TINCTORA 008

024

「お姉さまはロジックさんを愛しているの?」
「そう。心の底から愛しているわ」
 姉は衣服を正し、姿勢良く言った。ローズマリーにとって姉の痴態は耐えられないものだった。扉を開けて目にした光景は嘘だったと思いたい。だから覗いただけ。
 声なんかかけずにしばらくしてから何も知らない風を装って姉と接した。
「私もお姉さまを愛してるよ」
「ローズの愛と私の愛は違うわ。貴女は今まで愛する人に出会っていないから勘違いしているだけ」
「違うもん! お姉さま、お姉さまだって私が好きでしょう? 愛して、今までよりもっと、もっと!!」
 妹は何としてもあの女から姉を取り戻したかった。
「貴女は私に何を求めているの? あなたは妹。だけど、アーシェは私の恋人なの。その差をわかって」
「わかんないよ。ねぇ、お姉さま、私だってお姉さまの相手くらい出来るよ」
「え?」
 コーリィが聞き返す前にローズは服の紐をしゅるりと解いた。コーリィの目が驚愕に見開かれる。
「私だってお姉さまを満足させてあげられる」
 コーリィは絶句した。

「そういやさぁ、そろそろ仕度できてるよね?」
 書斎で紙と格闘しつつ、ホドがケテルに当然のように言った。ケテルは思い至ることがなかったらしく、首を傾げた。その様子にホドが溜息をついて、紙をいったん置き、ケテルに向き直った。
「こないだ言ったじゃないか。ファキのことがあって去年はなかったけど、もうすぐ十公爵会議だよ。ケテルの方も17になったんだから、来年成人だろ? 慣れておかなきゃ駄目じゃないか。だから次の会議は一緒に行くよって言っただろ」
 ケテルはああ、と頷いた。
「そういや、そうだった。僕も出席して顔見せして夜会に参加しなきゃいけないのか。あぁ、面倒だなぁ」
「君ならすぐに慣れるよ」
「ティフェ連れてっていい?」
「う~ん。いいっちゃいいんだけど、やめた方がいいとは思うな」
「どうしてさ?」
「たかが会議の一ヶ月くらいの間に恋人連れ込む奴なんかいないから。しかも男だし」
「女装させる?」
 ホドは無言になった。心底、このわがまま坊ちゃんをどうしようか考えているのだった。
「ケテル、行く、ダメ」
「どうして? イェソド」
 ケテルは真剣そうな顔をして言うイェソドに尋ねる。代わりにマルクトが答えた。
「予言。行くのは絶対ダメ。ホドだって主人を危険な目に合わせるのはごめんこうむるでしょ?」
「ま、そうなんだけど。ケテルが来年成人するのは変えられないし、僕としては行って欲しいけど、どんな予言だったのさ? それによっては言い訳考えるよ?」
 ホドの質問にマルクトは視線を逸らして黙り込んだ。
「マルクト?」
「ケテル、どうしても行くの?」
「行くよ。どうしてもホドには任せられない仕事もあるんだ」
「だめ、行かせない」
 マルクトのハッキリした返答にイェソドも同調したらしく、同じ顔が同じように怒っていた。
「どうしたのさ、本当に?」
「マルクト、イェソド。大抵の事なら君達の言う事は聞いてあげる。でもね、今回の会議はこれからの遊びにとても重要なんだよ。僕の欲が絡んでいるなら僕は動く。そう言ったね?」
 マルクトはケテルの笑顔にビクっとしたが言い返した。
「イェソドの予言が外れることはない。ケテルだって知ってるでしょ? だからダメなんだよ。今行ったらケテルは敵に重要なことを易々教えて取り返しのつかないことになる。ケテルは愉しいお遊びに後手に回らざるを得なくなる。下手すれば後々に命に関わる。ボクたちはそれを許すわけにはいかない。だから、ダメ」
 マルクトは真剣に言うと、ケテルが言う前にホドが言った。
「そんなに危険ならいいよ。体調が悪いとか言っとくから。成人したからって僕自身が会議に関係ないわけじゃないし。欠席の旨、一筆してくれる?」
「だめだ」
 ケテルは言った。ホドが驚いた表情をする。
「会議自体は参加しようがしなかろうがいい。でも、この時期に城に行って、皇帝に会うことは絶対外せない」
「何か用でもあるの? 皇太子に会うのかとばかり……」
 ホドの言にケテルは首を振った。
「これはね、ホドにも教えてあげない。ま、そういうことだから行くよ。心配するな。僕は大丈夫だから」
『我はケテルよりは自身の半身を信ずる。故にどうしても行くなら、阻止しなければならない』
 イェソドとマルクト両方の口から同じ言葉が同じ口調で同じ表情で言われる。それは少し恐怖だった。
「僕が主だ。僕の行動は僕が決める。僕は後々のために今、行きたいんだ」
『本気?』
 ケテルはマルクトに言い放つ。
「もちろん。この僕に言う事を聞かせたいなら、それなりの覚悟をしてくれないと」
『覚悟なら当に決めている。汝が主だ。我は汝が災厄を回避するモノ。故にその責務を果たさん!』
 マルクトとイェソドから黄色の光が溢れ出す。それはこの書斎にいる全てを苛烈に照らし、視界が白一色に染まる。
 再びケテルが目を開けたときにはケテルの体を明るい眩しいほどの黄色い魔方陣の文字の羅列が取り囲んでいた。螺旋状に昇る文字の羅列はケテルの頭上にある円形の魔方陣に吸い込まれていく。逆にその文字はケテルの足元にある同型の魔方陣から発生していた。
 そしてしまいにはその文字がケテルの体を足元から消していく。
「えぇ~!? 何してるのさ、二人とも!!」
 ホドは何の術か分からないだけに不安そうに叫んだ。ケテルはその顔が消え去る前に二人を許すように微笑んだ。
 ケテルの体が完全にこの部屋から消え去った後、二人から光が消え去り、部屋の中にはいつもと変わらない様子のマルクトとイェソドとケテルが消えた書斎、驚きを隠せないホドだけが残った。
「ケテルは?」
「心配しないで。時期が終れば出してあげるさ。ケテルがあんまりにもムカついたから異空間に軟禁した。会いたきゃ、イェソドに言って。ホドも送ってあげる」
「えぇ?」
 ホドは自分もそんなことをされちゃたまらないと首を横に振った。
「違うよ。ホドは何も悪いことはしてないでしょ。会わせてあげるって事だよ。ちゃんと戻してあげるから安心してね」
「そ、ならいいんだけど。ま、会議はとり合えず欠席だね」
「そうしといて」
 こうしてケテルはイェソドとマルクトが作った異空間の中に軟禁され、しばらく誰とも会えなくなってしまった。

 しばらくして落ち着いたらしいティフェレトはそれでもキラを邪険にしたりはしなかった。ゆっくりとキラの腕を外し、それでも離れずにキラに言った。
「一人になるのはどういう気分?」
「え?」
「ぼくは、知ってるんだ。君の両親を奪ったのは、君の故郷を滅ぼしたのはぼくの仲間だよ。君は既に会っているよ。教えてあげてもいい。でも、その前に教えてくれない? 孤独はどういうものかを」
「私、ずっと一人だったんです。ファキにいた頃からずっと。誰にも心が開けなくて、皆と笑っているんだけど、本当は笑えなくって。そう意味ではずっと一人でした。でもナックがいたから本当は一人じゃなかったのかも。
 私はここまでの逃亡生活でずっとナックと一緒だった。だから、本当の意味での一人ではなかったかもしれないです。でも私の心は寂しかった。ナックは私と本質は同じです。きっといつか独りになる。でも……今は光の中にいる。私とは違う。ナックは私には眩しくて、でもだからこそ羨ましくて……。
 ナックと別れて、寂しくて一人で孤独で、でも逆に開放された感じもあった。ナックは仮面を被った私を唯一知っているただ一人の人だから。
 ……教えて下さい。今度は貴方のことを、ティフェレトのことを」
 答えになっていない答えを返し、キラはじっとティフェレトを見た。ティフェレトは今度はその視線を逸らさない。逆にキラを初めて強く見つめ返した。
「ぼくは記憶がなくて、気付いたら奴隷市で売られてたんだ。忘れていたんだ。自分の名前も、歳も、ここがどこかも。何もかも。
 今も思い出せない。その時ぼくはこの世界では生きていけなかった。世界も世界を構築する自分も何もかもがわからなかったから。
 ケテルはね、ぼくに道を示してくれたんだ。ぼくに世界を与えてくれた人なんだ。だからケテルならどんなことだって我慢できる。ケテルになら何をされてもいい。
 ……でも、ケテルはそうじゃないかもしれない。ケテルに愛されているって感じたことはないんだ。ギメルが……ケテルを愛したいなら……それでも、いい、かもしれないんだけど…」
 キラはやっと心を開き始めてくれたティフェレトの次の言葉を待っていた。じっと。
「怖くて、怖くて! ケテルがぼくを捨ててしまったら、また道が無くなって世界が消えてしまったら……! 何をすればいいかわからない。どうすればいいかも、だから、自分がどうなってしまうかわからなくて、怖くて怖くて……。……それで……」
 なんて不安定に生きている人なんだろう。キラはそう思った。
「……変なこと話しちゃったよ。……光が君を待っている。連れてってあげるよ」
「え?」
 ティフェレトは立ち上がってキラに手を差し出した。
「君は孤独に浸かるべきじゃないのかも……。ぼくと違って、ね?」
 寂しそうに微笑んだティフェレトの手をキラは離さないように握った。

「ねぇ、ここにいるの飽きるんだけどー。時間経過わかんないし」
 ケテルは黄色い渦の中で叫んだ。殺すつもりがなく、自分で足止めするだけなら監視しているはずだ。声は通じるだろう。そう思うと二人をからかってやりたくなる。
「あー。暇!! ね、ティフェレト呼んでよー。そしたらここで謹慎解けるまでずぅっとセックスしてるからさぁ」
『一生入っててくれない?』
 黄色い渦の全体からマルクトの声が冷たく響く。相当怒っている。
「冗談だよ。悪かった。あ、じゃぁさ、せめてホドとケセドを呼んで。これからの指示を与えなきゃいけないから。それくらいならいいでしょ?」
 しばらくして答えが返ってくる。
『……いいよ。今召喚する』
「ありがと。ところでここって声は全部まる聞こえなの?」
『何? 聞かれたくない話でもするワケ?』
「まぁね。この国の政治に関する話だから。一応ね」
『ボクたちが言うわけないでしょ? まぁ、安心して。ケテルが呼びかけるか、集中でもしないとほとんど会話なんて聞き取れないから。もー、本当にボクって技の発動制限がかかっちゃって面倒ったらないよ。イェソドみたいに自由にできればいいんだけどね』
 ケテルはそれを聞いてくすくす笑う。
「好きでやってるんじゃないか。自業自得だね」
『うるさいよ』
 それっきり視界は渦を巻き続ける黄色い画面のみで何も答える気配は無くなった。

 キラはティフェレトに抱かれつつ馬車のような、いやそれ以上の速さで飛ぶ様に走るティフェレトを見ていた。
「どうして、会わせてくれるんですか?」
「……なんとなく」
「私は一度も会いたいなんて、貴方に出会えたのにナックに会わせてなんて言ったら罰が下ると思って……言わなかったのに……。どうして?」
「君じゃないんだ」
「……え?」
「彼が君に会いたいと、望んだんだ」
「……ナックが!?」
 てっきり忘れたか、死んだと思われていると思っていた。なのに……。
「君を探して、君を返せって言っている。残念ながら立場はぼくらの……敵なんだけど」
「敵?」
 ティフェレトは頷いた。
「そう、彼は敵だ。……彼はヴァチカンの人間になってしまったから」
「ヴァチカン!? ナックが、どうして!! レジスタンスはどうしたんですか?」
「うん。君たちのいたレジスタンスはね、壊滅したんだ。ぼくの仲間の手によって」
「……嘘」
 あの偉そうなオレガノやキラを気遣ってくれていたカナードが……?
「死んだよ。ううん、殺されたんだ。ぼくの仲間のせいで。ううん。君のせいで」
「私の、せい?」
「うん。君がぼくの影だったから。あ、違うか。じゃぁ、ぼくのせいか……謝るべきかな?」
 視線を逸らしてティフェレトは言った。
「いえ。私、あそこでも居場所……なかったから。なくなって、知り合いもいっぱいいたから……。その、聞いて、驚きは……しましたけど……。私の居場所……今は、ありますし……」
「君は……何故、ぼくを許してくれるの? 君に優しくした事だってないし、どちらかといえば、その……避けていたし。ひどいことも……言ったのに……」
「……知ってました。嫌われてること」
「……だよね……。じゃ、どうして? ぼくをそんなに?」
 キラは返答に困らなかった。もともと用意していたかのようにすらすら言葉が出てきた。
「人を好きになるのに理由なんか要らないです。一目惚れってあるじゃないですか。それと同じ。好きになっちゃったんです。私と貴方は夢で出会いました。その時、私は悪夢を見ていて。悪夢の向こうに貴方がいた。美しくて、世界が違って、何故か初めて遭った気がしなくて……。夢の外でも遭いたくて……」
 ティフェレトは黙ってそれを聞き、そして、そう。とだけ呟いて、目的地に着くまでもう喋らなかった。