TINCTORA 015

053

 ティフェレトは賢者の処置よかったようで三日もすれば全快して意識を取り戻した。
 その時に開いた目は深い青色で、みんなが安心したものだ。ティフェレトは自分がしたこと、すべて覚えていた。
 一人称がぼくからおれに変わった以外、彼に変わったところは全く見られなかった。
「心配かけてごめん、ケテル」
「……何を、やっていないの?」
「え?」
 ティフェレトは聞き返すような表情でケテルを見つめる。
「だって、言ってただろう? 俺じゃないんだって」
「……ああ。そのこと、ね」
 ティフェレトはケテルから視線を逸らせて、悲しげに笑った。一息ついて、ケテルに向き合うと、ケテルに抱きついた。
 ケテルは静かにティフェレトの行動を待った。
「ケテル……抱いてよ」
「ごまかさないで。それとも僕には教えたくないの?」
「教える。でもね、それは今じゃない。おれが再び、ぼくって君に語りかける事ができるときに、ね」
「どういう意味?」
「内緒だよ」
 くすっと笑って唇が重なる。吐息はすぐに色付いて、艶を持つ。白いティフェレトの肌にケテルの所有の赤い印をいくつも、いくつも、咲かせて、それでもケテルは不安だった。
 記憶を取り戻したティフェレトがあまりにも自然だから。
 ――それは、嵐の前の静けさのように。

 いつもはティフェレトの方が起きるのは遅い。事後に気だるいのと、眠気が襲うから。
 でも今日はティフェレトが意識を手放したのは一瞬だった。隣でケテルが安心して寝息を立て始めると青い瞳をぱちりと開けた。その目には一種の決意が覗いている。
 上半身を起こし、窓の外を眺めて、隣のケテルを見る。ふっと微笑むとその瞼に唇を落とし、頬に、唇に落とした。
「おれ、この痕を大事にするよ、ケテル。たとえ消えてしまっても、覚えているから」
 身体に散りばめられた赤い痕を一つ一つ指でなぞり、ティフェレトはベッドを抜け出した。そっとした動きにケテルが目を覚ます気配は皆無。一度背を向けたティフェレトは思い出したように振り返り、ケテルの元に跪くと眠るケテルの手を取った。
『貴方に私の命を捧げます』
 恭しく右手を取り、その手の甲に口づけようとして、ふっと失笑する。
「柄じゃないや」
 手首を捻って白い内側を見る。いま、ここでこの手首に自分の爪を立てたらこの少年はアッサリ死んでしまう。それくらい危惧すればいいのに。でも、そんなこと考えてないんだ。それだけティフェレトを大事にしてくれているから。
「ぼくの世界は、君がくれた世界は壊れちゃったけれど、おれは世界を覚えているから。だから、できるだけ、許されるだけ、返していくよ」
 手首の内側に唇を落として、ティフェレトはその白い手に印が残ったのを確認すると、満足して立ち上がる。手をベッドの中に戻し、静かに扉を閉める。
「ぼくのことも覚えていて。その痕が消えてしまっても、どうか」
 それは祈り。そして、願い。殺人人形のささやかな、人として生きた証。
 ティフェレトはケテルの部屋を出て、しばらく歩くと、ある部屋の扉を叩いた。招かれたように扉は自動的に開く。扉が開いた瞬間に紫煙が漂ってきた。
「私に何のようだね?」
「頼みがある」
「頼みによるね、叶うかどうかは」
「お前の娯楽になるかはおれに関係ない。きかないなら、多少強引な手にでる」
 ティフェレトはそう言ってコクマーの部屋に入った。何を考えているかわからない賢者と向き合う。
 本当ならば自分ひとりで解決したい。でもティフェレトの身体には魔法が刻まれている。それをどうにかしなければティフェレトは成すべきことを成しえない。
「それは恐ろしい。ビナーなら叶えてくれると思うのだが?」
「だめだ。ビナーは心を理解する。今、おれの望みを知れば、引き止める」
「私なら気づかないと?」
「お前なら気づいても、引き止めたりはしない」
 その答えに驚いて、その後賢者は高らかに笑った。
「替わった、ね」
 コクマーはにやっと笑った。記憶を取り戻して、彼は以前の彼ではなくなった。魂に刻まれた記憶、悲しい過去。
 コクマーは魔法を書き換えるためにその記憶を断片的にだがすべて見た。以前の彼とティフェレトが入れ替わったかのように、コクマーの目の前に居る少年はティフェレトとは別人に見える。
「そうだね。話してみるたまえ。その後で決めようではないか」
 深く椅子に腰を下ろすと、コクマーは紫煙を吐き出し、ティフェレトにそう言った。
「おれに刻まれた魔法はおれの意思で発動するようにして欲しい」
「無論。そうでなければ危険だ。私とビナーがそれはすでに行っているとも。だが、発動のきっかけとなる言葉は変更していない。変更するかね?」
 ティフェレトは頷いた。
「あれは名前だ。言葉自体は変更しなくてもいいが、おれが発動する意思が無い時にその名前があがっても、おれが言っても、発動するのを避けたい。できるか?」
「もちろん」
 ティフェレトが頼む、と言った。キーワードは彼の過去に深く関わった人物の名前だった。それを口にするだけで魔法が発動したのでは思い出に浸ることすらできまい。
「それと魔法誓約書を作って欲しい」
「誰と契約を?」
「……相手はおれを人間とも思っていない。騙すのではなく、利用でもない。手違いで道具によって怪我をした程度にしか感じていないはず。そんな相手におれが適うはずないから、魔法契約によって対等の立場に立つ。こちらが優位に立ってるんだ。お前とビナーのお陰さ」
 ティフェレトが胸に手を置いた。魔法誓約書とは、位や力の強い魔法使いが契約書を製作し、契約書に従って、魔法に関する取り決めを行う事だ。
 もし、この誓約書を用いて約定を交わし、その誓いを破ったときは、死よりもひどい呪いが発動する。だから約束を互いに守らなければならないのだ。
「ティティスと争うのかね?」
「ああ」
「それは復讐かね? 自らをこんな風に変えたことに対する」
「違う」
「では、何のためかね?」
「約束を果たすんだ」
 ティフェレトはそう言い切った。だれと交わした約束なのかはすぐにわかったのでコクマーはあえてきかなかった。彼の目的がもう、半分以上は理解できた。
「そうか」
「それと最後に一つ……ケテルからおれを隠して欲しい」
「……! それは、ティフェレト、君はそれでケテルがどうなるかわからないわけでもあるまい?」
 初めてティフェレトの意思が揺らいだように見えた。苦しげな表情を浮かべたのはそれでも一瞬で、その後すぐに強い意志を持った瞳がコクマーを射抜く。
「おれはイコサに戻る。そのためのけじめだ」
「……わかった。だが、ケテルが本気になれば無理だぞ」
「ああ」

 その夜、ティフェレトは静かに姿を消した。

「どうして、ケゼルチェック卿ご本人がお会いしてくださると申されたはずです!」
 ナックはいつ戻ってきたのか知らないが、ホドクラー卿と向き合っていた。
「ですから、体調を崩したのです。今日は皆さんとお会いできる状態ではないんですよ」
 しずかに、ホドクラー卿が呟いた。
「では、祈りを捧げに参ってもよろしいでしょうか?」
「病には祈りが一番ですからね」
 ナックの思いつきにクァイツが賛同してくれた。
「……困りますね。この前から異端審問ならびにヴァチカンの方は、無理ばかり仰る。我ら、ケゼルチェックになにか含むモノがおありなのですか?」
「それを審議するのが異端審問ですから」
 さらっとクァイツが言ってのけた。
「では、お教えください。なぜ、我らの周りを嗅ぎまわるのです?」
「以前お話しましたように、私どもはティンクトラという極悪犯を追っています。その者らはこのケゼルチェック地方に潜んでいます。そして、その者らを支持しているのはケゼルチェック卿ご本人ではありませんか?」
 ナックはそう言い切った。ホドクラー卿の表情は変わらない。さすが貴族。
「私たちが追うティンクトラの主要メンバーと思われる人物は赤い瞳をしています。そのものに命令を下せる人物を見ました。栗色の長髪に空色の瞳、整った顔立ち。聞きましたが噂に聞くケゼルチェック卿のお姿と同じなのです。ですから、会えば本人か確認できるのですよ」
 ホドは目線を逸らし、軽くふっと息を吐くと、再び目線をナックに向けた。その瞬間、ナックはぞっとした。今まで穏やかだった青年の瞳が暗く淀んでいるように思えたのだ。
 黄緑色の目がナックをそして一緒に交渉しているクァイツに向けられる。
「あなた方は現在のこの国の状況がわかっておられないようだ」
 そして更に言い募ろうとしたクァイツを制して、ホドは口元にやった手で笑みを隠すように言った。
「よくここまで来れましたと褒めてあげたいけど、今、僕を失ったらこの国は滅ぶよ?」
 ナックとクァイツが絶句した。今、この男はなんと言ったのだ!?
「君たちがなんでティンクトラって呼んでいるか知らないけど、確かに僕はそれに関わっているよ。異端審問。君の大事な人、キラ・ルーシ。彼女を攫うように指示したのは僕だ」
「なっ!」
 ナックの頭に血が上る。この男が!! 全てを狂わせたのか。
「では、認めるのですね? 貴方がティントラの張本人であると!?」
「いえ、認めはしません。あなた方がどう思うかは自由です。それにあなた方はソロモン卿の傍に居るのでしたね。この国の表面下の争いをご存知ですか? ソロモン卿の思う壺になりますから」
 先程までの貴族の表情と口調にすぐさま戻ってホドは微笑む。この程度、証拠も揃えられないような組織、自分の現在の地位と功績、そして何より現状況が今のホドを離さない。
 実際、ホドを失えば、戦争は負ける。確実に。自分の力を過信しているのではなく、事実だ。東西南北の将軍、各公爵、王でさえこの戦況を変えることができない。もし変えることができるならそれは自分だけ。ホドの頭の中にしか勝利はない。
 もし、ホドを越す頭が存在しているならば、そもそも自分は必要ない。その時はこの身分を返上するだけだ。
「これ以上の話し合いは無意味ですね。ただ、もしですが。あなた方が私を異端審問にかけたいのならばせめて戦争が終えてからにしてください。それを守っていただければ、これ以上の被害も出ませんし、私もヴァチカンに赴きましょう」
「何を勝手な!」
 ナックは憤った。この目の前に居る貴族は自分が極悪犯といったばかりでなく、組織を動かす存在である事も匂わせた。なのに、この国が戦争中だから見逃せ、待てと言うのだ。
 キラを誘拐したことだけでない、名も無い反抗分子を壊滅、目の前で支援してくれる貴族を虐殺。行われた犯罪はそれだけではない。もっともっと行われている。
 ティンクトラだという確信がもてないものも含めればどれだけの罪があるか、この男はわかっているのだろうか。この男は!
「構いませんよ。私を捕まえても。殺しても構いません。ご自由に」
 クァイツが唇を噛んだ。いくらヴァチカン、異端審問といえど国の歴史に関わるようなことを枢機卿たちの判断も仰がず、勝手にできない。エルス帝國はヴァチカンへの資金援助額が一番多い国。頭が上がらないのも事実。
「……戦争が終わったら、必ず私たちの思うようにしてもいいのですね?」
 クァイツが激情するナックを留めて、言った。
「ええ。私個人としてお約束しましょう。カトルアール・メ・ホドクラーが。ご心配なく。戦争は長くても一年で終わらせて見せます。それ以上長引けば国が傾きますので」
 最後までにこやかに青年は言い、約束した。まるでそれくらいなんでもないとも言わんばかりに。
 実際、彼は自分がティンクトラのメンバーであることは痛くも痒くもないのだ。証拠がない、ということをわかっているのだろう。彼自身がいくら告白したとは言え、それは公式な場でも記録でもなく、ナックの証言が生きる場面に彼はいない。
 各事件を起こしたのはいつでもゲヴラーであり、ティフェレトであるのだから。
「それに、ティンクトラとあなた方が呼ぶ組織が私だけとは限りませんよ?」
「複数犯であることはすでに知っています」
「いえ、そういう意味ではなく、まぁ……あなた方が見たティンクトラと思われる人物はきっとあなた方の傍で見つかると思うと述べさせていただいただけですよ」
 くすっとホドは笑った。
「どういう意味です?」
 クァイツが言葉の裏にそれは裏切者が居ると言いたいのかと語気を強めていった。
「さぁ? どういう意味でしょう?」
 ホドはくすりと笑って机の上のベルを鳴らした。するとノック音と共に扉が開き、使用人が現れた。
「お帰りになるそうだ。お送りしてくれ」
「かしこまりました。では、こちらへ」
 クァイツは眉間に皺を寄せて、ナックは青年を睨みつけたまま、退出する。その間際に青年の爽やかな声が響いた。まるで仲良く話していたかのように。
「戦争が終わったら、お待ちしております」
 二人は返事をしなかった。だが帰りの馬車でクァイツが唸った。
「どうして捕まえなかったんだ!?」
「まさか、あそこまでやり手だったとは!」
 クァイツは悔しそうにナックに説明した。
 まず、本当の目的であるケゼルチェック卿に会う目的を見事にすりかえられた事。
 そして戦争後、と確約してしまったからには戦争が終わるまでホドクラー卿だけでなく、ケゼルチェック卿にも、ティンクトラにも手を出せなくなってしまったこと。
「だけど、キラは!」
「いないよ。あの屋敷にはいない。そんな取り返せるような場所には置いておかないだろうよ。それにあの様子、この事を知られても何の痛手もないようだ。彼は本当に手ごわい」
 あそこまで自分を制御できる人間をクァイツは初めて見た。人間は考えている事がわからなくても、そのものの感情はにじみ出ているものだ。少なくとも、目には。多くの人間を見て、クァイツが感じたことだった。
 だが、あの男は。ホドクラー卿は違う。彼は感情さえも制御している。おそらく、にこやかに笑いつつ、人を刺せるような。激情に任せて怒るようなまねをしつつも内心まったく別のことを考えているような。貴族の鑑のような男だ。
 しかも、あの男は戦争を長くても一年で終わらせると言い切った。他国との戦争だ。いつ終わらせるかなんて予測できないだろう。それが末期ならまだしも、戦争は始まったばかりだというのに。
 まるで、この手とあの手を出したら戦争には勝てるとでも言いたげだ。
「あの男……なにを考えている?」
 見事に同僚のホドクラー卿は黒と言い切った彼女なら彼らの目的がわかったりはしないだろうか。自分には考えも及ばぬことが分かるのではないか。と淡く思った。

 ホドはあまり招きたくない来客を追い返して溜息を一つついたあと、サロンに戻っていく。仕事は部下に任せ、少し休憩するとだけ言った。サロンに入ってある程度予測できた事態にホドは内心溜息をついた。
「知らないのか!? 本当に!!」
 耳に入ってきたのはケテルの感情的な声だ。知らせを受けたのはヴァチカンがやってくる直前だった。
 最初からケテルに対応させるつもりはなかったからこちらに戻ってきていたのだけれど、ケテルがティフェレトのために敵に姿を見せたために言い訳は違うものとなった。
「だって、いないんだ! ティフェが」
「帰ってくるかもしんねーじゃん! ふらっと出て行っただけだよ、ケテル」
 そう、ティフェレトが居なくなった。記憶を取り戻した時点でホドは覚悟していたことだった。予測も十分できた。
 そのことくらい頭に浮かばなかったのだろうか。いや、そんなことはない。ケテルは頭は悪くない。考えても感情がそのことを考えるのを拒否していただけだろう。
 まぁ、それも当然か。一番大切な存在がいなくなったんだから。探し出そうとするだろう。自分ならどうするか。探すか? 探さないだろうな。その前にそいつがどこに行くか位、きっとわかっているだろう。ならそれは探す、とは言わない。
 ああ、どうして自分はこんなに冷静なんだろう。あきれ返ってしまうくらい冷たいヤツだ。カトルと心臓とケテルが名付けたのは、そもそもあの人が自分のことなど何ひとつ理解していなかったあの人が心臓と名付けた理由はなんだろうな。
 二人は同じ意味の言葉をくれたけど、それにこめた想いは全く逆に違いない。
「ケテル、君は本当にティフェの過去に何があったか、予測できないのか?」
 ホドは紅茶を入れて、それに口をつけず、ただカップを覗き込んだ。揺れる琥珀色の液体に二人の影が映る。
「兵器だって、ことしか……」
「違う。それは事実だ。今は事実を検証しているんじゃない。君が予測するんだよ」
「そんなの、わかんないよ!」
 ケテルは泣いていいのか、怒っていいのかわからないような表情をして、コクマーに目を向けた。
「探せるだろ、お前なら! 探せよ! 早く」
「ケテル、ティフェレトは探す媒体を何ひとつ残していかなかったのだよ? この前のことで魂の波長も変わっている。探すのは困難だとも」
「それでもお前は賢者か!」
 ケテルは話しているうちに感情が高ぶっていまや怒鳴っている。仕方ない、コクマーは人をいらいらさせるような喋り方しかしないんだ。
『来い! ビナー』
 ケテルが激情のままにビナーを召喚する。ホドはそれを見て、眉を寄せた。いくらなんでもやりすぎだ。
「ケテル、一体……」
 突然、呼び寄せられたビナーは混乱して、だがそれをすぐさま理解し、ケテルに目を向けた。
「ケテル、我とて遊んでいるわけではないのだ、そうそう呼び出されても困る」
 ビナーの言い分は最もだ。だが、それが頭に入るほど今のケテルは冷静ではない。
「ティフェを探せ! 今すぐに、お前なら理解できるだろ」
「ケテル、我とて、今すぐというわけにはいかん! なにせ、媒体がないのであれば!」
「じゃ、イェソド!」
「思考は今、マルクトが持っているのならそこまで高度なことは無理だ、ケテル。落ち着け」
 ビナーが必死に言う。今のケテルは良くない。感情に流されるとケテルはなにするかわからないのだ。
「ケテル」
 ホドの静かな声ケテルを呼ばう。だがケテルの耳には入らない。そこでもう少し大きな声でケテルを呼んだ。
「ティフェレトはティティスの実験体だったんだ。魔法に犯されて、その魂と過去を歪められたんだよ。人間であったはずなのに、兵器としての価値が彼本来の価値より高くなったんだよ」
「そんなの、関係ない! 僕はティフェを!」
「それこそ、関係ないだろ。君の価値とティティスが思う価値は一緒じゃない。そしてティフェ自身が自分につけた価値も。だから、いなくなったんだよ」
 ケテルがホドに向き直る。
「捨てられた? 僕が? ティフェに……??」
 愕然としたケテルに追い討ちをかけるようにホドはケテルの言葉を肯定する。
「ホド!」
 ゲヴラーが諌めるように声を上げたがそれをホドは目で制した。
「なんで? ティフェは僕から離れて、どこに……?」
「決まってるだろ。ティティスのところさ」
「どうしてだよっ!! そんな自分の過去を歪めたような場所に、なんで!」
「そんなみんなして同情するような過去かな? ティフェの過去って」
 溜息をついてホドはケテルに逆に問うた。
「なんだって!?」
「ねぇ、どこにでも転がってるような話じゃないか。買われた子供。奴隷の扱いをされている子供。実験体として扱われて、幸せなヤツなんていない。ケテル、所詮、支配する側とされる側、最初からつかみ取れる幸せの量なんて決まってる。ティフェにはその資格が無かったんだ。君がそんなに取り乱すほどのことかな?」
 ホドがしれっと言い放つ。ケテルはその言葉を聞き、怒りが頂点に達した。ホドの胸倉をつかみ上げ、叫ぶ。
「ホド!」
「何だよ? 今の僕の発言に怒るのはおかしいって自覚しろよ。散々ティフェをモノ扱いして、自己満足と独占欲に浸ってたクセして。ティフェをモノ扱いしきれてなかっただけのくせして。中途半端なんだよ、何時だってお前。お前、僕に言ったな? 上に立つ者とて必要な事を教えろって。今の自分を見てみろ。まるで餓鬼だ。お気に入りの玩具を取られて泣いているただの餓鬼だよ」
 ケテルの全身から白いオーラが噴出してくる。ゲヴラーはそれを見て思わず後退する。
 ホドはいつもだったら恐怖を感じるが、今日はそんなことはない。相手はわめき散らしているただの子供だ。
「今日、ヴァチカンの異端審問官が言った。赤い目の男を従わせる事ができたのは、空色の瞳に栗色の髪の少年だったとね。誰のこと指してるか、わかるよな? お前がティフェに入れ込んだ一つの結果。それによって僕は一枚のカードを手放した。その意味、理解してるか?」
 ケテルが目を見開いた。だが、怒りは消え去っては居ない。
「僕は君の代わりになった。ソロモンという不安要素があるにもかかわらず。なんでかわかるよな? お前が頂点に立つ者だから。僕はそれを支えるために『ホド』になったんだぞ」
 ホドはそう言って歪んだ笑いを浮かべて紅茶をケテルの頭から垂らした。琥珀色の液体が顔を伝い、白いシャツにシミをつくっていく。ケテルはホドに言われた意味をやっと聞き入れ、反省したかのように紅茶を頭からかけられようが黙っていた。
 もう、怒りは無さそうだ。ケテルは泣きそうな顔をしてホドを見つめた。胸元を開放されたホドはカップを脇に置いて、ケテルの脇を通り過ぎる。
 うなだれたままのケテルに声を掛けず、代わりにビナー、コクマーに指示を出してホドは部屋を後にした。