TINCTORA 008

026

「ではこうしましょう?」
 ドレスの紐を解く手を留めて、コーリィは大事な妹に言った。
「貴女がどうして私をこんなに想ってくれるのか、私は理解した。でも私と貴女は姉妹だからその想いに私が応える事はできない」
 ローズマリーの文句を抑えてコーリィは続けた。
「貴女がそれでも神を裏切ってでも私と、このコーリィ個人と向き合い、愛を語り、身体を重ね、一緒になりたいと思うなら……時が経つのを待ちなさい。私は今のような貴女とアーシェと同じ行為をする気は全く無いわ。貴女は私が愛しくて、その上、アーシェを嫌っている。だからその想いが貴女の今回の行動の根源にあるのでしょう?」
 姉は優しく妹に言った。
「アーシェの何処が嫌なの?」
「あの人からは嫌な感じがするの。とてもとても」
「そう。私にはそう感じないけれど貴女がそうならそうなのでしょうね」
 コーリィはそう言うと、クローゼットから一着のドレスを持ち出した。
「このドレスはね、貴女の嫌いなアーシェから貰ったの。このドレスは私の一番の宝物。とても大事なものなの。わかる?」
「……ロジックさんの贈り物だから?」
「そうよ。だから貴女に、ローズ。このドレスが似合うほど成長したら貴女にもう一度貴女の想いを確認させてもらうわ。その時、貴女が今と変わらない想いを私に抱いていたら、私は貴女の思いに応えましょう。その約束の証として、私はアーシェとの思いを断ち切るためにこのドレスを貴女にあげるわ」
「……ほんとう?」
「ええ。約束しましょう」
「お姉さまが私を好きになってくれたらアーシェさんとは二度と会わないって約束してくれる?」
「ええ。必ず」
 姉妹はそう言って昼下がりの一室で約束を交わした。

 黄色い渦の中にホドとケセドは呼び出された。この空間は黄色い渦が永遠に渦巻いているだけで時間の流れも外の世界も何もかも分からない。
 こんな世界は嫌だなとホドは思った。しかしケセドと目の前で笑っている主人は気にはならないらしい。すでに人間じゃない。
「で? ちっとも反省してないんだね?」
「え? 確認?」
 ケテルは上のほうを見ながらホドに言った。
「マルクト?」
「違うよ。あんまりにも笑顔だからちっとも堪えてないんだって思って」
「あぁ。そうだね。だって出ようと思えば出れるし」
「はいはい」
 ホドは心底呆れた。自分勝手すぎる。
「ま、マルクトとイェソドの言いたい事も分かったから大人しくあの子達の気が済むまで閉じこもってってあげようかって、思ってね」
「そう」
「あ、ホド。ホドにはこのことを伝えたかったんだ。ぼくがこの空間に閉じこもっている間、全ての指揮は君に任せる。不足の事態が起きても君の好きにしていい。僕のことは構うな」
「わかった」
 ホドはそんなことを今更言うためだけに自分を呼んだのは何かおかしいなと思った。その予感は的中した。
「でね、ここからが本題なんだけど……」
「え?」
「僕はここから出てどうしても王宮に行きたいんだ。だからホドは黙って知らないフリしてくれないかな?」
 ホドが固まる。
「え? それってマルクトに……?」
「うん。それもそうなんだけど、僕をもし王宮で見ても知らぬ存ぜぬで通して欲しいんだ。僕が皇帝と会うのは秘密にしないと意味が無いんだよ」
「もし見つかったときに僕がカバーしなきゃいけないって……コト?」
「そう! わかってるね。さすがホド」
「褒められても嬉しくない! 大体、何のためにそんなに秘密にして行くんだよ!」
「保険だよ」
 意味深にケテルは笑って言った。
「保険~?」
「そ」
「でも! 皇帝の傍には魔術師がいる。彼には見つからずに行くってのは不可能じゃないか!」
「あぁ、彼には対策を練ってるから心配しないで」
 納得出来ない。危険だとイェソドが予言した意味が何となくわかる気がした。
「……わかった」
「本当? よかった。あ、でね、僕の力を使えば簡単に出れるんだけど、やっぱここはマルクトを立てて……。コクマーに出してもらおうと思うんだ。だから連絡を取ってくれるかな?」
「コクマーに? ビナーの方が確実じゃないか? コクマーはケテルに似て面白そうなことじゃないと手を出さないよ?」
「ビナーは心を読む。僕の考えを今、知られては困るから。……大丈夫さ! マルクトとイェソドを出し抜こうゼって言えば心は永遠に少年だから協力してくれるよ」
「……少年? おっさんが……少年……」
 ホドは悩みつつも了承した。
「じゃ、いいよ。ホドは出してもらうといい。この後ケセドと話がある」
 ホドは頷くとマルクトの名を呼んだ。するとホドの身体が渦にまみれて黄色と同化し、消えていった。
「で、君には別の頼みがあるんだ。ケセド」
「はい。なんでしょうか」
「うん、あのね……」
 ケテルは自分の中で思い描いていた計画の一部をケセドに話しはじめた。

 ナックは教会の一室で自分のベッドの中で眠るキラを見つめた。
 やっと戻ってきた。やっと帰ってきてくれた。
 ナックは安心すると共にこれから奪い返される可能性を考えて警戒しなければと思っていた。
「ナック……」
「キラ! 目が覚めたか」
 ナックはキラの顔を覗き込んで驚いた。
「……どうして、泣いているんだ?」
「あの人はまた、行ってしまったのね……」
「あの人って……?」
 ナックは思い出した。そういえばあのキラを返してくれたティフェレトという男、会っているじゃないか! クミンシードのカフェで。キラが異常な行動をして喧嘩をした原因の美人の男……ティフェレトだった。
「あの……ティフェレト、か?」
「うん。どうして捨てられちゃったのかな?」
 捨てられた? キラは自分がされたことを分かっていないのだろうか。
「キラは奴らのところでどんなことをされていたんだ?」
「ナックが思うようなことは全然されてないよ。とても紳士的だった。私はティフェレト様とお話できて、ただそれだけで幸せだった……」
「キラ……」
 キラは魂が抜かれてしまったかのように呟いた。
「失礼するよ」
 ノック音と共にクァイツが入ってくる。
「お嬢さん、初めまして。私はクァイツ。ナックの上司のようなものだ。キラと呼んで構わないかね?」
 キラは頷いた。ナックには黙っているように目で合図する。
「キラ。私は彼らを捕まえたいのだ。そのために協力してくれるね?」
 確認するようにクァイツはキラに言った。
「捕まえるって……ティフェレト様をですか?」
「彼は君を誘拐した。それだけで罪ではないかね?」
 キラはベッドから身を起こし真っ直ぐにクァイツを睨むように見た。
「クァイツさん。勘違いしていらっしゃいます。私は誘拐されたんじゃないです。私からティフェレト様の元に会いに行きたいと望んだんです。それを叶えてもらったんです」
「し、しかし! ナックは君のことをあれほど心配して……しかもゲヴラーたる男は君を連れ去ったと断言していたが……? それでも合意のことだったと思うのかね?」
「はい」
 ナックが驚きを隠せない顔をした。クァイツも同様のようだった。
「何故、君は……奴らの下へ?」
「……好きになっちゃったから。私、ティフェレト様が好きだったから」
「それで君はナックと別れたのかね?」
「ナックに何も言えずに別れたのは嫌だった。でもチャンスを無駄にはしたくなかった。だから今回ティフェレト様が会わせてくれるって言ったから……謝ろうと思っていたのに……」
 恋する盲目の乙女にクァイツは困り果てた。これで少しでも情報が引き出せると思っていただけに。
「質問してもいいかね?」
「はい」
「君はティフェレトとどんな関係だったのかね?」
「……よくは、わからないです。私とティフェレト様は影だって言ってました」
 クァイツは思わず聞き返す。
「影?」
「はい。君はそれで何か特別なことはされた?」
「いえ。ただメイドとして働いていただけです」
「ティフェレトの他に誰かと話はした?」
「はい。何人かと話はしました」
「名前は分かるかい?」
 キラはしばらく考えて言った。
「ゲヴラー様とケテル様、それからギメル……」
 ギメルだけ変に感情がこもっていたのは何故だろうか。
「他には? 外見だけでもいいんだが」
「水色の髪の男の子とか……たくさんの人が居たんで全員は覚えていない、ですけど……」
 ナックは愕然として思わず口を挟んだ。
「水色の髪の男だって? キラ、お前、俺に水色の髪の女に会ったとき、そんな人間はいないって言ってたじゃないか? どういうことだよ!」
 キラはきょとんとして口を開いた。
「あぁ、そんなこともあったね。私も見たよ。なんか私を見に来たって感じだったけど」
「その者の名は分かるかね?」
「いえ」
「そうか。他に何か気にかかったことはないかね?」
「いえ」
「そうか。ありがとう」
 クァイツは礼を述べると部屋を立ち去った。帰り際にナックにこう言った。
「後で会議をする。来なさい」
「わかった」
 クァイツが完全に居なくなってキラは呟いた。
「ナック、どうして神父になってるの?」
 ナックはその答えをすぐには返せなかった。
「何も知らないからな……キラ」
 ナックはそう言って今まででのことをゆっくりと話しはじめた。キラは真面目に大人しく口を挟むことなくナックの話を聞いていた。
「うん。わかった。大体のことは。でもね、ナック……」
「何だ?」
「私、ゲヴラー様とはあんまり話はしてないの。口を利いたのも数えて二回くらい。だから、ナックが誤解しちゃったのは、わかるよ?」
 ナックはあまりにキラが優しく言うので驚いた。
「でもね、私はナックの思うようなことは全くされてない。とても親切にしてくださった。ナックが心配するようなことは何も無いんだよ」
「それでもな、キラ……。あいつらは、ファキを、みんなを……」
 ナックの言葉にキラはゆっくり頷いた。
「うん。わかってる。でもね、本当の事言うとね、私、今までいたところ……好きじゃなかったから。そんなに心痛まないんだ。ナックには今まで騙してきたようなことになって悪いと思ってるけど、私、ファキのこともどうでもよかったんだ。本当に」
「え?」
 ナックは聞き返そうかと思った。今までファキの処刑にあんなに泣いていたのに。
「どういうことだ? キラ、処刑の時、ファキが燃やされた時、一緒に復讐してやろうって言ったじゃないか」
「うん」
「……嘘、だったのか?」
「嘘じゃないよ。あの時はああ答えないと他に生残りの人が居た時に困るでしょう? だから」
 ナックは思わず怒鳴り返した。
「だからって、困るって何だよ!?」
「あのね、ナック私はナックの思うような人間じゃないの。本当は醜くて残酷な女なの。本当はね、言いたくは無かったんだけど、言うね?」
「何だよ?」
「ファキなんか大嫌いだったの」
 ナックが絶句する。
「それとオレガノもレジスタンスも嫌いだったの」
「嘘だ!!」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ! 今までのお前は、ファキが好きだったろ? 皆、お前の事、好きだったぞ! お前だって、いつも嬉しそうに、楽しそうに……笑ってたじゃないか!!」
 ナックは覚えている。ファキでキラは笑っていたこと。こんな日々を予想もさせないような平和な暮らしをしていたと。なのに……?
「だってあんな小さな村だよ? 村を弾かれたら生きていけない世界で楽しそうに皆に溶け込まないでどうやって暮らしていくのよ?」
「嘘だろ……。お前なんかされたんだろ? あっちで。だから、そんなこと、言うんだろ?」
「ナック……」
「そうなんだろ!!」
 ナックはキラの言葉を遮って怒鳴った。そして回れ右するとドアを開け、言った。
「俺、クァイツに呼ばれてるから。今日はもう休め」
 バタン、とドアが乱暴に閉められた。キラはあきらめた様子で首を横に振った。

 ナックはそのまま足が自然と光の漏れる部屋に向かっていることに気づかなかった。そこはクァイツが会議室として使っていた部屋であり、クァイツの部屋でもあった。
「遅かったな」
 その声でナックは我に返り、同時にみんなが自分を見ていたことに気づいた。
「ナック、あんたのせいよ!!」
「え?」
 ジュリアが泣き腫らした目でナックを詰る。ナックはわけがわからないとクァイツに目を向けた。
「あんたのせいで、ゼルヴンは死んだのよ!!」
「……え」
 ナックが自然と白い布が垂れている台の上に目を向けた。白い布がかかった頭。血に汚れた神父服。
「嘘だ」
「残念ながら嘘ではない。だがお前のせいでもない。ゼルヴンはティフェレトに殺された」
「……そんな」
 悲しそうな顔で敵だと告げたティフェレトは人を殺すような人間には見えなかった。
「ナック! 責任取ってくれるんでしょうね?」
「責任?」
 ジュリアの言葉を鸚鵡返しに聞く。クァイツが言った。
「ナックお前は俺たちの本当の仲間になるか? キラが戻ってお前は目的を達した。でも我らはそうではない。お前に協力を請う立場にいる。しかし我々はお前に協力ではなく同じ立場として、仲間として今後付き合いたいのだ。わかるな?」
「神に誓えるかい? 神の使徒として命さえ喜んで神に差し上げられるかい?」
 エロヒムが言った。
「俺は……」

「ご報告申し上げます、我らが主」
「なんだい? ギメル」
「はい。ティフェレト様の造反をご報告に……」
「造反? ティフェが?」
「はい」
「詳しく話してくれないかな?」
 さらりと茶色の髪が動き、ギメルの頬に触れる。囁かれたことに顔が赤くなる。
「はい」
 ギメルは言い始めた。