TINCTORA 008

8.交錯する想い

023

 ――真っ暗だ。
 ――どこだ、ここは……。
 ――どこだっていいじゃないか。関係ないだろう? 俺には
 ――俺に、恐怖なんてないんだから
 ――恐怖……ないのか、本当に?
 ――俺は、強い。恐怖とは、すなわち死。
 ――死とは、無くなること。
 ――俺は死ぬことは無い。他にこの命を侵されない限り。
 ――だから、強ければ……いい。
 ――そうしたら死が俺を襲うことは無い。
 ――さすれば、恐怖はない。
 真っ暗な闇からすぅっと白い腕が背後から迫る。俺はそれに気づけない。おかしいじゃないか。暗くて何も見えないのに自分の身体は見えて、その手も見えるなんて。
 白い腕は腕しかない。腕の先は闇に溶けてない。腕だけがぼぅっと浮かんでいる。その腕は伸びて、俺の首に回される。そして力がこもる。
 ……俺は、首を絞められているのか??
 俺はもがいている。恐怖が具現化している。強い俺に勝る存在があるだと? ふざけんな! どうして、俺が死ななくてはいけない? 俺は……
 ……俺は、首を絞められて……
 ……あっけなく……

「死ぬ」

「っは!」
 ベッドからゲヴラーは跳ね起きる。珍しいことに寝汗をかいていた。思わず首を触っていた自分を笑ってしまう。
「ティフェに見られてなくて、よかったぜ」
 前にキラの夢を見て怖がっていたティフェを心の中で笑ってしまった自分がいるだけに、悪夢にうなされたなんて言えるものじゃない。
 ゲヴラーは今まで自分の死を予想できたことが無い。いままで怖い思いなんてしたことがないゲヴラーにとっては、死という唯一未経験で考えられる事象が一番の恐怖に成り代わっていた。
 死にたくない。死んだら何が待っているのか。楽しい事ならいい。辛い事でもいい。とにかく今と変わらずに自分という存在を認識できるなら世界が異なっても構わない。
 一番死で怖いのは、じぶんが無くなってしまう事だ。突然肉体の活動停止と共に思考が停止し、自分を認識できなくなることが一番怖い。
 死んだら魂だけが天国にいけて幸せになれるなんて嘘だ。死んだらそれは消滅のみ。天国も地獄もありゃしない。
「……そうか、これが恐怖か……」
 死ぬのが怖いのだ。死にたくないのだ。これが恐怖。
「これをティフェは感じたのか?」
 ティフェはキラを殺せないことが怖い、いや、今まで自分ができていたことができない。それが怖いと言っていた。ならば今しがた自分が感じた恐怖とは別物なのか? 自分は死に漠然とした恐怖を感じていたのだ。
 今思えば、人を殺すのは確かにすごく楽しい。でもそれは自分が死ぬ前に他人に殺される可能性を打ち消すことで安心を覚えていた感覚を楽しいと感じていたのかもしれない。
「愉しい……どういうことなんだ? ケテル」
 ケテルは日々を愉しそうに生きている。彼なら娯楽の意味を、感覚を知っているだろうか。
 ゲヴラーはいままで人間が普通に感じる感情を知識として知っていたのでそれと同じ状況を当てはめて認識していた。だからその反応に他の人間が不思議を覚えなかったのだから正解だったんだろう。
 そのようにして感情を自分のものにしてきた……つもりだ。でも、それが本当に正解かわからない。
「教えてくれ、ケテル」
 ゲヴラーはそれから自分が死ぬ夢を何回も見ることになった。暗闇から伸びてくる白い手に首を絞められてあっけなく自分が死ぬ夢を。

 ナックは今まで通りクァイツと行動することは変わらなかったがこれからはやつらの力に対抗できるように五人で一つのグループを作り一緒に活動することになった。新たにエロヒムとゼルヴン、ジュリアが加わった。
 エロヒムはゲヴラーと似ているがすばらしい能力を持っているらしく赤い眼の男と対等に渡り合える、とクァイツが言っていた。
 ゼルヴンは情報収集が専門の学者で事務担当だ。
 ジュリアは綺麗な女の異端審問官ですばらしい実力を持っているという。
 ナックには追々わかると言ってくれたが他人の能力で自分が可能であれば、吸収したいナックにとって彼らの能力を早く見て、理解したかった。
「聞いてるかい? ナック君」
「え? あ、すいません。何でしたっけ?」
「集中力のなさは死に繋がるわよぉ。ぼけっとしないの」
 ジュリアが呆れていった。ナックは頷くしかない。
「じゃ、最初からだね。ナック君の会った赤い眼の男……。彼は自分でゲヴラーと名乗ったそうなんだ」
「え? エロヒムと同じじゃない?」
 ジュリアの言葉に当惑した様子でエロヒムが首を縦に振った。
「そうなんだ。で、僕は仮説を立てた」
「え?」
 ナックが分からなかったようにジュリアも分からなかったらしい。説明をゼルヴンに求めている。
「ナック君はもう一人にも会ったんでしょう?」
「あ、はい」
「どんな奴だったの? もう一人のティンクトラ」
 ナックの思考が少し停滞する。ナックは敵であるティフェレトと交わした約束を思い出していた。次の新月の晩は二日後に迫っている。しかしそれは仲間には伝えるわけにはいかない。ナックは気を取り直してティフェレトの容姿を述べる。
「えっと……、すっごい綺麗だったかなぁ?」
「え? どんな風に?」
 同じ女性として気になるのかジュリアは尋ねる。それをクァイツが留める。話が進まないのだ。
「で、ゲヴラーたる男に言わせると彼、ティフェレトって云うらしいんだよ」
「えー!! 男なの? 綺麗なのにぃ?」
「おい、綺麗なら男だっているだろう? お前だって美形がいいって言ってたじゃないか」
 呆れてエロヒムが言う。それを聞いてジュリアが膨れた。
「話を進めるよ。で、僕思いついたんだよ。彼らの名前は本当じゃないのかもってね」
「偽名ってことか?」
 ナックがついつい敬語を忘れて聞く。それを苦笑して流すセルヴン。
「偽名かどうかは分からない。でも彼らの名前は偶然にしては出来過ぎているんだよ」
「どういうこと?」
 ジュリアはもったいぶらないで、と言った。
「生命の樹を知ってるだろう?」
「生命の樹?」
 ジュリアがわからないと聞いた。ナックも聞いたこと無い。呆れてゼルヴンが言う。
「ナック君はまだ日が浅いからいいけど、ジュリア……君は異端審問官なんだから知っておかないとさぁ……。ま、いいよ。旧約聖書の創世記に書いてあるよ。エデンの園の中央に生えている樹のことさ」
「……それが、どうしたのよ」
 ジュリアは責められて完全にふて腐れている。
「アダムとエヴァが食べてしまった知恵の実がなる樹だよね?」
 エロヒムが言う。ナックもそれくらいなら知っていた。
「うん。でもこの樹って解釈の仕方がいっぱいあってね、今から話すのはその一つの説なんだけど、カバラの思想でね……。ユダヤ教の神秘思想なんだ」
「じゃ、奴らはユダヤ人なのか?」
「どうなんだろうね。で、そのカバラの思想だと……生命の樹はセフィロトの樹って言って、主があらゆるものを創造したときのプロセスじゃないかって言う思想なんだ」
 ジュリアが眉を寄せて唸る。
「お手上げよぉ。で、結局なに?」
「うん。ぶっちゃけちゃうとね、この思想で奴らは10人構成じゃないかと僕は考えたわけ」
「10人? どっから出てきたのよ? その数字」
「君が結論を急かすからだよ。ま、置いといて。クァイツにゲヴラーはその綺麗な少年と自分の名前を明かして、ハンデを与えると言った。それは名前を明かせばある程度わかることがあるからだ。存在を隠ししてきたから、尚更そうじゃないかと考えた。少なくとも主要メンバー位はわかるんじゃないかってね」
 ゼルヴンははっきりと言った。
「セフィロトの樹は10のセフィラと22の小径(パス)を体系化した図で表すことができる。頂点で第一のセフィラ、ケテル。意味するものは王冠。第二のセフィラ、コクマー。意味するものは知恵。第三のセフィラ、ビナー。意味は理解。第四のセフィラ、ケセド。意味は慈悲。第五のセフィラ……ゲブラー。意味は峻厳とか、矯正とか……。……わかった?」
 意味深にゼルヴンは微笑んだ。
「驚かないでね。次いくから。……第六のセフィラ、ティファレト。意味は美。第七のセフィラ、ネツァー。意味は永遠とか勝利。第八のセフィラ、ホド。意味は栄光。第九のセフィラ、イェソド。意味は基礎。第十のセフィラ、マルクト。意味は王国。これで十人。役割と名前が一致しているなら主要メンバーは十人のはず。ど?」
 ゼルヴンの話にエロヒムは驚く。
「俺の名前は矯正って意味なのか……」
 感心するエロヒムとは別にクァイツが疑問を唱える。
「確かに数はあっているが、では22のパスはいないのか?」
「どうだろう? パスはセフィラとセフィラをつなぐ物だ。名前は一応あるよ。今のところ出てきてないし。敵と会ったら名前を聞いてよ。そうしたらパスなのかセフィラなのか、それとも違うのか判断できるし」
「もう一つ。お前の理論では確か6番目のセフィラはティファレトなんだろう? ……ティフェレトと違うが?」
「うん。そこも考えたんだけどね。……さっきジュリアは綺麗って聞いて女だと思っただろう?」
「うん。それがどうかした?」
「そ、普通、美しいの代名詞は女なんだよ。でもティンクトラの場合は……男だった。たぶん、男だから特別な意味を持たせたかったのかもしれない」
「……だからティフェ、か」
「まぁ、発音によってはティフェレトって言うことだってあるし。古い言葉だから僕にはよくわからないんだよね。僕、専門はユダヤじゃないから。で、その少年の容姿……ありえないくらい綺麗だったんでしょ? 美しさの顕現? 違う?」
 ナックは頷いた。
「たぶんティンクトラには絶対の主がいるはずだ。そいつがどういう基準かわからないけど、まぁ……ティファレトのこと考えればセフィラの意味に対応した名前を与えているんだよ。で、僕は偽名じゃないか……ううん。彼らにとっては本名なんだけど、と考え、その名前を持つ仲間があと8人いるはずで……」
「つまり、ケテルだの、なんだのって名前の?」
「そう。で、彼らの主は……セフィロトの樹の頂点、ケテルか隠されたセフィラ・ダァトじゃないかと僕は踏んでいる」
「なにソレ。さっきの説明には出てこなかったわよ?」
 ジュリアは不満そうに述べた。
「うん。ダァトは通常のセフィラとは別次元に存在していると言われている。意味は知識。だから主かなって考えたんだけどね? そう考えると11人ってコトにはなるね」
「なんでさっきは10人って断言したのよ? 敵の数は予想より多い方が後々大変なのよ?」
「象形学において11という数はあまり無いからだよ。普通は偶数、もしくは3、5、7といった奇数が好まれる。11はあまり見ないって訳。それで10かなって」
「ふーん」
 あまり納得出来ない様子でジュリアが頷いた。
「で、こんな意味のなさそうな仮説を僕が皆に説明しているのはね、このエルス帝國にセフィラの名前を持つ偉い人間が3人いるからなんだ。これで計5人。……ど? 少しは信じる気になった?」
 クァイツは驚いている。ナックは思った。キラはこの国にいるのだ。
「一人目はホドクラー卿。爵位は侯爵。二人目はヴァトリア将軍。三人目はクレイス卿。爵位はなんと公爵!」
 エロヒムが首をかしげて言った。
「どこにセフィラの名前が入っているんだ?」
「人の話は最後まで聞こうね? まずは分かりやすいほうからね。クレイス公、別名ケゼルチェック卿はファーストネームがケテルっていうんだ。そのままでしょ? で、ヴァトリア将軍はこの国の帝國軍の南方将軍ってすごい人なんだけど、もう一つ役職があって、それがケゼルチェック軍のトップなんだ。で、ミドルネームがネツァー。レナード・ネツァー・ヴァトリア」
「将軍なのに女なの?」
 ゼルヴンが頷いた。
「なんでもケゼルチェック地方は豊かで自由な土地らしくてね、力量さえあれば女も軍には入れるらしい。兵に志願する酔狂な女なんてとおもったら結構多いらしい。ま、ここにだって実際女の異端審問官がいるんだから同じことかな?」
 ゼルヴンはジュリアを指して苦笑する。
「で、この国は正規軍、帝國軍をそう呼ぶんだけど、を各地の私軍の優秀な者を仕官にする方式だから諸国ではありえないけど女の彼女が将軍になれたんだよ。普通は仕官止まりだけど、彼女が負けなしの優秀な士官であるのと推したのが公爵なら不可能じゃない。……わかる? もし、僕の考えが正しいなら、この国の軍隊はティンクトラが自由に動かせるんだよ」
 クァイツが絶句する。貴族の中に入り込んでいるとば考えていたものの敵が最高位の爵位を持つ貴族自身だったとは考えなかった。しかも軍にまで入り込んでいるとは。
「何を驚くんだい? 予想できていたことが深刻になっただけだ。で、三人目のホドクラー卿は名前の通りファミリーネームにホドって入ってる。ま、邪推かもって考えたんだ。でもね、彼もケゼルチェック卿の部下なんだよ。この国封建制度だからさ、王は事実上は王都と十公爵を支配しているだけで国のほとんどは十公爵が動かしているんだ。その公爵の一人がケテルで、部下にホドとネツァー」
 ゼルヴンの言葉を切ってクァイツが決断した。
「調べる必要があるな。ケゼルチェック卿を」
「でしょ?」
 得意になってゼルヴンは頷いた。異端審問は次のターゲットをケゼルチェックに定めた。

「貴女、ティフェレト様の何?」
 キラはティフェレトの姿がないことをとても残念に思いながら部屋を掃除しようと礼儀でノックすると中から思わぬ人が出てきて、いきなり言われた。相手は貴族のようで美しく、豪華な服を着ていた。
「え?」
「だから、貴女は?」
「キラと申します。あの……お客様ですか? こちらはティフェレト様のお部屋で……」
「知ってるわよ! だから貴女が何者か聞いてるんじゃないの」
「わたしはティフェレト様付のメイドですが、なにか? たいてい今の時刻にお部屋の掃除をさせていただいております。もしよろしければ、ラウンジの方にお茶をご用意致しますが?」
 女はイライラと言った。
「部屋の掃除? こんな生活もしていないような部屋の?」
「生活していらっしゃいます! ティフェレト様はこのお部屋に帰ってきます!!」
 確かにティフェレトは一ヶ月のうち数日しかこの部屋にはいない。必要なものを取りにくるだけでここで寝てさえいない。だいたいケテルの部屋で寝ているらしい。しかしこんな女に何の関係があるのだろうか。
「だってさっき漁らせてもらったケド、特に収穫なくって」
 キラは女を信じられないような目つきで見た。
「漁る……!?」
「あら、敵の情報は知っておかなくちゃ。でしょう?」
「敵って……貴女、何者なんですか!?」
「メイドだものね、聞いてなくて当然か。あの子全然喋らないものね」
 あの子とはティフェレトのことだろうか。随分馬鹿にした言いようだ。
「私は一応形式上あの子のパス。部下みたいなものよ。でも私、あの子が美の象徴ってのが気に食わないのよ。だって美しいって言ったらそれは女に対して言われるべきものよ。それにあの方の愛を独占してるのも、イヤ。でもわたしはあの子を責めないわ。あの子が悪いんじゃないもの。でも、だからこそ私は自分の手で掴み取らなきゃ。愛も、地位も」
 キラはこの女に殺意に近い感情を覚えた。
「お前なんか、全然綺麗じゃないわよ!! ティフェレト様のほうがずっともっと綺麗よ! あんたなんかに敵う訳ないじゃない。身の程知らずもいいところだわ」
 キラは叫んだ。その瞬間に女の顔を歪む。でも悔しいことに歪んだその顔も十分綺麗だった。
 だけど、キラにしてみれば世界の中心に立っているのはティフェレトなのだ。自分の敬い、慕い、愛すべきものを穢されれば誰だって怒る。この女はキラの逆鱗に触れたのだ。
「メイドだからって口を聞くことを許していれば、生意気な! おまえ如き、平民如き、私にはむかうだと!? 身の程を知るのは、おまえの方だ! 私を馬鹿にした罪、万死に値するぞ?」
 女はそう言って扇を振りかぶった。その扇には鋭い針が隠れている。キラは息を呑んだ。
「何してるの? ぼくの部屋の前で。邪魔で入れないんだけど」
 静かな声が女の動きを止める。キラは感動に涙が出そうだった。まさか助けてくれるなんて。いや、偶然でもいい。とにかく助かった。そして結果的に助けることになったティフェレトを見つめる。
「失礼しました。ティフェレト様。貴女様のメイドが身をわきまえなかったので叱っていたところで……」
 しどろもどろに女は言った。
「ギメル、ぼくはそんなこと、頼んでない」
「すみません」
「いいよ。それより君はぼくの部屋で何をしていたの?」
「え?」
 ギメルは頬を引きつらせる。詮索していることがばれているとは思えない。ティフェレトは部屋の中に入って窓を開けた。キラとギメルは開いた扉からティフェレトの次の言葉を待っていた。
「匂いが残ってるんだ」
 しまった、というようにギメルが目を見開いた。それはギメルが愛用している香水の匂い。女にはいいと感じるものでも男にとってはそうではない場合が多い。そして意を決したように表情をがらりと変えて言い放つ。
「ばれてしまったのでは仕方がないわね。……私はね、貴方をティフェレトの座から引きずり下ろすために貴方の情報を集めていたのよ。ま、たいして情報なんて得られなかったけど」
 ギメルは皮肉を言うように笑った。
「……?」
「わからない? 貴方を殺すなり、失墜させるなりして私がティフェレトと名乗り、ケテル様の愛を受けるの」
 そういった瞬間にティフェレトの顔が変わった。
「あら? 自分の地位が不変のものだとでも思っていたの? 貴方は貴族でもなんでもない。ただの奴隷だったのをケテル様に拾われただけのこと、本来ならば私と直接口を聞くことも許されないのよ?」
 貴族らしい発言だ。キラはギメルを睨んだがティフェレトには堪える言葉だったらしい。
「そう、本当なら貴方じゃなく、お前でいいわね。でもケテル様が私をお前の下の位に位置づけておられるから仕方ないの。イヤなら私がお前の地位を奪えばいいだけのこと。だからね……」
 ギメルは顔色が悪いティフェレトに囁いた。
「お前が命令すれば仕方ないから従う。でも自由ならお前をティフェレトからただの奴隷にする算段を立て、お前をはめてやるわ。覚悟なさいな。ティフェレトの座に座り、あの方の寵愛を受けていられるのも、あと少しよ」
「ぼくは……」
 ティフェレトがどうしてこんな女の脅しに屈するのかキラには理解出来ない。それはキラがティフェレトの存在を乱し、揺らがせていることに気付けないからだ。
「ケテルがぼくをティフェレトって名付けた! ぼくは、ケテルの遊びのために存在してるんじゃない。ケテルはぼくを欲しいって言った。ぼくはケテルの所有物、だからティフェレト。君みたいに遊びではない名前がある人とは違う!」
 ティフェレトが言う。キラはティフェレトのこの家での位置づけを初めて知った。所有物とは……? 遊び?
「お前が知らないだけでティフェレトとしての責務を果たすよう名を与えられたのでしょう? お前、本当の名はなんなのよ? その名前でこれから呼んであげるわ。お前は男だから女教皇(ギメル)は出来ないでしょうし」
 くすくすと笑ってギメルは言う。
「……ぼくの本名……?」
 ティフェレトの頭が痛む。―***。そう呼ばれていた。肝心なその三文字が思い出せない。
「ふふ。わかってないみたいね? ギメルが出来ないってことはね、お前、ここを追い出されるって事よ?」
 ティフェレトの目が見開かれる。愕然とした様子に優位を感じたのか、ギメルは高笑いしながら去っていった。
 ティフェレトはその場に崩れ落ちる。キラが慌てて支えた。いつもならその手はどんなときでも振り払われるが今回は精神的によっぽど堪えたのかキラのされるがままになっていた。
「……ぼくが、追い出される……? ケテルに?」
 あまりにも恐れている子供のようなその様子にキラは恐る恐るティフェレトをぎゅっと抱き締めた。それでもティフェレトは何もしなかった。
 キラはこの瞬間、ようやく夢での願いが叶った瞬間で、不謹慎ながらも、とても幸せだった。