TINCTORA 013

045

 ケテルがまだ幼かった頃、いや、ケテルの両親が死ぬ一年半前、レナードが薄汚れた少年を拾ってきた。
 自分もそうしてきたからこそわかる、表面にはり付いた笑みを浮かべた少年は爽やかに笑っているのに、その瞳の奥はドロドロに汚れているような気がした。
「久しぶりね、ケテル。最近なかなか会えないからね」
 レナードは僕の友達だ。幼馴染といっても過言ではない。
 同じケゼルチェック領内に済んでいても、レナードは第二軍基地の傍に住んでいるので、ケゼルチェック領の中心といえるケテルの屋敷とは住処が随分離れていた。だからこそ、お互いに会うのは一年に一回くらいだった。それでも仲良くなれたのは、レナードの人間性がよかったからだ。
 気さくで、年下のケテルを馬鹿にすることも、逆に領主の息子であるという理由だけで敬うこともしなかった。男らしいところがあるのにふとしたところがすごい女性らしくて、ケテルはお姉さんがいるならレナードのような女の子がいいなぁと思っていたものだ。そんな純粋なことを考えていた時だ。
 まだケテルは6歳だった。その時は本当に、お子様で、考え方もお気楽な貴族そのもので、今思えば最低な子供だった。
「そうそう、今日は私の彼氏、紹介するわね」
「彼氏って、ペドロアーナ男爵の息子?」
 レナードだって侯爵家の娘だ。結婚相手は幼少の頃から決まっている。ケテルも当然それは知っていたし、まだ6歳のケテルにだって許婚はいたのだから。
「ううん。違うわ。私、言ってたでしょう? 自分より弱い男とは結婚しないって! あんな男、お父様が無理にくっつけようとするなら、殺してやるわ!」
 その意気込みにぱちぱちと拍手を送る。しかし、考えて思い至った。
「じゃ、レナードより強い人、居たの?」
 レナードは当時16歳。将軍家の末娘に生まれた彼女は女性らしくなく、父の役に立つよう、幼少の頃から腕を磨き、その歳でエルス帝國内でも名高い剣豪になっていた。
 その当時から軍に籍を持ち、軍の仕組み、戦争のことを現場で見てきた少女だった。その名前は諸国でも有名で、女でさえなければ次期将軍の地位に就けると噂されていた。そのレナードに勝つ人間がいたとは?
「ええ。憎たらしいけれどね」
「ってことは、西方将軍? あと、王付き騎士の誰か??」
「違うわよ。ただの貧民よ」
「え!!」
 そこでレナードは後を振り返り、見えるところに紹介する人物がいないのを知ると、文句を言いつつ、ケテルの手を引いて歩き出した。
「ついて来てって言ったじゃない!!」
 レナードが怒った相手は、屋敷の壁にもたれて昼寝を決め込んでいた。
「うるさいな。別にお偉い貴族坊ちゃまとお近づきになりたいとは言ってないだろ」
「お前、その言い方僕に失礼だろう!」
 ケテルがそう言うと、初めて黄緑色の濁った目がケテルを映した。
「やあ、初めまして。お会いできて光栄です、未来のケゼルチェック卿」
 立ち上がって、優雅に腰を折り、ケテルの手を取ったそのマナーは完壁だった。到底貧民には思えないその動作にケテルは多少、驚きを覚えた。
「と、こんなんで満足かい? お坊ちゃん」
「なっ!」
 一瞬でも見直した自分に腹が立った。
「アンタ、誰に対してもそうなのね!」
 レナードが怒って目の前の少年に言った。
「ごめん、ケテル。コイツが私の彼氏、ヘルツよ」
「ヘルツ……心臓? 趣味の悪い名前だな」
 隣国ダンチェート帝國の言葉ならケテルは扱える。そういう教育を受けてきた。
「そうでもないさ。ヘルツって姓名は多いし。ま、僕は名前だけれど」
「ふーん。お前、貧民の癖に、たいそうな名前っていう自覚はあるか?」
「ないね。名前なんてその物の個体を表す一種の記号だ。名前に意味を持たせたからと言ってその意味を持つなんて保証はないんだよ。すなわち、僕が心臓である必要はない。名前負けするなんて名前が特別な意味を持つと思わなければ、不要な考えといえる」
 ケテルはこの年齢にしては、口が達者だと思っていただけに、この少年の言い方は自分を見ているようで腹が立つ。それを自覚することがケテルにはできた。
「あんたは、どうしてそういうことしか言えないのよ! 名前は子供に親がつける願いでしょうが!」
「お前に名乗った名前が僕の本名って言った覚えはないけど? 願いなわけ?」
 レナードの言ったこと、ケテルが突っかかったことの根本的なことを覆すように少年は笑った。
「じゃ、お前は自分で心臓なんて名前をつけたってわけか。悪趣味だね」
「そうだとも言ってないだろ。親に付けられた名前ではないけど、ヘルツは僕の世話をしてくれた人が付けてくれたんだよ。じゃなきゃ、そんな名前。心臓、心臓、心臓、って呼ばれてみろ」
「はーん。お前、その名前、あんまり好きじゃないのか?」
「まぁ、好きではないよね。気味悪いってか、悪趣味。さっきお前が言ったとおりだ。あの人の願いってやつがうんとこめられている気がするからさ」
 少年はそう言ってレナードを見てにやにや笑った。
「じゃ、僕はお前のこと、カトルって呼んでやるよ」
 呆れた目で少年が見る。
「エルス語で『心臓』、ね。嫌味なヤツだね、お前」
 カトルとケテルが名付けた少年は、満足そうに笑うと、ケテルに囁いた。
「仮にも貴族の息子なんだから、そういう発言は自分の品格を落すって自覚した方がいいぞ?」
「なっ!」
 立ち上がってケテルとは逆方向に歩き出す少年は、数歩歩いてケテルを振り返った。
「そうそう、嫌味ってのは何も気にしない人間には効かないんだぜ? 僕みたいなヤツとかには」
 肩をすくめて唇の端が上っている。完全に馬鹿にしている証拠だ。
「この! お前、薄汚れたのは身分だけじゃなくて、性格もだな」
「馬鹿じゃないのか? お前。貴族らしいな。屋敷の外を歩いて出てみればいい。貧民なんて区別されているヤツしか居ないぞ。仮にも父親の次にこの土地を治めるんだろう? 自分の統治する土地が、人がどういう暮らしをしているのか、それくらい知っておけよ。少なくとも、身分と同じで薄汚れたって表現は、お前がどれだけ救えないヤツか言っているようなもんだ。……あ、貴族はそんなことは関係ないのか! だって自分が一番偉くてキレイだって思っているんだものな。その生活がどういう経緯で生じているものなのか、考えたこともないんだろうな」
「お前がどれだけケゼルチェックを知っているっていうんだ! 僕は生まれてずっとここで育ってきたんだぞ!! お前なんかに言われたくない!」
「勝手に言ってろ。僕には関係の無い話だ。この土地がどうなろうと、な」
 今度こそ、背を向けて歩き出した少年に、悔しくて悔しくてケテルは言葉を投げつける。
「ふん! 薄汚れているのは性格だけじゃなくて、その赤色が混じった汚い髪の毛も、濁った黄緑色の瞳もだな! お前は全部が薄汚れているんだよ!」
 その発言に反応して少年が振り返った瞬間、ケテルは頬に熱さを感じた。ぱぁんと乾いた音がして、後からジンジン痛みが出てくる。レナードがケテルを睨んでいた。
「言いすぎ」
 頬を思わず押さえて、ケテルはレナードを見上げた。
「ケテル、髪も目の色も生まれ持ったもので、その人には変えられない物でしょう? そんなことを悪口として言うなんて最低なことよ」
「おっどろきぃ~」
 少年が冷めた目でレナードに言った。レナードはケテルより今度は少年を睨みつける。
「何よ」
「僕を庇ってくれたことが驚き」
「そんなんじゃ、ないわよ!」
「ふ~ん。ま、いいよ。今のは褒め言葉として受け取っておくよ」
 にっこりと笑って、本当にその笑みはそう言われて喜んでいるような笑みに見えてケテルは驚いた。
「嘘の笑顔ってのは、こうやって作るんだよ」
 少年はそう言い放つと、ケテルの元を去っていった。
 ――負けた。
 ケテルが本当にそう自覚した時だった。彼は貧民とか言っているが、ケテルより知識も、礼儀も、何もかも優っているように思えた。
「ねぇ、なんなの、あいつ」
「よくわかんない」
 レナードも少年を追いかけない。彼の行動を好き勝手させているようだった。
「部屋にね、強盗しに来たのよ。アイツ。で、私と戦って、アイツ勝ちやがってね。で、そのまま去ろうとするもんだから、なんかむかついて勝つまで逃がすかって思って、言っちゃったの」
「何て?」
「あたしと結婚しないと、逃がさないって」
「唐突だね。結婚って……。どうして、結婚なの? 逃がさないって意味矛盾してない?」
 レナードは笑った。それはケテルが今まで見たことがないくらい、女らしい笑みだった。
「そうよね。たぶん、あたし、自分より強い相手じゃないと結婚しないって言い張ってきたでしょう? 初めて負けたものだから、動転してたのよ。きっとね。ま、それで驚いたらしくて」
「捕まえたって言うの? 何で罰さないんだよ。強盗犯なんでしょう?」
「まぁね。でも捕まえ方がさー、抱きついて、放さないっていうものだったのね。それを、ちょうどお父様に見られちゃってね、ここで強盗! って叫べばよかったのに、何でか『お父様、やっと、捕まえたの! この人とあたし、結婚する!!』って叫んじゃって……」
 その情景が思い出すかのように思い描ける。たぶん、レナードの父は驚きに顔が蒼白になり、抱きつかれた少年はさすがに驚いて何もできなかったに違いない。
「お父様もさすがにヘルツのせいにはできなかったのよ。抱きついていたの、おもいっきりあたしだし、同時にヘルツも『はぁ!?』って叫んでたから」
 笑わずにいられない。さすがレナードだ。唐突過ぎる。
「で、お父様はあたしが日頃言ってた事知ってるから、翌日改めて勝負したの。そうしたら本当に負けちゃって、お父様も認めざるを得なくなって、一応あたしの護衛兼彼氏(仮)ってことになったのよ。ま、そゆわけで勝つまで、逃がさないわ!」
「忘れてない? もし、レナードが結婚する年齢までヘルツに勝てなかったら、どうすんの?」
「そりゃもちろん、結婚するわよ」
 ケテルはビックリした。本気だったのか!!
「何で? ってか、許婚はどうするんだ??」
「邪魔するようなら、殺すわ。あいつの家は男爵でしょ? うちより階級低いし。あたし、いまアイツしか見えてないの。恋する乙女は盲目なのよ!」
「恋って……好きになっちゃったのか?」
「うん。自分の愛する相手くらい親に手配されなくたって掴み取るわよ。あたしはそういう女なの。……好きにならなくて正解でしょう?」
 にやっとレナードは笑った。
「ぼ、僕はそういうつもりじゃないよ!」
 赤くなったケテルにかわいいやつ、と笑ってレナードは頭を撫でてくれた。

「あはは」
 突然笑い出したケテルにコクマーがどうかしたのかとその顔を覗き込む。
「ごめん。ちょっと昔のことを思い出していてね。なつかしいなぁって」
「昔とは、どれくらい前なのかね?」
「うん。コクマーと出会う前の話だよ。僕が初めてホドと会ったときの話さ」
 コクマーはゆっくり紫煙を吐き出し、にやりと笑った。
「面白そうな話ではあるね。聞かせてもらえるだろうか?」
「嫌だよ」
「何故かね?」
「僕がどうしようもなく、お子様な性格だったからさ」
 ここでコクマー以外の人間が居たら、今でも十分お子様と言うだろうが、残念ながら今は居ない。
「私と君が出会ったのも、君の父上が亡くなった時だからもう、十年くらいは経つのだろうね。時の流れは速いものだ」
「うん。そうだね。僕は父さまが死んでしまったことは悲しめなかったけれど、おかげで君たちに出会えた。君たちに出会えて僕は変れた。きっと父さまが亡くなっていない僕に今の僕が出会えたなら、背中を蹴っ飛ばしているだろうな」
 自分は変った。その自分を変えるための一番初めの出来事はホドと出会えたことだろう。ホドは甘えていた幼い僕に自分の立っている場所を教えてくれた。今思えば、当然のことだったんだろうな。
 ホドは僕に比べて、背負っているものの重さも責任も違うんだから。

 クァイツはナックからの報告を聞いて全異端審問官をケゼルチェックに集めた。しかし、ここエルス帝國は隣国リュードベリ帝國と開戦し、戦争真っ只中という状況になった。
 その中で奴らは動くだろうがこちらは自由に動けない。戦時にヴァチカンに構ってくれるところはないだろう。
 しかもケゼルチェックは戦場になる可能性が高い。おそらく相手にしてもらえないだろう。そのことを踏まえた上で上官のコンサイス枢機卿に指示を仰いだところ、最悪の答えが返ってきた。
「まさか、こうなってしまうとは……」
 クァイツの苦悩にジュリアが寄り添う。
「疑わしきは罰せよ。それが異端審問の方針。しかし、相手は強大なエルス帝國の一端を担う十公爵の後見人だ。それに加え、この国は戦時だというのに……」
「きっとクァイツの態度を見てソロモン卿が直接コンサイスさまにコンタクトを取ったんじゃないかしら? でなければあいつらを今回の作戦に参加させるなんて言わないはずよ」
「そうだな。私達はソロモン卿についていた方がよさそうだ。ケゼルチェック卿のことはナックに一任しよう。ダリアもいることだし、予言の事もある。平気なはずだ」
「そうね。あいつらはナックの言う事なんて最初から聞かないから、それで大丈夫でしょう。ま。元気出して、クァイツ! なるようになるわよ」
 ジュリアの言葉に頷いて、クァイツはある決定事項を伝えるために異端審問官を全員集めた。