TINCTORA 009

028

「ねぇ、何であの女がここにいるのさ?」
「さて、私は知らないね。ホドに聞けばわかるのではないかね?」
 くすりとコクマーが笑う。
「どうせ、居るんだったらあの女じゃなくてティフェがいいんだけど」
 ケテルは少しむすっとして言った。
「僕が閉じ込められている間に何があったか、本当に知らないの?」
「知らないとも。私は関与していないからね」
「ふ~ん」
「信用してないね」
「自分が信用されるとでも思ってんの?」
「いや」
 コクマーは苦笑して答えた。
「あの子、ナックだっけ? あの女のために本当に僕らの敵になったんだぁ」
「おや、ケテルがあんな小さな存在のことを覚えているなんて珍しいね」
「そうだね。明日は雨が降るかも」
 ケテルは自分から朗らかに笑って、コクマーに言った。
「会議は終わったころかい?」
「そのようだね。では、行くとしようか」
「うん」
 ケテルはコクマーを引き連れて、王宮の深層に向かった。すなわち、皇帝の住まう場所に。

 ゲヴラーはティフェレトを心配していた。先ほどから嫌というほど、あの女がティフェレトに構っている。
 先日、書斎に入って報告を済ませたら、自分に色よい返事がもらえたらしい。今は、ホドは会議のために外出している。帝都に行っているのだ。ティフェレトの行動に対しての結果はホドが帰ってきてからとなる。その数日間も待てないのか。
 ティフェレトは大人しいからあの女は小馬鹿にしているのだろうが、ティフェレトは本来ゲヴラーと同等の力を持っている。ティフェレトがその気さえあれば、あんな女一ひねりで殺してしまえるのに……。
「珍しいですね、貴方がそんな真剣な顔をしているのは」
 ケセドが書斎から大量の紙束を抱えて通りかかった。
「パスがウザいんだよ。殺してしまいたい」
「では、そうなさったら如何ですか?」
「そうはいかねぇだろ? アレでも俺たちの仲間って言うか、俺の部下なわけだしよ」
「貴方がそんなことを考えていたとは、驚きですね。でも貴方はストレスをため過ぎると大量虐殺の気がありますからほどほどになさったほうがよろしいですよ。まぁ、人を殺さずにすむなら、それに越したことはないですけれど」
「うるせぇ。……そういや、お前のパスは? お前にも付いているんだろう?」
「はい。しかし、今はラトロンガ卿のスパイになっております。私の元には居りません」
「お前のパスは俺やティフェのと違ってお前に従順そうだな」
「そうでもありませんよ。ですからスパイにしているんです」
「どういうことだ?」
 ケセドは持っていた紙を一度抱えなおし、ゲヴラーに言った。
「よく、思い返して下さい。ホドは私にパスを選ばせるときに、何と言いましたか?」
「え?」
 ゲヴラーは思い出そうとしていたが、ゲヴラーの返事を待たずにケセドは去っていってしまった。
「……熟した果実を、もげ……だったよな……」
 そしてよく考える。
「何で、俺やティフェにはべったりとパスが付いているのに、他の奴のそばにはいない?」
 ケセド、ホド、ビナーそれぞれにパスは一人ずつ、付いている筈。ホドはネツァーやマルクト達の分まで引き受けた。しかし、パスは影さえも見せていない。
「熟した果実、そうか、そういうことか!!」
 ゲヴラーは頷くと、自分の部屋に向かって歩き始めた。
 ――熟した果実は、腐る前に食べられるだけだ。

 夜会がまだ開催しているが、老いた帝王に、夜更かしは禁物だった。まだ自分の息子は王となる器ではない。自分がここで死んでしまえば、貴族たちがよってたかって私欲に走り、この国は滅ぶだろう。
 その動きのひとつが最近の市民の反抗活動であり、貴族の税の使い方である。まだまだ自分が抑えておかねば、そう考えるからこそ、王は健康を気にしていた。
 そして老いた自分を快く思っていない貴族の暗殺にも気を配っていた。いつこの身は滅んでもおかしくない。そのため、騎士と魔法使いはいつも身近においていた。
「陛下、まだ起きていらっしゃいますか?」
 その魔法使いが静かな声を上げる。
「どうかしたのか? レルヴィ」
「陛下に内密で、お客様がお見えです。お通ししてもよろしいでしょうか?」
 こんな夜更けに、王の寝室に押しかけるなど、本来ならば罪だがあえて信頼する魔法使いが言うならば重要なことなのかもしれない。
「よい、通せ」
「はい」
 静かな魔法使いの声に続くように小さな足音が響く。
「夜分遅くに申し訳ありません、陛下」
 暗い扉の向こうから姿を見せたのは小柄な人影。
「ケテル!」
「お久しぶりでございます、我が君」
 優雅に腰を折ってケテルは信頼の証に王の手のひらに口付ける。
「どうしたのだ? 昼の会議でホドクラーはお前は体がよくないと……」
「はい。ホドクラーには嘘をついたのです、私が。ホドクラーは何も知らないのです、陛下」
 唇を離し、上目遣いに水色の瞳が王を見た。
「今宵、こんな不躾なまねをしたのは、陛下。私以外誰も知らないことをお伝えに参りました」
 ケテルは立ち上がって、ゆっくり言った。
「それは、ホドクラーもか?」
「はい。そしてこれは、私と陛下とレルヴィ殿と私の魔法使いリード、この四人しか知らなくてよいことです」
 ケテルの背後で、金髪の男がゆるりと腰を折った。
「もちろん、他に貴族にも、申し訳ないですがお后様も、誰にもです」
「……話してみよ」
「はい、陛下」
 ケテルはにっこりと笑った。
「陛下の暗殺を企む者がおります」
「気付いておる。して、それは誰か」
「まだはっきりとは申せません。今はまだ、少ししか分かっておりませんので。しかし、御身に何かあってからでは遅すぎます。失礼を申しますが、皇太子殿下、ドレイン様はまだ王となられるほど成長なさっていらっしゃらない。今、王を失えば、この国は滅んでしまいます。隣国、リュードベリ帝国に隙を見せることはなりませんし何より今、国は乱れておりますゆえ」
 ケテルの言うことは王の考えている事と同じだった。
「それは十分承知している。だからこそ、レルヴィが傍に居る」
「しかし、陛下。レルヴィ殿とて人間です。休息は必要でしょう。長い間、陛下の傍で気を張り詰めていては身体を壊されます。それは騎士のボクウェス卿も同じことです」
「うむ、しかし……」
 王の言葉を遮ってケテルは続けた。
「これ以上に信頼できる者がいらっしゃらないのでしょう? ですから、陛下にこれを持参いたしました」
「何だ?」
 ケテルの手には小瓶が握られている。
「我が部下に作らせた、蘇生薬、とでも申しましょうか……。いざ、陛下の御身に何か起こりました際は、先にこの薬を飲んでおけば、陛下の御身には何も起こりません」
「まことか?」
「はい。ただし効果は一回のみです。そして一時的にですが仮死状態にもなります。ですからもし何かあった際には犯人を見つけやすくなると考えております」
「ケテル、これを飲めということか?」
「はい。飲んでいただければ、安心できます。あ、これはもちろん毒ではありません。確認いたしますか?」
 王は小瓶をじっと眺めた。そして頷くと魔法使いを呼び寄せた。
「これは、毒か?」
 レルヴィはケテルから小瓶を受け取って、しばらく見ていた。魔法を使うかとも考えたが、いざ使ったときの薬の変化を恐れたのだろう。
「特におかしなところは見受けられません。しかし、万が一のことを考えまして、ケテル様が毒見をなさってはいかがでしょうか?」
「構いませんよ。リード、この薬を複製してくれるかい?」
「承知いたしました、わが君」
 コクマーが小瓶ごと薬を複製にかかる。小さな魔法陣が浮かび上がった。
「陛下、私を三日間、隠して置けますか?」
「無論だ。しかし、いいのか?」
「もちろんですとも。陛下が疑うのはもっともですし、薬がもし失敗作だったときのことを考えると、この方が確実といえましょう。陛下のお考えには、感服いたします」
 ケテルはにこりと笑った。
「陛下、この薬は体に受けたダメージぶん、仮死状態になります。ひどければひどいものほど長く眠らねばなりません。私が三日と申しましたのは、一番軽い傷にするからです。陛下の場合は毒殺が考えられますから、長く時間がかかるやも知れません」
 コクマーから複製した薬を受け取り、ケテルはそのビンの口を開けて、薬を一口で飲みきった。そしてのど元のスカーフを取り、襟を緩め、白い首をさらした。小瓶を下に落とすと、お借りしますといって護身用の王の短剣を、そのまま首に突き刺した。
 意思があるうちにケテルは呻いて、首から短剣を抜くと床に落とした。それを追うようにケテルの体が傾ぎ、力を失って倒れたところを寸前でコクマーが抱きとめた。
 ケテルの白い喉元からは真っ赤な血があふれ出ている。しかし時間を追うごとにその血は止まった。そのときは完全にケテルの心臓も止まっていたのだった。
 ――ケテルは死んだ。
「本当に死んでしまったのか??」
 王が青くなって、ケテルの脈を確認した。
「死なないための薬です、陛下」
 コクマーがそういって、ケテルを抱きかかえた。
「薬を飲んでいただくのは、わが君が生き返ってからで構いませんので。失礼ですが、陛下わが君はどこに隠しておけば?」
 呆然とする王にコクマーは声をかけた。
「あ。ああ。レルヴィ、案内を」
「はい、陛下」
 コクマーは去り行く前に、王に言った。
「陛下、もしわが君が生き返らずとも陛下が気に病まれることはありません。わが君はご自身の成すべきことを理解しておいででした。やんごとなきわれらが王が死なずにすむのであれば、自らの死など問わない、と申されました。わが君は、自身の身が病弱なために騎士となり、陛下をお守りできないことをひどく思い悩んでおられました。陛下、わが君は騎士として魔法使いとしてではなく、陰ながらお守りすることを誓われたのです」
「……」
「もちろん、ご自身のお心を、神に誓ったのです。ですから陛下、わが君が生き返った暁にはいま少し、そのお心の信頼をわが君身お寄せくださいますよう、お願い申し上げます」
 ケテルの顔を微笑んで見て、コクマーは一礼して去っていった。王は信じられない様子であった。
 しかしケテルの血がついている短剣を見ると信じずにはいられなかった。ケテルの覚悟を。

 ゲヴラーは自分の部屋に居座り続ける面倒なパスにこう、言い放った。
「命令だ。ティフェが逃がした女を連れ帰って来い」
「え? それはケテルさまのご命令でしょうか?」
「違う。俺個人の判断だ」
「では……」
 テットが渋る様子を見せる。それを見て、ゲヴラーは笑った。その笑みを見てテットは恐怖を感じた。
「ケテルの命令じゃないと聞けねぇのかよ? お前は誰のパスだ。言ってみろ」
「……ゲヴラーさまの、パスです」
「そうだよなぁ? じゃ、俺の言うこときけるよなぁ? 聞けないんだったら反抗したってことで、殺しても別に、いいんだよなぁ? そうだろ?」
「は、はい」
 ゲヴラーはテットに目線を合わせると、にっこり純粋に笑った。
「命令、聞くよな?」
「御意」
「それでいいんだ、いい子だな」
 ゲヴラーは立ち上がると、テットの額に指を押し付けた。熱い、痛みがテットを呻かせる。
「うっ!!」
「お前、弱いからな。俺からかわいい部下に贈り物だ。がんばって来いよ。あ、そうそう赤い目の男と遭ったら殺しておけよ? そいつ、俺と同じ位強いからそいつを殺せたら、お前も俺を殺してゲヴラーになれるぜ?」
 テットは心底恐怖した。こいつは単なる幸運でゲヴラーなのではない。実力でゲヴラーなのだ。こいつは俺の野心を見抜いている。このままでは、殺される!!
「じゃぁな~」
 ひらひら簡単に手を振ってゲヴラーはテットの目の前から消えた。全身に冷や汗をかいていた。

 ナックはキラを自分たちのいる教会に連れ戻すと、今度は目を離さないようにキラの隣にいた。キラは目を覚まさない。何かをされたようではなかったものの、いったい何があったのか気になるところだった。
 そのころには、クァイツ以外の異端審問官は帰ってきており、迷惑をかけた仲間には謝っておいた。
 久しぶりに静かな夜だった。自分のこととキラのことを考えられる時間だった。自分は異端審問に入った。入った経緯はどうであれ、今は後悔していない。しかしこれからキラはどうすればいいんだろう。
 一番いいのは異端審問に入ってもらうことだ。しかし、逃げ出したことを考えると入りたくないんだろうなと思う。
 キラはティフェレトにすべてを持っていかれた。彼のこと以外は考えられなくなっている。
 ティフェレトはキラを返してくれた。それでもティフェレト以外の敵はキラを欲しているだろう。また、キラが遠くに行ってしまう。
 しかしいつまでも異端審問で保護してもらえない。どうすればいいんだ。
 自分から向かっていく餌をどうやって敵に食べさせないようにすればいい!?
「見つけたぜ」
 ナックは窓の外に向かって迷わずに発砲した。
「いきなり撃つのはひどいんじゃないか? えぇ? 神父さまよ」
「何者だ!?」
「俺の名はテット。そこの女、もらいに来たぜ」
「渡さない!!」
 ナックが剣を構えると同時にエロヒムとジュリアが駆けつける。
「何よ、コイツ」
「テットってんだと。キラを奪い返しにきたらしい」
「ふむ。ナックはキラを守っていろ。私が相手をする」
 エロヒムがそう言って窓の外に飛び出した。ジュリアはクァイツに知らせに行ったようだ。とりあえずすることもなく、安心してキラを見た。
「ナック、私に迎えが来たんでしょ?」
「違う。あれは敵だ」
「ティフェレト様が来てくださったの?」
「違う。テットっていうやつ。知っているか?」
「知らない」
 ティフェレトではないからか、キラはそれだけ言うとまた眠った。やはり、キラをこのままの状態異はしておけなかった。