第1章 魔女に灰の祈りを
021.聖なる少女と聖なる騎士
儀礼用の細く美しい剣を鞘から引き出し、目の前の主君に渡す。そして跪き、そっと頭を垂れた。
見た目ばかりの細い剣でも重そうに受け取った華奢な主君がその剣の腹で、跪いた騎士の肩を三度叩く。
それで叙任の儀式は終わりだ。
「我が手を剣とし、盾とし、永遠の忠誠を誓う」
何も守れず、全てを喪った今では、己の誓いが、ただ虚しい。
◆◆◆◆◆
竜骨遺跡に夕日が落ちる。夜の気配が静かに降り始めていた。
「俺は、青の大陸の小国キノスラで聖騎士をしていた」
「いつの話だ?」
脳裏に別名を十時の大陸とも呼ばれる青の大陸の地図を描きながらセルセラが問いかけると、逆にレイルに尋ね返された。
「……今は何年だ?」
「青の大陸は蒼刻暦だったな……四三九九年だ」
「ああ……なら、もうあれから八十年も経ったのか……」
レイルの若々しい顔に落ちる夕日の影。その若々しさに相応しくないような、生に疲れ果てた者の笑みを浮かべて言う。
「俺は四三〇〇年の生まれだ。十で両親を事故により亡くして修道院に入り、十五で国王陛下に任命されて聖騎士となった」
「そして十九で呪われて不老不死となった……か?」
レイルの言葉の断片をかき集め素早く計算したセルセラが確認する。
先程口にした八十年をそのまま数えていいなら、問題の出来事は彼が十九歳の時に起きたこととなる。
「ああ、そうだ。俺の外見はその時から変わっていない。……姿以外の何もかもが、変わってしまったと言うのに」
すでに悲痛な表情のレイルをセルセラとタルテは冷たく、ファラーシャは心配そうに見守る。
過去を思い出すだけで辛いのだろう。けれど彼はここで話さなければ、より辛いだけだと彼女たちにもわかっていた。
「俺の主は」
そこでレイルはセルセラの方を一瞬見て、何かを戸惑うように言葉を止める。
けれどとうとう意を決したように、けぶるような金の睫毛を僅かに伏せながら言った。
「……国で唯一の“聖女”。俺よりも五つ年下の少女だった」
「聖女……!」
「セルセラと同じだったのか!」
「……」
セルセラの事情を聞いたばかりのタルテとファラーシャが顕著な反応を見せる一方、聖女本人であるセルセラは沈黙を保った。
“聖女”と呼ばれる生贄術師の歴史はそれほど長くない。
星狩人協会に確認されている全ての聖女の情報を頭に叩き込んでいるセルセラは、場所と時期がわかればそれが誰なのかも大体わかった。
成程、レイルの正体が行方不明だとされているかつて「魔王を倒した騎士」ならばその強さにも納得が行く。
「話してもらおうか、その聖女と、お前の事情を」
魔王を倒し、主を守れなかった騎士よ。
◆◆◆◆◆
青の大陸は宗教勢力が強い。魔導士が少なく、聖職者の数が最も多く、市井の人々の暮らしにも様々な形で信仰が根付いている。
伯爵家の嫡子として生まれたレイル・アバードもそうだった。
キノスラ王国は、小国であるが故に争いごとから縁遠い。寒冷な土地で育つ作物も限られた貧しい国は温暖な気候により肥沃な土地を持つ周辺国からすれば敵とならず、細々と暮らしていくことが可能だった。
王族の住まう城でさえ他国の貴族館程度の大きさの国では、貴族の地位もあまり意味はない……と、レイルは考えていた。
だから両親を幼くして亡くした際に、彼は爵位を叔父へと譲り、自身は修道院へと入り聖職者の道を目指すことにした。
亡くなった父母の冥福を祈りながら、人々の幸福と平和のために尽くし、神に仕える。
欲がないと言われることもあるが、青の大陸ではありふれた生き方の一つである。
修道院での暮らしはひたすら穏やかだった。たびたび魔獣の襲撃を受けることこそあったが、レイルは問題なく撃退して修行を続けることができていた。剣士ではなく、聖職者になるための修行だ。
しかし彼の剣技が非凡なものであることは、すぐに国中に知れ渡った。
魔獣の襲撃を世界中どこでも警戒しなければならない時代、どこの村でも町でも人々は最低限の備えをする。
町の自警団や貴族の私兵。そして教会や修道院でも、空いた時間に武器の手入れや鍛錬は欠かさない。
元々伯爵家の嫡子として剣の指導を受けていたレイルは、修道院の自衛のための稽古の時間に、すぐに頭角を現した。
それがただの貴族の子弟の手習い程度の腕前ではないことは、指導役として来ていた聖騎士によって明らかにされた。
数十年、否、数百年に一度かもしれない才能の持ち主だと褒めたたえられ、修道院内や周辺の村々からも魔獣への戦力として歓迎された。
時には貴族から騎士として勧誘されることもあったが、レイルは全て丁重に断っていた。
キノスラは小さな国だ。ぎすぎすとした権力争いは他国に比べれば相当控えめだった。
俗世での身分は捨てたとはいえ、元々伯爵家の出であるレイルに無理強いできる者もそうはおらず、また、レイル本人が聖職者として国内の平和に貢献する生き方を早くから決意していたこともあり、大きな騒動は起きずに数年の時が過ぎた。
十五歳になった時、そんなレイルの人生に転機が訪れた。
これまでどんな大貴族からの誘いにもうんと言わなかったレイルの前に、国王その人が現れて聖騎士になるよう依頼してきたのだ。
強制でこそなかったが、これまでに聞いたどんな頼み事よりその依頼は真剣で、ぜひともレイルに引き受けてほしいと言うことだった。
当然何故とレイルは理由を尋ね、国王は彼に包み隠さず事情を話した。
この国で、初めての生贄術師――すなわち聖女と呼ばれるべき少女が見つかった。
最高待遇で王宮に迎え入れ、護衛のために専属の騎士をつけることが決まっている。
聖女は元々庶民の貧しい少女で上流階級のことは礼儀作法も慣習も何もわからない。
けれど王宮に迎えられたからには、これからは民衆は元より貴族たちの前にも立って聖女として威厳ある態度をとることが求められる。
だから彼女の騎士には貴族としての教養、あらゆる危険から聖女を守り抜く戦闘力、更には聖職者としての自制と献身が必要だ。
市井の生まれ育ちでありながら突然国王と同列に並ぶ宗教勢力の権威――聖女として、国の舵を取る貴族たちの前に立たなければならなくなった幼い少女を傍で支えられることのできる人間を探していた。
その条件に、レイルは奇跡のように当てはまる人材なのだと言う。
どうしても適当な人材が見つからなければ実際の護衛と人前に出て彼女の補佐をする名誉騎士を別々に立てることになるが、レイルが聖女の騎士になればその必要もない。
無理強いはしない。命令ではない。
けれどできる限り引き受けてほしい。聖女のために。
国王たっての頼みを聞き、レイルは聖騎士になることにした。
――初めまして、聖女様。
そして、十歳で聖女として見いだされた少女エスタと出会うことになる。
◆◆◆◆◆
初めて会った時ぽかんと口を開けて驚いたようにレイルの顔を見つめていた少女は、すぐに彼に懐いてくれた。
「レイル、レイル、こっちよ」
「今行きます、エスタ様」
常日頃民衆の理想の聖女であるように楚々とした仕草を指導されているエスタも、たまの休日には自らの騎士であるレイルを連れまわしてはしゃぐ。
「あ、ごめんなさい」
「……いいえ」
お忍びで出かけた街中で通りがかった少女とぶつかりそうになり、レイルが慌ててエスタを腕の中に抱え込むこともしばしばだった。
「申し訳ない。お怪我はありませんか?」
「……大丈夫」
エスタとぶつかりかけた、顔色の悪い少女が抱いていたぬいぐるみに隠すようにして小さく咳をする。彼女が非常にゆっくりと歩き去るのを、主従揃って見送った。
「エスタ様、そろそろお聞かせください。本日の目的地は一体どのような場所で?」
「えっと、あのね」
どさくさ紛れにレイルの腕に抱き着いて、エスタはきらきらとした瞳で彼を見上げながら、いつものように要望を告げる。
そんな穏やかな日々は四年間続いた。
――聖女エスタはキノスラに降る雪のような銀髪と薄青い瞳を持つ、折れそうに華奢で儚げな美しい少女。
元々は貧しい生まれであるらしく、神殿や貴族の礼儀作法に初めは酷く戸惑っていた。しかし周囲を驚かせるほどの努力をして、少女は着々と“聖女”らしい物腰へと変化していく。
その努力の具体的な過程を騎士として具に眺めていたレイルは、エスタを聖女だからと言うだけでなく、人としても尊敬していた。
元々貴族であり修道院暮らしもしていたレイルが聖騎士になるより、市井の出であるエスタが聖女らしい立ち居振る舞いを覚える方がよほど大変なのだ。
しかし幼い主は泣き言ひとつ言わず、神殿と王家による教育を受け入れ立派な淑女へと変身する。
レイルは彼女を傍で見守り、遠出の際の護衛を務め、時折襲撃してくる魔獣を撃退して日々を過ごしていた。
聖女になるために家族と離れて神殿で暮らすことになったエスタのために、聖騎士となったレイルも修道院から神殿へと居を移す。
昼夜となくエスタの傍にいて、彼女を守り、困ったことがあれば誰よりも早く手助けする。
レイルは国王たちが期待した以上の献身を聖女に対して見せた。
エスタがレイルに懐いたように、レイルにとってもまた、幼い主君は新しくできた家族のような存在だったのだ。
両親はすでに亡く、家督を譲った叔父一家とは親しくとも元々頻繁に会える訳ではない。
そんなレイルにとって、普段は品行方正な努力家だが自分の前でだけは素直に甘えたりはしゃいだり頼ったりしてくるエスタの存在が、心の支えだった。
騎士は聖女を主君として尊敬し、家族として愛していた。
レイルにとってエスタは妹のような存在だったが、もう数年もすれば年頃の男女のこと、婚約や結婚の話題なども出ていたかもしれない。
少なくとも仲睦まじい二人を見守っていた周囲はそう考えていた。
けれど、その未来はついに訪れることはなかった。
貧しいながらに長く平和だったキノスラ王国に、“魔王”という存在が現れたからだ。
◆◆◆◆◆
「どうしても、行くの?」
薄青い瞳の縁に涙を浮かべ、少女は騎士を引き留める。
「ええ。……我が君。あなたのためにも、必ず魔王を倒してみせます」
「行かないで」
「……エスタ様」
最近はしっかりと貴族の青年たちの目を惹く淑女としての所作が身についていたはずのエスタが、子どもの頃のようにレイルのマントの裾を握りしめて哀願する。
「行かないでよ、レイル。私を一人にしないで」
「……そういうわけにも参りません」
魔王が棲むと言う氷の城。近づく者たちは周辺の森の動物も訪れた旅人たちも皆例外なく氷漬けにされて、城の庭を飾る像の一つにされてしまっているのだと。
これ以上被害を増やさないためには、誰かが魔王を倒しに行くしかない。
誰か――それはもちろん、国一番の剣士として名高いレイル・アバードに他ならない。
聖女の騎士となってからエスタについて再び社交界に顔を出すようになったレイルの実力は、いよいよ国中に轟いていた。
他に何人もの騎士や勇者を名乗る者たちが魔王に返り討ちにされた今、最強と名高い剣士が手をこまねいている訳には行かないのだ。
国王や神殿内の顔見知り、周囲の者たちは皆苦しい顔をしてレイルの出陣を見送る。
「魔獣のことなら、星狩人協会に頼めばいいじゃない。依頼料が足りないって言うなら、私が聖女の力でもなんでも使って稼いであげるわよ! だから……!」
「いけません、エスタ様」
聖女は自らの肉体の一部を捧げて神に奇跡を希う術者。またの名を生贄術師。
小さな願いであれば犠牲も髪や爪の先などほんの一部で済む。けれど大きな願いには、当然大きな代償を払うことになる。
これまでもエスタが重病や大怪我を負った者の身体を治そうとして何度も血を流したり寝込んだりしていた姿を見ていたレイルにとっては、到底看過できることではなかった。
聖女の力は安売りしようとしてできるようなものではないのだ。人間の肉体も、命も、有限なのだから。
だからこそ王家が聖女を見つけた時点で保護して、民衆が聖女の手に余る奇跡を望まぬよう管理をしていたのである。
「あなたはどうか、御身を大事にしてください」
「でも」
「俺は、きっとあなたの許へ帰ってきます」
「……本当に?」
「ええ。必ず」
◆◆◆◆◆
レイルは魔王を倒した。
そして約束通り、エスタの許へ帰ってきた。
けれど彼は無事ではなかった。
「う……ぐぁ……! うわぁああああああ!!」
討伐隊を送り届けた部隊が唯一生き残ったレイルを魔王の城から神殿まで連れ帰ってくれたが、それからしばらく彼は誰かと顔を合わせられる状況ではなかった。
喉も嗄れよと絶叫して耐えるのは、自らの肉体が魔王にかけられた呪詛によって作り変えられていく激痛だ。
肉が、骨が、臓器が。体中の細胞が変異していく痛みは、それまで我慢強いと他者に評価されてきたレイルの忍耐力を、紙のように呆気なく引きちぎるものだった。
最後の理性で自ら部屋に鍵をかけて閉じこもり誰も入るなと言い捨てて、レイルは独り自分の身が人間のものではなくなっていく激痛と恐怖に、叫びのたうち回って耐える。
激痛自体も恐ろしいが、この苦痛を超えた先に待っているものも恐ろしい。これを乗り越えた先に、果たして自分の自我が残っているのだろうか。
もしも魔王の最期の呪いがこの身を化け物に変えるようなものだったならば、今のうちに自決してしまった方が周囲のためだ。国一番の剣士であるレイルが化け物に変じればその暴走を止められるものなどいない。しかし。
――俺は、きっとあなたの許へ帰ってきます。
――……本当に?
主君と、誰よりも大切な少女と、約束をしたのだ。
必ず生きて帰ってくると。
ここで自ら命を絶っては約束を守ったことにはならない。呪詛の激痛にのたうち回っていたため、まだエスタの顔をちゃんと見ることもできていないのだ。だから。
呪詛の激痛にレイルは三日三晩耐えた。
痛みが引き、体にはまだ血や怪我の痕跡が残り違和感を訴えるものの、無事に意識を取り戻すことができてようやく安堵した。
そして、ボロボロの姿で三日ぶりに部屋を出てきたレイルが周囲の者たちにエスタの居所を尋ねると、目を腫らした顔が再び涙に濡れて。
彼に――聖女の死を告げた。