天上の巫女セルセラ 017

第1章 魔女に灰の祈りを

017.幻と囚われ人

 レイル、ファラーシャ、タルテ。
 この三人は強すぎる。これほどの戦闘能力を持つ人物がどこかの大国に召し抱えられるでもなく在野に埋もれていたのが信じられない。
 セルセラはそう考えていた。だから対魔王戦も余裕だろうと。
 まさか魔王側も同じことを考えていて、だからこそ実際に剣を合わせて敵わないと見るや即逃亡を決め込むのは予想外だった。
「考えてみれば、魔王っても別に世界征服を狙ってたり戦闘狂の腕自慢って訳じゃねえからな……勝てない相手に無理に立ち向かう必要はないって訳か」
 魔王が正面から勇者を待ち構えているなどと考えるのは、英雄伝承の読み過ぎだ。
「ましてや相手は女性ですからね。男の魔王程正面からの勝敗に拘りはないんでしょう」
「でも、あの女は正攻法でやり合う気がないだけで、私たちを倒す気はあったと思うぞ」
「自分の計画を邪魔させないと言っていたものな……どうする?」
 台詞がちょうど一周したところで、レイルがセルセラに意見を聞く。
「二手に分かれるぞ。一人になるのはさすがに危険だ。二人ずつなら片方に何かあってももう一人が止められるだろ? その『何か』があったらすぐに連絡しろ」
「わかった! ってどうやって連絡するんだ?」
「これを」
 タルテが手持ちの小さな笛をレイルとファラーシャに投げる。
「すみませんが笛はこれで全てです」
「僕は大丈夫だ。いざとなったら魔導で火でも水でも出してやる。――僕とファラーシャ、タルテとレイルで組む。僕らはこっちの道から行く」
「了解」
 セルセラたち四人は、建物に隠れて姿を消した魔王を追うべく走り出す。地の利は完全に敵にあるのだ。油断できない。
「街から出ることはできないし出る気もないだろうが、それ以外の奴の思惑はわからねえ」
「建物ごと潰していいならこの街全部に神器の矢を撃ちこむんだけどな!」
「駄目に決まってるからな!」
 どちらが魔王かわからない無茶苦茶なことを言うファラーシャを牽制しながら、セルセラは足で走るより早いと箒を取り出してまたがった。

 ◆◆◆◆◆

「私たちも行きましょう。魔王が逃げた方角はわかりますが、隠し通路などに入られたら追跡は困難です」
「ああ。俺は上から街を見てみる。下を頼む」
 タルテが地上の通りを駆け抜け、レイルはその横の建物の屋根の上に上がって併走する。
 大通りの向こうの区画でも、セルセラが箒に乗って上空へ飛び上がるのが見えた。
 しかし、屋根の上から探しても探しても、魔王ドロミットの姿は見当たらない。
 見つかるものと言えば、民家の中にあるのと同じく、元は人間と思われる硝子の彫像ばかりだ。
「駄目だ。上手く建物の中に隠れてしまっているようだ」
「この夜景にあの白装束ならすぐに見つかりそうだと思ったのですが、甘かったですね」
 一行は初めてこの街へやってきて、右も左もわからない。多少の高さなら飛び越えられるとはいえ、行き止まりにぶち当たるたび壁を乗り越えたり、迂回して道を探すだけでも面倒だった。
 住民全てが硝子の彫像と化した街は静まり返り、彼ら以外に動く者はない。
 通りに無造作に立てられた――恐らく彼らが硝子にされた時からそこに置き去りにされたままの像が、淡く月の光を受けて輝いている。
「こっちにはセルセラがいます。目視で探せないなら魔導士である彼女は魔導を駆使して遠からず魔王を見つけ出す。それは向こうもわかっているでしょう」
「そうなのか?」
 セルセラの噂を聞いたことがなく、いまいち彼女のことをわかっていないレイルは小首を傾げる。
「恐らく、この逃亡はただの時間稼ぎ。魔王が何らかの反撃を考えているは間違いありません」
「それなら――」
 何か言いかけたレイルの言葉の先は、再び硝子の街に響きわたった鐘の音に遮られた。

「「!」」

 リンゴンリンゴン、鐘の音に合わせて強風が吹いてくる。その中に灰が混じっていて二人は咄嗟に目を閉じる。
「この灰は……!」
 武器を持つのとは反対の腕で目元を庇いながらも薄っすらと目を開けたタルテの視界に、懐かしい光景が広がる――。

 ◆◆◆◆◆

 夜明けの薄暗い教会。二人は顔を合わせて立っていた。
 この地での最後の祈りを終えて、タルティーブ・アルフは星狩人になるために旅立つ。
 ――本当に行ってしまうのか? タルティーブ。
 ――ええ。
 ――……俺は今でも、お前の方が相応しかったと思っている。
 ――そんなことはありませんよ。この教会の司祭に選ばれたのはあなたなんです。自信を持ってください。
 彼とタルテは同時期に拾われ、ともに学び、主任司祭の地位を授かるための試験を受けた。
 若くして一つの教会を任される主任司祭。どちらも優秀だと言われていたが、結局選ばれたのはタルティーブではなかった。
 ――でも……。
 ――ちょうど良かったんです。私は私を知らない。自分の根源がわからない。いつか探しに行きたいと思っていました。そのいつかがきっと今なんです。
 彼もタルティーブもどちらも優秀。けれど総合的な評価ではタルティーブの方が高い。お互いにわかっていた。周囲も理解していた。けれどタルティーブが教会を任されることはなかった。
 ――この結果に不満がある訳ではありません。ただ理由をお聞かせ願いたいのです。私に足りないものは何でしょう。
 ――足りないものがわからない。それが君を選ばなかった理由だよ。君はとにかく優秀でなんでもそつなくこなした。度胸もある。そのままでも人を導いていけるだろう。……けれど今から教会に落ち着き日々決められたことをこなして静かに生きていく。それが本当に君の望む生き方かね?
 ――……。
 ――“自分”を探しなさい。タルティーブ。君はまだ自分自身を知らない。それでは本当の意味で他人を救うことはできない。物理的な困難を振り払うことはできても、他者の心の中を見てしまった時に深く思いやることができん。
 ――心の中を見て、思いやる……。
 ――君は自分にも他人にも厳しい。けれど紙に書かれた規則だけを愛して他者の弱さを許さないことは強さではない。君は強いからこそ、弱者の気持ちが理解できない。正しいからこそ、間違ったことを許せない。
 ――それは罪ですか?
 ――罪ではない。罪だったら簡単に否定できる。罪ではないからこそ厄介なのだ。その答は、様々な経験をして自分で出さなければいけないのだから……。
 ――……わかりました。主教様。私は……今こそ己を知るために、旅に出ます。

 かくして司祭は巡礼となる。
 主任司祭の地位を争った友に見送られ、黎明の薄闇の中を旅立った。
 己の中にある、神の姿を探すために。

 ◆◆◆◆◆

 夜の街にいたはずなのに、ファラーシャの前に現れた幻は明るい昼間の森だった。
 ああ、覚えている。
 これは故郷の森だ。
 あの日、一族が滅びた日に焼かれて、大事な人たちと共に今はこの世から失われてしまった景色。
 一族の中の子どもたちと一緒に遊び、近くの人間の街の子どもたちと一緒に遊び、栗鼠や鹿、兎などの森の生き物たちとも一緒に遊んだ想い出の故郷。
「ああ……」
 呻くファラーシャの前で、涙が出るほど懐かしい幻が誘う。
 ――行こうファラーシャ!
 ――ほら、一緒に遊ぼう!

 ◆◆◆◆◆

「硝子ってのは片面に銀を塗れば鏡にもなるもんな。相手を“映す”幻の作成もお手のものって訳か」
 隠し玉の魔導であの場で四人を捻じ伏せなかったと言うことは、ドロミットが使う術は力任せの攻撃より精神に作用する搦め手なのだろう。
 その証拠に、セルセラの前には死んだはずの友人の姿がある。
 セルセラを庇って死んだ友人の姿が。
 ――立派な魔導士にはなれたか?
 問いかけてくる懐かしい笑顔に溜息と共に返す。
「まだだよ。だから邪魔をしないでくれ。僕にはまだまだやることがあるんだから」
 しばらくそっちに行けなくて悪いな。
 そう言ってセルセラは、自分を惑わそうとする幻を魔導の雷で吹き飛ばした。

 ◆◆◆◆◆

 急に辺りが真っ暗になった。
 屋根の上を走っていたレイルは、戸惑い周囲を見回す。
 先程までは月明りのおかげで夜目の利くレイルは視界にまったく不自由していなかった。近くにはセルセラが用意した魔導の灯りもあった。それが今は月明りと共に消えてしまっている。自分の足元もわからないほどの暗闇に包まれて立ち尽くす。
「な……何が起きたんだ?」
 魔導への耐性が低く、超常的な現象に慣れていない。頭で考えることが苦手で、応用力が低い。
 レイルは自分の弱点を知っていた。彼はあまりにも自分に自信がない。
 半分は元々の性格だが、半分は過去の失態によるものだ。
 自分はあまりに無力で無能。だから呪われたのだ。
 ――レイル。ねぇ、レイルってば。
「あ……」
 少女の幻がレイルの心を捕らえ、追い詰める。

 ――俺は、誰かの命と引き換えに得るほど欲しい結果なんてない。
 ――誰か一人を捧げて平和を得るよりも、みんなで世界を滅ぼす脅威に立ち向かう。その方がずっといい。

 街に入る前の会話で、レイルはセルセラにそう言った。
 口先だけの理想論だと非難された。けれどレイルにとってそれは例え話や理想論ではなく――ただの経験談だ。
 彼は守れなかった。
「ああ……」
 ――大好きよ、レイル。だから私ね……。
 幻はよく見知った少女の姿をしている。
 その姿を目にした以上、レイルに逃れる術など初めからない。
 彼は、守れなかったのだから。
 かつて騎士であった己にとって、命より大事な主君を。

 ◆◆◆◆◆

 ドォン!

「くっ……!」
 脳天を物理的に揺さぶる雷の轟音と衝撃に、幻に精神を揺らされていたタルテはようやく我に帰る。
 懐かしい光景を思い出していた。巡礼をしながら星狩人になるための旅に出る前夜のことだ。
 罠だとわかっていても思わず引き込まれた。だがこの落雷の音からすると、セルセラたちは恐らく無事だろう。ファラーシャが無事でなくても、セルセラが無理やり叩き起こしてくれるはずだ。
 セルセラが雷の魔導を使うところは、出合い頭にレイルを吹き飛ばした一件で見ている。
「そういえば、レイルは……」
 月明りが戻った視界でその姿を探す。
 地上のタルテとは違い、民家の屋根を走っていたはずのレイルが落下でもしていたら大変だ。
 月明りの下、屋根の上、月光のように淡い金髪の美しい青年の姿はすぐに見つかった。
「レイル!」
 剣をだらりと右手に提げたレイルは、呼ぶ声に反応してゆっくりとタルテの方を振り返る。
 その一瞬で背筋を這い上る危機感を覚え、タルテは咄嗟に槍を胸の前で構えて攻撃を受け止めた。
「レイル……! あなた……!」
 使い込まれた長剣を何故か味方であるはずのタルテに向けるレイル。金属でできた槍の柄がその刃を受けてぎりぎりと嫌な音を立てた。
 いつか見た朝焼けのような藤色の瞳は正気の光を宿していない。
 背後の屋根の上から、先程探し回ったドロミットの声が聞こえてくる。
「うふふふふ。手に入ったのは一人だけ。でも、それが最強の剣士様なら言うことないわね」
 その一言で事態を完全に確信し、かつて自分にも他人にも厳しいのが長所であり短所と言われた聖職者はこめかみに血管を浮かせながら容赦なく叫ぶ。

「何を敵に洗脳されているんですか! この大馬鹿者!」