ればわかるよ。イェソドの予言はそういうものだから」
 ね? とマルクトが言うと嘘のように幼い声で少女は頷いた。すっかり元通りになりイェソドは再びマルクトにくっついている。
「やれやれ。まぁ、目的は達したし、帰ろうか」
「賛成」
 マルクトが笑って頷くとイェソドも釣られて笑う。緑の魔方陣が再び足元で発行し三人とキラを連れ去った。後には何も残ってはいない。

 その夜、キラは帰ってこなかった。
「オレガノ、キラを知らないか?」
「いや」
 忙しいオレガノがキラの事を知っていようはずがない。しかし、ナックは聞かずにはいれなかった。
 キラとはファキを離れてからずっと一緒だったのだ。クミンシードではそんなに同じ時間を共有しなかったがナックにとってキラは重要だった。
「だよな。昨日、帰ってこなかったんだ」
「何? お前に告げずにか?」
「ああ。もしかしたらオレガノなら知ってるかと思ったんだが、悪いな、邪魔して」
「いや。いい。見張りには聞いたか?」
「帰ってきてないらしい。ま、明日まで待ってみるよ。友人がいて泊まってたりするかもしれないからな」
「わかった」
 しかし、キラは三日経っても、一週間経っても帰ってこなかった。
「キラ……」
 ナックはこれはただ事ではないと感じた。オレガノもそう思ったらしい。連絡くらいあってもいいのに。
「ナック。悪いんだが今はキラに時間は割いてやれない」
「わかってる」
「だから、お前とカナードでキラをできる限り探してくれ。何か相談があったら遠慮なく言え」
「ああ、有難う」
 ナックもオレガノにレジスタンス全体でキラを探してもらおうとは思っていなかった。
 現在、ファキの者が見境なく殺されているのだ。後手に回らざるを得ないオレガノたちはいまだに有効な解決策を見出せていない。オレガノたちも焦っているのだ。
「どこにいるんだ、キラ」
「ナック」
 カナードがナックに気づいて声をかける。
「カナードはオレガノから聞いているか? キラがいなくなって……」
「大丈夫。協力するさ。手始めにキラが数日姿を見せていた所を聞いてきた」
「本当か? カナード、お前ってすごい!!」
「当然」
 勝ち誇ったようにカナードが背を仰け反らせる。カナードの冗談が今のナックのはありがたかった。
「本当にありがとな。カナード」
「やだなぁ、しんみりすんなよぉ。きっと見つかるさ、キラなら」
 カナードは笑ってナックを外に連れ出した。

 ドゥーイ・ヴァイゼンは信じられない光景を見ていた。それは友人のオーレル・エシャロットもおなじだった。
 何故か罪人である自分たちを助けてくれたレジスタンス。その中には息子とルーシの娘もいた。
 父親として安心したが、同時に複雑だった。いつ命を落とすかわからない境遇に実を置いていることに。本来ならば処刑から逃れて生きているだけでも良しとしなければならないのだが。
 しかし、現在二人はレジスタンスが匿っていてくれる小屋の中で信じられない光景を目にし動けずにいた。それはレジスタンスのメンバーがたった一人の武器さえ持たない男に次々に昏倒されていったことだった。
 男は笑いながら踊るようにメンバーを倒していく。
 殺すことは目的ではないらしく致命傷は避けているものの昏倒のされ方が酷かった。鈍い音を立ててめり込む内臓音。恐怖に近かった。
「やぁ、こんばんは。ファキのみなさん」
 男がこちらを向いた。男は白髪に真っ赤な瞳をした化け物のような姿をしていた。
「あ、怖がってる? 大丈夫。殺さないから。俺は親切だからお前らに貴重なそこのレジスタンスが内緒にしてる情報を教えてやりに来たんだ」
 二人は何も言わずに男の言う言葉を待っていた。
「知らないだろう? 今な、今回の主犯であるお前らが逃げたことに王はお怒りだ。お前たちが逃げ続け、火刑台から逃げる限りファキの民は全滅するぞ」
「……どういうことだ!?」
「王は言った。お前ら火刑囚が戻ってこない限り処刑を待たされている残りのファキの者は日に五人ずつ位殺す、と。首がさらされるんだ。しかも、女子供関係なし! やー、サルザヴェクⅣ世怖いねぇ」
「何だと!!」
「お前らさえ逃げなければ残りのファキの者は命だけは救われる手はずだったのに、残念、残念」
「それは本当なのか?」
「もちろんさ。今日までに女が20、子供は15、男が23殺されたぞ。信じるかはお前らの勝手だけどな」
「ば、馬鹿な!!」
 ドゥーイは怒鳴った。男は笑っている。
「どうする? それでもまだここでのんびりしてるかい?」
「そんな訳には、いかない!」
「だよなぁ?」
 男は笑ってレジスタンスからナイフを二本寄越してきた。
「レジスタンスがお前らの行動を邪魔するならこれで殺してしまえ。お前らはファキが大事だろう? いつ行動に移すかは自由だぞ。ここにいるお前らの見張りはもう、みんな死んでるからな」
「!?」
 改めてドゥーイは倒れるレジスタンスのメンバーを見た。死んでいたなんて。確かにあの音はありえなかったが。恐怖で男を直視できなかった。
「あ、俺が殺してないと思った? いつもは斬殺が好きなんだけど今回は客がいるしね、汚しちゃまずいだろ? だから撲殺にしてみました」
 明るく言われたって恐怖は増すばかりだった。
「うーん。俺がいると怖くて動けないか。仕方ないな。ま、確かに伝えたぞ。じゃあな」
 男は扉を開けて堂々と出て行った。男が出て行っても二人は息ができなかった。動けなかった。男が出て行ってからかなりの時間がすぎて二人はようやく息を吐いた。