TINCTORA 009

030

「ふん、他愛ない。キボールの配下もこの程度か……」
 エロヒムが血まみれのテットを見下した。エロヒムの手は真っ赤に染まっている。
 もう虫の息で立つことも不可能なテットは自分の上司であるゲヴラーと同じ恐怖をこの男に抱いた。
「ご丁寧に、秘密を漏らさないよう、呪いまでかけて……」
 男はそういって、テットの額を軽く触れた。それだけでテットには激痛が走る。呻く力すら残っていないテットに男は優しく微笑んだ。
「罪を悔い改めよ。さすれば主はすべての罪をお許しになる」
「……」
 テットはそういわれても、神を信じてはいない。異教徒のテットにとってキリストは神ではなかった。懺悔をすべき神もキリストではない。
「残念だ」
 エロヒムが呟くと、テットは自分が楽になるのを感じた。ふっと浮き上がるような、何もかもがどうでも良くなるかのような、そんな気分になった。
 その姿のまま、テットは目的もないまま、宙を飛ぶ。それを満足そうにエロヒムが眺めた。相変わらず、足元にはテットの体が転がっている。

 ゲヴラーは背筋に悪寒を感じて、背後を振り返った。そこには半分透けているテットの姿が視える。
「なんだ、やっぱテメェ、死んだか」
 そう、テットは死んだのだ。魂のみがゲヴラーの元に帰って来ている。
『今度は、お前が来い。キボール』
 テットの口からテットではない声が響く。それだけ言うと解けるようにしてテットの魂は消えた。
「……ヤロウ」
 ゲヴラーは鬱陶しく思い、わざわざ殺すようなまねをしてまで遣わした部下だがその魂を伝言のためだけに使われ、少々腹が立った。
「殺してやるよ……」
 ゲヴラーはそう言って立ち上がった。赤い目には殺戮しか映ってない。
「お望みなら、な」

 いつもの事だが敵意を向ける幼女の視線に勝ち誇った感じが含まれるのは何故だろうか? ビナーは振り返ってからかってやることにした。
「どうかしたのか? ローズマリー」
「わたし、貴女を追い出すことに成功したわ!!」
「ほぅ、それはめでたいな。我もこんなところから解放されるというわけだ。……しかし、さきほどコーリィはそのようなことは言っていなかったように我は思うのだが?」
 きっとビナーを睨みつけ、ローズマリーは言い切った。
「姉さまが約束してくだすったの。私が姉さまほど大きくなって、貴女が姉さまにあげたドレスが似合うようなレディになったときも私が姉さまを好きなら、姉さまは私を選んでくれるって!」
「ふむ。そのようにコーリィは同意したのか? しかしそれでは我を完全に追い出したことにはならないぞ? なぜならお前が成長するまでに少なくともあと十年はかかるのだからな」
 初めて気付いたようにローズマリーはしまった、という顔をする。コーリィも十年もすれば妹が諦めると考えたのだろう。それなら……。
「我に十年も姉の傍にいて欲しくはなかろう? ……我が手伝ってやろうか? お前の望みを」
「ど、どういうこと!?」
「簡単な事だ。我が魔術師とお前も知っているだろう? 我がお前の体を一時間だけ十年後の姿にしてやろうか? と言っているのだ。どうする?」
「なんでそんなことしてくれるのよ?」
「単純に、お前があのドレスが似合うかが知りたいのと、本当にコーリィがお前との約束を守るか、興味がある」
「姉さまが約束を守らないわけがないでしょう!?」
「そうかな……」
 口元を笑みの形にして挑発してやれば、すぐさまそれに乗ってくる。子どもとは愚かな物だ。
「決まってる!」
「そうか。では、我はその約束が果たされるか見せてもらおう……」
 刹那、ローズマリーの足元に黒い魔方陣が浮かび上がる。ローズマリーは驚いた顔をするが魔術の発動に巻き込まれた対象物が動けるはずもない。
 ビナーは魔方陣に魔力を注ぎ、魔法を完結へと導く。時間を掛けずにビナーの魔法が完成し、ローズマリーの体が一瞬ぼやけて、すぐに姿を取り戻したときには、彼女は美しい娘となっていた。
 着ていた服は魔術の際に消えてしまったので、自分のハンカチを魔術で大きくして裸の身体に被せてやった。ローズマリーは呆けていたが自身の長い手足と発達した女の体を見て、歓声を上げた。
「わたし、未来のわたし!」
「早くしないと一時間が過ぎるぞ」
 ビナーが釘を刺すと慌てて立ち上がり、しかし成長した体を実感して、ローズマリーはビナーに言った。
「あ、ありがとうと言うべきなのかしら」
「礼はいらん」
「そ、そう」
 布を巻きつけ、ローズマリーは衣裳部屋を目指した。そこにビナーはコーリィにプレゼントしたドレスが大切にしまわれているはずである。

「カトル!」
 夜会の会場を横切ってくる甲冑の女性を誰もが一瞬、目に止める。彼女は美しく、輝いている。
「レナ!」
 恋人に気付いて、ホドは甘やかな笑顔を見せる。
「迎えに来たのよ? 貴方ったら仕事ばっかりなんだから」
「そういう君は仕事は?」
「終ってるわ」
「流石だね」
「お二人のご婚約は何時ですかな?」
 バイザー卿がこのときばかりは微笑んで、二人に尋ねる。
「やだ、ゼドルのおじさまったら。気が早いですよ?」
 笑って返すネツァーに政治的なぎすぎすした雰囲気がさあっと晴れていく。ネツァーがいるとどんな場所でも明るい太陽が輝いているような感じがする。
「ヴァトリア将軍はご結婚され、家庭に入られたら、将軍はお辞めに?」
 ソロモン卿がにやついて聞く。恐らく、彼は将軍が女であることが気に食わないのだ。当然他国では女が政治や軍備に関わっていることなどないのだから。
 しかしこの国の初代の王は女王。サルザヴェクⅠ世だ。彼女は国を動かす際に男しかいないから国が傾き、おろかな考えを持つものが現れると考え、政治はもちろん、軍備にまで一時、八割を女性で埋めたほどだった。
 そんな歴史があるからこそ、この国では女も軍人になれるし、政治にも関われる。しかし爵位は男性のものである場合が多く、ほとんどの女は爵位を持つ男の妻となり、女同士の夜会で駆け引きを覚え、夫を影から操る方法で政治に関わるのだ。
「いえ。私は剣しか特技のない女ですから。死ぬまで現役でいたいですわ」
「そうなのですか。あ、ヴァトリア将軍、今度私の二番目の息子が軍に入隊するのです。面倒を見てやって下さい。ヴァトリア将軍に強い憧れを抱いているものですから……」
 ソロモンは政治的な駆け引きが通用しない軍人の女に別の話題を持ちかけた。
「ティティス様も帝国軍に入隊されるのですか?」
 ラトロンガ卿が問う。
「ええ。本人はそう希望しております。しかし、あやつが通用するかはわかりませんな」
「そんなことはありえませんよ! 八年前のテロベール地方の活躍はこの国で知らぬものはおりませんから!」
 ラトロンガ卿が言うのに内心鼻を高くしているに違いない、とホドは思いつつ、言った。
「その通りですよ。難攻の要塞に500以上の兵士を撃滅! すばらしい成果で、勲章を受けられたときのお顔を今でも私は覚えていますよ」
 ホドが褒め称えると、レナも乗ってくれる。
「私も近くで拝見いたしましたわ! ティティス様が我が隊に来てくだされば敵無しといっても過言ではありませんわね! すばらしいことです」
「そんなに褒めてやらないで下さいよ」
「……しかし、ティティス様はご自分の軍にすばらしい研究施設をお持ちで、そこで日々魔法を磨いていると噂を聞いておりますが、一体何故入隊をご希望なのですか?」
 ホドが褒めつつ問う。この研究施設、調べる価値はあると考えていた。
「さぁ? お恥ずかしい話ですがね、私もあれの考えることはよくわからないのですよ」
「息子の考えることなど、私も分かりませんよ。いつの間にか大人になっていて……」
「そうなのですか? 私にはまだ子どもがいないので分からない話ですね」
 上手くはぐらかされたと、ホドは内心舌打ちした。

 暗い部屋の中で、薄明るい灰色の光が発光した。コクマーの魔術である。その光が消えゆくと共に、むくりと影が起き上がる。影は伸びをして、コクマーに言った。
「死ぬのも楽じゃないよ、ったく」
「無事、生還おめでとう、ケテル」
「僕が死ぬわけないだろ。で? 首尾は?」
 ケテルがコクマーに言った。
「上々。私に脅えていたよ、あの魔法使いは。……聞いてもいいかね?」
「なに?」
「何故、あの魔法使いが王を裏切っているとわかったのかね?」
 あぁ、と頷いてケテルは立ち上がった。
「王なんかに忠誠を誓う魔法使いなんて魔法使いじゃないからさ」
「?」
「魔法使いなんて普通の人間がなるもんじゃないしー、忠誠とか信頼とか魔法使いから最もかけ離れてると思うんだよね。だから鎌掛けてってお願いしたんだよ。あいつ、魔法使いとしては優秀かもしんないけど、駆け引きにまるっきり慣れてない。慣れてる魔法使いが夜遅くに来たあやし~い子どもを何一つ要求しないで通す訳ない」
「へぇ……」
 面白い、といったようにコクマーが笑った。
「で? もう三日経ったの? の、割には何か変ってるようには見えないけど?」
「うむ。緊急にね、帰った方がいいと思ったのだよ」
「何で?」
 コクマーはそれには答えず、足元に灰色の魔方陣を出した。ケテルを魔法が包み込み、移動の術式が開始される。

 ティフェレトの自室。締め切った部屋に空気は入れ替えられず、むわっとした籠った空気が重く垂れ込める。
 ティフェレト付きのメイドキラがいなくなり、代わりのメイドもいないまま、ティフェレトの部屋は掃除もされずに一週間経過した。それでも部屋は汚れていない。ティフェレトが使わないからだ。
 全く使われていない机にはうっすら埃すら積もっている。キラが花瓶に刺した花が枯れて、水も黄色く濁っていた。
 そんな部屋の中央に椅子を引きずり、やる気を失ったようにティフェレトは座り続けた。
 その周りをまとわりつくギメルからは甘い香水の匂いが漂う。ギメルの言葉はティフェレトの耳を通り抜ける。ずっと聞いていない。
 そんな態度にさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、ギメルがティフェレトの胸倉を握った。
「いい!?」
 ティフェレトの瞳に初めてギメルが映し出される。キスでもしようかというくらい、近くに迫った顔にはティフェレトを睨む目のみがある。
「アンタは捨てられるの! この私がお前に勝ったのだから! そう、ケテル様が約束してくださったのよ。クミンシードからお帰りになられたら、お前に罰を与えるって仰ったもの!!」
「そう」
 ティフェレトはギメルがケテルと慕う相手がホドであることを知っている。つまりギメルの言葉はホドの言葉。
 ティフェレトはホドの部下ではないし、ホドの所有物ではない。だから構わないでいたのだ。
「ティフェ!」
 いきなりノックもなしに扉が開け放たれる。ギメルが憎憎しげに扉を睨んだ。一体邪魔するのは誰かと。
 入ってきたのは水色の髪の少年。マルクトだ。
「ここにもいないか……」
 舌打ちと共に聞こえてきた呟きにティフェレトは彼が誰を探しているか理解した。
「マルクト、ケテルがいないんだね?」
「そーだよ。アイツ、ボクの結界抜けてクミンシード行っちゃったらしい! 腹立つったらないよ。何のために留めたのか分からないじゃん」
「……クミンシードだって?」
「どしたの?」
 青くなったティフェにマルクトが問う。逆にギメルが唇を吊り上げた。
「ほら、私の言った事にうそはなかったでしょう?」
 ギメルはティフェが無視し続けるのは嘘を言っているとティフェが信じ込んでいると思ったらしい。
「お前は黙ってなさい!」
 マルクトがギメルに怒鳴った。少年に、格下の少年に命令されて、ギメルは黙っていない。
「お前こそ何者だ? 私は、ラスティア侯爵の娘よ! お前如きが私になんですって!?」
「黙れって言ったんだよ!!」
 マルクトがギメルに言った。
「失礼な! 私はこの子に勝ったのよ! ケテル様がお帰りになられたらティフェレトの座を私が貰うのよ! 私に命令できるのは、ケテル様のみ!!」
「は? ケテルがそんなこと言うわけないじゃん」
 マルクトはホドがケテルの代わりをしていたことを知らない。それでもそんなことを言うわけがないとわかっていた。
 しかし、ティフェレトはもし、言ったのがケテルだったら、と本気で考え始めた。
 キラを逃がした。結果的にケテルの遊びをだいなしにしたのはティフェレトだ。最近ケテルは何を考えているか分からないところがあった。自分も悩んでいた。二人でゆっくり話したのは結構前な気がする。
 ケテルは出かける前に自分会って行かなかった。いつもならそんなことないのに。自分に何も言わないでクミンシードに行ってしまったんだ。捨てられたのだろうか?
 改めてティフェレトはギメルを見た。自分とは違う勝気で輝く美しい女。どうしよう、もしケテルに捨てられたら。……何も残っていない空っぽの自分になってしまったら。どう生きればいいんだろう? ティフェレトじゃなくなってしまったら?? 自分がもう何者か分からない。
 ――ティフェレトの思考はそこで止まった。

「がっ!」
「!!」
 マルクトは伸びてきた黒い手が誰のものか分からなかった。
「……あっ、あぁっ!!」
 ギメルがもがいて喘ぐ。
「……ティフェ?」
 マルクトがようやく呟いた。それは異質な光景だった。
 ――ティフェが、首を絞めてる……!?
 速度が驚異的に速いティフェレトは瞬殺することが多かった。気付いた時には急所をやられて死んでいるのだ。そんな殺し方しか見たことはない。それが、ティフェレトはマルクトと言い合っているギメルの首に手を掛け、そのまま床にギメルをい押し倒し、彼女の首を絞め始めたのだ。
 ティフェレト自身、今まで見たこともない感情的な顔をして……。恐れているような、怒っているような、憎んでいるような、悲しいようなそんな感情をごちゃ混ぜにしたように瞳が揺れていた。
 マルクトはティフェレトに声を掛けられなかったし、もちろん彼の行為を止めることだって出来なかった。知らないティフェレトがいるみたいだった。
「……!!!!」
 ギメルが手を掛けるティフェレトの腕を叩くが効果はなく、顔が赤くなって、次第に青くなっていく。口からは唾液が垂れ、目が焦点を結ばなくなる。
 ティフェレトは何も言わずにただただ、首を絞め続けた。マルクトはどうにかしなくちゃ、と思い立ってよろよろと扉に縋り付き、部屋を駆け出した。
「あんなのティフェじゃない! 違う……」
 呟いたマルクトにケテルの言葉が思い出される。
 ――僕たちに見せている姿が本当の姿じゃないかもよ?
「キラ……」
 彼の影の姿が思い出される。そして理解した。
「そうか、彼女はティフェの影なんだね、ケテル」
 どうしようと愕然としたマルクトの傍に寄り添う影が一つ。彼と同じ姿形をした少女。
「イェソド……」
 マルクトは情けない顔をして、彼女の名前を呼んだ。
「マルクト、落ち着く」
「どうしよう……。イェソド、ティフェがギメルを……」
「マルクト、できる。ケテル、呼ぶ」
 アドバイスが希望の光に繋がったように、マルクトの表情がぱあっと明るくなった。
「うん、うん! そうだね。さすがだよ、イェソド!!」
 瞬間、マルクトの足元に巨大で鮮やかな緑色の魔方陣が現れる。マルクトの髪は術で垂直に舞い上がり、その影響を受けてイェソドの服や髪も激しくはためいた。
 うっすら開いたマルクトの両目が水色から浅葱色に光る。しばらくその状態が続いて、マルクトが目を開いて、魔方陣に向かって右手を突き出した。
「見つけた!」
 とたんに緑の魔方陣に薄い灰色の色が滲み出す。
「おや、誰が術式に干渉したのかと思えば、君かね? マルクト」
 緑色の光が溢れ、中から二人の人影が写り、一方から声が発せられた。
「丁度、移動中だったみたいだからね、無理矢理引き寄せたんだ」
 完全に姿を現した二人にマルクトは言った。緑の魔方陣が消えうせる。
「やー、もうばれているなんて、怒ってる? マルクト」
 ケテルが上目遣いでマルクトを覗き込む。
「うん。すっごく怒ってる。でもそんなのは後!」
 満面の笑顔で言った後、マルクトはティフェレトの部屋の方向を指差した。
「ケテル、大事、ない。ケテル、罰」
 イェソドがニッコリ笑ってマルクトと同じように同じ方向を指差した。
「何かあったの? ティフェに」
「自分で確かめて。もう時間がないんだから、急いで!!」
 マルクトが言った瞬間に二つ返事で頷いて、ケテルは一人、ティフェレトの元へと急いだ。