TINCTORA 011

036

 場の空気に酔ったコーリィは失礼します、と無理矢理微笑んで貴族夫人の円から抜け出した。急いでバルコニーに向かう。新鮮な空気が吸いたかった。貴族夫人の香水は様々な人の様々な香りが交じり合って吐き気をもよおす。
 が、談笑する彼女達はそれに気付かない。自分も笑われないようにつけた香水さえ、気持ち悪い。早く帰ってしまいたい。
 そんなことを思っていたら、目の前の床が、タイルが黒く光った。
「え?」
 扇で口元を隠すのも忘れ、コーリィは目を見開いた。その黒い光は文字のようなものを浮かび上がらせて円形を描き、音もなく発光すると、コーリィの髪をドレスをわずかに揺らした。
 次には黒いドレスの裾が何もない床から現れる。時間もおかずにその裾はどんどん面積を増し、いつの間にかコーリィの目の前に一人の人間が現れた。変な格好の……女?
 その時のビナーの格好は魔術師のローブを着ていたため、カラダのラインなど分かるはずもなく、顔の半分以上が金髪で隠れている。その金髪は結い上げられてもいない。仮にも夜会に参加するのに髪は垂らしたまま、格好は黒尽くめ。
 コーリィが女とわかったのは口紅を塗っていた口元が艶やかな赤色だったからだ。
「……人がいない場所を選んだつもりだったが、驚かせたようだ、すまない」
 目の前の人間が口を聞く。驚いて改めて見ると、魔法陣はとっくの昔に消えて、始めからその女がいたかのようだった。魔方陣、と辛うじてわかったのはそういうことをする人を昔一度だけ見たことがあったからだ。
「……魔法使い?」
 コーリィが呟くと、目の前の女は何も言わなかった。ビナーからしてみれば魔法使いと魔術師と賢者の違いを説明しても意味がないし、面倒だったのだ。
「あ、待ってください! 何か私失礼を?」
 コーリィに何もせずに脇を通り抜けようとしたビナーにコーリィはその黒い姿に圧倒されておずおず訊いた。相手は魔法使い。何をされるか、何を考えているかわからない連中だ。
「我はお前に特に何も感じてはいない」
 ビナーはそう言って、今度こそコーリィの隣を通り抜けようとしたがコーリィが声を上げたので止まらざるをえなかったのだ。
「私の考えていることが、わかったの、ですか?」
「……」
「魔法使い様は今日はどのようなご用件で? いえ、お名前は? 私はコーリィ……」
「我らは安易に人に名を明かさない。用向きはお前たちの王に呼ばれた。もうよいか? 通りたいのだが」
「あ、失礼しました。魔法使い様」
 コーリィは脇によける。ビナーはその横を素通りした。しかし、この出逢いがビナーに新たな遊びを見出した。コーリィとはその後も夜会でたびたび顔をあわせるようになった。
 コーリィはビナーの男っぽい口調や、独特のセンスなどに憧れていたらしい。その憧れは友情として育まれていた。
 ――コーリィの両親が策略によって命を落すまでは。
 コーリィは両親が急死したのは自分の家をよく思っていない貴族のせいと知っていた。そこからコーリィは誰を頼ればいいかわからなくなった。家を失い、政権争いに敗退した貴族の末路は哀れなものだった。
 コーリィはどんどんなくなっていく財をどうやって守り、どのようにしてこれから生計を立てればいいか全く知らなかった。
 コーリィは泣きついた。助けてください、ビナー様。手助けをする気など、毛頭なかった。しかし……。
「助けてやればいいではないか。等しき天秤」
「……大帝の剣」
 ビナーは前髪によって表情が相手に伝わらないと知っていても、眉をひそめた。
「いつでも等しい天秤ではつまらなかろう?」
「そんなことは思ったためしがない。気にかかるならそなたが助けてやればいい話」
「……違うのだ、等しき天秤。我々賢者はこの国でやろうとしている目的がある。……等しき天秤。貴女は古きを生きる我々にとって尊き賢者」
 大帝の剣は微笑んだ。
「世辞は結構だ。何を望む? 大帝の剣」
「さすが、冷酷なる等しき天秤。私の求むることを理解するとは……。我々は賢者の石を求めている。貴女が賢者になる前から存在していた神の御力を御する石だ」
「知っている。赤き血の如くなる危険なものだ」
 ビナーは愚かな、と内心思った。賢者の石がどうして賢者の手を離れたか、若きこの賢者は全く分かっていない。どうこうできるシロモノではないのだ。
「我々賢者が管理していたのだ。だから賢者の石といってもいい。しかし、それは今どこにあるか私には分からない。しかし古きを生きる貴女ならご存知のはず……教えて頂きたい」
「我ではなく、たゆたう黒煙の影に問うといい。あ奴も知っている」
 その名前を出すと大帝の剣は嫌そうな顔をした。知っている、大帝の剣はコクマーを嫌っている。
「黒煙の影には内密に進めたいのだ」
「だから、我に協力を請うている、と?」
「その通り」
「解せん。賢者の石とこの国、そしてコーリィに何の関係があるかがな」
 ビナーは大帝の剣に冷たく言い放つ。
「我々はこの国のどこかに神への道が隠されているのを知っている。それを暴くため、この国に協力しているのだ。その道が開かれた時、賢者の石があれば……」
「理解した。しかし、コーリィとの関係性がわからない」
「彼女からはその隠された道への手がかりの気配がする。だから貴女に彼女を監視して欲しいのだ」
「理解はした。だが納得はできぬ」
 ビナーは言った。そして大帝の剣にこそっと呟く。
「我に協力できることがあれば同じ賢者の身をして協力は惜しまない。そなたが我を同志と考えるならば」
 大帝の剣は頷いた。
「我々の考えに協力してくださるとは、感謝する」
 こうしてビナーは結婚し、姓を変えたあとのコーリィがいるラスメリフ家に出入りするようになり、いつの間にか彼女の望む自分を演じているうちに肉体の関係となった。
 ビナーは大帝の剣に協力しつつも、本心はそうではなかった。決して賢者の石のありかは教えなかった。そして大帝の剣の目的をコクマーにも秘めることなく教えてやった。
 ――その方が、面白い。
 ビナーは死んだような日々に久々の楽しさを覚えていたのだった。

「君は、何故賢者になったのだね?」
 ある日、コクマーがビナーに問うた。ビナーはちらりと隣に横たわる男を見た。特に何も考えていないらしく、紫煙を吐き出しつつ気軽に聞いている。
「……さて、ずいぶん昔の事だからな。どうだったか……」
「私はね、ビナー。自分が賢者らしくないのかもしれないと思うのだよ。私は知識を求めている。世界のすべてが知りたいのだ。奢った人間であると自覚している。こんな私を敵対視する者は大勢いいる」
「そうだな。大帝の剣などまさに」
 含み笑いをするとコクマーも愉快そうに紫煙を揺らした。
「彼も私とやりたいことは対して変わらない。私は世界中の知識が、いわばすべての事象が知りたい。しかし彼は世界中の全てを我が物にしたい。世界を知ることと、世界を統べる事は同義とは思わないかね?」
「……なるほど、そうかもしれないな」
「でも、私はそれだけを追い求めているわけではないのだよ? 生きるうえで楽しみとは常に重要だ。私は知りたいという欲に自身の興味が付属しなければ動こうとは思えないのだ。……おかしいと思うかね?」
 ビナーは静かに否定した。
「いや。個人の行動目的は個人が決めてしかるべきだろう」
「そう言ってくれると思ったよ。私が今、一番興味があるのはなんだと思う?」
 ビナーは答えない。その答えを知っているからだ。
「あの小さな主君だよ。彼の存在、生き方、人間にしては面白いのだ」
「……はたして、人間といえるか……」
「言えるとも。あんなに欲にまみれているのだ、人間以外の何者でもない。……だから今、大帝の剣に出てきてもらっては困る。私の観察がすべて無に帰す。わかるかね?」
 ビナーは苦笑した。
「大帝の剣の目的はあくまで神のプロセスを知ること。道が開かれれば、不要のものだ」
「そんなことはない。彼もまた、人間。彼は賢者の力を持ったただの人間だとも。とても、そう、とても欲深いイキモノだ。……だからビナー、私と契約しないかね?」
 コクマーは煙草をもみ消して、再びビナーを上から覗き込む。薄い色素の金の髪がビナーの全視界を埋め尽くす。深い碧の瞳は愉快な感情を隠しもしない。
「今日の行為、私はとても満足している」
「……まぁ、我もそう感じたな。お互い歳をとっているからな、技術だけはあるのかもしれん」
「そうではないだろう?」
 ビナーの首筋にコクマーの唇が触れる。チリっとした一瞬の痛みの跡に咲く、赤いしるし。
「まさか、上手い、気持ちいい、などありきたりな感想を求めているのではあるまいな、我に」
「もちろんだとも」
 コクマーは笑った。手を焦らすように、緩やかにビナーの白い胸に這わせ、耳元で囁く。
「賢者ともなれば、いろいろな知識があって愉快なものだ、そう思だろう?」
「ああ」
 深く深く、唇を重ね、互いの舌を吸い、深く長く感情を共有する。コクマーはその最中に右手を下に滑らせて下腹部の茂みに指を絡ませる。その指はそっと内側に滑り込む。かすかなくちゅり、という音がしてビナーの内部から暖かな液体が、先ほどコクマーが吐き出した液体が流れ出る。
「私の、本来生殖のための機能を持つ精液が、私が得た知識を乗せ、君に届くとはね」
「我も驚いた。お前の知識が我に染み渡った感触は良いものだった」
 再び唇を交らわせ、ビナーは甘く微笑んだ。それの応えるようにコクマーの手が優しく彼女に触れていく。
「この行為、私のすべての知識を君に捧げよう。だから私の興味が尽きるまで、小さな主君を守って欲しい。それが私の願いだ」
「……いいとも。契約を結ぼう、黒煙の影」
 ビナーの言葉に頷いて、行為を激しく進めるべくコクマーはビナーの首筋に顔を埋めた。
 それはまだ、彼らの君主が新しい遊戯を始める前の話――。

 ナックはハラハラしつつ皆の帰りを待っていた。クァイツは貴族の下から離れられないというので、指示を代わりに受けたジュリアだがその作戦を実行しようにもエロヒムと戦っていた男がすでに死んでいて、エロヒムの姿はない。
 ナックはキラの元にいつつも、戦闘の音を聞いていたがその音は聞こえなくなってからかなりの時間が経った。ジュリアはエロヒムを探しに行っている。
 ――そう、エロヒムが失踪したのだ。それも十日前に。キラを連れ戻しにきた男と戦闘している最中なのか、その後なのかわからないが、姿を消し、それから連絡が取れない。
 エロヒムと戦っていた男の死体はあるのにエロヒムの姿はない。どういうことなのか。エロヒムがことの男に勝利、もしくは相打ちしたのは間違いない。しかし相打ちならエロヒムの死体がない理由がわからない。
 ジュリアとクァイツは最悪のケースを考えていたようだった。すなわち、第三者の乱入により、エロヒムは連れ去られた、もしくはすでに死亡していると。
 異端審問の中でも最強に近い戦力を持つエロヒムがいなくなったとなると、異端審問の戦力は大幅にダウンする。戦力増加も考えなければならない。そういうわけでリーダーのクァイツがいないまま、各異端審問官は自ら動くしかなかった。
 そんな中でキラの警護をしてくれなどと言えるはずはない。エロヒムのことは心配だが、ジュリアが探しているのだから、自分が探さなくても大丈夫だろう。
 だから留守番のようにキラのそばを離れないことが今のナックの仕事だった。キラは寝ていることが大半で、起きても食事は少ししか取らないし、会話も夢の中の様にはっきりしていない。半覚醒状態といってもいいだろう。
 ティンクトラに何かされたとしか思えないが、当のキラがそれを否定する。
「ナック」
 物思いに沈んでいたら、ジュリアが声をかけた。
「あ、お帰りなさい、ジュリア。どうでしたか?」
「見つからない。あの目立つ容姿なのに誰も見ていないというの」
「……そうですか」
「まぁ、今度はもっと西のほうを探してみるわ。あ、呼びにきたの。今クァイツが帰ってきているのよ。作戦たてましょう?散らばっていた他のやつらも帰ってきてるわ、ちらほらと」
「わかった。すぐ行く……」
 ナックの声がそこで凍りついた。ジュリアはナックの視線の先を見て絶句する。
「案外簡単に入れるもんだね」
「……誰だ、お前!!」
 ナックは剣を抜いて、いきなり現れた侵入者に怒鳴る。ジュリアが警告の指笛を甲高く鳴らし、銃を向けた。
 進入してきたのは、水色の髪の少年と同じ顔をした少女。
「お前、俺に予言した、女……」
 ナックは少女の方を見て絶句する。
「ってか、ずさんだね。普通魔術除けしとくでしょー。簡単に入れて拍子抜けだよ」
 少年の方が呟いた。
「でー、おっさんは? まだ来てないの? ボクたちだけで済ませちゃう?」
 少年が少女に訊いた。にっこり笑って少女が頷く。
「何者なの!? お前たち!」
 ジュリアが言った。少年は普通に答える。
「君たちの敵になるかは君たち次第。君が撃てば僕は戦う。そこの君も斬りかかられたらボクは戦う。でも何もしなければ何もしない。ボクら喧嘩嫌いだもんねー」
「うーん」
 緊迫した場面に関わらず二人はぎゅーっと抱き付き合う。
「ここに何しに来た?」
「この女を誘拐に」
「何だと!?」
 ナックが怒鳴ると、少年は耳を押さえて顔をしかめた。真似するように少女も同じ行動を取る。
「もー、怒鳴らないでよ。ボクだってこの女嫌いだけど、頼まれたんだもの、ねー?」
「うーん」
「お前たち、ティンクトラ!?」
「え? 何? ティンクトラって?」
 少年が少女に聞く。少女も知らないようで首を横に振った。そんな中、ここにいない男の声がした。
『彼ら異端審問が我らにつけた名前のことだよ』
 誰かわからないその声にジュリアは必死に姿を探す。が、その声の正体は見当たらない。
「なんだ、来てたの? なら早くやっちゃってよね。ボクらあんたがちゃんとやるかどうかの監視を頼まれたんだから」
『そうなのかい? おやおや、ずいぶん信用されていないものだ』
「自分の行動、見返すんだね」
 くっくっくと少年は愉快そうに笑った。
『グーテン・アーベント、異端審問の皆様』
 挨拶とともに少年の影が光源に逆らって面積を増し、垂直に伸び上がったかと思うと、そこから人の形が浮かび上がる。
 黒い影は黒い色を薄れさせ、そこに金髪の紳士が新たに登場した。
「ちょっと、ボクの影から出るのやめてよ。気持ち悪い」
「仕方がない。ここには喫煙者がいないのだから」
「かっこいい登場の仕方なんてやめなよー。キザなだけだから」
「マルクト、私はかっこいい登場の仕方を研究してこのように登場しているわけではないのだが……」
「だって、ビナーは普通に出てくるもん」
「彼女は不必要なことはしないだけさ」
 そこでマルクトと呼ばれた少年はニヤっと笑って、
「認めたね? 自分が不必要なことをやってるって」
「認めたね?」
 少女も真似をして、紳士に笑う。一本とられた、とでも言うかのように紳士は大げさに額に手を当ててため息をついた。
 その様子が可笑しかったらしく、場に合わない笑い声が響いた。
「いつまで漫才してるんだよ……?」
 あきれて思わず呟いてしまったナックに少年がそうだねー、と頷いた。
「お前たち、まさかただで彼女を私たちが渡すとは思っていないでしょうね?」
 ジュリアが低く尋ねると同時にいつの間にか彼らを囲む包囲網が残りの異端審問官によって完成していた。
「囲まれたじゃん、コクマーのせいだからね」
「だからね」
 同じ顔の少年少女は自分たちが悪くないと言いたげに紳士をにらむ。
「もちろん、ただとは言わないとも。シスター。しかし彼女はもともと我等の物。ただで取り返したのは君たちなのだから、私たちだって今度はただでもらう権利が生ずる、そうは思わないかね?」
「ふざけんじゃねぇ! キラはお前たちのものじゃない!!」
 ナックが叫んだ。
「でも、彼女が望んでそうなったのだ。私に怒鳴られても困る」
「お前たちが、彼女にそうさせたのではないの!?」
 ジュリアも負けじと言い返した。
「ふむ、その可能性はないとは言い切れない」
 紳士はつぶやいて、紫煙を吐き出すとジュリアの目を見て言った。
「まぁ、過程がどうであれ、この場と我らの関係上……実力行使の果てに強奪、という手段に出るしかない……と、私は考えるね」
「そうでしょうね……放て!!」
 ジュリアの決断は潔い。コクマーという紳士が敵対を完全に認めた瞬間一斉砲撃に出た。この至近距離の包囲網。逃げられるはずはないし、怪我を負わないはずはないが、相手はティンクトラ。
 ナック自身もゲヴラーやティフェレトの人外の力を目にしている。きっと無傷だ。そう思ったナックは砲撃による硝煙が晴れないうちに少年のいた方向に向かって、気配だけを感じ取り、剣を抜いて斬りかかった。
「わぁお!」
 少年はナックの思い通りの場所にいて、攻撃に驚く。少年自身が驚いている間に、少年の真似しかしなかった可憐な少女がナックの目の前に躍り出る。
 ナックは少女の行動が以外であったために驚いた。少年が少女を守るかと思っての攻撃だったが、この双子のような二人は少女が積極的に少年を守ろうとしている。
「イェソド!」
 少年が少女の名を呼んだ。
「マルクト、後ろ、イェソド、守る!」
「でも!!」
「マルクト、怪我、大嫌い」
 少女は片言のように単語だけを並べるとナックに向き直る。少女は素手、自分は剣を持っている。でも少女はひるまない。ひらり、と飛び上がるとナックの背後に回っている。身が軽いようだ。
 ナックは相手が少女であろうとキラを奪おうとするティンクトラであると思い直し、迷うことなく剣を振るう。ナックがそうして少年少女と戦っている間、ジュリアは不気味な紳士と戦っていた。
「最初の攻撃で死ぬはずはない。ディア、右斜めに5発、ジョージはまっすぐに連射、三班は散開して警戒! 2班、打ってでる!!」
 ジュリアの正確な指示が飛び、団結した一つの意思のような攻撃が、コクマーに降り注ぐ。
「自身の優位を考えず、常に警戒し、攻撃するのはいいことだ」
 紳士の声が聞こえる。ジュリアはすぐさま声の聞こえた方角に方向修正させて射撃を再開する。
「しかし、君たちは魔術に対する戦い方を知らないようだ。……神の御力を信ずるものとして、魔法使いを抱え込むことはタブー。残念なことだ……それでは私は倒せまい」
 ジュリアは自分たちの足元に不気味な灰色の模様が広がっていることに気づいた。
「散開! この部屋を出ろ!」
 しかし、遅かった。魔方陣から閃光が異端審問官たちの視界を焼き尽くす。苦悶の声が上がり、一瞬の攻撃の後には呻く異端審問官が倒れ伏していた。
「命までは取るまい。私は虐殺者ではないのでね」
 ゆっくりとベッドからキラを抱え込むと、紳士は笑った。ナックはそれに気づいて、叫ぶ。
「キラ!!」
 紳士に向かってナックは持っていた剣を投げつけた。真っ直ぐ力強く放たれた剣は少女が手を伸ばしたことで紳士には当たらなかった。……のだが。
「なっ!?」
 ナックは目の前で起こったことに呆然とした。ナックが投げた剣はそれを止めるように伸ばされた少女の腕を貫通したかに見えた。が、少女の腕から青白い光が漏れているのみ気づいたとき、ナックは愕然とせざるを得なかった。
「……剣が……!」
 少女の腕を貫通した剣の先が、ないのだ。少女は慌てず、剣を自分の腕から引き抜いた。すると、青白い光が漏れ、淡く光った後に、少女の腕に刺さっていたはずの部分は剣がなかった。
 少女の体を通った刃は折れたかのようになかったのだ。しかし、折れた刃先は見当たらない。
「ちょっと、コクマー! イェソドが怪我したらどぉすんの? 何が優位を考えず、だよ! あんたが一番ナメてんだって!!」
 後ろから少年が紳士に怒鳴る。
「お前、今俺の剣……」
 ナックが呆然と呟くと、少女は答えた。
「剣、邪魔、分解」
「……分解? 俺の剣、分解したってのか?」
「そう」
 すると彼女は物を分解することができる能力があるということだ。ならば少年をかばってナックと対峙し、攻撃を受けたとしても、彼女は傷を負わない。それどころか相手の得物を分解してしまう!
「ちょっと、イェソド。教えちゃだめじゃん」
「ごめーん」
「んもー。これからはダメだからね。でも今日はボクを守ってくれたから許しちゃう!」
 んーと高い声を出しつつ少年は少女を撫でた。少女はうれしそうにその行為を受け、顔を上げると少年に向かって口付ける。少年は少し驚いていたが次第に少女の行為に応えはじめる。
 しばらくキスを続けていたが、二人は離れて、紳士に言った。
「じゃ、あと頼んでいいよね?」
「おや、監視が命令じゃなかったのかね?」
「だって、ちゃんと手に入れたわけでしょ? ボクらお散歩の許可が出てるから行っていいよね?」
 紳士は苦笑して、頷いた。
「いいとも。ちゃんと届けよう。安心したまえ」
「じゃ、またねー」
 二人の足元に鮮やかな緑色の魔方陣が現れ二人を飲み込んでいく。このようにして進入したのか、とナックが感心していると、紳士がキラを抱きかかえて言った。
「少年、彼女を連れ戻したくば、あきらめずに追ってくるとよい。いつか君の願いが叶う日も、来よう」
 そう言って灰色の魔方陣と共に紳士も消え去った。ナックは再びあっという間にキラを連れ去られ、残りの仲間は重症なようだ。ナックはゼルヴンの言っていたことを思い出していた。
「あのおっさんがコクマー、女がイェソド、男がマルクト……。ティンクトラのメンバー……」
 クァイツが言っていたことも思い出す。
「ケテル、ホド、ネツァーもいるかもしれない。ティフェレトとゲヴラーは知ってる」
 残りは、二人。間違いない、ティンクトラはこの国で何かをしようとしている……!