TINCTORA 011

038

 そうして、ローズに我は言った。コーリィを自分の虜にしてみせろとな。黒煙の影とも話したがそれでコーリィが本当にローズにはまってしまったら面白いし、そこで姉妹の仲が裂かれ、普通じゃないあの家がもっとおかしなことになるのも悪くない。
 コーリィがローズを受け入れられず、我を憎んでも面白いし絶望して廃人になっても面白い。
 しかし、結果は少し異なった方向に進んだ。コーリィもまだ、常識が合ったようで妹をこちらには連れてこないように言いくるめた。
 ローズがもう少し成長すればローズは姉を軽蔑する思考も持ち合わせる。我とコーリィが何をしていたか本当に理解する日も来る。それの日が来てもローズがコーリィを愛しているなら、コーリィはその想いに応えると言い、我と別れると約束したのだ。
 ローズは勝った気でいたがそれはコーリィの逃げにすぎない。それでは面白くない。我は今、結果が欲しかったのだ。
 だから我はコーリィが出した条件をローズに与えてやった。コーリィがそれでどうするかを知りたかったのだ。
「姉さま、似合う? 私……」
 コーリィは目の前の真実に驚愕した。妹が自分と同じくらいの背丈になって、しかも美人だったのだ。コーリィは己の心の中に封じてきた感情が一つある。それはローズマリーに対する嫉妬だ。
 まだ、自分が結婚していないころ、両親はたいそうローズマリーを可愛がった。かわいい、かわいいと甘やかされて育った。確かに妹はかわいかった。自分は生まれてそばかすを気にしたし、目が細いのも気にした。貧相なスタイルを嘆いたし、普通の乙女が身につけるパステルカラーのドレスが似合わなかったのもショックだった。
 でも妹は小さいころからピンクの服を身につけて周りの貴族にちやほやされていた。それを影から見ていたのだ。周りからすれば影に見えていたことだろう。
 そんな中で両親は他の貴族の陰謀で命を落とした。一家は離散。私は幼いローズのために好きでもない相手との結婚を余儀なくされた。自分は貴族の娘だ。恋愛結婚など端から期待していない。でも、結婚する前に恋人が欲しかった。その望みをかなえることは叶わなかった。
 ラスメリフ伯との婚約が決まったのは両親が死んで三ヶ月の時。生きる為に、ローズを育てるために、両親を死に追いやった貴族の仲間と結婚した。
 皮肉だった。優しい仮面を被った夫は私など目にも留めていなかった。浮気。愛人。孤独。日向で生きるローズを支えるために無駄に過ごしてきた。
 たとえ、愛がない結婚でも気に留めて欲しかった。私は私なりに夫に尽くした。夫は振り返ってはくれなかった。無駄とわかっていても、会話だけは続けた。
「もう、いいよ。無理しなくて。俺は君を束縛したりはしない。君のご両親には世話になった事があってね、罪滅ぼしなんだ。君が気にする事はない。俺は君たちを経済的に支援するだけだ」
 そう言われた瞬間に心が冷えていくように思えた。会話さえも終ってしまった。広い屋敷に一人きり。妹はいても私の苦しみを話す訳にはいかなかった。
 妹は大事だった。妹だけが私を必要としてくれる。妹が私を必要としなくなったら、命を絶とう。そう思いつめていた。
 ――そんなときにアーシェに溺れた。始めは怖かった。格好も口調も何考えているかわからないことも。でも彼女だけが私を見てくれた初めての他人だった。友人になり、恋人関係を求めた。同性でもなんでも、自分を愛してくれる。幸せだった。
「姉さま、わたし、あの人キライ」
 妹がアーシェの背中を見て言った。嫌な感じがするのだそうだ。彼女は賢者。子供が嫌な気持ちになるのは仕方ない。ア-シェは外見も変なのだし。でもせっかく得られた幸福感を手放す事などできるはずもない。
 いままでローズにすべてを捧げてきたのだ。少しくらい自由にしてもいいではないか。主は同性の愛を禁じている。私は主を裏切った。でも、主は私の寂しさを満たしてはくれなかったのだ。
「アーシェ、私の願いを聞いてくれる?」
「……いいぞ」
「夫を殺してくれないかしら」
「いいのか?」
 それは夫を失っての社会的立場を問うているのか、夫を失って自分は正気でいられるのかと聞いているのかはわからなかったが即答でいいと答えた。だって、私は聞いてしまったのだ。

『ご存知? ラスメリフ伯は罪滅ぼしにコーリィを妻にしたとの噂でしたけれど、本当は違うのですって』
『まぁ、一体どういうことですの?』
『スメティア伯もね、当初あの二人を引き取ろうとなさったんですって』
『罪の意識がおありだったのですわ』
『で、ラスメリフ伯が妻になさると宣言された。で、ローズマリーを引き取ると仰ったそうなの。二人引き取られては大変でしょう?と』
『でも妻になさるのだから連れ子のローズマリーも引き取るのが普通ですわ。それに姉妹を引き離すのはかわいそうじゃありませんこと? 両親を亡くされたばかりの話でしょう?』
『そうなのですけれどね、どうしてもと仰ったそうですわ。お互いに譲らなかったのですって。ローズマリーを引き取るのを。本当のところは可愛いローズマリーは大きくなったらたいそう美人になるから今のうちに……ということだったらしいの』
『え、ではコーリィよりお二人とも罪が云々というよりは……』
『ローズマリーが欲しかったのね』
『まぁ、かわいそうなコーリィ。姉妹似てないのがこんな事態を巻き起こしていたとは』
『本当。でもわかる気はしますけれど』
『そうですわ……おほほほほ』

 知らなかった。恥辱だった。夜会の話の種にされるほどに知れ渡っているとは、夫がどこぞの愛人に話したに違いない。
 どこまで、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ! あの男!! 何が罪滅ぼし! 結局、ローズマリーを未来で抱きたいだけなのか? 私がお荷物だったと? 私のほうが……。
 コーリィは夫を殺したいと心底思った。だからアーシェに協力を請うた。アーシェは私の願いどおりにしてくれた。ローズと同じ人形を操って夫を誘惑したのだ。夫がそこで止まれば命はとらなかった、のに……。
 幼いローズと同じ人形の体が夫の口づけで汚されていく。まだ、胸も発達していない幼女に興奮している夫!
「こんな趣味がおありでしたのね……」
「コーリィ!?」
 夫は飛び上がってローズマリーの人形を手放した。
「私に近づいたのはローズが目的でしたのね。可愛いものローズは。……でもそれを私が許すとお思いですか? 私を馬鹿にして、子供に興奮するなど、吐き気がしますわ」
「うるさい!」
 夫は逆上して私に飛び掛った。私は床に倒される。
「殺しますか? 哀れな……」
「うるさい、誰がお前なんか……! 可愛らしくもない、飾り気のない女め」
「それはこっちの台詞ですわ、変態男! アーシェ!!」
 私が叫んだ瞬間に黒い杖が夫の首を強打した。夫が呻いて転がり、唾液を床に撒き散らす。咳き込み、それでも何が起こったのかと夫は目線を私に向けた。
「殺してくださいな、こんな男」
「お、お前俺を殺す気か!? やめてくれ!!」
 慌てて命乞いを始める男。アーシェの雰囲気に圧されているのだろう。
「哀れな男よ、ここで命終われ」
 アーシェが呟いて、トンと漆黒の杖先で夫の額を軽く押した。すると夫が苦悶に喘ぎながら足先から消えていく。
 私はそれを笑うでも怒るでも悲しむでもなくただ夫が消えるのを見ていた。
「完了したが、コーリィ、どうする?」
「どうするって?」
「遺体がないと葬儀ができないだろう? 困るのではないか?」
 アーシェに言われるまで気付かなかった。そんなことに失念するほど、私はこの男を憎んでいたのだろうか? この不幸を巻き起こした男を……。
「そうね。お願いできる?」
「無論だ」
 アーシェはもう一回トンと杖先で床を叩いた。するとみるみるうちに死んだはずの夫が蘇ってくる。
「死んでるのよね?」
「ああ。命はない。あるのは屍のみだ」
 アーシェは冷たく言い放つと夫の体をベッドに戻し、布団をかけた。
「医者を呼ぶといい。ここに毒薬を置いておく。これで自殺になるだろう。お前は明日の朝、目覚めたら夫が起きてこないのを不審に思ったと泣いておけ。それですべてが終る」
 事後のこともちゃんとやってくれるアーシェの優しさが嬉しかった。こういうことも何度かあってコーリィはアーシェなしでは生きていけないほどになっていった。

 なのに、
「姉さま、似合うようになったでしょ? 私、今でも姉さまが好き。だから……約束……」
 コーリィはローズマリーを見ないで言った。
「私からアーシェも奪うの……?」
「え?」
「あんた、私が何をしたっていうのよ!? 今まで守ってきたわ、育ててきた、なのに!」
 コーリィの目から涙がこぼれる。
「いつもそう、あんたばかりがいい目に合って私はアンタの影にしかいなかった。あいつはアンタがめあてだったのよ。笑えもしないわ、私だけが、必要とされていなくて!」
「ね、姉さま……!」
 コーリィはおろおろして姉に近寄る。
「触らないで!」
「お前という存在が、ずっとコーリィを苦しめていたのだよ、ローズマリー」
 気配なくいつの間に現れ、いつから見ていたのか黒衣の魔女はうっすら笑っていった。
「アーシェ!」
 コーリィが縋るように魔女の手をつかむ。その姉に魔女は意地悪く囁いた。
「コーリィ、ローズマリーと約束したのだったな? このドレスが似合う大人になったら……と」
「……アーシェ……」
 捨てられると思ったのか愕然としてコーリィが魔女の名を呼ぶ。
 本来コーリィがローズマリーと交わした約束はドレスが似合うほど大人になったら、というもので魔術で無理矢理大人になったからといって約束が果たされるわけではないということを子供のローズマリーならともかく、コーリィも気付いていなかった。
 ビナーはそのことは伏せて、コーリィに選択を迫る。
「私から離れていってしまうの? アーシェ」
「妹がそれを望むなら……。コーリィ、お前はそう約束してしまったのだろう?」
「そんな……」
 絶望に染まったコーリィはゆらりと立ち上がると、アーシェに言った。
「いや、いやなの……やっと私を見てくれる人に出会えたのに、やっと、なのに、また子のこのせいで!」
 コーリィは叫ぶ。ローズマリーはおろおろと姉の言葉を待っていた。しかし次に口にされた言葉はローズマリーの胸を深く抉る。
「……アーシェ、この子も殺して頂戴」
「お前が、そう望むなら」
 魔女は無表情に呟いてローズマリーに手をかざした。
「嘘! 嘘よね、姉さま! ……私が悪かったの? わがまま言ったから? でも、姉さま、この女は!」
「聴きたくないわ!」
 コーリィが叫ぶ。別人のような姉。パニックがローズを襲う。視界に黒衣が入った瞬間、ローズマリーは絶叫した。そうして殺意を魔女にぶつける。
「お前がっ! お前が姉さまを!!」
「我ではない。……死にたくないか?」
 魔女の言葉は感情がこもっていない。だからよけいに腹が立つのだ。
「ええ、あんたなんかには、絶対に!!」
「ではそう願え。お前が本気でそう望むなら、結果は変わることもあるだろう」
 魔女は呟いた。魔女の指先から黒い文字が溢れ出てローズマリーを巡っていく。必死にそれをはがそうとするが光る文字に触れることなどできない。その様子をどこか壊れたようにコーリィが泣き、うっすら笑みを幸せそうに浮かべて眺めていた。
「嫌!! いやぁああ!!」
 ローズマリーが絶叫するのと同時に黒い文字が一斉に白い閃光を吹き出した! コーリィは涙を一瞬止めてその光景を目に焼き付ける。
 視界を白一色に染められて、ローズマリーは何も見えなくなった。痛みも苦しみも訪れない。死とはこんなにも穏やかなものなのか。姉はずっと自分を憎んでいたみたいだった。私が姉の苦しみの種だったのならば、喜んで死んであげよう。自由になって姉さま……。
 心の中で最後に挨拶したはずだった。白い世界が終ったと思ったとき、現実にローズマリーは再び絶叫した。
「いやああああぁぁぁ!!! 姉さま、姉さま、姉さまぁあああ!!」
 目の前に、爆発に巻き込まれたかのように全身から血を出して倒れ伏す姉の姿。もう、命などない。絶命した後だった。駆け寄って姉を覗き込む。
「うっ!」
 あまりにもひどいその状態に、一瞬吐き気をもよおす。姉の亡骸を直視できない。
「ひどいものだな」
 冷たい声を掛けられ、ローズマリーは魔女に飛び掛った。魔女はそれをひらりとかわす。
「お前が殺したのね! 姉さまをよくも!!」
「我が殺したのではない。おまえが殺したのだ、ローズマリー」
「何ですって!?」
「我は言ったぞ。死にたくないなら、願えとな。お前が死にたくないと望んだから代わりにコーリィが死んだのだ。コーリィはお前が大人になったら死のうと思っていたくらい自殺願望があった」
「嘘よ! どうして、こんなこと……」
 後の言葉は嗚咽に呑まれて消えていく。
「我がなぜここにいたか、教えてやろう。我は賢者と称される者の一人だ。知っているか?」
「……魔法使いより強く、偉く、賢いっていう……」
「そうだ。我が他の賢者より言われたのはお前たち姉妹を見張れというものだ、何故かは言われなかった。どうせ、一緒にいるならと思い、お前にも以前言ったがお前たちの望む我を作った。コーリィは自分を認めて欲しかったのだ。妹のお前は顔の造形がいい、だからコーリィにはそれがうらやましかったのだ。死んだコーリィの夫もお前が目当てでコーリィと結婚したのだ」
 ローズマリーは驚いた。優しかったけれど姉が幸せそうではないから嫌っていた、あの人が……自分を?
「だからコーリィは悔しくて悲しくて腹が立って殺したのだ」
「え? 自殺だって……」
「そう見せかけて殺してくれと我が頼まれた。コーリィはこの屋敷を自由にしていい権利を手に入れた。コーリィは家がなくなったお前にこの家をやろうと考えていた。コーリィはお前が死ぬほど憎くて、それと同じくらいにお前を大事に思っていた」
 違う意味で涙がこぼれる。
「コーリィは妹ではなく、自分自身を見つめてくれる人間が必要だった。それが我だった。だから誰の忠告も聞かずに我に構った。残念な事にそれは我が演じていたのだが。まぁ、そのことを知らずに死んだのだから幸せだろう」
「だから、おまえと一緒に……?」
 魔女は頷いた。知らなかった。日々をただ過ごしてきたローズの影で姉がどのように過ごしてきたかを。
「お前はそんな状態のコーリィから我を取り上げた。どうなるかは想像に易い。だからコーリィは先ほどの少しの時間で心の均衡を崩した。結果、おまえの殺害に繋がったわけだが……深層にある感情はなかなか消えぬものらしいな。コーリィはおまえを殺せなかった」
「だから、死んでしまったの?」
「我がかけた魔術は、この場にいる望んだ者、一人を殺すもの。おまえが死を望まなければ、自殺願望があったコーリィが死んでもおかしいことではない」
「生き返らせては……」
「無理だ。そもそも死を望んでいるものを生き返らせるのは是としない」
 はらはらとローズマリーの涙が死んだコーリィの遺体の上に落ちる。
「ただ、お前の望みに近いものなら、我が与えてやれるかもしれない」
「なに?」
「コーリィの魂はこの場に留めている。互いを想いあっているおまえ達姉妹ならば、二つの魂を一つにする事は可能だ。しかしその後、どちらの人格が残り、どうなるかは予測不可能だ」
「……それは姉さまの心と私の心を一緒にする事なの?」
「それに近い」
 あんなに嫌だった魔女なのに、姉の心をわかってくれたただ一人の人だと思うと、信頼せずにはいられない。
 そもそも自分が姉の苦労を哀しみを理解しなかったのが悪いのだ。彼女を追い出したり、責めたりする理由がどこにあるだろう。姉のためなら死んでもいいと思っていたはずなのに、こうして自分は生きている。ならば、今度はわかりあいたい。大切にしたい。
「お願いします、賢者さま。私と姉さまをひとつにしてください」
 魔女は少し驚いたようだ。
「……なるほど、こういうことなのか……」
 一人呟くと魔女はどこからか漆黒の杖を出した。材質が何かはわからないが魔女の背丈ほどもある杖には先端が円を描くように曲がっており、三日月のような形だった。
 曲がる前の部分に淡い水色の球体がはまっており、曲がった部分には銀のプレートが三つ下がっていた。
「了解した。後悔はないな?」
「ええ」
 ローズマリーは望む自分たちを演じていたと言った魔女の本来の彼女はこのようなあっさりした悪意のない人だったかもしれない。自分が敵であってほしかったのだろうか。
『術式の開始を宣言する』
 魔女がよく通る声で宣言すると足元から黒い魔方陣が浮かび上がる。魔方陣はコーリィの遺体もローズマリーの体の下にも広がった。それを見届けて魔女が唱え始める。その声は低く速くて聞き取れない。訛りが強い言語のようにも聞こえ、別の言葉のようにも聞こえる。
 シャンと杖に付いた金属プレートが澄んだ音を奏でた。瞬間、なにかもやっとしたものがローズマリー目掛けて飛んでくる。本能的に拒絶しようとしたが、これが姉の魂なのだ。苦しんだ姉なのだと思い、目をつぶった。その後、意識が混濁して、ローズマリーは倒れた。
 しかしその感覚も彼女にはもう遠いものとなっていた。
『術式の終了を宣言する』
 わずかにその声だけが聞こえた、気がした。

「で、それが君の影、なんだね?」
 ケテルが穏やかに訊いた。ビナーは頷く。
「ああ、姉妹愛。他人を思いやる心。……我にはなきものだ」
 ビナーはそう言って後に寝かせた自らの影を振り返る。幼女は二度と目覚めない。なぜなら一つの器に魂が二つ入ったのだ。しかもその魂は融合しかけている。二つでもなく一つでもない。魂がはっきりしない状態では生きているとは呼べないだろう。でも彼女達は満足だったようだ。
 その選択はビナーには理解しがたいものだった。ビナーは賢者としてなのか、魔術師としての才能だったのか他人の考えが理解できるのだ。心を読めるのとは違う。相手の思考を理解できるのだ。
 彼女が始めて頭でわかっていても理解できなかったこと、それがこの姉妹の複雑な愛だった。
 だから唐突にわかってしまったのだ。この二人が、影であったと。
 最後の最後までそのことはわからなかった。影とはこういうものだったのかと少しだけ悩み、どうしようかと考えた。
 久しくない心に直接響く物事。乱された思考。
「君もまだ、人間だったってことなんだよ、ビナー」
「……そうか、我もまだ人であったか」
「そう。欲がない人間なんていないものだよ。生きとし生けるものはすべて欲を持っている」
「真理だな」
 ビナーはふっと笑った。ケテルま満足そうに微笑む。
「でも、ビナーはそんなに影に悩まされる事はなかったみたいだね。ティフェもゲヴラーもケセドも影には苦しまされていたみたいだったけれど」
「そうだな。若いだけだ。賢者なれば自分と相対する相手も多いものだ」
「そういうものかな?」
「さあな?」
 ビナーはふっと笑う。
「ビナーはもっと笑うといいよ。そうすればもっと楽しいことが起きると僕は思うな」
「まったくもって論理的ではないが、善処しよう」
 ビナーはそう言ってまた笑った。