第2章 永遠を探す忠誠の騎士
044.永遠を探す者
――本当にお気の毒なことで。
――まだ小さいのに、可哀想に。
葬儀屋の息子が亡くなったのは、子どもだけがかかる流行り病だった。
アジェッサの街ではすでに何人もの子どもが亡くなっていた。
半月前までは元気だった子どもでも、高い熱を何度も繰り返し体力を奪われ呆気なく死んでしまう。
――お悔やみを……。
いつもは自分が客たちにかけていた言葉を誰かからかけられるたびに、虚しく耳を通り過ぎていく。
葬儀屋の息子はこれまで何一つ健康上の問題などない、元気な子どもだった。
元から病がちな子どもを持つ親とは違い、葬儀屋は自分がこんな形で息子を喪う覚悟が何一つできていなかった。
毎日のように何人も何人も、子どもから老人まで遺体を預かり棺に納め墓地に埋葬する。
これまで日常的に無数の死を見送ってきたにも関わらず、自分にとって最も身近な子どもの死だけは、何より耐え難かった。
たった半月前まで元気に遊びまわったり家の手伝いをしていたあの子がもうこの世にいないなど信じられない。
まるで悪い夢のようだ。
そして彼はまさに夢遊病者のように、教会の裏山にひっそりと佇む祠を訪れた。
封印された悪鬼が、死者を無事な形で返してくれる訳もないのに。
――御遺体を我々に預けてください。我々の魔導と科学の力で、きっとこの子をいつか必ず、元通りに生き返らせてみましょう。
蘇生に失敗し、野生動物を喰らう獣と化した息子を抱えて呆然とする彼に、エレオド国軍の紋章付きの白衣を着た科学者――ロベルトは言った。
もはや藁にも縋る気持ちで、葬儀屋は息子を彼に預けた。
もうこの時点で、きっと自分たちに幸せな結末が訪れることなどないと予感しながら……。
――父親ならちゃんと責任をとれよ。
――迷子になった子どもを連れて帰るのは親の役目だろう?
そして、終わりは訪れる。
少女の姿をした終焉が、哀れなる魂を導き、葬る。
「ごめん……ごめんな……ごめん……!」
父の呼びかけに応えた息子の魂は、笑って手を振り、どこかへと消えていった。
後には科学者に必要だと言われて差し出した息子の形見の品だけが残り、散々改造された肉体もぐずぐずに溶けて崩れ去る。
息子の遺体を、棺に入れてやることもできない姿にしたのは自分なのだ。
せめて魂だけでも救われてほしいと願うことは罪だろうか。
息子だけではない、この事件に巻き込んで、子どもを亡くした他の親たちも随分と苦しめ、悲しませた。
どうやって償えばいいのかわからない。
葬儀屋であり哀れな父親であった男の胸には、ただ悔恨だけが残った。
◆◆◆◆◆
「……親と言うのは、本当に愚かな生き物ですね」
向かいの建物の屋根から、天井の崩れた教会を見下ろしラルムは吐き捨てた。
眼下に息子の形見を抱きながら泣き伏す葬儀屋の姿を収める、吟遊詩人の青い目は、一切の光届かぬ深海のように暗く冷たい。
「自分の子どもだけは蘇らせたいと、理を無視し、禁忌を犯し、それによって引き起こされた事態の責任さえ取れない」
無理矢理蘇らせられた子どもが、そんなことを願うとでも?
あわれな“つぎはぎの怪物”。
あの中にいた子どもたちの一体誰が、そんな姿になってまでこの世に留まりたいなどと望んだのだろう。
それを「親の愛情」などと、綺麗な言葉で飾ることほど醜いことはない。
「……さぁ、天上の巫女姫」
ラルムは視線を、泣き続ける葬儀屋から怪物と相対するセルセラへと移す。
「もはや悲劇としか呼べないこの物語に、あなたはどんな結末を書きこむ?」
それ次第では、今後の自分の動きも変わるだろう。
ラルムは服の中に隠して首から提げている青い睡蓮の紋章――邪神のしもべの証を握りしめる。
吟遊詩人は、彼が謳い上げるに値しない戯曲の終幕を待っていた。
◆◆◆◆◆
つぎはぎの怪物は肉体だけでなく、魂の方も複数の子どもの繋ぎ合わせだ。
しかしその魂は、所詮魔導によって無理矢理結び付けられたもの。術による結合より大きな影響を与えれば、再び個としての境界が取り戻され分解される。
セルセラは葬儀屋の息子を核とした怪物から個々の魂を引きはがすために、父親である葬儀屋に呼びかけさせた。
一般家庭で平和に暮らしてきた幼子の死後の未練など大体決まっている。両親に、家族にまた会いたい。それ以外何を願おうか。
果たして葬儀屋の息子は父の呼びかけにより個としての意識を取り戻し、その波紋が周囲の他の魂にも影響して結合の術式に亀裂を走らせた。
父に、母に、兄弟姉妹に会いたい。友人に、隣人に、大事な人たちに会いたい。
彼らの最期の願いを天上の巫女は掬いあげ神に届ける。
この瞬間を待っていた死神は不当に奪われた子どもたちの魂を抱え、彼らを最期に一目家族と引き合わせるために去っていく。
今頃は冥神の力により、アジェッサ中の家庭で、亡くした子どもたちが家族に別れを告げている頃だろう――。
泣き崩れる葬儀屋を横目に見ながら、セルセラたちも怪物の終焉を予感した。だが。
「……っ!」
「ガ、ァ、ア」
体を構成している大半の腐肉が溶けてますます形容しがたい姿と化しながらも、怪物はいまだ滅ぶ気配を見せなかった。
「消えない!? どうして!?」
子どもたちの魂を浄化したにも関わらずまだこの場に残った怪物の姿を見て、ルチル神父やエレオド兵たちが驚きの声を上げる。
「失敗したのか? セルセラ」
「半分はそうかもな」
ファラーシャの問いに答えながら、セルセラは怪物の「半分」から視線を逸らし、試験管片手に周囲を制しながらこの事態を興味深そうに見物しているロベルトを睨んだ。
「このペテン師め」
「人聞きの悪いことを。実験の再初期段階では、あの男の息子が核であったことに嘘はありませんよ」
ルチル神父に支えられている葬儀屋を冷めた目で一瞥し、ロベルトは嘯く。
「一体どういうことなんだ?」
今もまだ敵意と、そして苦痛を抱えたままの怪物に困惑し、レイルは誰にともなく説明を求める。
セルセラが生贄術――“聖女の御業”を行使した時、今度こそつぎはぎの怪物を救えると思ったのだ。
どうして、今もまだ彼らの目の前にいる怪物は、こんなにも苦しそうなのか。
死体を継ぎ接ぎした体の半分が溶け崩れ、表面を覆う遺体の表情はもう読めない。
その代わり最後まで残った一つ目の緑の眼球の奥に、爛々と憎しみの炎が燃えている。
肉体の変化が完全に終わればまた攻撃を仕掛けてくるだろうと予感させる、生者そのものへの憎悪。
「あの怪物の核はとっくに、葬儀屋の息子じゃなくなってたんだよ」
「そんな……」
レイルはちらりと事の発端となった葬儀屋の背を見る。
彼は確かにこの事件を引き起こし様々な人々を悲しめ苦しませる要因となったが、決して本来こんなことを望んではいなかったはずだ。
そこまでして生き返らせたかった息子のことで、ロベルトに騙されていた。
滑稽を通り越して、もはや哀れみしか感じられない。
「人間が、簡単に生き返ることはないってことだ」
「山の悪鬼は意外と根性なしでしてねぇ。この世に未練なく死んだ子どもの魂と肉体では足りないと言うのですよ。悪鬼などと呼ばれていても、元々はただの殺人鬼だから仕方ありませんね」
語っていたルチル神父も詳細が曖昧だと言っていた教会の裏山の伝説。
真相は一人の連続殺人鬼が被害者を埋め続けた山に、最後は街人に復讐された自分自身も埋められたということだったらしい。被害者と犯人、両方があの山に埋まっていたのだ。
その後殺人鬼の魂は悪鬼となり自由に動く肉体を欲して時折死体に憑りついてみたが、そんなことで上手く蘇ることができるはずもなく。
「だから、私は探し出したのです。彼の求める、この世に強い恨みを残す魂を」
「お前さっきその悪鬼もとっくに浄化したとか言ってただろ」
「ええ。子どもを中心に集めた実験体の中に条件の異なる成人の魂は邪魔だったので。霊魂が他者の肉体を動かす仕組みを我々に示してくれたせめてものお礼に浄化して差し上げました」
結局悪鬼もロベルトに利用され、葬儀屋の息子の遺体を操った後は邪魔者扱いで追い払われたのだ。
まぁ自業自得の殺人鬼に関しては正直どうでもいい、とセルセラは話を怪物に戻す。
「科学者より詐欺師の方が向いているようだな、コーニス博士?」
「そんなことはありませんよ。このような事態に備えて核の交代を行っても、彼の息子の魂自体は同じ器に保存していましたからね。ここから更に肉体の安定化にもっていけた暁には、再び核を交替して、特定個人として復活できるかどうかちゃんと実験する予定でしたよ?」
ロベルトにとっては悪鬼の憎悪も子どもの悲嘆も大して差はない。
彼が興味を示すのは、その存在が自らの実験にどう利するかという一点のみ。
「おっと、美しいあなたとのお喋りは心躍りますが、そろそろ彼の方も準備が整ったようです」
肉体と魂の半分を引きはがされた怪物は、それでも、否、先程よりも増して憎しみの籠もる目を一行に向けてくる。
セルセラたち星狩人、結界の中のルチル神父と葬儀屋、ルプスとヤトレフが率いてきたエレオド兵士。
一つ目がぐるりと彼らを見回し、その下にまっすぐな切れ目ができたかと思えば次の瞬間。
――無数の牙を生やしたそれは、怪物の新たな口だった。
「よけろ!」
「風の盾!」
レイルの忠告は間に合わず、セルセラの魔導が狙われたエレオド兵士たちへの攻撃をいくらか和らげるので精いっぱいだった。
「る、ルプス将軍!」
「あたた……もー僕最近こんなのばっかり……」
咄嗟に部下を庇ったルプスが攻撃の余波だけで吹っ飛ぶ。魔族である彼には大したダメージではなさそうだが、教会の壁面をぶち抜く威力はすさまじい。
今の怪物の攻撃は、溶解液を高速で吐き出すというもの。
それを見たヤトレフが素早く指示を出す。
「総員、近くの物陰に退避! 怪物の射線から離れろ!」
セルセラの魔導盾のおかげで直接触れなかった赤い液体は、教会の床の石をじわじわと溶かしていた。
「衝撃は殺せてもその強酸は厄介だなぁ。礼を言うよ、天上の巫女姫」
「いいからお前らさっさと逃げとけ」
怪物退治だけならまだしも、ロベルトが撒いた巨大吸血蛭がまだ残っている。
今はその対処でろくに動けなかった兵から狙われた。これ以上はただの人間にはきつい戦いだ。
「そうさせてもらうよ。はいはい、みんな退避、退避」
怪物はまだまだ強酸を吐き出そうとしている。
逃げるエレオド兵の代わりに射線に跳びこんだタルテが、足元の蛭を次々に蹴飛ばして盾替わりに同士討ちさせた。
「おや」
目を丸くするロベルトに、タルテは氷点下の声音で告げる。
「いいかげんこの醜い生き物とあなたの顔は見飽きました」
赤い液体をぶつけられた蛭が赤い液体をぶちまけた肉塊へと変わる。怪物の溶解液の方が蛭の再生力より強いらしく、おかげで随分と蛭の数が減った。
「すげー器用だなタルテの奴……」
感心するセルセラに、叱咤が飛ぶ。
「言ってる場合ですか!」
怪物の対処を引き受けた以上さっさとしろと、言外に威圧された。
「……この蛭の強度も大体つかめて来ました。炎で燃えるなら、最初からこうすれば良かったですね」
「おい、待て。まさか」
不穏な台詞に慌てて耐火の魔導をセルセラが準備すると同時、床一面に緋色の閃光が走った。
「裁きの業火よ! 罪深き命を燃やし尽くせ!」
瓦礫積もる床上で不気味にのたうっていた残りの蛭を、タルテの生み出した炎が塵一つ残さず焼き尽くす。
武器にしか氷の力を付与できないレイルと違って、タルテにはこういう持ち技もあるのだ。
土の属であるファラーシャが神器で射た炎の矢よりも、純粋な火属性であるタルテが使う炎の方が威力が強い。
「かかか、火事だー!!」
動転しかけたファラーシャが叫ぶ。
怪物の攻撃で壁面も天井もぶち抜かれているので閉じ込められる心配はないのだが、普通に大惨事。
……のはずなのだが、タルテの業火は蛭を燃やしただけで、生きている人間たちには影響がない。
炎が触れているのに、熱を感じない肌に驚く。
「燃やす対象ぐらい選びますよ。毎回火事を起こしていても仕方ないでしょう」
「……魔導士ってみんなそんなことできるの? セルセラ」
「普通は出来ない。この存在自体非常識巡礼を普通に当てはめるのはやめろ」
セルセラは滅多に火事を起こさないが、それは世界最高峰の制御能力を持つ魔導士として放火と耐火と消火の術を使い分けているだけだ。
ファラーシャが想定する普通の魔導士は炎の威力の調節や風向きなどの現場環境を想定して火事を起こさないよう工夫しているだけで、何も考えずに炎をぶちかませば当然普通に周囲が燃える。
聖堂は石造りだが、並べられている座席は燃えやすい木製で……とここまで考えたセルセラは、術の不思議より聖職者が聖堂に容赦なく放火という事実の方がまずい気がしてそれ以上考えるのをやめた。
「なんでもいいでしょう、それより」
タルテの視線の先には、炎に包まれて狼狽えつつも燃えてはいない怪物がいた。
「蛭は燃えたのにあれが残ったということは、人工魔獣とは違いあれはやはり改造されていても人間の肉体と魂であるという認識なのでしょうね」
タルテが口にした「罪深き命」は、主に魔獣を対象としているらしい。
「そういうこと……なのか?」
魔導での条件付き攻撃の詳細が分からないレイルも、言いたいことはなんとなく理解した。
清い者にだけ開かれる仕掛けの聖域の扉のようなものだろう。タルテの炎は、本当に罪がある者――この場合魔獣だけを燃やすことができるのだ。
味方であるレイルたちも少し離れた場所に避難したエレオド軍人たちも、人間の罪人であるロベルトも無視して、人間を殺傷する魔獣だけを燃やし尽くす裁きの火。
図らずもタルテ自身が証明してしまった、怪物に罪がないことも。
「それでも、消えてもらうしかないでしょう」
そこにいるだけで他者を不幸にする者は、
そのために他者から排除されるのが世の習い。
怪物に罪がないなら尚更、この姿でロベルトの言いなりにさせておくわけには行かない。
「殺すのか!?」
「それはセルセラ次第です。どうなんです? 天上の巫女姫」
後のことは、最初に怪物をどうにかすると宣言したセルセラへと託される。
タルテとしては危険物はさっさと始末してしまいたいが、セルセラが自分で対処すると言った以上、彼女が投げ出さない限りは手出しできない。
「そうだな……」
タルテに答えながら、炎が消えてもなお無残な聖堂で、セルセラは巫女の眼を駆使して怪物の奥底を覗き込む。
いくつもの魂が重なり合っていた時とは違い、今怪物に残る子どもの魂は一つだけ。
この残った一つを浄化することができれば、怪物は消え、ロベルトの野望も潰すことができる。
怪物の核となっている子どもの未練を晴らし、安らかな心で天上の神々の許へ送り出すことができれば。
しかしその緑の眼球を覗き込んだセルセラに飛び込んできた感情は、悲嘆と憎悪の嵐だった。
◆◆◆◆◆
――いらない! いらない! こんな子どもいらない!
怪物の核となっていた魂は、子どもどころかまだ赤子。否。
――生まれてこないで!
生まれる前の――胎児の魂。
怪物の核から意識を引き戻したセルセラはハッとしてロベルトの方を見やる。
異端と呼ばれた科学者、そして魔導学者でもある者は、片手のフラスコで周囲を牽制しながら怪物に近づき、そっとその身体を撫でた。
「哀れなものでしょう? だから私はこの胎児を生き返らせたのです」
生まれることを否定され、本来無償の愛を与えるべき親から見放された魂。
水子霊と呼ぶべきその魂の未練は、この世に生まれ、愛され、生きる。人の生によって得られる全てだ。
「この子はどうあっても救われない。それともあなたが代わりに子の親を殺してやりますか。生まれる前から自分を捨てた親を殺せば水子霊の気も晴れるかも――」
「どうせそれも無理なんだろう?」
胎児の最期の記憶は自分を包んだ羊水の全てが、本物の血に代わる景色。
絶命した母親の胎が切り裂かれ、実験に使われるために取り出された先で魂が見た空の青さの冷たいこと。
「この子の母親はもうこの世にはいない」
「それでも、父親は生きている」
ロベルトの片眼鏡が怪しく光る。
この世のどこかにあったもはや取返しがつかない悲劇を語りながら、嗤う。
「あなたはどうしますか? 天上の巫女姫」
この世に生まれることができなかったことそのものを未練とする魂を、どうやって救うのか?
自分を生むことを拒んだ母親、彼女が死んでものうのうと生きている父親をどうやって許させ、捨てさせるのか。
セルセラが怪物をどう説得するのか、いっそ興味深そうにロベルトは事態を見守っている。
いや、彼はセルセラたちには怪物を救えないと確信しているのだ。だから平然としている。
ロベルト相手には大人しく撫でられていた怪物を、今なら取り押さえられるかとレイルが動くが、怪物は驚異的な速さで反応し、臓物のような触手でレイルを振り払った。
「くっ……!」
セルセラとロベルトの会話で怪物の事情を薄々と察したレイルの表情は、それだけで苦し気だ。
ロベルトがすっと指を伸ばす。
その方向にはルチル神父と葬儀屋がいる。
怪物の視線が二人に向いたのに気づき、レイルは咄嗟に足を踏み出していた。
「レイル!」
セルセラが何か言いかけるよりも、レイルの行動の方が早い。
二人を庇うが、剣を構えれば怪物を無用に傷つけてしまう。せめて盾替わりに剣の腹で攻撃を受けたが、急な移動で勢いを殺しきれずに吹っ飛ばされた。
「何をやっているんですレイル!」
「二人は結界の中にいるから無事だ!」
「あ……」
タルテの呆れ交じりの叱責とセルセラの補足にそのことを思い出す。
レイルは瓦礫の山から身を起こしながらしまったという表情になった。
何度か一緒に戦ったとはいえ、この四人が組んで間もないことには変わりない。咄嗟の時にこうして連携不足を晒してしまう。
「しっかりしなさい! 我々がここで止めなければアジェッサの街に多くの犠牲が出ます!」
「……っ!」
タルテはロベルトと同じようにもはや怪物となった水子霊を救う術はないと判断したようだった。
生まれる前に死んだ赤子が哀れだからと、名も知らぬその父親を殺すわけにも行かない。
「ファラーシャ、あなたもです!」
「わかってるよ……!」
花の色をした光の矢が、先程レイルを吹き飛ばした触手だけでもと斬り落としていく。
「ファラーシャ!」
「だって……!」
タルテとレイルの板挟みで、ファラーシャが泣きそうな顔になる。
罪なき子どもの魂を救いたいのは彼女とて同じ。復讐者として、怪物の憎悪を否定する気もない。
けれどそれを許せば無関係の多くな人間まで巻き込まれるとわかっていて、放置などはできないのだ。
「この怪物のせいでこれから多くの“私”を作るぐらいなら! ここで死んでもらう!」
ファラーシャ自身がそうであるように、誰かが殺されれば家族はその復讐に走る。
災厄の種を一つ放置すれば、無数の復讐の花が咲く。
「もう認めるしかありませんよ」
タルテは難しい数式の解が得られなかった学者のように、割り切った冷静さで告げる。
「この世には、決して救われない存在もいるのです。死んでしまった相手に我々は何もできない」
ここまで来たら、誰かを傷つける前に滅ぼしてやるのが弔いなのだと。
「それでも……!」
確かにレイル自身がこの目の前の怪物に何かできる訳ではない。
ただ彼は知っているのだ。
――騎士様、あなたも私を殺すの?
それしか方法がない。
そんな言葉で妥協して、己の望みに嘘をついて得た結果にもまた、救いはないことを。
「それでも?」
元凶たる男が、そんなレイルを嘲笑いながら問いかける。
「それで、あなたに実際何ができると?」
「……っ!」
レイルにもわかっている。
自分には何もできない、と。
実際に何もできなかった時の記憶が、今も彼を責め続ける。
――騎士様。
――私はただ生きたかった。それでも駄目なの?
レイルの手から、透き通る氷のような刃をした雪の剣が滑り落ちた。
「それでも、できない……!」
絞り出された言葉が彼の無力を告げる。
救うこともできないのに、殺してやることもできない。
彼は間違いなく、誰も守ることのできないただの無能な騎士だった。