TINCTORA 010

033

 どうしてこんなにイライラするんだ。俺は感情が無いのに、無いはずなのに。心の底では人間のような感情があるって信じてた、と思う。
 嬉しかったり、楽しかったり、腹が立つこともあれば悲しいこともあったはずだ。人間と同じようにケテルと出会った後は過ごせていたはず。
 なのに、こいつは俺達には感情なんか無いって言う。じゃ、今おまえに対する怒りは何だ! お前に抱く殺意は何だ?
「お前の言うことなんか、信じられるか!」
「そうか? 我は正しいことしか言っていないが。……あぁ、共にいる人間に感化されたのか? ケテルとかいう、ティンクトラの主に。愚かな、お前はネピリムとして不自然のようだな」
「何だと……?」
 聞いた瞬間にゲブラーの拳が胸に炸裂する。
「ガっ!」
 後方に吹き飛んだゲヴラーに追い討ちを掛けるように同じ場所に今度は手刀が叩き込まれ、そのままゲヴラーの胸を貫通する。凄まじい痛みと大量の血が溢れる。普通の人間ならば即死の攻撃。ゲヴラーが人間ではないからこそ、重傷で済んだものの、それでも動こうとゲヴラーはあがく。
 ――どうして!? 死ぬのか!! 俺が!
 立ち上がろうと腕に力を籠め、ゆっくり上体を起こすと同時に胸に開いた穴から血が流れ落ちる。
「まだ、立ち上がるか!」
 少しばかり驚いた声を出してゲブラーは立ち上がろうとしているゲヴラーの腕を叩き落す。
「ぐアっ」
 ゲブラーは再び地に伏せったゲヴラーの肩に片足を踏み下ろし、その腕を掴むと思いっきり引っ張った。
「あアあぁあぁあああ!!!」
 思いっきり、引っ張られた腕は関節を破壊し、骨が異様な音を立てた。肩が外れ、ゲヴラーが絶叫する。
 それでも表情一つ変えず、ゲブラーはまだ腕を引っ張り続ける。
「お前の負けだよ、キボール。我らの仲間になれ」
「……その名を呼ぶなって言ってんだろ、バカが!」
 ぐりっと肩を踏まれたまま、力を入れられ、ぐりぐりと踏みつけられ、今度は鎖骨が悲鳴を上げる。
「なぁ、忠誠なんて人間のする事だ。スマートにいこうじゃないか。我らが従うのは主のみ」
「神なんて人間以上に嫌いだよっ!」
「ふん。これ以上は無駄か……」
「アがぁああああ!!」
 普通の人間なら無理でも、お互い剣を素手で曲げたり銃弾を素手で受け止めることができるような肉体と力を持っている。ならば素手である程度の攻撃もできるということ。
 思いっきり引っ張られたゲヴラーの腕がゆっくりゆっくり引きちぎられていく。太い血管から一本一本の筋繊維、果てに皮膚がゆっくり千切れていく。その度に襲いくる痛みはゲヴラーを発狂させてしまいそうだった。
 涙が自然と垂れ流れる。そして千切れた腕をゲブラーはゲヴラーの目の前で振って見せた。
「この前、お前の仲間に俺の腕は切り落とされたんだった。あれは痛かったな」
 痛みに喘ぐゲヴラーにゲブラーは笑う。
「体が丈夫だと一気に死ねなくて苦しいな? 今度はどこにする? 脚にしようか?」
 腕を投げ捨てようとしたゲブラーに残った意識で目の前にちらつく自分の血まみれの腕を捨てさせないように喰らいついた。少々驚いたようで笑顔で尋ねる。
「自分の腕の味は?」
「はぁ、あ……」
 ゲヴラーは取り返した自分の腕をもう片方の腕で持ち、なんとか止血だけでもしようと魔力を開放する。
「質問には答えろよ」
 ゲブラーは前髪を掴んでゲヴラーの上半身を無理矢理持ち上げると額に思いっきり膝頭を叩き込む!鈍い音がしてゲヴラーの体が跳ね、額がぱっくり割れて血がゲヴラーの視界を真っ赤に染める。
 ――何で、同じ存在なのに俺はこんなに弱いんだ!
「クソ!」
「我は出来るだけお前を殺したくはないんだ。主の意向に沿いたいのでね。……しかしお前はいくら傷つけても無意味なようだな。しかもこんなに弱いとは……。我がお前を殺してひとつになるのが一番良い道のようではないか」
 ゲヴラーは唸るようにようやく声を漏らす。
「ふざけんな」
「強がってもお前は失敗作。所詮偽者ということか」
「な、んだと?」
「言っただろう? 主は人間のために我らネピリムを作ったのだと。人間のために正義の行動を取れないお前などネピリムにふさわしくない。我が本物なのだろう」
「本物?」
「そうだ。同等の力を持ち、同じ考え方をする我ら二人きりのネピリムがお前は我より弱く、考え方が人間側に傾き、主の意向を感じ取れないお前など、ネピリムにあらず。……お前は我と違う。お前は同じである我とかけ離れた。よって偽者、と捉えてもいいだろう?」
 ゲヴラーは怒鳴った。
「偽者なんかじゃない!」
 ――偽者なんて言葉で済まされて、殺されてたまるか! 俺の今までのことはコイツと違うからってだけで、偽者だから弱くて、なんて言葉で済むわけが無い! じゃなきゃ……。

 母の言葉を聞いて目の前が真っ白になった。ただ、母が本当は自分を愛していなくて、この外見と力を恐れ、気味悪がっていたとわかってしまった。
 神としての血がまたも覚醒し、人間の思考が読めるようになってしまったらしい。
「母さんは俺のこと、好き?」
 わかっていても否定して欲しくて、こんな力が間違いだったと思いたくて訊いた。
「……私のすべてを奪ったのに、好きだなんていえると思う?」

 ダイキライ。

 母の唇がゆっくり動いたのを見た瞬間にゲヴラーの視界だけではなく、すべてが真っ白に染まった。その時の感情が怒りだったのか、哀しみだったのかわからない。
 ゲヴラーはその時すべての力を放出した。全身の血が脈打ち、ぱちぱち弾ける感じ。視界は白く染まった後に見えたものは一面の焼け野原だった。
 長いこと休止していた山が突如ゲヴラーの力によって活性化、大噴火を起こしたのだった。白銀の雪は一瞬で水蒸気に変わり、大量の灰と火山弾が降り注ぐ。それを追う形で火砕流が山をいっきに流れ、全てのものを燃やしつくし、赤い世界に変えた。
 ゲヴラーと母の家も離れた村もすべて焼け滅んだ。もちろん、母も一緒に燃えた。骨さえ残らずに。
 ゲヴラーはその上空に悠然と佇み、人間としての感覚が完全に失われたのだけを理解した。こうして人間に別れを告げたゲヴラーは遠く離れたところで何をするでもなくぼぅっとしていたところを奴隷商人に拉致られ、奴隷市に出品された。
 どうでもいいことだった。もうなんだってよかった。
「君は死んだような目をしているのに何で生きているんだい?」
 格子の向こうで笑いかけた空色の瞳。
 ケテルはそう言って俺を買い取った。そこから楽しかった。嬉しかった。ケテルといれば生き生きと日々を過ごせた。ケテルの言うことならなんだって叶えてあげる。
 それ位ゲヴラーにとってケテルは大切な存在だった。

「人間なんかと一緒にいるからそうなってしまうんだ」
「うるせぇんだよ! ケテルのこと何も知らねぇくせによ」
「知らないさ。だからどうだって言うんだ? そんな考え方をしている時点でお前、ネピリムじゃないぞ」
 ゲブラーは笑って先ほど貫通したゲヴラーの胸に開いた穴のような傷に踵を振り下ろした。
「死んでしまえ。お前など。我が使命を果たそう。お前の力を貰い受けてな!」
「何が神だ、バカげてるぜ……」
 呟いたゲヴラーの生命を完全に奪おうとゲブラーは喉に手を掛けた。その刹那、ゲヴラーを包み込むように緑の魔方陣が発光する。
「何だと!? 移動魔法? 一体誰が……!!」
 地面に吸い込まれるようにゲヴラーの身体は消えていく。その時ゲヴラーはやっと意識を失えた。

 それから深い眠りについたゲヴラーはイェソドによって傷を治されていたものの一週間眠り続けた。ゲヴラーの重傷度にマルクトは少しパニックに陥ったようだったがイェソドのおかげで持ち直し、心配して一日に何回も顔を見に来ていた。
 ティフェレトも驚いたらしく、包帯だらけのゲヴラーを珍しそうに見ていた。ケテルはなるべくゲヴラーの傍にいるように行動していたから、当然、ゲヴラーが目を覚ました時にいたのもケテルだった。
「おや、お目覚めかい?」
 読んでいた本から顔を上げて微笑むとゲヴラーの方に身体を傾けた。結っていない髪がさらりと肩から零れ落ちる。
 ゲヴラーはぼうっと本を傍らに閉じて置くケテルの動作を見ていた。
「……ケテル」
「身体は平気かい? イェソドにすべて治してもらったんだけど」
「……」
 ゆっくり上体を起こしてゲヴラーはケテルのほうを見ずに口を開いた。
「……夢をな、見たんだ」
「どんな夢?」
 静かにケテルが問う。
「うん。あのな、俺が死ぬ夢。……ありえないだろ? だって、俺……」
「自分が死ぬ夢は自己変革の証というよ?」
「自己、変革? 俺……変わっちゃうんだろうか? 弱くなっちゃうのかな?」
「強い、弱いは自己変革と関係ないと僕は思うけど、……まぁ、どうゲヴラーが変わっちゃっても僕は君が好きだと思うよ?」
「そうか? 俺がお前と何してても無反応になったり、するかもしれない」
 過去を思い出して、言ってみる。外見をケテルは嫌っていないけど、感情が完壁なくなったら、どうするかな?
「いいんじゃないの? それは僕の努力次第だろうし」
「なんだ、それ」
 苦笑して呟く。
「無反応でしょ? つまり刺激のない日常を僕が君に与えたときの話を仮定してるんでしょ? なら僕はいつでも刺激ある素敵な日常を未来の君に約束してもいい」
「……そういうことじゃないよ。ケテルおかしい」
「そうかな?」
 自然と目を彷徨わせてケテルはどういう意味か考えている。ゲヴラーは言った。
「……俺の唯一の同胞に会ったよ。俺はそいつを殺しに行ったんだけどそいつ、俺を仲間にしたいらしくてさ……」
 ケテルは思考を止め、ゲヴラーの話に耳を傾ける。
「人間のために正義ある行動をしようって言うんだ。笑っちゃうだろ? ……俺の行動は正義じゃないから俺を殺して完全な存在になって神の命令を遂行するんだってさ」
 力なく笑い、ゲヴラーは下を向いて淡々と語る。
「俺は人間なんて憎しみの目でしか見てこれてない。正義なんかわからない。……あいつは本物のネピリムと名乗った。俺は不完全で失敗作で、だから弱い、偽者だって……」
 ゲヴラーはケテルの肩を握って、ケテルに問う。その表情は苦しみのもの。
「――ケテル、俺は……偽者なのか?」
 見詰め合う瞳。一瞬の無音。ケテルは真剣に聞いていた表情をふっと和ませて、言った。
「……何と答えれば君は満足するのかな」
 ゲヴラーがはっとして目を見開く。
「お、俺は、俺は……!」
「あのね」
 ケテルはゲヴラーの肩をやさしく叩くとゆっくり言った。
「自己の定義づけなんて他人を鏡のように使って思いこんでるに過ぎないんだよ。偽者か? 違うのか、本物か? それを決めるのは自分だよ、ゲヴラー。君がその同胞と出会って“ゲヴラー”という器を失ったのなら君はもう既に“ゲヴラー”ではないのだろうね。じゃあ、どうして僕に聞く? 何故悩む?」
 ケテルは答えを与えてくれない。逆にもっと悩ませる。
「仮に君が偽者だったとしてそれで君は何が変わる? ゲヴラーでなくなったら君は何になる? 逆に本物が君だったらそれで何を得る? ねぇ、ゲヴラー。君が本物か否かなど大して重要じゃないんだよ。僕にとってはね。君とっては違うだろうケド。でも所詮他人事だろ? そんなこと僕に訊いてどうするんだい? そんなこと他者が決定するものではなく自らがしていくしかないじゃないか。この世はこんなに曖昧なのに」
 ケテルはかすかに笑った。
「俺、わからないんだ。自分が本当に今楽しいのか、どうして死ぬことが怖いのか……感情を理解できない」
「ゲヴラーが楽しいと感じる時は?」
「人を殺したり、ケテルやティフェと話してるとき」
「逆にどうしてそれが楽しくないと感じたりするの? 楽しいのに楽しいと思っているかわからないの?」
 ケテルは聞いた。その答えはゲヴラーには自分の正体を明かすようなものだ。
「俺、人間じゃ……ないから」
「そうなの? じゃ、君は、何?」
「神と人間の間に生まれた子ども。人間としての感情は持ち合わせていない神として、人間として不完全な中途半端な存在と、教えられた」
「……人間じゃないとどうして感情を持てないんだろう?」
 ゲヴラーがケテルに教えて欲しいのにケテルはゲヴラーに問うばかり。求める答えは出でこない。
「この世の生き物で心を持つのは人間だけだ」
「心を持っているのは人間だけじゃないと僕は思うよ」
「じゃあ、お前は俺が感情を持っていると証明できるか!?」
 思わず怒鳴ってしまったゲヴラーにもケテルは動じない。
「証拠がなければ人間ではいられないのかい? それならば僕だって人間じゃないさ」
「だって、お前は人の子だもの……。俺とは違う」
「ゲヴラーが言ってる感情がどういうものかわからないけれど、楽しいって自然に感じたらそれでいいんじゃないの? ゲヴラーはそもそもなんで楽しいって思うときにそう自分が感じていないと思うのさ? 冷静な自分がいるから? ……ゲヴラー、人間はね、感情を持ってるから人間なんじゃないよ。心があるから人間なんじゃない」
 ケテルは笑わずに言い切る。ケテルはしばし悩んだ。ケテルだってまだ17年しか生きていない。人を説明するには人生経験だって足りてはいない。それでも求められたら応えてあげる努力はしたい。
「人間は自分を人間と思いこんでいるから、人間でいられるのさ」
「……そう、なのか?」
「例えばビナー。彼女は君の言うような感情を持っているとは思えない。彼女は人の感情を完全に理解してしまっている。こういうときにはどういう反応を返せばいいか計算している部分が多くある。それは果たして人間の感情と正確に言えるだろうか? ビナーはそれでも人間だよ?」
 自分のやっていることと同じ、とゲヴラーは思った。笑うべきところだと思うから笑っていた。でも心から楽しかったとも思えたと思う。
「ゲヴラー、君が何者か……そんなことはどうだっていいんだよ。僕にとっては。君が今不安を感じているのはわかる。君が望む答えを与えてやることは簡単だ。……でもそれで君は満足できるだろうか?」
 ケテルの瞳を見て、ゲヴラーは言った。
「……俺が、決めるしかないって言うのか? でもそれって、自己満足じゃないか……。例えば、鳥が自分は人だと言い張ったって、所詮鳥。そうだろう? 万人が鳥と答える」
「じゃ、君は万人がこの世界中の人間が君を人間、もしくは違う存在と言えば満足なんだ? ……ゲヴラー、それなら今から聞いておいで。世界中の人間に聞いてみるといい。自分の生まれを境遇を尋ね、答えを集計してごらん。君がそれで満足するなら、僕は君を笑って送り出してあげるよ。正し、その笑みは嘲笑だけどね」
「……例えばの話だ」
 ゲヴラーはむっとして言った。
「自分を見失って不安がるなんて愚か者のすることだ、ゲヴラー。僕は君が何であろうと構わない。重要なのは、君がなんであろうとするか、だよ」
「ケテルはいいよな。自分を満足していて……。俺とお前は違う」
「違うのなんて当たり前だ」
 ケテルがむっとして答えた。
「……わかったよ。ゲヴラー。今から、人を百人殺して来い」
 ケテルの目は全く笑っていない。本気で命令している。それに驚いた。いきなりだったから。
「……え?」
「何人目で自分の感情に疑問を持つかやってみるといい。それが君の人間であるパーセンテージだよ」
「ちょ……、ソレ、どういう意味だよ?」
「人間を殺すとき、楽しいと言ったね? でもその感情が正しいかわからないとも。なら人を殺してみて、まず楽しいと感じてごらん。その上で何人目で本当に楽しいと思っているか疑問に思ってごらん。疑ったらその時点でオワリ。それで割合を出すんだ。百人中何人まで楽しいと思えたのか。三十人だったら君の人間度は三十%」
 ケテルは当惑しているゲヴラーを置いて話し続ける。
「君の同胞の言う言葉で言えば人間度が半分以上なら君は人間。失敗作。つまり偽者。逆に半分未満なら君はネピリム。本物。これでいいかい?」
「そういうことじゃ、ない」
 ゲヴラーは俯いて言った。その言葉を聞いて、ケテルは短く溜息を吐くと、立ち上がる。怒らせたり、呆れられたのかとゲヴラーは不安になって思わずケテルを見た。
 ケテルは微笑んで言った。
「ごめん、君は疲れているのに。もっと疲れさせるような事言って。もう今日はゆっくり休んで」
「ケテル」
 ケテルはおやすみ、と笑って部屋から静かに出て行った。一人取り残されたゲヴラーはベッドの中でケテルに言われたことをずっと繰り返していた。逆にケテルは部屋から出て大きく溜息をついた。
「僕もまだまだ子どもだな……」