TINCTORA 009

029

 王がいなくなった後でも、夜会は続いていた。十公爵と近づこうと、クミンシード付近の貴族は全員駆けつけていた。十公爵は仲のよい貴族と朗らかに対談している、かのように見える。
「ホドクラー卿、本当にケテル様は臥せっていらっしゃるのか?」
「はい、バイザー卿。でなくば、私がここにいる理由はございませんよ」
「本当に、そうか?」
「何がおっしゃりたいのでしょう?」
 にこやかに微笑を浮かべたままで、ホドは言った。
「ならば、よい。わが国の海軍はリダー卿とケゼルチェック卿の手にかかっているからな。ケゼルチェック卿以外が勝手に動かしでもすれば、陛下の信頼を失われるであろうからな」
「はい。承知しておりますよ。しかし、軍を動かすのは私ではありません。動かすのは、陛下とヴァトリア将軍ですから。心配御無用でしょう」
「その、ヴェトリア将軍と婚約関係にあるのがそなたではないのか? ホドクラー卿」
「ええ。もちろんです。しかし私事を持ち込んだりはしませんよ、私は」
「そうだとよいがな」
 バイザー卿はそういって鼻で笑った。ホドは若い。ゆえに十公爵として同じ身分でも見くびられることが多い。
「おや、何のお話ですかな、お二人とも」
「ラトロンガ卿」
 ホドは敵に向かってもさわやかな笑みを絶やさない。表情を出すなんてもってのほかだ。
「いや、釘を刺していたのですよ。海軍はしっかりしているのか、とね」
「そんなこと仰らないでくださいよ、バイザー卿。ご心配には及びません。本当に」
笑っていうホドにラトロンガ卿が噛み付いてくる。
「そういえば、ケゼルチェック卿はこの度のリュードベリ帝国との戦争を避けておいでですね。ご自身の海軍の自信がないのではありませんか? なにせ、隣国のリュードベリがわれらに戦争を持ちかければ、その隣のクサンク帝国もわれらに牙を向く。そしてクサンク帝国にはベルチェル率いる海軍の精鋭部隊がありますからな」
「ご冗談を、わが海軍がベルチェルに遅れをとるとでも?」
「率いるのはヴァトリア将軍ですからな?」
「ヴァトリア将軍に御不満がおありなら、ラトロンガの中から海で戦える男を探してはいかがでしょう? 探してみれば案外いるかもしれませんよ? まぁその作業は砂漠の中から一粒の麦を探すようなものですから、まぁ、見つけられたころには戦争は終わっているでしょうね」
 口元に手をやって笑いを殺し、目線でバイザー卿を見る。
「そうですなぁ。なにせ、ラトロンガ地方には海がありませんからなぁ、はっはっは」
「そ、そうですな。ヴァトリア将軍に不満などありませんよ。冗談です」
 これで婚約者を馬鹿にすると怒る自分が植え付けられただろう。ホドは内心で考えた。
「わが君が平和を望んでおられるのはご存知でしょう? 幼くしてご両親を亡くされたわが君は人の死を理解しておいでです。たとえ、敵国のものであろうとも、戦えば死に至ることをご存知なのですよ」
「しかし、いざとなれば戦う決意を下していただかねば、一公爵として」
 バイザー卿の言葉にホドは頷いた。
「もちろん、存じておられますとも。わが君は」
「それを期待しますな」
 バイザー卿はそう言って口を閉じたが、ラトロンガ卿はそうではなかった。
「敵は敵でしょう? 幼いケテル様はまだ現実を理解してはおられないようですね。敵は滅ぼさねば」
「そうでしょうか? ラトロンガ卿、主は隣人を愛せ、と申されたのですよ? 敵国の人間も同じ人です」
「違うな。敵は人間ではない。敵だ。ゆえに隣人にはなりえないのだよ」
 ホドは微笑んで、視線を泳がせ、そちらをしゃくって言った。
「そのことは私たちではなく、ぜひ神父さまに教えていただいてはいかがでしょう?」
 三人が見た先にはソロモン卿が連れている神父の姿があった。
「その通りですな」
 バイザー卿がうなづいて、ソロモン卿に近づいた。
「ソロモン卿、そちらの神父さまをぜひわれわれに紹介してください」
「バイザー卿、ホドクラー卿も。ええ、もちろんですとも。明日の礼拝をしてくださるレイズ神父です。レイズ神父、こちらはバイザー卿とホドクラー卿です。ホドクラー卿はケゼルチェック卿の代行をしておられるのですよ。ですから市民の間ではケゼルチェック卿と呼ばれておいでです」
 この神父が気付いたかはわからないが今の言動にはホドへの嫌味がこめられていた。幼く、といっても来年ケテルは成人なのだが、子どもをいいように騙して公爵の権限を自在に操っている身分違いの男、と。
 ホドはケテルの代行をしているのはケテルがまだ成人ではないからだ。この国では成人する前に当主とならねばならない公爵には後見人がつき、その後見人が公爵の権限を肩代わりしてもよいことになっていた。
 ホドはこの国の出身ではないから破産寸前まで追い込まれたケゼルチェックを持ち直した直後に現れた不審な貴族なのだろう。ホドはケテルに拾われてこの国での侯爵という身分を与えられたに過ぎない。ケテルというケゼルチェック公爵の後見人を務めるための。
 しかしホドとて公爵の後見人をするには若すぎた。最初はこの不審な若者を排除しようといろいろやられたものだがそんなことは見越していた。ホドには逆に張り合いのない遊戯のように思えたものだ。この程度の駆け引きで負けてしまったのではケテルの父親、前ケゼルチェック公爵は貴族に向いていなかったことになる。
 芸術を愛し、才能あるものを愛し、育てた前ケゼルチェック卿は爵位を継ぎ、数年経たぬうちに財政を失敗し、追い込まれ他の貴族に付け入られた。しかしプライドだけは高く、他の貴族の助けを借りず、普通の男爵程度の貴族より貧しくなりいっきに他の公爵たちからやりこまれてどうしようもなくなった。
 公爵は覇権争いから落とされたのである。負けた公爵は悲惨なものだった。幼少のケテルも悲惨な思いをしたに違いない。この国で一番偉い身分の貴族であるに関わらず、一番貧しい貴族であり、助けを求めることも出来ない。
 そして病んだケテルの父親が取った行動は自殺だった。ケテルは知っている。
 ――今、目の前にいるこの貴族どもがケゼルチェックを潰し、両親を殺したことを。
 心中を進めたのはソロモンの息のかかった占い師だったという。残されたケテルは仲間と共にたった十年でケゼルチェックを立て直した。過去のどのケゼルチェックより金を持ち、栄光をなし、軍備を高め、市民の信頼を得、王の近くに返り咲いた。
 だからこの貴族どもは恐れているのだ。どん底まで突き落とした敵がその屈辱を糧に這い上がり、どのように復讐するのかを。その才能を見極めようとしている。
 再び、ケゼルチェックを落すにはいまだに隠れているケテルよりはホドを陥れた方が大打撃と思ってるに違いない。わかっていない。ケテルは望むことを成す力を持っているのだ。全てはケテルが動かしているのだ。
「お会いできて光栄です。レイズ神父。カトルアール・メ・ホドクラーです。カトルとお呼び下さい」
 握手を求め、にっこり笑う。ホドは記憶を確かめた。何が神父だ。こいつ、異端審問官の長じゃないか。異端審問官を神父なんて呼ばない。異端審問の隠れ蓑だ。
 なるほど、ゲヴラーのヒントを得て、ケテルに会いにきたな。なるほど、僕も計られているわけだ。場数を踏んだ目をしているね。
「私もお会いできて光栄です。カトル様。クァイツ・レイズです」
 この国にはあまり見ない茶色の瞳にはホドの微笑が映っている。
 クァイツは内心驚いた。ケゼルチェックを動かしていたのがこんな若者だったとは。先ほどの入城で彼がケゼルチェック卿と思いこんでしまっていた。ナックなどはそう考えている。これでは計画に支障が出る。なんとかしてナックらにこの若者がケゼルチェック卿ではないと伝えなければ。
 しかしクァイツはこれから会議が終わり、しばらくしてもソロモン卿付きの神父でなくてはならない。部下に会う暇があるだろうか。そんなことを考えつつ、あらためてカトルを見た。悪意も何も感じられない。
 ソロモン卿によると、この若者はケゼルチェック卿の代理として様々な偉業を成し、数々の栄光を手に入れた男だった。とてもティンクトラの長とは思えない。本当はケテルという子どもなのだろうか?
 それも考えにくかった。まだ成人もしておらず、病弱という身。それに両親を亡くしている子どもが人を殺せと簡単に命じるだろうか?
「ゼドル・ウン・アクファイスだ。バイザー地方を治めている」
「バイザー卿、こちらこそ宜しくお願いします」
 互いに自己紹介がおわり、和やかに表面上だけ穏やかな会話が続く。しかし内心は違うことをそれぞれ考えていた。ホドはこれからの作戦を、クァイツはホドの人物を計りきれず当惑していた。
「失礼します、レイズ神父。お外にお連れのシスターがお見えですよ」
 クァイツは夜会に報告しに来るとは何事かと眉をひそめて会いに外に出た。なるべく仲間を貴族には晒さないようにしていたのだ。
 このティンクトラの一件が終ったらまた異端審問としての任務に就く。自分たちの身分や、姿など何がマイナスに出るか分からないからだ。
「ジュリア、一体……」
「キラを連れ戻しにティンクトラが現れたのよ。今、エロヒムが応戦してる」
「そうなのか!?」
「きっとエロヒムなら大丈夫。生け捕りに出来たら情報引き出すから、なんとかしてケゼルチェック卿を嵌められないかな?」
「わからない。会った感想では、限りなく白に見えたんだが……」
「馬鹿ねぇ。あんた、女の勘を信じなさいよ。ケゼルチェック卿は黒よ、絶対」
 ジュリアはそういって微笑んだ。
「そちらにいらっしゃるのは、どなたですか?」
 靴音が聞こえ、軍服の足が見えた。見回りの軍人だろうか。
「すみません」
 クァイツはそう謝ってはっとした。相手の軍人に光が当たり、誰だか分かったからだ。
「ヴァトリア将軍……!」
「神父さまと修道女の方……。明日の礼拝関係者ですね。私をご存知ですか?」
「はい。ご高名はかねがね」
「そんなことはありませんよ。改めて、私はこの国の南方将軍を務めております、レナード・N・ヴァトリアです。以後お見知りおき下さい」
「クァイツ・レイズです」
「ジュリア・フェロンです。お会いできて光栄ですわ」
「公爵様方の警護ですか? こちらにお見えになられたのは」
「いえ。私の方は公務は終りまして、明日は休日を頂いておりますから人を迎えに来たんです」
「あるお方とは?」
 くすり、と将軍は笑った。
「神父様はこの国の方ではないのですものね。ご存知ありませんよね。私、ホドクラーと婚約関係を結んでいまして。もし、まだ先の話ですけど式を挙げるときは、お世話になりますわ」
「そうなのですか!? その時は真っ先にお祝いの寿ぎ、申し上げます」
「ええ。ありがとうございます。宜しくお願いしますね。では失礼します」
 将軍が完全に会場の中に消えたのを見計らって、クァイツとジュリアは話し始めた。
「まさか、婚約関係にあったとは」
「ほんとに。ケゼルチェックの配下ってのはわかってたけど、まさか、恋人だったんだー。恋する女の顔してたわ。あの関係は少なくとも嘘じゃないわね」
「それも、女の勘か?」
「そーよ」
 得意げになってジュリアが笑った。クァイツはそんなジュリアに軽くキスをした。

 王の寝室には王と魔法使いのレルヴィが残っていた。ケテルと彼の魔法使いはレルヴィの魔法の中に隠した一室にいる。
「レルヴィ、ケテルは本当に生き返るのか?」
「はい。陛下。私が見た限りでもあの薬は効力を持っているように感じました。おそらく三日後にはお元気な姿を見られるでしょう」
「あの薬はどういう仕組みで生き返らせるのだ?」
 しばらくレルヴィは悩んで、解説した。
「恐らく、時間回帰の魔法だと思われます。あのような薬が世に溢れていないのは時間を用いた魔法が最も高度であるためです。私も陛下をお守りするために魔法を用いますが、時間は扱えません」
 恥じるように言うレルヴィに気にするな、と手を振って、王は重ねて質問する。
「時間回帰とは?」
「はい。あの薬を事前に飲んでおくことで、一定の、今回の場合は死に至るほどのダメージを受けた場合はそのダメージを受けていない状態に時間を白紙に戻してしまう、そのような魔法と考えられます」
「死ぬ原因がなければ死なぬ、ということか」
「おそらく」
 王はふむ、と考えて言った。
「作ったのは、あのリードとかいう、魔法使いか?」
「彼なら考えられます。彼は魔術師と言える位ですから。しかし、私は別の者が作った可能性があると思います。魔法の性質が違ったように感じました。しかしやはり……時間魔法ですから……彼でしょう」
「何者なのだ? 知っておるのか?」
「陛下。これは私が陛下を信じていますから申すことですが……」
「秘め事なのか? わかった」
 レルヴィは一つ頷いて続けた。
「魔法使いとは、自分の限界を求めるくせのようなものがございます。次から次へと知りたいことが溢れ、魔法の世界に浸かり、どこまで自分が魔法について限界まで挑戦できるか試している、そのような存在なのです。ある程度魔法を学べば、自分の力が量れるようになります。同時に自分ではない、他の魔法使いの力量も」
「ほぅ……」
「魔法の世界にはまりすぎると、魔法の世界からは抜け出すことが出来なくなってしまいます。それだけの存在ならざらにこの世におりますが、その状態からもう一つ、違う次元に行ってしまう、と申しますか。普通の状態より一線を越えた魔法使いをわれ等は魔術師と呼ぶのです」
「かの男はその、魔術師、なのか?」
「はい。しかし、彼はそれだけではありません。永久の時を跨ぎ、魔術の徒として魔術師の頂点に君臨し続ける数人の魔術師を『賢者』と呼びます。彼、コクマー・アゼ・リードはその賢者の一人です。彼の二つ名は『たゆたう黒煙の影』。魔法を使うもので彼を知らない者はおりません」
 畏怖こめて、レルヴィが言った。
「ケテルはその者を何故従えているのか……?」
「気まぐれでしょう。賢者は主人を持ちません。契約でも交わしたとしか……」
「そうか」
 王はわかったと言って、レルヴィを下がらせた。この時点で、自分より強大な力を持つケテルを信じてよいものか。しかし契約が自分を守ることだったとしたら、ケテルを信じないわけにはいかない。

 王の寝室から辞去したレルヴィは背後で魔法の気配を感じ取り、振り返った。
「私に気づくとはさすが王付の魔法使いだ。レルヴィ・アンセントさま」
「たゆたう黒煙の影、殿……お目にかかれて光栄です」
「そんなにかしこまらずともよいのではないかね? 位は君のほうが十分上だ」
「何を、魔術を志すものに一般人の位付けなど無意味です。あなた様は賢者のお一人。敬うのは当然です」
「敬ってもらったところで何もでないがね。さて、本題なのだが君の本当の主人に今回のことは他言無用でもらいたいんだ、わかるね?」
「私がお仕えするのは、サルザヴェクⅣ世ただ、お一人ですが?」
「そうなのかい? ならば構わないんだが……。まぁ、君に術をかけることもできるし、ねぇ?」
 コクマーの笑いにレルヴィはぞっとした。
「何故、ご存知なのです?」
「それは君の顔に書いてあるからではないかな?」
「……何故、あなた様ほどのお方が一子供に仕えていらっしゃるのですか?」
「遊びだよ、遊び。それ以外に何かあるとでもいうのかね?」
「そ、そうですか……。ケゼルチェック卿も哀れな方だ。信頼している魔術師がまさか遊びのつもりと知られたら、なんと申されることか……」
「それは、私を脅しているつもりかね? では無駄なことだ。止めたまえ。ケテルは私が遊びでことを構えていると知っているし、ケテルに首を切られたからといって私が不利益をこうむることはない」
 あくまで軽く言う相手にレルヴィは黙らざるを得ない。
「いいのだよ? もし、君が主人に言ってしまえば、ケテルは死んだ意味がなくなるのだから。でもケテルが被った被害以上を受けてもらう心積もりはしておいてくれたまえ。私の用件はそれだけだ」
 吹いた紫煙に揺らぎ、本当に煙のようにコクマーは消えていった。
「あれが、賢者に至りし、魔術の徒!!」
 レルヴィは腰を抜かしてしばらくへたり込んだ。
 レルヴィが王以外に仕えていることも、このことを報告する心積もりだったことも何もかも見抜いていた!