TINCTORA 007

022

 クァイツが警戒の声を上げる。ナックは剣を構えたままティフェレトを見て、視線を逸らさない。
 張り詰めた空気の中で赤い眼の男の楽しそうな声が響いた。男は貴族の老人を脅している。
「さ、ちゃっちゃと言っちゃいな。おっさん、ごつい手をしてるね。でもその手だって骨があって筋肉があってさ、生き物なワケでしょ? 神は土から作ったって言うけど、土の塊ならいくら壊したってくっ付ければ問題ないのかな? どう思う? 俺がおっさんの手を引きちぎっちゃっても、くっ付ければ問題ないんかな?」
 嗤って男は言う。老人はひっと息を呑んだ。本当にやりかねないのだ。
「そう考えるとさ神ってずいぶん悪趣味じゃね? 粘土をこねるのに赤い水を使うなんてさぁ。でも俺、赤色好きだから意外と神と趣味は同じかも。人間をばらばらにすると赤い水だらけになってさぁ……ほら、あんな感じで」
 男はそう言って死んでいる老人の部下を示す。男は老人を追い詰めて愉しんでいるのだ。
 ナックは男の言いように怒りがふつふつとわいてくる。しかし今は目の前の敵に集中した。
 ナックはこの一年で我慢だって覚えたのだ。ナックはこちらからは動かない。相手がどんな手を持っているか分からない以上は相手のテリトリーに入る愚考は犯さない。ナックは男の動きに警戒する。動くのはいつか、どんな攻撃を仕掛けてくるのか。しかし、その攻撃は思わぬものだった。
 ナックはあれだけ警戒して、注意していたにもかかわらず男が消えたと認識した瞬間、ナックの体は後方に吹っ飛んでいた。
 腹にものすごい衝撃。息が止まり、背が木か何かに激突した瞬間に胃の中のものをすべて吐き出してしまった。
 クァイツはナックに注意を向けず、かろうじて捉えた男に発砲したようだ。頑張って保っていられる意識下で銃声が響いた。同時に甲高い金属音で男がナイフで兆弾させたと知る。
 ナックは朦朧とする意識の中で、歯を食いしばって立ち上がる。せっかくキラの居場所を知るチャンスだ。気なんか失っていられない。
 クァイツは男の動きについていけているのか、ナックのように攻撃はされていない。しかしクァイツも辺りに気を配っているから男を補足できないのだ。
 男は人間の視力では捕らえきれない速度で移動する。そしてその速度はありえないパワーを男の攻撃に付加させる。赤い眼の男は人間ではありえない動きをするのに対し、こちらは行動に説明が付くが信じられない。どちらも人間業ではなかった。
「ティフェ吐いたぞ! 屋敷の地下、金庫番号は3690だ」
 男の声に反応して黒い影が再びナックの目の前に現れる。その瞬間、男の姿は再び掻き消える。
「ナック! 追え!!」
 クァイツが叫ぶ。ナックは痛みを堪えて駆け出した。赤めの男はナックを邪魔することも無く、見送る。
「聞きたいことは聞いたのだろう? 放したまえ」
「正しいこと言ってるか分からないからな。ティフェが帰ってくるまでここで待つよ」
 人質をとられクァイツも安易に攻撃はできない。男はそんな悔しげなクァイツを見て笑っていた。
「お前ら、弱いな」
 男が言った。
「何?」
「余りの弱さにハンデつけてあげちゃおうかって気になってきた」
 男は笑って言う。捕らえられている老人は気が気でないらしくひーひー言っている。
「俺の名前はゲヴラー。さっきの美人はティフェレトっていう名前。お前の部下? か知らないが、ナック・ヴァイゼンが探している女は俺たちのトコにいて生きてるよ? ひどい扱いも受けてないよ。管轄がティフェ……あ、さっきの美人だからな」
 突然何を言い出すのかとクァイツが警戒を強くしても構わずにゲヴラーは続ける。
「キラ・ルーシは好んで俺たちのトコに来たんだ。決して無理強いしたわけじゃない。ってのも、さっき見たから分かるとおもうがティフェがあまりにも綺麗だから一目ぼれしちゃったんだな。でもティフェには恋人がいるから、大迷惑。はやいとこナック君が王子様として救出してくんないかなぁって俺は思っているわけなんで、ちゃっちゃと来てね?」
 満面の笑顔、それは子供のように純粋で、クァイツはぞっとした。

 ナックはあらかじめ貴族の老人の家を知っていたからたどり着けたがそのときにはすでにティフェレトが屋敷の前に立っていた。ナックを待っていたらしい。
「君……」
「お前、キラをどうした!?」
 ナックが声を荒げて聞くのに、静かにマイペースにティフェレトは言う。
「……心配? 彼女のことが」
「決まってるだろ!!」
「そう」
 ティフェレトはそう言うとナックにこう言ってきた。
「逢わせてあげようか? キラ・ルーシに」
「……え?」
「心配なんでしょ? 無事な姿を見せてあげる。ただ、君がヴァチカンに言わなければだけど」
 信用できない。でもティフェレトの瞳は感情を全く映していなくて、嘘か真か判断できなかった。
「ぼくの仲間にも内緒にしなきゃいけない。だから今決めて」
 ナックはどうしようかと思う。だまされているのではないかと疑ってしまう。
「……わかった。逢わせてくれ」
「うん。じゃ、次の新月の晩にここで。一人で来てね」
 ティフェレトはそう言うと姿を消してしまった。ナックは気を落ち着けようとその場にへたり込んだ。

 ゲヴラーは音も無く戻ってきたティフェレトの手にある手紙が握られているのを目にしてにやりと笑った。
「あってた?」
「うん。これさえあればホドも満足すると思う」
「や、約束が違うぞ!? それは具体案ではなく……」
 老人が慌てている。
「おっさん、あの具体案大事なんだろ? 俺たち優しいからやめてあげたんだ。喜べよ」
 ゲヴラーはそれだけ言うと老人の首を跳ね飛ばした。真っ赤な血が噴きあがる。血の雨が降っているようだった。
「な! 何故殺した!!?」
 クァイツは叫んだ。老人は言うべきことは言った。嘘も言ってなかった。なのに……。
「ん? そりゃ、口止め。死人にクチナシってな」
「なんか違う気が……」
 ゲヴラーにティフェが突っ込む。それに笑ってごまかすゲヴラー。
「お前たちは人間を何だと思っている!?」
「玩具。ティフェは?」
「特に何も……」
 クァイツはその飄々とした態度に絶句した。
「さ、お仕事終了! 帰ろうぜぇ」
 ゲヴラーはクァイツを気にすることも無くティフェに言った。
「そうそう、お前俺たちを本気で止めたいなら、ヴァチカンの人間全員よこしな」
 ゲヴラーは右手で銃の形を作るとそれをクァイツに向ける。
「でなきゃ、俺たちが何者かさえ知らずに……それこそ、犬死だぁ!」
 ばん! と笑いながら言うとクァイツの右腕に激痛が走った。血があふれ出す。
 まるで銃に撃たれたようにぼとぼとと血が垂れクァイツは呻いた。それを見て高笑いしつつ二人の男は去っていった。

 この前の襲撃事件後、ナックとクァイツはヴァチカンの異端審問の本部に帰ってきていた。クァイツはゲヴラーに撃たれ、右腕を負傷し、ナックはそのクァイツを補佐しつつ帰ってきた。
「災難だったな、クァイツ、ナック」
 上司であるコンサイス枢機卿が言った。
「いえ、それより失敗しまして申し訳ございません」
「また、次の候補を探す。それより、奴等なのか?」
「はい。ナックも確認しています。赤い眼の男……ティンクトラです。こちらもそれ相応の戦力を用意しませんと、とても敵いません。やつらは人間じゃないです」
 ナックも頷いた。
「君が言うならそうなのだろうが……今ひとつ信じられん話だ。銃を素手でとめるなど……」
「しかし、この目で見ました。トリックも何も無い。魔術の気配も感じませんでした」
「そうか……では戦力増強のために、君の言うとおり異端審問官全員を呼び戻した」
「では、お話いたしましょう。公もこちらへ」
 クァイツは枢機卿とナックを伴い、礼拝堂へ入った。すると中に30人ほどの異端審問間がいた。ナックはこれが始めて見る異端審問官ばかりだ。
「諸君、我らは起たねばならぬ! 主を冒涜し、残虐極まりないティンクトラを殲滅するために我らは一致団結してやつらを討とう!!」
 枢機卿が言うと全員が膝を折って座り十字を切った。
「クァイツ異端審問官長、皆の編成は君に任せる」
 枢機卿はそう言ってあるシスターに促されて次の仕事に移動してしまった。枢機卿がいなくなって緊張が解けたのか皆がリーダーであるクァイツの元に集まる。ナックはそこでありえないものを見た。
「……赤い……目!?」
 すらりとした長身に長い白髪。そして赤い目の男がここにもいた!!
「ナック。驚くな。彼はゲブラー。君の敵の赤い目の男ではない。我らの仲間だよ」
「はじめまして、君が新入りかい? エロヒム・ゲブラーだ。よろしく」
 エロヒムは驚くほど赤い眼の男と似ていた。赤い眼の男の十年後がエロヒムの姿のようだった。それほど似ている。兄弟か何かなのではと疑ってしまった。
「……そんなに似ているか? その赤い目の男と、私は?」
 エロヒムが当惑して言う。
「うん。そっくりだね。君が若いころと瓜二つだ」
 クァイツはそう言ってナックに同意を求めた。
「は、はい」
 よく見ればエロヒムの方が誠実な感じがする。とても笑って虐殺するような人ではない。ナックはいくら似ているからといってエロヒムに失礼だったな、と感じた。
「すみません。ナック・エズベルトです。こちらこそ、よろしく」
 握手を交わしたとき、温かな人だとナックは思った。親切ないい男、赤い眼もそれほど恐怖ではない。そう感じられた。

「お疲れ様、これで計画練れるよぉ。で、どんだけ殺したのかね? 血まみれゲヴラー君は」
 ホドが手紙を受け取って訊く。
「えっとぉ、これは……その、首を刎ねたときの血でぇ……」
「ううん、全員殺した」
「ティフェ~」
 ゲヴラーが情けなく唸る。ホドは朗らかに笑うと言った。
「ま、いいよ。今回僕らが責任取るわけじゃないしね。ありがと」
 自分が苦労しないときはどうでもいいらしい。意外とアバウトなホドだった。
「ティフェ、ケテルが心配してるよ? あとで顔見せてあげてね」
「うん」
 気が乗らなさそうな様子にゲヴラーとホドが反応する。
「どした? けんかでもしたのか?」
「違う」
「……」
 ゲヴラーはティフェが触れてほしくなさそうなのを悟って黙る。
「あぁ! 言い忘れてた。君たちのパスが隣の部屋にいるから、指示出してね」
 ホドは話題を変えるように明るい声で言った。それに合わせようとゲヴラーも明るくめんどくさい、と言い、ティフェを引っ張っていく。
「俺のパスって~?」
 そう言いながらゲヴラーは扉を開ける。すると筋肉質の巨体の男と金髪の美しい女が座っていた。二人を見て男と女が立ち上がって言う。
「はじめまして、ゲヴラー様、テイフェレト様。私はギメル。テイフェレト様のパスにございます。なんなりとお申し付けを」
 優雅に女が礼を取る。貴族のかなりの裕福な女だった。身なりも美しい。
「俺はテット。ゲウラーさんのパスっす」
 ゲヴラーはテットの筋肉を叩いたりして遊んでいたがティフェはギメルの舐めるような視線に眉をひそめた。
 女はたしかにものすごく美しい。ティフェとは違う意味で豪華な炎のような美しさを持った絶世の美女だった。白い象牙の美肌にサファイヤのような透き通った青い眼。縦にカールした金髪は豪勢で彼女の美しさを引き立たせる。唇は真紅。どこをどうとってもすべてが形が整っていて綺麗だった。
「ティフェレト様、何か御用はございませんか?」
 ギメルの香水は上品であるはずなのにティフェレトは胸焼けを覚える。
「ごめん」
 それだけ言うとティフェレトは部屋を出ていく。ゲヴラーはそれを追った。部屋は再び二人のみとなる。
「で? どうよ? 麗しきギメル」
「びっくりしたわ。美しさの具現っていうからてっきり女だと思ってたの。……まさか、少年とは」
「でも、めちゃめちゃきれいだったぜ?」
 テットの言葉にギメルも頷く。ギメルを動とするならティフェレトは静、対極の美しさだ。
「女だったらどうしようかって思ってたケド、男なら大丈夫ね。相手にならない」
 ギメルは美しい顔を笑みの形にして言い放つ。
「でも、あの少年我らが主とイイ関係だって言うぜ?」
「あら。あんな坊や、私の敵じゃないわね。さっさと追い出してティフェレトの座は私のものよ」
 ギメルは重ねて言った。
「そしてケテルさまの愛も私のものよ」
 ギメルはそのことを考えて唇を吊り上げた。