TINCTORA 017

17.さようなら

058

 ――最後のキスは、血の味がした。

 目覚めたら、何かがおかしかったのだ。イコサははっきりとあの朝を覚えている。
「ヘキサ?」
 ノナが呼びかけても応えない。いつもなら、元気よく返事をしてくれるはずなのに。
「ヘキサ。朝よ、ヘキサ」
 続いてテトラが呼びかける。イコサも一緒に名前を呼んだ。そうしてやっとヘキサの薄い青い瞳が開かれる。ほっとしてみんなでおはよう、と言った。
「敵、認識」
ヘキサはそう言っていきなり拳を突き出してきた。反応できたのはみんなキリングドールだったからだ。ヘキサから飛びのいて、皆が愕然とする。
「敵、3体確認。攻撃アリマセン」
「ヘキサ! どうしちゃったの??」
 ノナが叫ぶ。テトラから血の気が引いていた。
「……あ、あれ? 俺、今……何を……?」
 ヘキサはテトラに向けていた手を引っ込めて、当惑したように周りを見ていた。
「どういうこと……?」
 そうだ。このときを境にヘキサはおかしくなった。最初は、本当にささいな事からで。次になにをするか、今まで何をしていたかを忘れていた。それが何度も度重なって、ちょっと疲れているのかと問い掛け始めた頃、突然、攻撃を掛けてきたりするようになった。
 模擬試合中にも手を抜かずに攻撃を繰り返したりする。その度にヘキサが呆然と信じられないように自分の手を見ていた。記憶が抜け落ちたようになり、次第に俺を見て誰かと問うてきたりするようになった。
 それはとても怖かった。そう、だんだんヘキサの中から俺たちが消えていった。抜け落ちる記憶を俺たちはどうすることも出来ず、ただ眺めていた。
 ――最初に己の行動を、次に建物の配置、つまり場所を。その次に俺たちの行動を、その次の次に物の名前を。
 そうして俺たちの名前を忘れ……自分の名前さえも忘れていった。
 果てにはただの人形に。本当の人形になってしまった。
 その様子を博士さまが笑って見ていたことをおれは知っている。だが何も知らされないまま日々が過ぎていく。

「ヘキサ・キリングドール」
 今日もヘキサは人形のように、おれたちを当然のように攻撃する。呆然として対処できない3人の背後から声が聞こえる。それは博士さまの声だった。博士さまはいつものようにヘキサを呼ぶ。ヘキサがその姿を捉えた。
「その3人は一応敵ではない。命令があるまで攻撃はするな」
「了解しまシタ」
 ヘキサはそう言ってそのまま全く動かなくなる。初めて博士さまが狂ったヘキサに声をかけ、俺たちの前に姿を現した。いやな予感がする。
「ヘキサ!」
 俺は叫ぶ。ノナは俺より先に事実に気づいたみたいだった。
「博士さま、ヘキサはどうしたのですか?」
 テトラが震えを抑えて、問うた。彼女はもう答えを知っている。
「ああ、新たな魔法実験を行ったまでだ。ヘキサは失敗した」
 そして俺も愕然とする。『失敗』。その言葉は、処分される前に言われる言葉だ。
「ヘキサ!」
 俺も叫んだ。名前をいくら呼んでも、ヘキサは俺たちの方をちらとも見ない。ヘキサが俺たちの前からいなくなる? ショックだった。いや、そんな言葉では言い表せない。
「ヘキサ・キリングドール、私の命令があるまで他のキリングドールと話し、会話能力を身につけるといい」
「了解しました」
 向けられた瞳はあまりにも無機質だった。本当に人形になってしまった。ヘキサは誰よりも物事を理解し、そしていつだってやさしかった。
 そんなヘキサが別人に替わってしまった。ヘキサは失敗した。ヘキサが失敗作に? そんな馬鹿な。
「嘘」
 テトラは博士さまが姿を消した瞬間に緊張の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
 ノナも俺もどうもできない。ヘキサが失敗作になったという事実。俺は近いうちにヘキサが処分されるという事実を受け止めるだけで精一杯だった。
 ヘキサがいなくなってしまう。
「アナタの認識番号を教えてクダサイ」
「認識番号?」
 俺は以前のヘキサのように問いに問いで返してしまう。以前のヘキサなら笑って答えてくれた。しかし今のヘキサは無表情のままだ。受け入れられない。ヘキサじゃない。
「認識番号です」
「俺はイコサ。イコサ・キリングドールだよ、ヘキサ。知ってるだろ?」
「イコサ・キリングドール。たった今、記憶シマシタ」
 俺は泣きたくなった。どうしてこんなことに? ヘキサは誰よりも能力値だって高かったはずなのに。どうして失敗なんて……。
「アナタの認識番号を教えてクダサイ」
 今度はノナに同じ口調で、同じ無表情で問う。唇が震えてノナも上手く答えられない。
「ノ、ノナ。ノナ・キリングドール」
「ノナ・キリングドール」
 復唱する声すら機械的。ヘキサは一体何の魔法をかけられて失敗したのだろう。自分たちが日常を過ごしている間に何があったのだろう。
 そして人形が魔法で動かされている様子のままテトラに向き直る。
 テトラはその様子を直視できなかった。何よりも心の支えになってきたヘキサの変わり果てたこの姿。それでも耐えられた。
 だが、誰も到底受け入れられない。失敗作という事実に。
「私はテトラ」
「テトラ・キリングドール、デスね」
 どうしたら、ヘキサは治るんだろう。これは夢じゃないのかな? 誰か嘘と言って。誰か嘘だと言ってくれ。壊れてしまったヘキサを誰か治して。
「ワタシはヘキサ・キリングドールです」
「……知ってる」
 ぽつりとノナは言う。テトラは声を上げずに泣いていた。ヘキサを心のよりどころにしていたのはみんな同じなんだ。
 イコサは兄のように慕っていたし、ノナもそうだろう。テトラはずっと仲良かった。みんなヘキサが大好きなのに、なのに。
「知ってるよ、ヘキサ」
「ナゼ、目から水を発していルのですカ?」
 テトラに向かってヘキサが問う。違うよ、ヘキサ。いつも訊くのは俺の役目じゃなかった?
「悲しいからよ」
「カナシイ?」
「そう。私はヘキサを失った。だから悲しい。だから、泣くの」
「ナク?」
「ええ、そうよ。悲しければ泣くものよ」
「おれは、ここにイます。理解デキマセン」
「そう」
 悲しげにテトラは言って、ヘキサを抱きしめる。その瞬間ヘキサの身体が硬直した。目が見開かれる。
「……っ、クソ!」
 その感情のこもった声にテトラは驚き、慌てて離れる。頭を激しくかきむしって、ヘキサが目をあげる。その目は先ほどまでと違っていた。
 イコサもノナも感情を映す目に感激した。やった、夢だったんだ! ヘキサが戻ってきた。
「ヘキサ!!」
「好きなよーに、させっかよ!」
「演技だったの? 信じちゃったよ! ヘキサ」
 ノナが半分怒って言う。しかしその言葉にヘキサは首を振った。
「よく聞いてくれ。俺はもう、長くない。俺の意識が表層に出れることはきっと少ない。俺は新しい魔法をかけられた。もう、俺は消えてなくなる」
 その言葉に愕然とする。
「どういうこと?」
「博士さまは俺たちの個性をなくそうとしてる。俺たちはそのうち機械にされちまう。だから、自由になれ。俺たちはこの首輪でつながれてる。首輪さえ取れれば自由になれる!」
「自由?」
 そんなことを望むという考えさえ浮かばないほどの環境に生きてきたキリングドールたちにとってヘキサの残す言葉の意味を理解するのは困難だった。でもヘキサは続ける。
「自由になるんだ! 外に出るんだ! 俺たち、ここにいたら、永遠にあいつらの思うままだ。そんなのだめだ! 俺たちだって自由になる、権利が……」
 唐突にその言葉は切れ、ヘキサが頭を抑えてしゃがみこむ。
「ヘキサ!」
「俺はもう、だめだ。だから、お前らだけでも……自由に……」
 ヘキサはそう言ってまぶたを一回下ろすと、もう無表情に戻っていた。イコサにとってはどちらが夢なのかわからなかった。
 しかしテトラと成長したノナはヘキサが残した言葉の意味を深く考えているようだった。
 自由になれと言ったヘキサ。俺たちは逃げられないと、所詮実験体だと呟いていたヘキサとは思えない。
 イコサは当惑した。世の中の常識を教えてくれていたヘキサの常識が、変わった?
「ね、博士さまがかけた魔法、完璧じゃないって思っていいのかな?」
「……そうね。でもヘキサと話せる時間はもう残されていないみたいね」
 テトラとノナがそう話す。イコサは別のことを考えていた。自由の意味を。
「根性あるからね、ヘキサ」
 ノナはそう言ってくすりと笑う。泣いていたテトラも少し希望を持てたようだ。
 ふっと心が和む。ヘキサは完全に替わってしまったわけじゃない。残された時間は短いけれど、まだ、確かにあるのだ。

 戦争が本格化したこともあって、十公爵会議が度々催されることとなった。今度から出席するのはケテルの義務となる。
 ケゼルチェック本邸の書斎、今は戦時で空けているホドがケテルの代わりに座り、執務を行っていた場所だ。
 ホドの性格が現れ、見てもいいものは見やすく整理されている。会議の記録、議題、懸念すべきこと、すべてがまとめられているし、それにホドが帰ってすぐに教えてくれていたから、特に不自由することは無いだろう。
 自分に発言権が無いわけではないが、今は子供で公爵成り立てということもあってケテルが自由に発言することができるようになるのはいつだろうか。
 ホドだけではなく、いつもホドの事務処理を行っているケセドさえ不在なのが少々いたい。
「何なら私が君の助言者になってもよいのだが?」
「遠慮するよ、コクマー」
 ケテルは紫煙をたなびかせて現れた男の方を見もせずにそう告げた。
「一応、僕は君だけではなくビナーの教育も受けているよ。英才教育中の教育だろ?」
「そうだね。教師、という面で彼女ほど優れている者は珍しいとも」
 ケテルが幼い、それに本当に両親が生きていた頃からビナーはケテルの家庭教師だった。帝王学やらなんやら必要なことは全て彼女が土台を作ったといっていい。
「では、ケゼルチェック公爵のその、憂慮なお顔は一体どういうことかね?」
「わかっているくせに問うな。お前のそう言うところが、時々いらっとすること、覚えておきなよ」
「失敬」
 ふふふ、と笑って煙の気配も臭いも消えていく。コクマーは呼べばいつでも馳せ参じる。
 しかし、いつも自分を監視しているのではないかと思うほど、自分が弱みを見せると攻撃してくる。心の中で舌打ち。いつもだったら何でもスマートにこなせる自信があったのに。
 自分の心を突き崩したのは、ティフェだ。彼がいない。何も話さなくても、たとえ肌を重ねなくても、いてくれるだけでよかったのに。君が望めば、僕は何だってしてあげたのに。
「失礼するよ」
 そう声が響き、ドアが音も無く開かれた。ケテルは思わず振り返る。
「ホド!! どうして?」
「え? 一応さ、軍の進行状態も陛下にお伝えしないといけないしね。今のトコ、いい情報ないから他の公爵に突っ込まれることも想定して、いろいろ根回しに来たんだよ。十公爵会議の後に臨時で作戦会議もしようと思ってさ」
「だって、戦線は? ネツァーにまかせっきりなのか?」
 いくら南方将軍とはいえ、軍師がいないんじゃ……。
「あのさぁ、君、何年レナと一緒に過ごしたの? ちょっとは信頼してもいいんじゃない? 僕が数日離れてどうにかなるような状況で僕が離れるわけないだろ」
「う、うん。そうだね」
 相手は最高の頭脳を持つ人間だ。ケテルの心配など、ホドにとっては毛ほどの心配ではないのだろう。
「あと、一応君が心配だったからね。あと、君がどれだけ貴族でいれるかテスト」
「テ、テスト?」
 ホドはにっこり笑った。ケテルは人との駆け引きの仕方、貴族の嗜み、礼儀作法などをホドから習っていた。
「うん。僕が考えているような先読みができていれば満点だけど、さすがにそれは無理だろうね。だから僕が風使って十公爵会議を盗聴するから、その反応で君の出来を評価してあげるよ」
「そんなことに風魔法使っていいのか?」
「いいんだよ。僕の能力だもの」
 力が抜けていく。ホドはいいやつだ。ケテルは心から笑うと書類を持ち直した。そんな様子を見てホドは内心、ため息を一つ。
 さて、この坊やはあの変態自称博士の行動を先読み出来たかな? 冷静に判断できるかな?
 ――そう、ケテルは敵となった彼に再び会っても冷静でいられるかな?
「ま、無理だよね」
「え? 何か言った?」
「ううん。別に。さぁ、行こうか」
 ホドは微笑んでケテルと並んで歩いた。

「テトラ」
 月明かりが薄く、部屋に細く入りこむ。ヘキサが心を失くしてから、眠りはずっと浅かった。だからこそ、この声がきっと夢なのだろうとそう、思っていた。
「ヘキサ?」
「そうだ。起きて、テトラ。おまえには教えておかなければ……」
 はっと目が覚めた。ヘキサが戻っているのかと! 闇の中でヘキサの瞳が強く輝いている。
「ヘキサ!」
「しっ! ノナが起きる」
 悪戯っぽく笑うヘキサに涙が生じる。
「ヘキサ、元に戻ったの?」
「今だけ、な。おまえには話しておかなければいけない。俺がこうなった原因を……そして俺たちキリングドールの未来のために……!」
「未来?」
「そうだ。今なら完全に博士さまがいない。俺たちの速度にかなう人間は存在しないからな。今夜が絶好のチャンスだ。ちゃんと意識が戻って幸いだなぁ」
 ヘキサはそう言って笑うとテトラの手を引いた。
 ――その翌日からヘキサの意識と人格が戻ることは一度としてなくなった。
 ノナもイコサも気づかなかったが、この日からテトラの行動も徐々に変化した。確かに彼女は受け取ったのだ。ヘキサの思いと願いを……!