第2章 永遠を探す忠誠の騎士
035.忠義の果て
雑木林の向こうの小さな丘の上、いつの間にか夜闇に紛れる濃い紫色の軍隊が出現していた。
人数こそ五十人もいなかったが、そのうちの一部が一抱えもあるだろう大きな鉄の筒を持っている。
「あれは……大砲か! こんな技術を持っていたのか!?」
エレオド軍が持ち出してきた兵器にディムナは舌打ちする。
武力に結び付く知識や技術は星狩人協会がほぼ独占しているが、それでも研究がまったく進まないと言うわけではない。
所詮同じ人間、考えることも同じだ。
自分だけは、他者より大きな力を振るいたい。
「ビックリした……。ただの人間がどうやって魔王を倒すつもりなんだと思ってたのに……!」
ファラーシャが空中で驚きの声を上げる。
人間の身体能力は、魔獣はもちろん魔族にも、特殊民族にもまったく及ばない。
しかし人間たちの強味は個々の身体能力そのものよりも、むしろ集団を形成した時に発揮される知識や技術の向上、発展、継承にある。
魔獣が人の何倍もの頑強さを誇るなら、人はその頑強ささえ打ち砕く武器を開発すれば良い。
「いいや、まだだ! あんなものは魔王には通用しない!」
レイルの鋭い叫びは、遠くのエレオド軍には届かない。
彼らの持つ大砲は確かにハインリヒの皮膚をえぐり、傷を与えた。しかし、それだけだ。
致命傷にならない以上、相手は当然反撃してくる。
そして人の技術は攻撃面を魔獣に通じるほど発展させることはできても、防御面での発展はまだまだ足りなかった。
「ぎゃあ!」
「ひぃいい!」
「助けてくれぇええ!」
ハインリヒが僅か数歩地を駆けただけで、エレオド軍が魔王の反撃を受けないよう慎重に決定したはずの距離は詰められた。
遠目にも巨大な獣が眼前に現れたことで、兵士たちは恐怖に呑まれあっさりと浮足立った。
振り回された巨大な獣の腕が、人体を紙屑のように引きちぎる。
警告も制止も間に合わない距離のことだった。
炎のものではない朱が地に広がり、大砲の火薬が爆ぜ、周辺の樹々が燃え始める。
地と空が瞬く間にそれぞれ色味の違う赤で染め上げられていく。
「……っ!」
レイルは声なく呻いた。
すぐさまハインリヒの後を追い、その攻撃からエレオド兵たちを庇ったが、防ぎようがなかった第一撃だけでかなりの被害だ。
村人を守り切って危険を回避したはずだったのに、ついに犠牲を出してしまった。
「できればそのまま抑えててくれるとありがたい」
「え?」
すれ違う一瞬で誰かに話しかけられた。その言葉の内容を理解する前に、獣の咆哮が響く。
「ギャァアアアアアアアアアアア!!」
先程大砲で撃たれた時よりも悲痛な声が天を衝く。
片目を潰されたハインリヒが血に染まった顔を覆い悶え苦しんだ。
「駄犬め……! うちの部下の仇だよ」
巨大な狼の姿となっているハインリヒに手傷を負わせたのは、暗い紫の軍服を着た一人の小柄な少年。
「お前如き犬の爪や牙が、本物の狼に敵うわけないだろ」
狼将軍の異名を持つルプス。
「素手!?」
少年姿の軍人が素手であることを見て取ったレイルは驚愕の叫びをあげる。
「あれは人狼族ですね」
軍帽が吹き飛んだその頭にちょこんとやたら可愛らしい獣の耳が生えているのを見て、タルテが言った。
ハインリヒを駄犬呼ばわりしたルプスは、人と狼の特性を有する魔族・人狼族。
その爪は人間が作る刃物などより余程鋭い。
レイルたちのように手加減することはまったくなく、ハインリヒの眼球や首など、急所を狙って容赦なく攻撃する。
見た目は完全に子どものエレオド軍人は、苦し紛れに放たれたハインリヒの爪の一撃を躱しながら声を上げる。
「ヤトレフ将軍!」
「は!」
少年軍人の声に応えて、片目を潰されたハインリヒの死角に回り込んだ一人の女軍人が再び大砲を撃ちこむ。
轟音と閃光、衝撃。
「ガァアアアアア!」
しかし、ハインリヒもいつまでも同じ攻撃にやられっぱなしではいない。
「何!?」
「うわっ!」
その巨体が一瞬一回り膨れ上がったかと思うと、彼に撃ちこまれた銃弾が毛皮を貫通することなく弾かれる。
続けて獣はまず重い荷物を抱えた女軍人――ヤトレフの方から排除しようと爪を振り回した。
ルプスが飛びつくようにしてそれを庇ったが完全には避け切れず、二人して近くの樹の幹に叩きつけられる。
そのまま、しばらく動かなくなった。死んだ感じではなかったが、気絶ぐらいはしたらしい。
◆◆◆◆◆
「なんだ、呆気ない。結局エレオドもこんなものか」
ディムナは腕組みをしながら、冷めた目で地に累々と倒れ重なるエレオド兵士とルプスたちを見下ろし、改めて自分の騎士に命じた。
「行け、クラン。魔王を殺せ」
すっと瞳を閉じたクランの気配が変わる。
「御意、我が君」
預言の騎士は再びハインリヒに斬りかかる。
「っ……!」
なぎ倒された兵士たちの救助をタルテに任せ、レイルは再びクランを止めるために動き出した。
降りてきた闇は燃え広がる樹々の炎に押し返され、いつの間にか辺りは酷く明るい。
レイルはクランの横から斬りかかり、彼がハインリヒへ攻撃するのを防ぐ。
そのまま二合、三合、目にも留まらぬ速さで二人は剣を交わし合う。
鍔迫り合いを嫌ったクランが一度後方に跳んで距離を取り、改めてレイルと向き直った。
口を開こうとする気配に何を言われても手を止めないと決意したレイルは、しかしクランの次の言葉に反応が遅れる。
「私は、いずれ魔王の配下になると預言を受けた者です」
「……え?」
話の内容も、何故今そんな話をするのかもわからない。
「私の生まれた国では、総ての人間が生まれ落ちた直後に神託を授かる習慣があります。私はその神託で、いずれ“総てを滅ぼす者の片腕”となると宣告されました」
ただクランの瞳は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。
「両親を始め、周囲の人々は私を恐れました。祖国の国王陛下は、私が国にいるのを嫌がりました。私が魔王の片腕なら、私の主君は魔王ということです。私と親しくした人は、いずれ魔王の配下になると周囲から思われてしまう」
闇の住人よ、嘆くなかれ
汝は総てを滅ぼす者の片腕
混迷の果てに唯一無二の主君を選び取る
黒き魂は血の華にて枷を破られ
縛するものなき剣はあらゆる敵を打ち倒す
「周囲の人々は私を何度も殺そうとしましたが、私は誰にも殺されることがありませんでした。幾度も危険な戦場に送り込まれましたが、総ての敵を殺し尽くして生還しました」
幼子の内から戦場に送り込まされた。
それが魔王の片腕の資質ということか、あるいはただ生存本能が爆発しただけなのか、クランは我を忘れて敵が滅びるまで戦い続け生き残る。
遠巻きにする人々がつけた異名が“狂戦士(バーサーカー)”。
一度戦闘に入ると我を忘れて剣を振るう、恐ろしく、忌まわしき預言の子。
生きて帰る程に人々は皆、彼を恐れ離れていくが、彼自身にもどうにもならない。
「ディムナ様だけが、私を受け入れてくださいました。だから私は、決してあの方を裏切りません。あの方のためなら、魔王でも討ち果たしましょう」
例えそれが罪なき魔王でも。
「……」
そして主君であるディムナも、不吉な神託のせいで苦労するクランを放ってはおけなかった。
魔王を殺す。
簡単に言うが常人にできることではない。
けれどクランがそれを成し遂げれば、彼が魔王の配下になるという預言など、何かの間違いだったと人々の目も覚めるだろう。
そう考えて、クランに魔王を殺させるためにディムナはここまでやってきたのだ。
クランが地を蹴る。
レイルも攻撃を迎え撃つために、剣を構え直した。
◆◆◆◆◆
「要は国一番の騎士に箔を付けさせるために、魔王を殺させようってことですよね」
あらかた応急処置を終えたらしいタルテが、戻って来て身も蓋もないまとめ方をする。
クランとレイルの戦いを少し離れた場所で見守っていたディムナにきっぱりと告げる。
「くだらない考えです」
「手厳しいな、タルテ殿は。だが君はレイル卿に加勢しないのか?」
「ここで私が馬鹿二人に付き合ったら――」
いつの間にかディムナを狙っていたハインリヒの牙を辰骸環の槍でいなす。
「――あなたの護衛が完全にいなくなりますが、よろしいので?」
「これはまいったな」
言葉ほどにもまいっていない明るい苦笑を浮かべながら、ディムナはタルテにでは護衛をよろしくと雑に頼み込む。
皇帝はいつの間にか自身も抜き身の剣を手にし、最低限の警戒だけはしていた。
一方、クランとレイルは斬り合いを続けている。
「こんなことはやめるんだ! クラン殿!」
「……」
レイルが呼び掛けるが、もはやクランは応えない。
戦闘に集中しすぎて、戦いに関すること以外総て目に入っていない。驚くべき集中力だが、その分彼は自らを世界から隔絶してしまっている。
「これが……“狂戦士(バーサーカー)”……!」
小柄な少年とも思わぬ膂力で、一見彼には重すぎるような鋼の剣を遠慮なく振り回す。
相手をしているのがレイルでなければとっくに斬り伏せられていただろう。
いつまで経っても二人の立ち位置が入れ替わるだけで変わらぬ剣戟の打ち合いに、次第にディムナは目を疑い始める。
「……レイル卿は何者なんだ? あのクランとやり合える剣士なんて、大陸中を探してもいないはずだ」
総てを滅ぼす者の片腕となる預言を受けた騎士は、神話に相応しき実力の持ち主。
クランに勝てる剣士などこの世にいない。
そう思っていたディムナは、苦戦することもなくその攻撃を躱し、隙あらば得物を打ち落とそうと仕掛けるレイルの姿に驚愕を覚える。
「ただの化け物です」
断言するタルテは、もう少しその発言を聞いた時のレイルの心境も考えてみるべきだろう。
「クラン卿が帝国一の剣士なら、レイルは文字通り世界一の剣士でしょう。星狩人協会においても、千年に一人の逸材で最強の狩人らしいですよ」
それまで最強と目されていたアンデシン自身が、“シリウス”――最も明るい星の称号をあっさり譲り渡す程に。
「今更……この場面でそんな存在が都合良く……!?」
あるいは都合悪く現れるのか。
「さぁ? それこそが運命とでもいう奴ではないですか?」
タルテはレイルの方へ視線を戻した。
こんな会話は露知らず、レイルはクランとの斬り合いを続けている。
“狂戦士”とはいうものの、正気を失って暴走と言うより、深く集中しすぎて己の剣以外の世界を全て拒絶した様子のクラン。
攻撃はますます激しさを増し、レイルを殺す気で斬りかかっているとしか思えない。
常人が二人の剣技に手出しできる段階はとっくに超え、一つでも歯車が狂えば二人とも大怪我をするだろう状況だ。
それでもレイルはクランを止めることを諦めたくなかった。
クランにハインリヒを斬らせたくなかった。
クランに自分を斬らせたくなかった。
だって彼は。
だって俺は。
「ハインリヒの姿は……主を喪った君自身なんだぞ!!」
――ご主人様、今年はひまわりが咲く前に帰ってくるでしょうか……。
ハインリヒとレイルの主はもう取り戻せない。
だけどクランの主は生きている。
戦闘に深く入り込んでいた狂戦士の目に、僅かな間感情の光が戻ってくる。
「私は……」
その瞬間、クランの耳に、ディムナの潰れたカエルみたいな悲鳴が届いた。
「ぐわぎゃ!」
「! ディムナ様!」
一瞬の動揺をレイルは見逃さなかった。雪の剣を放り出し、手刀で少年の首筋を強く打つ。
「……っ!」
力加減を完全に計算された一撃に、クランの意識が落ちる。
崩れ落ちた体を抱き留めながら、先程妙な悲鳴が聞こえてきた方をレイルは振り返った。
「一体何が起きたんだ?」
◆◆◆◆◆
「えーい!」
「ちょ、ファラーシャ殿!?」
クランに向けて弓を引き絞ろうとするファラーシャを、ディムナは慌てて止めに入った。
「いきなり何をする!?」
「それはこっちの台詞だ! あのままじゃレイルが危ないだろ!」
「そんなもん射られたらクランだって危ないわ!」
「多少の怪我はセルセラが治してくれるから大丈夫! 最悪死んでも生き返らせてくれる!」
「生き返らせるから殺してもいいと言うのは倫理崩壊だぞ!?」
斬り合うレイルとクランを他所に、見守る者と手出ししようとする者がもみ合う。
一応ファラーシャはこれでも特殊民族の膂力でディムナを怪我させないように必死で手加減をしているのだ。
そしてディムナも、間違ってもクランが矢で射られないよう必死になって自分より大柄なファラーシャに飛びつき動きを封じている。
「お前ら何やってるんだ……?」
「「セルセラ!」」
ぎゃーすかやっていたところに、ドロミットを連れたセルセラがようやく戻ってきた。
「皇帝陛下がクラン卿に箔をつけるため魔王を殺す企みを暴露しました。ハインリヒを殺させたくないレイルが奮闘中です」
「そうか……とりあえずファラーシャ、ディムナを殴って止めろ。クランもそれで止まる。最悪死んだり怪我させても僕が治してやるから」
「わかった!」
「ちょっと待て! やっぱりそういう考えなのか?! ――ぐわぎゃ!」
そしてディムナは昏倒し、悲鳴に意識を取られたクランもまた、レイルの手によって気絶させられたのだ。
レイルがこちらに駆け寄ってくる。
「ファラーシャ! いったい何を……セルセラ! 戻って来たのか」
「ああ。こっちの話は後で説明するが、どうやらそっちでも色々あったようだな」
六の魔王の話は後回しだとセルセラは判断する。
周囲に倒れているエレオド軍の行動はなんとなく予測がついた。
しかし、タルテが端的に報告する。
「エレオド軍人の死者が四名です。首や脊椎の骨折で即死したものは私ではどうやっても助けられません」
「……そうか」
「……っ!」
レイルとファラーシャも息を呑む。
その事実は、ついにハインリヒをこれまでと同じように扱うわけにはいかなくなったことを示す。
これまでこの地に二の魔王の存在を許されていたのは、彼が誰も殺していなかったからだ。
プロメッサ村の住人や近くの街の人間のような一般市民にまだ死者は出ていないとはいえ、すでに人を手にかけ今も暴走状態にある魔王をそのままにしておくことはできない。
これまでハインリヒの動きを牽制していたファラーシャが攻撃をやめ、様子を伺っていたハインリヒが一行への敵意を再び剥き出しにする。
「どうしますか、セルセラ」
エレオド軍の方でも、ルプスとヤトレフを始め気絶していただけの者たちが続々と起き上がってきた。
放っておけば再び戦いが始まる。
「――あの子を止めてあげて」
静かに言ったのは、これまでハインリヒの様子をつぶさに観察していたドロミットだった。
「ドロミット……」
「ああなったらもう、自分で自分を取り戻すことは出来ないわ。遠からず、ハインリヒは自分で守りたいと思っていたこの土地の人間たちまで手にかけてしまう」
ハインリヒの魂は黒い星に呑まれ、どんどん自我を浸食されていく。
生きているうちにこれを切り離すことはセルセラにもできない。
「あの子が自分で自分の守りたいものを傷つける前に、終わらせてあげて。……何なら、私に剣を渡してくれてもいいけれど」
硝子のような無表情の元魔王。
けれど、彼女にハインリヒを討たせるのは酷なことだ。
「……わかった」
ドロミットと同じく透き通るような表情で真っ先に頷いたのは、レイルだった。
さっきまでクランを止めようとしていたレイルだった。
「俺が、ハインリヒを討つ」
騎士は、再び魔王と対峙する。