TINCTORA 007

021

「マルクト、ティフェ、出てった」
 イェソドが言った。マルクトが時計を見てそんな時間だな、と思った。先ほどの悲鳴の原因はある程度予測できるし、放っておいたのだ。
「ケテル、ティフェ、大事、安心。イェソド、理解、する」
「そっか。イェソドが言うなら大丈夫かな? ただ、ボクはティフェが可哀想なんだよ。あの子さ、人形っていうよりかは迷子みたいなんだもの」
「迷う……? 違う。ティフェ、無い、者」
「何がないって?」
「ココロ」
 マルクトは脱力した。
「言ってることケテルと一緒じゃないか」
『血を汲む水車が動き出す時……』
 マルクトはイェソドの急激な変化に驚く。今日ついさっき予言をしたばかりだ。いままで一日に二回予言をしたことは無い。
『愛玩人形は再び殺戮の兵器とならん。血の涙を流し、血の翼を生やして人形は唄うであろう。その詩がどんなに哀しくあろうとも壊してはならぬ。堪えるべし。さすればその存在は昇華され、汝が望む者となろう』
 それを言った瞬間にイェソドはぱたりと気絶する。あわてて脈をとり生きていることを確認すると安堵して、息を吐いた。
 そしてティフェの見送りに行った主人を追いかける。
「愛玩人形ってどう考えてもティフェのことじゃないか……!」

「行ってらっしゃい」
「うん」
 ケテルはティフェレトの顔色が悪いのに気がついていた。キラに迫られたりでもしたのだろう。
「ゲヴラーは人を殺したがっている節があるからちゃんとティフェが止めてあげてね」
「うん」
 行ってらっしゃいとキスを与えようとすると珍しいことに拒絶された。不思議に思って尋ねる。
「どうかした?」
「……ケテル、ぼくは……何だったっけ?」
 唐突に言われたのでケテルは何を聞かれたか理解するのに時間を要した。
「僕が知っている限りでは君は兵器だったよね? 軍人がそう言ってた」
「兵器、だから人を殺せる。ケテルの所有物だから人を殺しても罪にはならない」
「そうだよ。どうかした?」
「ケテルはキラを殺したらぼくを怒る?」
「さぁ? その時にならないとわからないな」
 しれっと答える。
「ぼくは、何だろう……」
「ティフェ?」
 自分の手を見てつぶやくティフェにさすがのケテルも心配しはじめる。
「行ってくる」
 ケテルとも眼を合わさずにティフェは出て行った。ケテルはすこしその背に不安を感じた。
「ケテル!」
 背後から人の走る音とマルクトの声がした。
「どうしたの? すぐ戻るって言ったけど?」
「ティフェは、行っちゃった? ああ、残念」
 マルクトはそう言って肩を落とす。
「実はね、イェソドが予言を出したんだよ。内容がどうも、ティフェのことっぽいから教えとこうかって思ったのに……」
「予言!?」
「そう。一日に二回も言うなんてボクも知らなかったからさ」
「内容は?」
 ケテルは不安が増していくのを感じた。何気ないぞわぞわした感じ。
「ええっと、確か……血を汲む水車が動き出す時、愛玩人形は再び殺戮の兵器となるだろう。血の涙を流し、血の翼を生やして人形は唄うだろう。その詩がどんなに哀しくても壊してはいけない。堪えるように。そうすばその存在は昇華され、お前が望む者となるだろう……だったかな」
「……殺戮の兵器……!」
 マルクトはケテルの顔色が一気に悪くなったのを見て驚く。
「ねぇ、どうしたの? ティフェって一体何なのさ?」
「実はね、僕もそんなにティフェのこと、知っているわけじゃないんだ。ティフェは僕と出会ったときにはすでに自分の記憶を失っていて……。後でねちょっと軍人とごたごたがあって彼が兵器という存在だってこと位しか知らないんだ」
「……兵器」
「そう、兵器らしいんだ。でもティフェのことを知っていそうな軍人はティフェがみんな殺しちゃったし、帝國軍の軍服を着ていたからどこの部隊かもわからない」
「ネツァーは? 軍人でしょ?」
「いや、彼女はアイドルみたいなものだから軍の表しか知らないよ。ホドの栄光を支えるための手段の一つでしかない。……こんなに嫌な感じがするのは初めてだ。僕らはとんでもないものを起こそうとしているのかも……」
 ケテルはそれでも笑っていた。
 ――これから起こりうることに好奇心を覚えずにはいられなかった。

「次の人はその人の屋敷に行かないのか?」
 ナックはクァイツに尋ねる。昨日、ラスメリフ家と取引を終えたばかりだ。しかも取引は無事に終わったにも関わらず、次の相手を探している。
「ラスメリフ家との取引に一番ってあっただろう? 勲章が届くまで次の資本家の存在は隠しておかなきゃいけないんだよ。コンサイス公の言ではラスメリフ家はそれほど資本家としての機能は果たせないだろうから次の資本家を探しておくようにって言われているんだ」
 ナックは怪訝そうな表情を見せる。
「たしかにラスメリフ家はお金をそんなに持っていなさそうだった。じゃ、なんで一番の取引を彼らにしたんだ?」
「そこは主の教えに従って、弱き者を助けよ、ってことかな?」
「納得できないぜ? あ……もしかして……」
「わかった? 当主が女で主人がいないなんてこっちはお見通し。より有利に働くようにこちらが優位に立っているようにするには最初の交渉のカードが次回からも有効だからだ」
 ナックはきたねぇ~と笑った。こちらはラスメリフ家のことをちゃんと調べてきていた。
 相手にはそれを悟らせないようにして、政治や交渉ごとに慣れていないだろう女主人を巧くこちらが優位に立てるよう画策し、次の相手の時にはラスメリフ家はこの程度で手を打ってくれたのにそちらはずいぶん懐が狭いですね、と次回からも優位に立とうという順番だったに違いない。しかし……。
「だけど、俺……女って甘く見すぎてたと思うぜ?」
「そうだね。彼女はこちらの思惑にはまったく乗らず、しかも自分の要求を通し、対等な立場であると態度で示した。……慣れているみたいだった」
 ナックも頷く。彼女はこちらがどのように言ってくるかを理解しそれに合わせて受け答えを想定してきているかのようだった。
「とても当主を一年前に亡くし、跡継ぎがいないから代わりにやっている風ではない」
「死ぬ前からやってたのかもよ? ご主人が意外と使えなくてさ。あ、それか周りの人……う~ん、執事とかが頭のキレる人なのかも!」
 ナックの答えにクァイツは唸る。
「……そうだと、いいんだけどね。執事とかはいかにも頼りなさそうで、後者は考えられないかなぁ?」
「じゃ、何を疑っているんだ?」
「うん。こっちが巧く操れないバックがいるのかもしれない。だからこそ、彼女は再婚しないで家を支えてこれたんじゃないかなぁ」
 クァイツはそう言った。そんな会話をしていると馬車の音が聞こえてきた。
 今回の相手はラスメリフ家に内密にしなければならないのと異端審問を直接指示している上司の立場であるコンサイス枢機卿と対立する枢機卿の指示に従っている貴族との密会であるから、教会や相手の貴族の屋敷が使えないため、馬車の通り道である林の中で偶然会ったように見せかけて行う。
 クァイツとナックが異端審問官なのに神父の格好をしているのはそういう理由が作りやすいからだ。ヴァチカンの中でもいろいろごたごたはあって神に一番近い信仰の強い者がいるのに争いは耐えない。
 枢機卿の中でも宗派があり、どのようにこれからのキリスト教を導いていくかで意見は対立している。現在半々くらいで異端審問を司るコンサイス枢機卿とヴァチカンの実質的な活動方針を打ち立てているカスター枢機卿が対立している。
 政敵のようにお互いの腹のうちを探りあい、出し抜こうとしている。
 枢機卿の間で争いが本格的になったのは五年前の前教皇が亡くなったときからだ。前教皇が存命のときから表ざたにはならずにコンサイス枢機卿とカスター枢機卿は意見を対立させていた。
 しかしヴァチカンのトップである教皇が中立派であり、穏健派であったために大きな争いは避けられていた。
 その前教皇が亡くなり、当然ヴァチカンは新たな教皇を選出すべくコンクラーベを開催した。教皇として挙げられたのは当然この二人だったがコンサイス枢機卿はこの争いを収めるべく隠し玉を持ってきた。それが現教皇であるヴィント教皇である。
 ヴィント教皇は幼い時から信仰が深く、神父から信じられない速さで枢機卿まで上りつめた人である。彼は現在唯一神の声を聞ける教皇を除いて、神の声を直接聞いたとされる人間である。
 まるでジャンヌ・ダルクのようにその神の教えは現在のキリスト教に偉大な功績を残した。彼が神の声を聞いたと進言したことはその通りになるし、ジャンヌのように不利の戦況で風向きを変え、戦況をひっくり返すということでさえしてみせたらしい。
 キリスト以来の救世主ではないかとさえ噂されている。その彼を教皇に推したのだ。反対する者は少ない。こうして毎回何度も審議を重ねるコンクラーベは一回で決まった。
 ヴィント枢機卿はコンサイス枢機卿の思惑通りに若干、21という最年少の年齢で法王となり前教皇と同じように穏健派として活動している。しかしコンサイス枢機卿の操り人形なのではないかとも言われている。だが実際コンサイス枢機卿の意見を神の御心に沿わないとカスター枢機卿の意見を取ったりしてその存在は宙に浮いたままだ。
 こんな状態では対立は増すばかりでちょっとしたことで争いが激化するのは容易である。よって一応協力体制でも大本と完全に縁が切れねば信用できないし、相手も危ういのである。そんな相手となんで契約するか。それはお互いに利点があるからに過ぎない。
「おぉ、こんなところで奇遇ですなぁ。神父様とは」
「おや、こんにちは。私たちはこれからサンタ・マリア・デル・カルミネ教会で礼拝を待つ信者の皆様がいらっしゃるのでそこに行く途中なのです」
「徒歩でですか? 馬車は?」
「途中で野党に盗まれてしまいまして……。しかしこれも主の思し召し、一日早く出ていて助かりました。予定の日にちには間に合いそうです」
「それは、なんともお気の毒でしょう。ずいぶんとお疲れではありませんか? この馬車はとても狭くて申し訳ないですが、少し休まれてはいかがですか?」
「とてもありがたいですね。しかしご主人様はよろしいのですか?」
「構いませんとも。信仰深くいらっしゃいますから神父様に出会えたことを感謝してしまいますよ。さ、どうぞ。テルメゾンのキュア飴もございますよ」
「それはうれしい。ちなみに何色ですか?」
「蜂蜜色ですよ。神父様は何色がお好みですか?」
「そうですね、紫色でしょうか」
「ちゃんとご用意しておりますよ、どうぞ。中へ」
 テルメゾンの飴とは貴族が好む飴のお菓子だ。香料を混ぜ、色素を混ぜて色とりどりなのが人気らしい。しかし、紫色は高貴な色で存在しない。
 つまりこれが相手を確認するときの暗号だったのだ。穏やかな日常会話のように見えてこれから密談をするための舞台設定にしか過ぎない。
「待っていましたぞ、神父様」
 馬車の中から老いた男性が言った。貴族そのもので豪勢な服を着ている。ラスメリフ家が質素だったのがわかった。おそらくこの老人のほうが位が上なのだろう。
「お待たせしまして申し訳ない。では時間もありませんので早速、本題に……」
「うむ」
 感じ悪いと思わずにはいられない。ナックは神父になってから貴族をたくさん見てきたがみんなこんな感じで庶民のナックには嫌悪感を抱かずに入られなかった。クァイツが書類を出そうとした瞬間に馬が激しく嘶いた。それと共に悲鳴が入り混じる。
「何事だ!!?」
「わ、わかりません! 野党か何かのようです」
 ナックはクァイツに目配せして剣を抜き、馬車から出た。たくさんいた従者はほとんどが先ほどの一瞬で地に倒れ伏していた。辺りは血の海だ。馬まで殺されている。しかし敵の気配は全く無い。
 まるでゴーストかなにかこの世のものではない何かに襲われたかのようだ。辺りはもう静かになっていた。生きている者がいないのだから当然かも知れない。
 馬車にいた人間以外は全員死んでいるみたいだった。しかし異様な静けさがナックにクァイツを警告させる。それを聞いてクァイツが馬車から身を乗り出した。
「まさか、密談がばれたか?」
「そんなことは無いと思うし、ここまでする理由が無い……」
 お互いに警戒していると馬車の中から悲鳴が聞こえた。あわててナックが馬車に近づくと馬車から貴族の老人が転がり出てくる。
 老人にゆっくり近づくモノ。ナックは信じられないものを見た。
「……!!」
 その後姿、姿勢、髪の色……忘れるはずが無い。
「お前!! 赤目の男!?」
「あ~?」
 ゆっくりその後姿が振り返る。赤い眼がナックを捕らえた。ナックを思い出して口元が吊り上がる。
「……久しぶりだなぁ。お前、神父になんかなってたわけ?」
 赤目の男は貴族の男に剣を突きつけて余裕でナックと対峙した。
「キラ・ルーシのことはてっきり諦めたんだと思ってた。会いにこないからさ」
「……どこにいるかも分からないのにか?」
 ナックは赤目の男を睨みつけて言った。
「お前の力不足だろ? まあ、いいや。俺、お前に用があるわけじゃないしさ」
 ゆっくり男はナックから眼を逸らし、貴族に笑いかけた。
「動かないでもらおうか?」
 クァイツが銃のセイフティーを外して言う。
「お! お前ヴァチカンの犬の長か。お前とも遊びたいけど次回にな。俺今回は仕事できてるから」
 クァイツはそれを聞いた瞬間に銃を撃った。避けるはずもできない距離と時間。
 しかし男は剣の切っ先を翻して銃弾をはじき返した。甲高い音が響く。その技にナックは息を呑み、クァイツも信じられないようで呆然とした。
「俺にはそんな玩具は持ち出すな。堪えられなくなっちまう……!」
 ナックは過去にぶつけられた殺気を再び肌に感じた。
「で? おっさんよ、教えてほしいことがあんだ。……スイアースの具体案はどこにある?」
 ナックは殺気に震えつつも男の問いを注意して聞いた。
「な、何故!! ……それを……?」
「どこにある?」
「い、言えん!!」
 貴族は震えながら答えた。剣先が肥えた首に食い込む。
「俺の腕、だんだん痺れてきたよ。剣が滑っちゃうなぁ?」
 わざと楽しそうに言って剣先から血が流れ出す。脅しではなく本当に首に刺しかねない。クァイツは剣が使えない、それをいいことに銃を撃った。
「手を出すなよ」
 赤目の男はろくに銃を見ずに銃弾を素手で受け止めて見せた。
「ありえない!!」
 握りしめた拳を開くとまるで塵のように銃弾が落下した。
「言わないのか? あー、やっちゃおうかな?」
 男の剣を握る手に力がこもる。あぁ、もう助けられない、とナックが思った瞬間に黒い影が赤い目の男の真上から降ってきた。
 その影は男の剣を貴族の男の首から離すと赤い眼の男に言った。
「だめだよ」
 ナックはこの状況なのに新たに登場した男に目を奪われた。ありえないほどの美貌。しかしその美しさには以前にどこかで遭った事がある気がする。
 しかも完全に気配を消していた。ナックだけではなくクァイツも新たな人間の登場に驚いている。一体どこに隠れていたのか。
「止めるなよぉ」
「たくさん殺さないようにって言われてる」
 赤い目の男は残念そうに美しい男に言った。
「ひ、は、ははは!! そうかお前たちは儂がアレのありかを言わねば儂を殺せぬのだなっ!?」
 狂ったように貴族の老人が言った。自分が優位に立っていると思っているのだ。笑って言う男を美貌の男が冷たく見下す。
 そして男が身体を回転、目に留まらぬ速さで男を蹴り飛ばした。
「勘違いしないで。殺せないんじゃない、殺さないんだ」
「そー、そー。ティフェが止めなきゃ今頃あんた、死んでるよぉ?」
 あまりの痛みに貴族の男は悶絶している。胃の中のものをすべて吐き出していた。あの細身からは考えられないような強烈な蹴りを受けたのだろう。
「儂が喋らねば、お前たちは望む物を手に入れられん」
「そしたらお前の家を探すよ」
 赤い目の男は言い切った。お前に聞く必要なんか無い、楽に進めたいだけだと言わんばかりだ。
「ゲヴラー、こいつらは?」
 美貌の男がナック達を指して聞く。
「ヴァチカンの犬だ。密約でも交わすつもりらしいぜ?」
「予定には無いね。……仕方ない、ぼくが相手をするよ」
 男の青い眼が静かにナックとクァイツを捕らえる。
「えー? いいぜ。俺相手しても」
「ゲヴラーがやったら殺しすぎる。今回も全員殺す必要なんかなかったのに……。怒られても知らないからね。ま、いいや。ちゃんと聞き出しといてよ」
「……思い出した! お前、キラの……」
 ナックはそのありえない美貌の主を思い出していた。キラが夢に出てきたとかいって迫った美人だ。その言葉を聞いてその顔が少し歪む。
「お前、その赤目の男と関係あるってことは、キラを知っているな!?」
「ナック・ヴァイゼン……」
 男はナックの名前を言ってみせた。知っているということなのだろう。
「お前、何者だよ?」
「ティフェレト」
 男は静かに言った。
「それ、お前の名前か?」
「……」
 ティフェレトは答えない。その代わり腰からナイフを抜いて構えた。