031.戻れぬ日々

 食事を終えた一行は、ひとまず今後のことについて話し合うために、宿のディムナの部屋に集まった。
 それぞれが思い思いの位置についたところで、ディムナがドロミットについて尋ねる。
「ところで、そろそろこちらの美しいお嬢さんを紹介してくれないか?」
「まぁ、いやですわそんな、美しいだなんて」
 社交用の爽やかな笑顔を浮かべるディムナと、わざとらしく頬に手を当てて照れてみせるドロミット。
 ファラーシャとレイルは気まずい様子で眉を下げ、タルテは氷の如き無表情に徹する。

「それはドロミット。緑の大陸の魔王、元“一の魔王”だ。ディムナ」
「……は?」

 お忍び歩きが得意の豪胆な皇帝でも、さすがに脳が理解を拒んだらしく呆けた。
 クランが咄嗟に剣の柄に手をかけたのをレイルが横から慌てて押さえつける。
 セルセラはレイル、ファラーシャ、タルテの三人と出会った星狩人試験からの出来事をざっくりとかいつまんでディムナとクランの二人に説明した。
「なるほど……試験で四人が出会って緑の大陸の魔王を巡る騒動を解決し、そのまま組んで行動することになったと」
「大体そんな感じだ」
「ドロミット……は、今はセルセラ様の使い魔として、安全な存在になったのですよね?」
「さぁ、どうだろうな。所詮使役主が僕だからな。使い魔に何を命じるかなんてわからないぜ」
「……信じます。信じています。セルセラ様を」
 セルセラに対して盲目的な信頼を寄せるクランは、その言葉で納得したらしくようやく警戒を解く。
「今日一日で二人も魔王と会うとはなぁ」
「うふふ。よろしく、色男の皇帝さん」
「こちらこそ、美しき魔王殿」
「何故普通に馴染んでいるんですか……」
 平然とドロミットの存在を受け入れたディムナに、タルテが皇帝相手でも遠慮せず呆れを示す。
「動揺も拒絶も意味がないからな。セルセラ……と、君たちが倒して無力化した相手なら恐れる必要はないだろう」
「どうやら私の聞いた噂以上に、フィアナ皇帝陛下は天上の巫女を崇拝しているらしいですね」
 皇帝ディムナとその騎士クラン。二人からセルセラへの絶対的な信頼は、それだけ帝国に対してセルセラの影響力が強いことを意味する。
「そりゃあ命を救われたからな」
 ディムナはしみじみと言う。
 一瞬だけふと過去を見た瞳は、しかし長々とした説明を避けてただ微笑む。
「セルセラに関する逸話なら、病に伏していた俺の主観的な説明よりも、ファンドゥーラーのエルフィス王辺りの話を聞く方がいいだろう。彼らの竜退治の詳細は、壮大で物語のように面白いぞ」
「駄目よぉ。この子たちに言ってもムダムダ」
 ドロミットがつまらなそうに手を振る。
「タルテちゃんたちは、一人一人が魔王と渡り合える実力者だもの。きっと弱者が天上の巫女の圧倒的な力を仰ぎ見て崇拝するのを実感することなんてないわ」
「誰がタルテちゃんですか。まぁ、なんとなく言いたいことはわかりましたが」
 ディムナがファンドゥーラーの話を進めたのも、ドロミットが言ったのと同じこと。
 竜へ王族の生贄を捧げる宿命を持っていたファンドゥーラー王国。
 当時王子であったエルフィスを天上の巫女が支援して生贄の運命を覆すべく、邪竜退治へ奮起させたという話は近年最も人気のある物語。
 天上の巫女セルセラは生きた伝説であり、彼女に救われた人間にとってはまさしく女神そのものなのだ。
 下界を見下ろすばかりで実際に助けてもくれない下手な神々よりは、セルセラの方が信仰を集めていると言われるくらいには。
「そんな話はどうでもいい。それより魔王ハインリヒのことだ」
 中央大陸フィアナ帝国領フロッグ地方を支配する“二の魔王”ハインリヒ。
 セルセラたちは彼をどうにかするためにこの大陸にやってきたのだ。
「ドロミット。お前の意見は?」
「あら、元魔王の私の言うことを聞いてくださるの? 魔王退治の勇者様方が?」
 セルセラの支配下に落ちたとはいえ、気まぐれな振る舞いを繰り返す元魔王は、この事態を面白がるかのように嫣然と笑う。
「そりゃあ二の魔王について一番詳しいのは一の魔王であったお前だからな。お前だって、僕らに言いたいことがあるから出てきたんだろうに」
「言いたいこと、ねぇ……」
 ドロミットはつまらなそうに、自らの見事な金髪をくるくると指先で弄ぶ。
「私から言えるのなんて、せいぜいあの子は見たままの性格よ、ってことぐらいね」
「だろうな。あれは演技って感じじゃねえ」
 バロック地方は辺境とはいえ、現在世界最大の国家、フィアナ帝国の領地。
 いくら魔王とはいえ、そんなところに堂々と居座っているのは二の魔王くらいのものだ。
 フィアナ帝国程の大国であればある程度魔王にも対抗できる軍備を持っている。
 切り札として、“狂戦士”の異名を持つクランという騎士もいる。
 それらを恐れるどころか、まったく意に介さずハインリヒがフロッグ地方で起居しているのは、彼に人と敵対する意思がないからだ。
 彼はただ、主の命令通りにその主の土地を守っているだけ。
「……正直、もうどうでもいいわ。面倒くさい。あんたたちの好きにしてちょうだい」
「おいおい」
「魔王というものは仲間意識がないのだな」
 しばし思案気にしていたドロミットが唐突に投げやりなことを言い出したので、一行は口々に突っ込む。
「だって、どうせ、どうにもならないもの。ここであんたたちがハインリヒを放っておいたところで、あいつの願いが叶うわけじゃない。気づいているんでしょう? ご主人様とやらは、もう何年も前に亡くなったこの地の元領主だって」
「……まぁな」
 ハインリヒのご主人様は「お館様」。つまり領主屋敷の主である領主フロッグ公爵その人だ。もう五年も前に亡くなった。

「あんたたちが手を下さなかったところで、ハインリヒは永遠に帰らない主を待ち続ける」
 そこに救いはあるのか?

「何の意味もないわ。魔王なんて……私たちみんな、そういう存在なんだもの」
 幾千万の欠片に引き裂かれようと、背徳神が決して捨てきれなかった絶望。その嘆きに呼応した存在。それが魔王。
「過去に囚われて、未来がなくて」
 ドロミットは廃墟と化した硝子の街で、ハインリヒは一見平和だが五年前の領主の死から時を止めたこの村で。
 進まぬ時計を眺めながら、来ない明日を待ち続ける。
「だったらこのまま生き続けることに、意味なんてあるの? 私たちは滅びても困らない。私たち自身でさえ」
「ドロちゃん……」
 ファラーシャやレイルの表情が曇る。彼らにも今ようやく、ドロミットが魔王としての自らを滅ぼした一行を恨む様子を見せない訳がわかったのだ。
「それともあなたなら……あいつに、明日を与えられる? ”天上の巫女姫”」
 いつの間にか静かな室内は、触れれば切れるような張り詰めた沈黙が支配している。
 張り巡らされた糸のようなそれを断ち切り、セルセラは言った。

「そんなもん知るか」

「せ、セルセラ~~」
 そういう人間だとは皆わかっているが、あまりにもあまりな言葉にファラーシャたちは一斉に脱力する。
「一つだけ言っておく、ドロミット」
「何よ」

「救いってのは誰かに与えられるものじゃない。自分自身で掴むものだ」

「……」
「外から誰がどんな働きかけをしたところで、そいつに救われる気がなければ始まらない。……よし、決めた!」
 何を? と言いたげな周囲に応え、セルセラは明日からの方針を早速打ち立てる。
「お望み通りの“明日”をあいつに用意してやる。――ディムナ、フロッグ公爵家の跡取り、新領主となる奴を呼べ!」
「魔王に直接会わせるのか!?」
「この国で一番偉いお前が直接魔王と対面しているのに、たかだか公爵家の跡取り程度が危険だのどうの言えるか」
「俺は構わないが、帝都からここまで少しかかるぞ」
「構わない。僕が迎えに行ってもいいが、向こうにも気持ちの整理が必要だろう。他にやることのない移動の時間はそれに最適だ。馬車でも徒歩でも好きな手段で来いと言ってやれ」
「……わかった。後で手紙だけ届けてくれ」
 ディムナが頷くのを確かめ、セルセラはレイルたちにも指示を出す。
「僕たちは明日、もう一度あいつに会って様子を観察するぞ。最悪戦闘に備えて、あいつの弱点や戦いの癖なんかも探りたい」
「戦闘になるのか?」
「領主の死とその代替わりをハインリヒが大人しく受け入れるならよし、そうでなく元のご主人様じゃなきゃ嫌だと暴れるようなら、人類に害を与え世界に仇なす魔王として処分する」
「……そうですね。それ以上の判断は、今のところないように思います」
 一番面倒な……もとい、説得が難しい相手であるタルテが同意する。
 いかなハインリヒが人に危害を加えない異例の魔王だとしても、いつまでもこのままでいることはできないのだ。
 どちらにせよ、いつか、誰かが、彼と真正面から向き合い、止まった時計の針を進める必要がある。
 最強の聖女であり世界で二番目に強い魔導士であり星狩人でもあるセルセラは、今度はかの魔王の“明日”をその背に負う。
「勝負はフロッグ公爵家の跡取りが来てから。僕たちはそれまで魔王とこの土地の情報収集。今夜は以上だ」
「了解!」
 元気に頷くファラーシャたちとは対照的に、ドロミット、そしてレイルは複雑な表情でセルセラの宣言を聞いていた。

 ◆◆◆◆◆

 翌日。一行は昨日と同じ領主館までの道を、周辺で畑に種を蒔いている農民たちの姿を見ながら歩いていた。
「この村って、何を育てているんだ」
「ひまわりですよ」
「ひまわり? ……観賞用か?」
「いや、食用。種や油を採るために栽培しているんだ。バル公国はひまわりの生産地で有名だったからな」
 青の大陸の寒冷な小国生まれのレイルにとって、夏の花の代名詞であるひまわりは馴染みが薄い。
「今はもうフィアナ帝国に併合されてしまいましたから、ひまわりの名産地の名称が少し変わりましたね」
「今度はフィアナ帝国のバル領として、更に名産物を売り出していく予定だぞ」
「この辺り全部ひまわり畑なのか。花が咲いてるところを見たかったな!」
「少し時期が早かったな」
 そんなとりとめもない話をしながら、魔王が住む領主屋敷へと近づいていく。
 次期フロッグ公爵である跡取り息子とは無事に連絡がつき、三、四日中にはこの村までやってくることになった。
 それまで魔王ハインリヒの様子を観察し、最悪の事態に備えて少しでも多くの情報を探る目的でセルセラたちは今日も領主屋敷の戸を叩く。
 出てきたメイドは、屋敷の中ではなく厩舎へと一行を案内した。
 ハインリヒはちょうど出かけるところだったらしい。
 馬の鐙に足をかけた銀髪の少年に、セルセラは旧知のように気さくに声をかける。
「よう」
「昨日の人たちですね。おはようございます」
「おはよう。出かけるのか」
「はい、見回りです」
 自分の……と言うか元主人の領地を見回る魔王。
「ふーん。僕たちも一緒に行っていいか?」
「どうぞ」
 馬に乗ったからと言ってそれで走る訳ではないらしく、ハインリヒは六人と連れ立ってのんびりと馬を歩かせる。
 魔王と星狩人が連れ立って散歩をしている奇妙な光景だが、周囲はほとんど気にしていない。
 農作業をしている村人たちが時々気づいてちらちらとこちらに視線をやるが、魔王の姿に気づいてもあっさりと作業に戻る。
 領主が見慣れぬ人間を連れているが誰だろう? くらいのものである。
 魔獣被害で過敏になっている村や街をいくつも見てきたセルセラからすれば、驚くほど平和な空気だ。
 見回りは何事もなく続く。
「と言うか、見回りって何をするんだ?」
 今更ファラーシャが疑問を口にした。
「怪しい人がいないかと、ご主人様の民が困っていないか調べるんです」
 魔王に直接訪ねた訳ではないのだが、ごく普通に答は帰ってきた。
「そうなのか」
「そうなんです」
 領地内は平和だった。
 ……と、見えたが、どうも魔王の意見は違うらしい。
「最近は、外から色々な人がやってきます。見慣れない人もいます。どんどん増えます」
「見慣れない人間が大勢入ってきている?」
 セルセラはその言葉に引っかかった。
 ディムナの言では、エレオドがこの土地を狙って元領主家に取引を持ち掛けているのだ。すでに領内に間者を潜り込ませていてもおかしくない。
 人間ならば警戒する情報だが、魔王は領地の住民ではないことを見分けても、それがどのような思惑を持って入り込んだのかまでは判断できない。
 この地で人々が暮らしていけるのは、外界と完全に隔絶されている訳ではないからだ。
 人の行き来が禁じられれば、この土地に魔王が居座ることは実質的な支配と変わりなく、人々に拒絶されただろう。
 しかし魔王は商人や旅人などの行き来を禁じることはなく、ただそこにいて人々の当たり前の営みを見守っている。
 現にセルセラたちも旅人として普通にここまでやってきた。
 同じように入ってきた中に、敵がいないとは限らない。
「……調べますか? セルセラ」
 タルテはセルセラと同じ結論に辿り着き、調査を提案してくる。
「いや、今から末端の間者を捕まえたところでしょうがないし、向こうの現場の責任者なんて僕らがすぐ判断できるものでもない。お前だってさすがにエレオド軍人に知り合いはいないだろ?」
「……俺はエレオド軍に知り合いがいない訳でもないぞ」
「知ってる奴がいたら教えてくれ。ディムナ、単独行動で相手を追いかけるとかはやめろ」
「放っておくのか?」
「どんなに温厚に見えても、僕らのすぐ傍にいるのは魔王だぞ。戦力の分散はできるだけ避けろ。クラン、ディムナの傍を離れるなよ」
「はい、セルセラ様」
 エレオドの動向は気になるが、それで魔王から注意を逸らすのは本末転倒だ。
「エレオド軍……」
 レイルは数日前のことを思い返す。
「ファラーシャ、俺たちが港町で宿を取ろうとした時、街中に軍人が多くなかったか?」
「言われてみれば、服の下に武装した奴らが結構いたな。そのせいで宿が満室だって」
「そういえば俺たちも……」
 ディムナたちがいつもより高級な宿をとっていたのは、旅人用の安宿が他の客でいっぱいだったから。
 どうやらその客とはエレオド軍人らしい。
「なるほど、エレオドは軍隊を大勢引き連れている訳じゃなくて、一般市民を装ってもうこの近くまで十分入り込んでいる訳か」
 セルセラたちが考えながら歩いている時だった。
 魔王が馬から降りる。
「どうした?」
「馬車が動かなくなっています」
 道のぬかるみにはまったらしい馬車が一台、道の途中で立ち往生している。
 ハインリヒはとことこと馬車に近づくと、なんとか車輪を動かそうと奮闘している人々を一度遠ざける。
 そして人外の腕力で、あっさりとぬかるみにとられた車輪を持ち上げた。
「ありがとう、魔王様!」
 商人一家の子どもがごく当たり前のように礼を言う。
「怪我人がいるのですね。館へ運びましょう」
「ああ、それなら大丈夫だ」
 セルセラは蹲る男に近づき魔導で傷を癒やす。
「ありがとうございます」
 男やその家族は礼を言い、魔王も笑顔を浮かべる。
「良かった」
 その笑顔には何の憂いも偽りもない。
 魔王は隣国の思惑など知らないが、目の前で困っている民がいれば助ける。
 その後も二、三ハインリヒは途中で馬を降りて立ち止まり、領民たちの小さな困りごとを解決していった。
 たまにちょこちょこと栗鼠や兎など小動物程度の大きさの魔獣が現れたが、ハインリヒが領内の情報集めに使っている眷属らしく、一声二声鳴くとただの小動物のように去っていく。
 これほど小さく無力な魔獣たちには、さすがの星狩人一行も手を上げる気は起きない。
「もうすぐ日が暮れるので帰りましょう。戻ったら南の柵の修理を伝えなければなりません」
「もう終わりか」
 太陽が西の空に沈み行く。赤く染まった空の下、昼間農民たちがひまわりの種を蒔いていた畑が広がっている。
 結局星狩人たちは星狩人らしい仕事は何一つせず、今日一日ただの見回りに付き合っただけで終わってしまった。
「夏になると、この辺りみんなひまわりで埋め尽くされるんです」
 見回りの際は真剣に辺りを見回していたハインリヒも帰り道では少し肩の力を抜いているらしく、のんびりと景色を見ながら口を開く。
「そうなのか。それはきっと壮観……綺麗なんだろうな」
「はい、ひまわりはご主人様の大好きな花です」
 続く台詞に、一行は一瞬言葉を忘れる。

「ご主人様、今年はひまわりが咲く前に帰ってくるでしょうか……」

 セルセラの肩から飛び立った小鳥……白鳩姿のドロミットが、ハインリヒの肩に移る。
 それを微笑んで撫でながら、魔王は一日の終わりを示し、郷愁を誘う夕暮れを眺めた。
 彼の主人は二度と帰って来ない。
 彼にとっての「明日」は永遠に来ない。
 それでも彼はこの地にいる限り、今日のようにかつての主の愛した土地を見守り続ける。
 それが幸か不幸か、セルセラたちにはよくわからなかった。
「今日はありがとうございました」
「どういたしまして」
「ご主人様も喜ぶと思います」
「……」
 怪我人の手当てやその他の手助けについて礼を言うハインリヒに、一行は言葉少なに返す。
 すっかり日が暮れて星が輝き始めていた。
 屋敷に帰るハインリヒを見送りながら、セルセラは口を開いた。
「僕たちも帰るか。宿にな」
「……そうだな。今はとにかく、この状況の維持をしながら次期フロッグ公爵の到着を待とう」
「エレオドのことは気になりますがね」
 今すぐにできることは何もない。また一日、表面上は平和な日々がただ過去になっていく。

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