TINCTORA 011

11.氷結の魔女

035

 にこやかに、ソファでくつろぐ自身の主人にゲヴラーは跪いた。
「ただいま、ケテル」
「おかえり。今度は負けなかったみたいだね」
「ああ」
 強気で微笑んだゲヴラーに対し、ケテルは満足そうだった。
「さて……」
 ケテルは立ち上がって、マルクトの方に歩み寄る。
「彼が、ゲヴラーの影か……。成る程、外見はそっくりだね」
 ケテルは眠っているかのようなゲブラーの頬をそっと撫でて、呟いた。
 ゲブラーはイェソドによってすっかり傷がふさがっているが、一回、千切れて離れた首は生々しい赤い傷跡がはっきり見える。
「ひどいものだ……容赦しなかったね、ゲヴラー」
「ははっ。悪かったね。楽しかったから、つい……」
「いいんだ。君が、勝ったんだから。死ななかったんだから。僕の君が……お土産まで連れて、本当に君はすごいよ。偉い偉い」
 ケテルはゲヴラーに笑って、マルクトに言う。
「いつもの場所に運んで置いてくれる? ……マルクト、ティフェは?」
「え? まだ帰ってないの? 途中で帰ったんだけど……」
 マルクトはイェソドと一緒に頷きながら、不思議がっている。
「うーん、嫌な感じ」
「何が?」
 ケテルの呟きにゲヴラーが尋ねる。
「うん、まぁ、大丈夫だとは、思うけれど……」
「だから、何だよ」
「なんでもない」
 ケテルはここではない、どこかを見ているようだった。

 ティフェレトは普通に歩き続けていた。ゲヴラーとゲブラーが戦っている場所はケゼルチェックからかなり離れているわけではなかったので、ティフェレトだってマルクトに送ってもらわなくても、一応、一人で帰れる。
 ティフェレトは特に何も考えていなかった。ただ、無心に歩いていたのみである。
 しかし、人の気配を感じて、少し警戒しながら歩いていた。しばらくティフェレトと同じ方向に一定の距離を保ちつつついて来る。殺意も敵意も感じない。しかし自分をつけている感じは、あった。
 しかし自意識過剰かもしれないし、たまたま歩く速度が一定の距離を生み出しているのかもしれないので、このままにしていた。
 ケゼルチェックに入れば市場がある。それを利用して自分が迂回して帰ればいいのだ。
 後ろの人物が偶然についてきているだけならばそれで済む。しかし自分の狙っての尾行ならケゼルチェックに入る前にまきたいところでもある。尾行にしては、下手な分類だが。
「……」
 ティフェレトは相手の歩く速度が少し速くなったことに気づいた。やっぱり偶然だったのか、と思う。自分がこのままの速度なら、いずれ、追い抜かすだろう。そう考えていた。
 その通り、相手が自分と並んだ。外套を着た紳士だった。勘違いか、と安心しかけたところでその男はティフェレトに声をかけた。
「変わらないな」
「……?」
 ティフェレトは男の顔を見る。金髪に青い目。年齢は30を過ぎたくらいだろうか。見覚えがない。
「……」
「成程、応急処置は効いているわけか」
「……誰?」
 ティフェレトはこの紳士が何か変な感じを覚えるのだった。知っているはずはない。知らない男。その男がまるで自分を知っているかのごとく、わけのわからないことを言っている。
「しかし、自身の存在している理由は覚えているようだな。……本能? とでも言おうか、これは貴重なサンプルになるかもしれない」
 男はティフェレトの赤く染まった腕をちらりと眺めて呟いた。
「……何なの?」
 本能でこの男は何か危険な気がする。というかこの男を見ていると嫌悪感が走る。殺してしまわなければ、いけない。そんな気がする。でも、できない。
 どうして? ティフェレトは混乱する。自身の影はあのキラという少女のはず。この男が自分を混乱させる原因は、何だ?
「よし、ケゼルチェック卿がちゃんとこの人形を使いこなせているか、拝見するとしようか」
「え?」
 ティフェレトは困惑する。今、ケゼルチェック卿って言った……? ケテルのことを知ってる? その前になぜ、この男は自分がケテルのものであると知っている?
 確かにケテルに連れられることは多い。でも公式の場には絶対行っていないはずだし、共にいるところを見られているのも、ケテルの配下の貴族だけだったはず。その中にこの男はいたか? ……いや、いない。
「何者?」
「ふむ。初めての実験というのに失敗はつきものだな」
 ティフェレトの言葉を聞いて、男はふむふむと頷くばかり。ティフェレトに返答は与えない。それどころか、ティフェレトの反応を知って、考えている様子だ。
(絶対、ぼくを知っている! ぼくが忘れたぼくの過去を!!)
 当惑がティフェレトを覆い尽くす。どうしよう、と自分の次の行動を決められない。その瞬間、背後で殺気を感じ、ティフェレトは反射的に横に側転して避ける。次の瞬間には避けたはずなのに目の前で殺気を感じた。
 攻撃される! ティフェレトは素早く、腰からナイフを抜き放ち、目の前で一閃。かん高い金属音がして、目の前に現れたのは銀色の長い剣。
 自分のナイフと交差し微妙な均衡を保っていた。ティフェレトは目を見開いた。
「なっ!? ぼく??」
 ティフェレトの目の前にいたのはティフェレトと全く同じ外見の少年。ティフェレトより幼いが、まさしく瓜二つの同一人物だった。
 目の前と同じ顔を持つ人物はティフェレトには驚いてはいないようで、次の攻撃に移るべくティフェレトのナイフを押す。
 得物で不利を感じたティフェレトは動揺を隠せないまま、ナイフを弾いて、右足だけを使って後方に飛び退る。
「どういうこと? 君はなんで、ぼくと……」
「同じかって? それはお前の血液を使ってこれを造ったからさ」
「ぼくを造る!?」
「そうとも、魔術の結晶、ホムンクルスだ。能力はお前とそんなに変わらないはずだが……さて、オリジナルに劣化コピーが勝てるのかどうか、観察する価値はある」
 男は呟いた。男の言葉を聞いていても、そのホムンクルスとやらはティフェレトに攻撃を仕掛けてくる。
 混乱した思考ではいつものように冷静な判断ができない。そのせいでティフェレトは攻撃をよけるだけで精一杯だった。
「改良を加えただけはあるか? オリジナルが押されている……ふむ」
 ティフェレトは男の呟きを聞いて多少は混乱が収まってきた。到底理解できないし、信じたくはないが……目の前の少年は自分の過去と関係がある。オリジナル、劣化コピー、ホムンクルス……。それらとこの男の発言からして、自分は、この男に造られた存在である可能性が高い。
 ぼくが失くした記憶をこの男は知っている。過去のぼくと同じだけの力を持っているか、ぼくを試している!

 ケテルは遠くを見つめていたような表情から振り返って微笑み、マルクトに聞いた。
「ねぇ、マルクト?」
「なに?」
「まだ、僕のこと、怒っているかい?」
 柔らかく微笑まれるとマルクトの怒りが再燃してくる。いつもいつも笑って余裕で、心配してるのに自分勝手な主を今日こそは懲らしめてやろう、と思うのだ。
「うん」
「お仕置き、する?」
 上目遣いで見てもダメったら! マルクトは心の中で呟いてケテルを睨んだ。
「する! 今日こそは!!」
「うーん。困ったなぁ。僕やっぱり受けたくないやー」
「ふざけてるのかな? ケテル君。その態度は」
 マルクトの横でマルクトの怒りを感じ取ったかの様にイェソドがマルクトと同じポーズで腕を組み、半眼で睨んでいる。完全にナメられている!! マルクトがそう感じるのも無理はないケテルの態度だった。
「僕を罰さなかったら、マルクト、イェソドと夜のお散歩に行くの許してあげるんだけどなー?」
 目でどうする? と問うてくるケテルにマルクトがぐっと詰まった。少年の目に一瞬に苦悩が浮かぶ。心配そうに同じ顔のイェソドがハラハラと覗き込む。
 そんな様子を満足かつ面白げにケテルは眺めていた。
「本当に、ほっんとうに! 怒ってたんだからね!」
「うん、わかってるよ」
「もう、自分勝手な行動はやめてよ! ボクらの主人なんだからね!」
「ああ、肝に銘じるとも」
 ケテルの微笑みに何度騙されたことだろう。約束なんて守ったためしがないのだ、この坊ちゃまは!!
「マルクトがいい子で助かったよ」
 ケテルは安心したようにふーと長く息を吐き、笑みを止めてマルクトに命じた。
「コクマーに言ってあるんだけれどね、どうもお遊びが好きで信用できないから見張るついでに君たちにやってもらいたいことがあるんだ」
「何をすればいいの?」
「うん。あのね、ティフェの影を取り戻してきてくれないかな? ヴァチカンから。あんな女でも必要なものでね……マルクトがキラを嫌いなのは知ってるけれど」
 マルクトの顔が不機嫌になるのを承知でケテルは言った。
「……その後自由にしていいんでしょ?」
「もちろん」
 ケテルは満足そうに微笑む。
「……お散歩にいける日をもう一日増やしてくれたら、行ってもいい」
「善処しよう」
 ケテルの答えに満足したのか、マルクトの足元から鮮やかな緑色の魔方陣が発光する。イェソドはぴったり彼に寄り添って、ケテルに微笑む。
「じゃ、行ってくる」
 二人は緑色の光の中に消えた。それを確認して、ケテルは今度はゲヴラーに向き直る。
「君も影を捕まえたままで疲れているだろうけれど、一つ頼まれてくれるかい?」
 きょとん、とした顔つきから強い笑みを浮かべてゲヴラーは頷いた。
「いいぜ? なんだよ」
「帰ってこないティフェを迎えにいってくれるかい?」
「ああ。わかった」
 ゲヴラーは血で汚れた上着を脱ぎ、近くにあった上着を着なおすとケテルの前から姿を消した。誰もいなくなったサロンのソファの上でケテルは緩やかに笑う。
「で、教えてくれるかい? 君の影と君の結末を」
 ケテルの背後に突如現れたのは金髪の女。その手には漆黒の杖が握られていた。彼女の背後に浮かんでいる人物をケテルは眺める。
「よく我が影を手に入れたとわかったな」
「うん。彼女が君の影なんだね? ビナー」
「あぁ。影というのは不思議なものだな。久しぶりに自分を乱される感覚を味わった。混乱を招く存在だった。ティフェレトが、……この様子だとゲヴラーもか。が、混乱する理由も説明は難しいが、わかる」
 ビナーはそう言って、振り返った。
「我という存在が容易に悩んだ……この経験は、お前以外には知られたくない気がしていた。だから、人払いをしてくれたのか? ケテル」
 ビナーは微笑んだ。感情を表に出すことがない彼女の微笑は珍しいものだったが、ケテルは驚きもせずに微笑み返した。
「君ほどじゃないけど、僕だって人の求めることはわかるさ。それが特に君たちなら。僕を主と認めてくれた君たちのココロなら、ね」
「そうか」
 紅茶を勧めるケテルの向かいに座し、ビナーはしばし口を閉ざす。そうして語り出した。

 自らの魔法を用いてローズマリーを成長させると、自身がコーリィにあげたドレスを着させる。案外同じ血を引くものだけあって、ローズにもドレスは似合った。
 そういえば、とビナーは考える。コーリィもローズも金髪に青い瞳の一般的なエルス貴族だが表舞台に出ることを嫌うコーリィは外見も地味だった。長いこと夫の死に喪に服していたせいもあって、だれもがコーリィのドレスアップした姿を想像しない。
 顔には薄いベールに黒い服。それが貴族社会における彼女のいでたちだった。いつまでたっても夫の死が忘れられない未亡人を装っているように見せていた。
 しかし本当はそうではない。ビナーが黒い服を好むからそれに合わせていただけだ。そう考えると自主性のない女だった。
 コーリィとビナーが出会ったのはコーリィの両親が亡くなる前の話だ。貴族社会の見えない攻防に疲れて、夜会でも隅のほうで目立たずの彼女にビナーから近づいた結果となった。
 ビナーはその時はまともな格好をしていたかというとそうでもない。魔術師がまとう漆黒のローブを羽織り、やはり前髪が目を覆い尽くしていた。彼女はその夜会には賢者の代表として参加していたのだった。
 賢者とは歴史の表舞台には一切干渉しない世捨て人の魔術師の集まりだ。絶大な力を持ち、魔術を極め、そのせいで生きる意味を見失った世の中の生きた廃人。それが賢者だ。
 魔術を極めすぎて、その身はほとんど魔法に侵され普通の人間の何倍も生きなくてはいけない体。しかし興味をもてるものなどほとんどない。しかし生きるためには欲が必要だ。
 だから遊戯と称してときどき国を傾かせたり、補助してやったりそんな気まぐれな自分勝手な人種、賢者とはそういうものだ。ビナーが初めて賢者になった時、特に喜ばしいとも思わなかった。だってそんなこと感じることなど賢者にはないのだから。
 賢者は賢者が選出してなるものではない。気付いたら賢者の集まりの場にいるのだ。そうして珍しく好奇の目線で眺められて、自分の本質を見抜く誰かが二つ名を与える。それで賢者の仲間入りだ。賢者は決して不死ではない。だからビナーが賢者になったときからいた賢者はほとんど自分が死ぬことをなんとも感じず死んでいった。やっと迎えられる死に安堵することも、恐怖することもなく、また一人死んでいく。
 賢者と呼ばれる存在が死んでも自分も何も感じない。そんな悠久の時を賢者は何も感じず、ただ生きる。だが賢者達は決まった日に集まって、会議を催す。何か面白いことはないか、生きることに意義を感じさせる題材は転がっていないか、そんな下らないことを適当に話し合うだけの会議。
「賢者の集まりとは、こんなにも退屈したものなのか! 老いとは恐ろしきかな、偉大なる賢者もこうなれば死していると同義」
 ある時、そんな言葉が響いた。興味本位に賢者が声の主を見る。若々しい青年だった。
「ほぉ、これは珍しきこと。賢者が一人増えたのか……」
 一人の賢者が愉快に笑う。しかし、この場の全員が知っていた。誰もこの若者に共感はできないことを。
「汝が名は……そうよの、『天を統べし大帝の剣(つるぎ)』」
 一人が言い放つ。それにビナーも賛同する。
「これから宜しく頼もう、大帝の剣。我にいつまでもその若々しさで話しかけてくれ。こちらも若返ろう」
 失笑が漏れた。意気込んでくる大帝の剣に誰もが期待などしていなかった。しかし、彼は死んでいた賢者を見事に復活させた。生きる意味を見失い、何事にも興味を示さない事柄に賢者の面々は引き込まれていった。
 賢者は自分の力を有効に使うべきだ、との彼の言葉に賛同し、一国に一人賢者が付いて、世の中を動かすという、新しい遊戯にはまった。
 乗り気ではないビナーも賢者としてまぁ、面白いことにはなるかと、こうして夜会に参加していた。